微睡み夢幻
私は夢を見ていた。
知らない世界の、知らない場面。だけどとても平和で、それでいて退屈で、何故だか懐かしい気分にさせられる夢を。
私は微睡みに沈みながら、その光景に意識を同化させてゆく。
“今の私”が薄くなり、“違う私”が表層に上がってきた――。
………………。
…………。
……。
「アザミ、起きなよ。もう授業終わったよ」
頭上から掛けられた声で、私の意識は急浮上を始めた。腕にへばりついていたおでこを引っ剥がし、頭を持ち上げる。
寝ぼけ眼をこすりつつ焦点を合わせていると、呆れたような困ったような何とも判別が難しい種類の微笑みを浮かべた親友の顔がそこにあった。
「あ……詩絵菜、おはよ~」
「おはようじゃないわよ、まったく。先生には気付かれなかったから良かったけど、授業中の居眠りなんて感心しないわよ」
そう言って詩絵菜はやれやれと肩を竦める。真面目で優等生の彼女らしい言葉だった。
周囲では、退屈な授業からやっと解放されたと言わんばかりの喧騒がそこかしこで巻き起こっている。
クラスメイト達はそれぞれ仲の良いグループに纏まり、学校生活のオアシスである放課後の時間を満喫していた。詩絵菜のように真面目に授業に取り組む生徒は、むしろ珍しい方だろう。
まぁ、そんな彼女だからこそ、私は尊敬しているのだが。
「あはは、ごめんね。昨日読んでた小説、面白くてつい時間を忘れちゃってさ。それで寝るのが遅くなっちゃったんだ」
「また? あなたもつくづく懲りないわね」
「しょうがないじゃん。文学少女の宿命ってやつ」
「何が文学少女よ。ファンタジー系のライトノベルばっかりかじっている癖に」
ぐぅの音も出ない。改めて詩絵菜に言われるまでもなく、自分の趣向に偏りがあることは自覚している。
「せめて、読むならもっと糧になるような本にすれば良いのに。ラノベばっか読んでも一向に勉強の役には立たないわよ」
「いやいや、そんなことは無いでしょ。ラノベにだって、深いテーマを込めた作品や考えさせるようなセリフ回しだっていっぱいあるんだし」
「完全に無益だとは言わないけどね。それにしたって得られる学びは随分ピーキーなものだと思うけど」
こういう時、詩絵菜は容赦無い。小さい時からの付き合いですっかり気心の知れた幼馴染だが、それだけに私に対しては歯に衣着せない物言いをする。
私の親友、九井詩絵菜。おしゃれでスタイルも良く、美人な彼女は学校の中でも目立つ存在だが、スクールカースト上位の所謂『不真面目系イケてる女子』グループには所属していない。むしろ、学級委員長等と同じく『真面目系清楚派女子』に分類されるタイプだ。
どちらにせよ、勝ち組には違いない。今でもこうして、学外のみならず校内でも普通に話せることが我ながら少し不思議なくらいだった。自分で言うのも何だが、私はクラスでも空気な『根暗文系地味女子』に属する手合だから……。
「もー、別に良いじゃん。ラノベは私の趣味なんだから」
「もちろん、アザミがどんな本を読もうと自由よ。趣味は人それぞれだし。でも今日みたいに授業中に居眠りしちゃうとか、実生活に影響が出るレベルになるまでのめり込むのはどうかと思うけど」
「うぅ……」
正論だった。反論出来ずぐむむと唸る私を宥めるように、詩絵菜がクスリと眉宇を緩めて表情を明るくした。
「まぁ、そうは言ってもアザミの気持ちも分かるわ。あなたが読んでるようなファンタジー、広義ではラノベも含めて幻想文学って言うの? それって要は、おとぎ話みたいな架空の世界を描いて見せてくれるってことでしょう? 現実でのしがらみを捨て去って、“此処じゃない何処か”に行ける気持ちにさせてくれる小説、私も嫌いじゃないわ」
「そ、そうだよ! 詩絵菜が言ってることこそまさにファンタジー系ラノベの醍醐味なんだから!」
我が意を得たり。詩絵菜からの肯定を聴いて、私はここぞとばかりに何度も頷いた。
そうだ、それこそ私が寝る間も惜しんで物語の世界に没頭する理由だ。
現実は窮屈だった。考えなければいけないことがたくさんある。詩絵菜のように、毎日を充実させるような生き方は私には無理だ。今の、この世界を生きる喜びを未だに見つけられない私にとって、ラノベというのはまさに希望の光に相違なかった。
此処ではない何処か――。もし本当にそんな世界が存在して、自分もそこに行くことが出来たらどんなに幸せだろう?
「まあでも、いくら楽しくてもあんまり入れ込み過ぎない方が良いと思うわよ。どこまでいこうと幻想は幻想、所詮は夢なんだから。あくまでも趣味に留めて、現実で頑張らなくちゃね」
「むぅ、上げて落とすのやめてよ~!」
「あはは、ごめんごめん。ラノベについて語ってる時のアザミ、私けっこう好きだよ」
嫌味の無い笑顔でついでっぽく最後に言い残すと、詩絵菜はくるりと身体を翻して教室から出ようとする。自慢の新緑色に染めた髪が、身体の動きに合わせてサラサラと優雅に流れた。
「何処行くの?」
「ん、部室。今日は部活休みだけど、剣道部の先輩に呼ばれてて。これから夏休み中の練習方法についてのミーティングよ」
朗らかにそう言い残し、親友の姿は廊下の奥へと消えた。流石は女子剣道部今年度のホープ。やはり彼女は私と違う。実力を高く評価されたことで、髪を染めても追及無しときたものだ。
私は盛大な溜め息を吐き、再び机に突っ伏す。机の上で組んだ両腕に顎を乗せながら、今しがた詩絵菜に言われたことを考えた。
「“此処じゃない何処か”、所詮は夢、かぁ……」
自分でも、本当はちゃんと分かっている。これは、ただのロマンに過ぎないんだって。
ファンタジーはファンタジー、現実には魔法も存在しなければモンスターも居ない。
どんなに希ったところで、実際にそのような世界に旅立つことなど出来よう筈も……。
「……あれ?」
ふと、周囲のクラスメイトが奏でる喧騒の中に、別種の無機質な音が混じっていることに気付いた。
ゴーン……! ゴーン……! ゴーン……!
何だろう、鐘の音みたいに聴こえる。だけど、私以外誰も気にしている様子は無い。
気の所為だろうかと思ったが、その鐘の音は段々と大きくなり、私の脳漿に直接響くような感覚までしてきた。
うるさいのに、そうとは感じない不思議な気持ち。私の意識は、次第に鐘の音に惹き込まれるように他の音から遠ざかってゆく。
そして――
………………。
…………。
……。
最初に認識したのは、見覚えのある天井だった。
「此処、は……?」
頭は冴えわたっていた。眠りから目が覚めたことにすぐ気付く。私は身体を起こし、辺りの状況を確認した。
「やっぱり、師匠の家だ。どうして私は此処に……?」
そこは、数ヶ月前まで寝起きしていた自分の部屋だった。何故だか、今の私は此処に居る。
たった今まで見ていた夢は、細部まで詳しく覚えている。そこで私はアザミと呼ばれていて、シェーナに良く似た新緑色の髪をした友達が……。
「って、それどころじゃないよ!? シェーナは!? ミレーネさん達は!? 師匠は!? あれからどうなったの!?」
夢を見る前の現実を思い出し、私は急いで部屋から出た。師匠の姿を求めて、勝手知ったる昔の我が家を隈なく探し回る。
「師匠! 師匠! 何処ですか!?」
寝室、リビング、キッチン、トイレ、庭。何処を探しても師匠の姿は無かった。
「残る場所は……彼処か」
私は師匠の寝室に戻り、中央の床を凝視する。……やはり、一度術を解除して再度掛け直した形跡があった。
「幻よ、汝が隠せしものを我が前に見せよ――“破幻”!」
最近良く使うようになった幻術破りの呪文を唱えると、床の一部が変化して長方形の扉が現れた。取っ手を掴み、力の限り引っ張って中を開くと、そこにあるのは地下に続く階段だ。
私は迷いなくそこへ足を踏み入れた。念の為、先人と同じように私も扉を締めて再度封印の術を施しておく。この場所は、万が一にも他人に知られるわけにはいかない。
一段ずつ、慎重に降りてゆく。左右の壁には魔灯石が埋め込まれてあるので明かりには不自由しないが、暗く狭い地下はそれだけで息が詰まりそうになる。此処に入る時はいつもそうだった。
とりわけ今度の緊張は、今までより格段に強い。師匠には尋ねたいことが山程あるが、この先で彼女が何をしているのかという不安に比べたら微々たるものに思えてきた。
やけに長く感じられた時間の中、とうとう階段を降りきる。そのすぐ先にあるのは、粗末な一枚の扉。
「すぅー……はぁー……」
一度大きく深呼吸をして、取っ手を掴む。そして意を決して、ゆっくりとそれを押し広げた。
「来たのねシッスル。おはよう、良く眠れた?」
やはり、師匠はそこに居た。
様々な薬品や素材が保管されたいくつもの棚、冷たい石壁に打ち付けられた標本達、実験に使う大小様々な器具、完全には洗い落とせず染みになった床の血の跡……。
「思っていたより事態の進行が早くてね。こっちも急いで準備を整えていたところなの。こっちに来て、ちゃんと説明してあげるから」
大きな釜の中身を棒でかき混ぜながら、師匠は妖艶に微笑んで私を手招きした。




