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星髪の少女  作者: 軌条
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ロレインの奴隷


 それは性的な快感に似ていた。

 それでいて持続する。

 突き上げるような悦楽はとめどなく、自分が泣いているのか笑っているのか分からないが、感情の爆発に耐え切れずに叫んでいるのは分かる。

 周囲は色彩が入り乱れ、抽象画のように形は為さず、したがって状況を知ることはできない。

 闇の中にいるのと同じだった。

 自らの体を叩くと、あるいは舐めると、快感が湧水のように染み出てくる。

 その強度は段々と弱まっていったが、貪欲に快感を求め自らを弄り回し始める。

 それは抗いようもなく、時の流れを全く掴めぬまま、今この瞬間を生きているのだという実感を噛み締める。


「獣のようだな」


 ノエルはその一言で覚醒した。

 と、直後、喉の渇きに似た苦しみを胸のあたりに感じ、悶えた。

 牢獄。

 そう、ここは牢獄だ。

 ノエルは闇の中で、様々な色が視界に入ってくることに辟易しながら、声の主を探した。


「誰ですか……」


「ここの看守だよ。まったく、羨ましい。金も払わずに麻薬漬けになれるなんて」


 ノエルは定まらない焦点をもどかしく思いながら、唇を噛んだ。


「麻薬ですって……。お、おぞましい……」


「随分と気に入っていたように見えたけどなあ。まあ、いいけど」


 看守が牢に入ってくる。

 ノエルは体を動かそうとしたが、全身が痺れていた。

 湿った布を口に当てられる。

 抵抗しようとしたが、無理だった。

 布をあてがわれた瞬間、渇きの苦しみが軽減されたからだ。


「――まだ正気みたいだがいずれ壊れてくぜ。一般的な量の数十倍は吸わせてるからな。どんな気持ちなんだい、神に叛逆するってのは」


「私は……」


「数日後には貧民窟に送られることになる。殺されないだけありがたいと思いな。まあ、聖職は剥奪されるし、下級市民からも屑扱いされるだろうから、生き延びられるか大いに疑問だがな」


「悪鬼め……」


 看守は不安げに首を振った。


「そんなこと言うなよ。おれだって、嫌なんだからな……。ぞっとするよ、おまえみたいな奴を見ていると」


「う……、あ……」


 夢が現れた。

 メーベルだ。

 メーベルが花畑にいざなう。

 メーベルは巨大な花弁で躰を隠しているが、全裸だった。

 ノエルは逃げる彼女を追いかけながら、この夢が悪夢であることを知っていた。

 正気だ。

 正気でいながら、この快楽に抗うことができない。

 ノエルは叫んでいた。

 苦しんでいた。

 この堕落が全てを破壊し得る悪魔の抱擁だということを、自覚していた。

 恐ろしい。

 この苦しみが、薄らいでしまうことが。


「助けてくれ……、誰か……」


 夢の中のメーベルと手が触れあった。

 花弁が砕け散る。

 身を貫く法悦は、しばらくノエルの理性を吹き飛ばしてしまった。






 エリアスはノエルの断末魔めいた悲鳴を聞きながら、酒を嗜んでいた。

 彼はいまや牢獄から脱出し、看守が詰める控え室で足を伸ばしてゆっくりしていた。


「ノエル、苦しんでるね。やり過ぎじゃないの」


 看守は憤然としながら、エリアスが差し出した盃に酒を注ぎ足した。


「お前が関知することじゃない」


 そして大袈裟に溜め息をつく。


「――どうして、おれがお前なんかに……」


「ぼくはこれから身売りされるんだぞ。ちょっとくらい親切にしてよ」


 エリアスは足に鉄球を繋がれ、自由に動くことができなかった。

 椅子に腰掛けてゆったりしているが、歩くことさえ困難な身だ。

 看守が邪悪な感情と戦っているのが見える。

 きっと、この生意気な子供を殴り飛ばしたいのだろう。


「……まあ、そうだな。ハウエルが死んで、お前は独り身になったしな、親切にしてやらないとな」


 看守は意地悪く言い、向かいの席に腰掛けた。

 囚人の呻き声が断続的に聞こえてくる中で、平然としている。

 エリアスはうんざりしていた。

 恐らくは、男色家がエリアスを買うのだろう。

 麻薬取引のほとんどにエリアスは顔を出していたが、倒錯した性に支配された密売人が、妙な視線を寄越してきたことがある。

 この美貌に魅せられたのか。


「美しいってのも、罪だね」


 エリアスはしみじみと言った。


「――ぼくより可愛い女の子なんていないし、ぼくより魅力的な淑女もいない。世の女性方には同情するよ、ぼくみたいなオトコに見下されてさ。麻薬密売人と言ったら、相当な金持ちだろ。そんな人間とぼくは、恋人になれるんだ」


「はっ、喜んでるのか。さすがハウエルのような化け物と恋人だっただけのことはある」


 エリアスは湧き上がった怒りを押し殺し、笑った。

 看守の病的な青白い顔を見る。


「ぼくは人生を謳歌する権利を与えられた、選ばれた人間だ。愛される為に生まれてきた天使みたいな存在なんだよ」


「はん、そうかよ。結構な人生だな」


 看守はぶっきらぼうに言って、瞼を閉じた。

 すぐに鼾が聞こえてくる。

 まるでその鼾を合図にしていたかのように、地上への扉が開いた。

 エリアスは差し込んできた光に目を瞬かせながら、首を曲げた。

 階段を下りてきたのは、矮躯の男だった。

 エリアスはしかし、その灰褐色の瞳に見覚えがあった。

 思わず立ち上がる。


「スウィジン……?」


「はい。拙僧ですよ」


 背がありえないほど捻じ曲がった男の姿は、しかし、エリアスの古い知り合いのものであった。

 麻薬流通を司る密林の辺境民だ。

 森林の奥に特殊な樹木を多数所有し、大量に白塗佳人を生み出す。

 樹液から精製できる麻薬を組織的に生産し、多くの地域に麻薬を売り捌いている。

 その取引相手に、かねてより聖教が混じっているということは知られていた。

 ハウエルはその繋がりを断つべく、この呪われた稼業に手を出した。


 ノエルの指摘は正しい。

 聖教が下級市民を統制する為に麻薬を利用としていたことは、ハウエルから聞かされて知っていた。

 ハウエル自身が麻薬を管理することにより、下級市民への蔓延を防ぐ目的もあった。

 聖教も人知れず麻薬の密売を行い、良き交渉相手となり続けることで流通経路の維持に努めていた。

 その主な顧客は都市政府の役人だった。

 聖教組織にも依存者が多数出現し、ファジー・デツの二大組織はあっという間に麻薬に汚染された。

 ハウエルの目論みは望外の成功を収めたどころか、予想だにしない副次的な効果をもたらした。

 だが、都市政府は麻薬汚染が進む現状をハウエルの謀略だと考え、敵対的な姿勢を取るようになった。

 普通に考えるなら、ハウエルはこの時点で撤退するべきだった。

 実際は、バトムレスの住民を見捨てることができなかった。


 エリアスはハウエルの弱さを知っている。

 彼こそ――彼女こそ、正義を称えられるべき人物である。

 この都市を救う為に動いていたのは、ハウエルだけだった。


「どうして、麻薬密売人なんかの姿なんか借りているんだ」


 エリアスはスウィジンに尋ねる。かの愚僧は、褐色の肌を撫でながら不敵に笑った。


「それよりも、どうしてわしだと見抜けたのか、大いに興味がありますな。変身は完璧だったはず」


「ぼくはあんたのことを嫌悪しているからね。生理的に受け付けない。特にその瞳」


「酷いですなあ」


 スウィジンはエリアスに近づき、足枷をいとも容易く外してしまった。

 エリアスは自由になった足を軽く持ち上げ、その軽さに改めて驚いた。


「ふうん、人間って、こんなに軽やかに歩くことができたんだっけなあ」


「そうです。人間は本来、軽やかな動物です」


「で、ぼくを助けて、どうするつもり」


 スウィジンは嘆息した。

 森林の民特有の、分厚いが粗い作りの胴衣を持ち上げる。


「仲間ではないですか。理由など、必要ですか」


「必要だね。バトムレスは崩壊したんだ。もう仲間じゃない」


「仲間ですよ。ハウエルさんの遺志を継ぐという意味では」


「……ハウエル様の死にざまを、お前は見たのか」


「ええ。まあ……、そうですね」


 スウィジンは弱々しく笑った。


「――まあ、その話はいいではないですか。わしがどうして麻薬密売人に扮しているのかお聞きになりますか」


「正直に話してくれるなら、是非」


「わしは聖教に全ての麻薬流通経路を明かしたのですよ。事実上、全ての覇権を譲り渡したと言っていい」


「なっ……」


 エリアスは絶句した。

 もはやバトムレスは麻薬に手を出せないだろう。

 だが、それにしてもみすみす聖教に利権を譲り渡すなんて。


「しかし聖教は、もはや麻薬に頼ることはできないでしょうな。もはやその経路は廃絶されたも同然ですから」


「何を……」


 しかしエリアスははっとした。

 怒りが湧き上がってくる。


「まさか……。お前はこの姿を模倣するとき、本物の麻薬密売人を……」


「殺してはいませんよ。ただ、裸に引ん剥き、灌木に吊るしておきました。もちろん、聖教の仕業に見せかけて」


 スウィジンはほっほと笑う。


「これでハウエルさんの悲願は達成されたわけです。森林の民はもはや聖教との取引には応じないでしょうな。ファジー・デツは未曾有の危機から救われました。愉快、愉快」


「ふざけるな!」


 エリアスは激高していた。

 スウィジンに掴みかかろうとするがすんなり躱される。

 つんのめったエリアスの襟首を掴んだ怪僧は強引に椅子に座らせた。

 少年は赤黒い顔になって彼を睨みつけるしかない。


「まあまあ。エリアスさん、ハウエルさんはあなたに死んで欲しくはなかったはずだ。わしがこうして労苦を厭わず迎えに参上したというのに」


「お前がぼくを買うのか。変なことをするんじゃないだろうな。裸に剥かれる前に舌噛んで死ぬぞ」


「そんな悪徳は嗜みませんし、すぐに解放しますとも。もちろん、怪しまれない程度の期間は一緒にいてもらいますが。そうですなあ、バトムレスの掃除が終わるまで」


「貴様……!」


「まあまあ。遅かれ早かれバトムレスは一度解体される必要があったのです。同性愛が跋扈する通りなど、聖教の力が及ぶ範囲内では許されるはずがない。聖教典をどのように解釈しても、人口の増えない愛を看過する道理は見つかりませんからな」


「だから、ハウエル様は……!」


 エリアスはまたもや立ち上がろうとしたが、見えない力に押し戻された。

 椅子の上で躰を窮屈に縮こませる。


「――貴様、魔術を使って、ぼくを……!」


「魔術だなんて人聞きの悪い。わしは神の力を借りているに過ぎません。まあ、それはさておき、ノエルさんもここを訪れませんでしたか。彼はどこへ?」


「ノエル?」


 エリアスはスウィジンの口から意外な名前が出たので驚いた。

 表面上は淡々としていたが咄嗟に答えることができない。


「――奥で笑ってるよ。麻薬を吸わされているからね」


「おお、何ということだ。白塗佳人の毒が抜けるのに二十年はかかりますぞ。それまで精神は脅かされ続ける。狂人への下り坂を転がり始めたということですか」


 そう言うとスウィジンは牢獄の奥へと歩み始めた。

 エリアスは依然不可視の力によって動きを封じなられながらも、怪僧に憎しみの眼差しを送った。


「おい、どこへ行くんだ。ノエルを助けるつもりなのか」


「左様で」


「どうしてだ」


「記念すべき第一号ですからな」


 意味が分からなかった。

 エリアスは一瞬言葉を失った。

 どういう意味なのか問おうとしたが、怪僧の姿は闇に紛れた。

 エリアスは看守が起き出さないか心配で冷や冷やしていたが、スウィジンは涎を垂らしながら呻いているノエルを連れて戻ってきた。

 エリアスは目を細くしてノエルの惨状を確認した。

 失禁したのか下穿きが濡れている。

 表情は泣き笑いと言おうか、顔面の筋肉が壊死したかのようにぶよぶよになっている。

 唇はぞっとするほど赤く、瞳が紫がかって病的というより既に棺桶の中が相応しいというような状況。

 スウィジンに支えられてやっと歩いているようだが、自分が今何をしているのか分かっていないようだ。

 麻薬取引を続けてきたエリアスでさえも、これほどまでに麻薬の影響を受けている人間を見たことがなかった。

 よほど大量に吸わされたのであろう。

 麻薬の効力が切れたとき無事でいられるかどうか不安だ。


「そいつを助けてどうするんだ。ていうか……。死ぬぞ、そいつ」


「確かに酷いですなぁ。しかしロレイン嬢はノエルさんを慕っておるのです。ここに放置しておくわけにはいかんでしょう」


 スウィジンはノエルを軽々と背負い、よたよたと歩き始めた。

 エリアスは躰が自由に動くことを確認し、立ち上がった。

 スウィジンに追従する。

 地下牢から地上へは螺旋階段を昇る必要がある。

 長らく地下牢で寒さに震えていたエリアスは、一段一段上がる度に何とも言えない気だるさを感じた。

 風邪を引いてしまったかもしれない。


「大丈夫ですかな、エリアスさん」


「お前なんかに心配されたくない。……それより、聞きたいことがある」


「答えられる範囲で答えましょう」


「お前はロレインと関係があるのか」


「……どうしてそう思われるのですかな」


 ノエルの上げた奇声がスウィジンの声を半ばかき消した。

 どんな夢を見ているのか。

 エリアスは胸糞悪かったが、おくびにも出さなかった。


「ロレインを大事に思っているからノエルを助けようとしているんだろう。それに、ノエルに色々と話したそうじゃないか。いったい誰の為に動いている」


「ふふふ。世界の為に、と言ったら、怒りますかな」


「呆れ果てるね。そんな馬鹿な答えを期待しているわけじゃない」


「では、存分に呆れ果ててください。わしは世界の為に動いておるのです。ハウエルさんにも話しましたが、わしは全人類を救済しようと動いておる次第で」


「……おいおい、そう言えば、全人類を奉仕者にするとか、意味不明なことを言ったらしいじゃないか。本気なのか」


「本気も本気。その為にわしはこの都市を訪れたのです。まあ、ハウエルさんのような面白い方がいたので、回りくどいことになってしまいましたが、基本的に目的は一つです」


「目的……。何だよ、それは」


「この都市の方々に、是非とも、ロレイン嬢を好きになってもらいたいのです」


 エリアスは呆れるどころか、唖然とした。

 スウィジンの口調が、そこだけ真剣味を帯びたからである。


「な、何を言ってるんだ、お前……?」


「想像もつかないでしょうが。これが拙僧にとっては何にも優る関心事なのです。ロレイン嬢が都市の方々に嫌われるようになってみなさい。わしは木端微塵に砕け散りますぞ」


 意味が分からない。

 本気なのか冗談なのかも判断がつかない。

 エリアスは首を横に振って、粛々と階段を昇る怪僧の背中を睨んだ。


(ぼくのことを馬鹿にしてるんじゃないか……)


 あのロレインとかいう女を好きになって欲しい?

 この怪僧はあの女の親か何かなのだろうか。

 自分の子供を好きになって欲しいという感情は、馬鹿馬鹿しいが理解できなくもない。

 だが当然、それだけのはずがない。

 この食えない僧侶はいったいどんな思惑を秘めてハウエルに協力し、麻薬流通経路を潰し、ノエルを助けるのか。

 しっかりと見極めなければなるまい。

 姿だけは老人のスウィジンは振り返り、何とも不敵な笑みを見せた。


「ところで、エリアスさん。ロレイン嬢のことをどう思いますかな?」


「どうって……。うざったいガキだよ。ノエルの家に行ったとき、少し会話したけどね」


「恋の病に罹ったみたいなことは?」


「はあ? ぼくはハウエル様一筋だ。他の女はクソみたいなものだ。百歩譲っても、クソをするケツの穴みたいなものだ」


「そうですか。それは残念ですなあ」


 スウィジンはつまらなそうに言い、地下牢の出口に辿り着いた。

 ノエルが放尿したらしく、彼の足先から点々と水が滴り落ちている。

 スウィジンも濡れているだろうに、意に介していない。

 鼻につく悪臭にエリアスは顔を顰めた。


「おい、仕方ないかもしれないけど、ノエルが漏らしてるよ」


「生きているのですから仕方ないでしょう。羨ましいくらいです」


 スウィジンは謎めいた一言を残し、外への扉を押し開いた。




     *




 星は消えない。

 瞬き続ける。

 呼吸をし続ける。

 不滅なるものがあるとすれば、この世界そのものではなく、太陽でもなく、あの青い星を挙げる者が多いのではないか。

 バトムレスの住民にとってハウエルは不滅なる星そのものであった。

 空に浮かぶ蒼く清浄なる星。

 それがある日突然消えてなくなるなどと、誰も想像だにしなかった。


 バトムレスから逃れた貧民たちは息を潜めて狂剣士が行き過ぎるのを見守っていた。

 彼らはバトムレスに隣接するディライトやカルチヴェイトといった貧民街に身を寄せて、バトムレスの住民を根こそぎ抹殺するという『赦し』を得たイジドアに戦々恐々としていた。

 イジドアは異様な嗅覚をしていた。

 バトムレスに特有な一定の臭気を感じ取り、それを頼りに避難者を割り出した。

 その精度たるや凄まじかった。


「貴様らは飛べそうにない。生きる意味などないだろう?」


 ディライトの宿屋の壁を蹴り破ったイジドアは、恐怖で震える一人の男を見下ろしていた。

 街の誰もが、その男がバトムレスから逃げてきた者だと知っていた。

 内心イジドアの異能に舌を巻きつつも文句のつけようがない。


「待って……」


 イジドアに声をかけたのは、年端もいかない少女であった。

 ロレイン。

 水色の髪を力なく垂れ下げた彼女は、大剣を引き摺りながらも、なんとかイジドアに追いついた。

 イジドアは風もないのに靡くロレインの髪を一瞥し、小さく息を吐いた。


「五度も殺したのに追いかけて来たのはお前が初めてだ。また死にたいのか」


「しんでないもん……。人をころすのは、ダメなんだよ」


「そればかりだな、お前は。お前の得物は何の為にある? 人を殺す為ではないのか」


 イジドアは無造作に剣を振り上げた。

 足元で震えていた男が悲鳴を上げる。

 ロレインが跳躍して大剣を振り回した。

 イジドアの粗末な鉄片を弾き飛ばそうと唸りを上げる。

 しかしイジドアの剣はまさしく彼の腕と同化していた。

 見えない触手でも生やしているかのように変幻自在な動きを見せると、ロレインの手首を斬った。

 斬ったはずだった。

 しかしロレインは無傷のままイジドアの目の前で立ち尽くす。

 怪我など一つもない。

 感触があるはずなのに、この少女を傷つけることができない。

 イジドアは呆れ果てていた。

 さして強くもないくせにしつこい。

 これまでの相手は殺すことで動かなくなったが、この少女は何度殺しても生きている。

 それはつまり殺せないということだろう。

 しかしイジドアにとって、斬ることがすなわち殺すことであった。

 イジドアの剣を前にして生き残った者などこれまで皆無だった。

 少女はあらゆる意味で異質だ。

 感情を押し出すことの少ないイジドアでも、さすがに苛立っていた。


「お前は空を飛ぶことができる。しかし俺を飛ばすことはできないらしい。ならば存在する価値はない。さっさと消えろ」


「いやだもん」


「そこをどけ。俺はバトムレスの同性愛者たちを根絶やしにする許可を得ている」


「いやだもん。人をあいすることは、いいことだよ」


「くだらん。重くなる。飛べなくなる」


 イジドアは剣を振るった。

 街の人々はロレインの首が飛んだと思った。

 実際、イジドアがそのように剣を振るって絶命する人間を何人も見ていたからだ。

 しかしロレインの首は繋がったままだ。

 少女は少し疲れたように膝をつきかけたが、怪我は一つもなかった。

 イジドアも不思議そうに少女を睨む。


「――どういうことだ? お前は魔術師なのか? さすがに面倒になってきた」


 イジドアは周囲をじろりと見回した。

 見物人たちはぎょっとして後退した。

 イジドアはその様子を見て、重苦しい、と感じた。

 遊牧都市グリーン・シェイドで何度も抱いた感覚だった。

 生に執着することの、何と醜く重苦しいことか。

 これでは人間が空を飛べないのも致し方ないと思える。

 もっと簡潔に生きられないものか。

 もっと美しく。もっと機能的に。


「――つまらん」


 剣を外套裏に収めた。

 イジドアは通りを突っ切り、数多くの見物人を戦慄させながらもその場を去った。

 見物人たちはロレインが卒倒するのを見て慌てて駆け寄った。

 少女に助けられた男は涙目になって彼女をさする。


「おい、おい……! 大丈夫か? お、おれの為に……!」


 誰もがロレインが死んでいると思った。

 この英雄的な行為に殉じた少女の素性を誰も知らなかったが、早くも大多数の人間は、立派な墓を拵えなければなるまいと感動を覚えていた。

 群衆を掻き分けて割り込んできたのは、歓楽街ディライトでひときわ情が深く献身的な女たち――売春婦たちであった。


「はいよ、はいはいはいっ、どいてどいて!」


 売春婦ユニスが歯の抜けた口で吠えると、遠巻きにしていた野次馬たちが飛び退いた。

 ユニスの懐はノエルのおかげでかつてないほど温まっていたので、英雄的な少女の身柄を引き受けて全力で介抱するのに不足などなかった。

 ユニスは気絶しているロレインの頬をペチペチと叩き、起きなさいと命じた。

 他の売春婦が脈を取り、


「生きてるじゃん。わたしたちの宿に連れていきましょう!」


 と宣言したとき、群衆たちはどよめきと共に拍手喝采した。

 不死身か、ハウエル様の化身だ、などという声が聞こえてきた。

 ユニスはそうした声を内心馬鹿らしいと一蹴していた。


(こんな可愛い女の子が、あのハウエルさんの化身なわけないでしょうに……)








 一方、教区内でじっとしていられなかったメーベルは、かつて自分が働いていた売春宿に詰めて、バトムレスが今どうなっているのか、情報収集に勤しんでいた。

 宿に到着したとき、売春婦たちが出払っていてろくに情報を得られなかったので、精神的に不安定だった。

 宿にロレインが担ぎ込まれたときの彼女の混乱ぶりと言ったら、かつての同僚たちが一瞬、目の前の女性は誰だったっけと記憶を探ったほどであった。


「ああ、ああ、もしかしてメーベル? こんなところで何やってるの」


「ロレイン! 何ということ――こんな、酷い、そんな……!」


 メーベルは衝撃のあまり過呼吸になり、ついには白目を剥いて気絶した。

 ユニスは慌てて少女の介抱を他の売春婦に任せてメーベルの気つけを行った。

 気つけ薬を嗅がされたメーベルは、ユニスの腕の中で不安げに視線を巡らせた。

 そしてユニスの顔に気付くと不安げに微笑する。


「ああ――ユニス。今、私、変な夢を見てしまいました。ロレインが、死んでしまう夢なんです」


「ロレイン? ああ、そう言えば、アンタ教区内で子供を連れてたわね。それがあの子なのね?」


 メーベルはがばりと上半身を持ち上げ、気絶しているロレインを見るなり、もう一度卒倒してしまった。

 ユニスは苦笑して、個室に連れ込むことにした。

 倒れているロレインを見せる度に気絶していたのでは、メーベルのほうが危ないだろう。

 二度目の気つけ薬は効果が薄い。

 今度はなかなか意識を取り戻さなかった。

 メーベルは寝台の上で瞼をぱちりと開けるなり、頭痛を訴えた。


「ああ、ユニス。私、凄く奇妙な夢を見ていたようです……。若くて凛々しい神官様に娶られる夢。可愛い子供にも恵まれて……。現実にそんなことあるわけないのに」


 ユニスは思わず笑ってしまった。メーベルも残念そうに笑う。


「――そうですよね。笑ってしまいますよね。あはは……」


「そうじゃなくて。それは現実よ。しゃきっとしなさいって、メーベル」


「……ええっ? 現実なんですか? ちょっと待ってください、頭痛が」


「無理に起きなくて良いって」


 ユニスは起き上がろうとするメーベルを押し留めた。

 美貌の貴婦人は素直にそれに従った。

 目が冴え渡っているらしく、薄汚い天井を見据えて唇を固く結ぶ。


「……ユニス、私、凄く不安なんです。どうしてでしょうか?」


「さあ。分からないけど、でもたぶん大丈夫だよ。メーベルは繊細過ぎるんだよ。ここでゆっくり休みなって」


「あの、ノエル様は……?」


「はて。あのお兄さん、幸薄そうだからね。この騒動に巻き込まれて怪我してるかもね」


「ああ、ああ、ああ、ユニス。不安を煽らないでください……」


「ごめんごめん。あっはっはっは」


 ユニスは笑ったが、状況が芳しくないことは明らかだった。

 メーベルはもう上級市民の仲間入りを果たしているから心配はないだろうが、下級市民への風当たりはハウエルの死によって強くなるだろう。

 果たしてこのままでいられるのか。

 ディライトは比較的都市政府や聖教での覚えが悪くない地区だが、潰される事由には事欠かない。

 この機に乗じて一掃されるかもしれない。

 一掃されたらどうなる?

 ユニスは不安で胸が苦しくなる。

 ファジー・デツで迫害される貧民たちも、街から出れば一層手痛い待遇が待っていることだろう。

 都市の外では山賊や獰猛な禽獣が命を狙っている。

 弱い者は真っ先に狙われるだろう。

 誰か守ってくれる人はいないのだろうか。

 圧倒的な武力を前に、個人の力などあまりに無力。

 しかもあのイジドアがいる限り、決闘裁判でも下級市民に勝つ望みはない。


「あ、起きた起きた! ユニスぅ、起きたよこの子!」


 隣の部屋から歓声が起こる。メーベルが怪訝そうにしている。


「誰か、私と同じように倒れていたのですか? この子とは……?」


 ユニスは思案したが、完全に元気になってから面会させたほうが良いだろうと判断し、曖昧に笑っておいた。


「こっちの話だから。気にしないで」


 しかし、隣の部屋が騒々しかった。

 女たちの悲鳴や何かが倒れる音やどたばたと走り回る音や何かが裂ける音が重なり、ユニスとメーベルは顔を見合わせた。


「どうしたんでしょう……?」


「さあ……?」


 しばらく女たちの嘆息やら呆れた声が漏れ聞こえてきて、やがて部屋の扉が開いた。

 年少の薄い胸の売春婦がほとほと疲れ果てた表情を見せた。


「何かあったの?」


 ユニスが尋ねると彼女は本当に申し訳なさそうにうなだれた。


「逃げちゃいました、先輩。すみません……」


 メーベルはきょとんとしている。

 事情を忘れているのだから仕方ないだろう。

 ユニスは曖昧に笑った。


「まあ、元気になったのなら、良いんじゃない? どこに行くとか言ってた?」


「友達を増やす、とか何とか……。変な子供ですよね」


「子供……?」


 メーベルが呟き首を傾げる。

 そして慌てて起き上がった。


「ロレイン、私のロレイン、ロレインが……!」


 ユニスは必死にメーベルを押し留めた。

 元々丈夫ではないのに、そんな貧血気味の躰で無理をしては、また倒れてしまうだろう。


「メーベル、大丈夫だって! あの子、普通じゃないみたい。あのイジドアを相手にしても無傷だったんだよ? わたしはさ、今はメーベルのほうが心配だよ」


 しかしそれでもメーベルは取り乱していた。

 腕を伸ばして外へ出ようともがき続ける。

 ユニスは悟った。

 もはやメーベルにとってあの子供は自分の命以上の価値を持つ存在なのだと。

 あの子を喪えばメーベルもまた死んでしまうのだと。

 いやメーベルの死は自分の死以上に残酷な結末なのだと。

 理解してしまった。

 ユニスは嘆息した。


「ほんと、幸せ過ぎる奴を見ると心配になるけど、大抵そういう心配って当たっちゃうのよねぇ……」


 メーベルは力尽き、その場で崩れ落ちた。

 ユニスは彼女を抱えて、寝台まで何とか運んで行った。

 額に触れると熱がある。

 疲労が嵩じて体調がおかしなことになっているのか。


「まったく、こんなときにあのヘボ神官は何をやってるのかね」


 ユニスは歯の隙間から舌をちょろりと出して肩を竦めた。








 ユニスに悪態を突かれたノエルは、ときあたかも、麻薬の効果を失ったところだった。

 躰が痙攣し手足に力が入らない。

 花畑が消失し代わりに寂寞たる荒野が出現する。

 亡霊が徘徊し首を締めようと手を伸ばしてくる。

 果てのない荒野から脱出する為には白塗佳人が必要であると直感的に分かっていて、譫言のように求める声を発する。

 亡霊を打ち払う破魔の宝具を振り翳すには命をも含むあらゆる犠牲を払う必要があり、ノエルはその犠牲を厭うだけの余裕がなかった。

 どれほど脱ぎ捨てて裸になろうとも、どれほど搾り取られて罅割れても、この荒野から逃げおおせることのみが至上の使命であり、幸福であり、荒野の外には無限に広がる花畑があるのだと盲信していた。


 ノエルはスウィジンの背中で意味のない言葉を発するしかない。

 そんな様子を見ていたエリアスは、もう直視できなかった。

 廃人となった同志を少なからず見てきた少年だったが、これほどまでに急速に堕ちていく人間を見たことがなかった。


「いやあ、望みは薄いですなあ」


 スウィジンは陽気に言う。

 森林の民の姿をしたスウィジンは教区内に侵入し、悠々と上級市民が向ける奇異の眼差しを受け止めていた。

 エリアスはスウィジンに買われた者であることを示す黒い腕章を弄りながら、口を尖らせた。


「何の望みだよ」


「ノエルさんが正常な人間に戻る望みです。もしかするとロレイン嬢ならばどうにかできると思っておりましたが、いやあ、なかなか、どうして、いやはや」


 ロレイン? あんな子供に何ができるといのだ。

 エリアスは思ったが、スウィジンは迷いなくファジー・デツの複雑な通りを突き進んでいく。


「おい、どこに向かってるんだ」


「ノエルさんのご住居ですよ。バトムレスは蹂躙されていまいましたからな。そこで匿ってもらってください」


「……はあ? ぼくに言ってるのか? ぼくは一人でも平気だ。それに、このクソ神官、もう何の役にも立たないじゃないか。匿ってもらうってのは……」


「ノエルさんの愛人がいらっしゃるはずです。聡明で、美人で、それでいてちょっと歪んだ頬が可愛い御仁だと聞いておりますが?」


「どうしてそんなことを知ってるんだよ」


「ふふふ。拙僧の情報網を舐めてもらっちゃあ困りますとも」


 エリアスは驚きはしなかった。

 スウィジンの特異な能力を使えば、手に入れようと思った情報は全て入手できるだろう。

 しかしなぜそんな情報を手に入れようと思ったのか。

 動機が気になる。

 そんなにノエルのことが気になるのか。

 ロレインの『第一号』とか言っていた。

 何の第一号だ。

 保護者、という意味だろうか。

 まあ。関係ないか。

 エリアスはすぐに思考を切り替えた。

 少年にとっての最大の関心事はハウエルそのものであり、彼女がいなくなってしまった今、生きる気力などほとんど消尽しかけていた。

 託されたバトムレスも壊滅状態だと聞く。

 いったい何を目的に生きればいいのやら。


「ああ……、ああ、メーベル」


 ノエルが呻いている。エリアスは首を横に振った。


「……ま、こいつよりマシかな。こいつ、これから死ぬしかないからな」


 スウィジンとエリアス、それからノエルは一軒の家に辿り着いた。

 既に教区内の秩序は復活しており、小競り合いがあった痕跡はすっかり消え失せていた。

 それでも人々は今なお不安げな表情を隠そうともしない。


 スウィジンは家の鍵をあっさりと外すと、扉を開けてノエルを連れ込んだ。

 エリアスも不承不承追従する。

 中には誰もいなかった。

 ノエルの愛人も、ロレインも。

 スウィジンがぺちんと額を叩いた。


「これは誤算ですな。決闘の後に、すぐにここに戻ってくると思っておったのですが」


「そうかい」


 エリアスはぶっきらぼうに答えた。

 ぶつぶつ何かを言っているノエルが寝台の上でのたうち回っているのを眺める。

 爆発する感情が手に取るように分かる。

 なぜならその感情は二つの原始的な感覚が交互に表層に浮かび上がっているだけのものだったから。

 すなわち苦痛と性欲の奔流である。

 もっと言えば、性欲が満たされなくなったときに苦痛が顕現し、苦痛から免れるのは性欲が充足する瞬間のみ。

 従って麻薬が切れているときは間断なく苦痛が襲い掛かる。

 隣に床の手練でもいれば多少は楽になるのだろうか。

 エリアスはぼうっとそんなことを考えてから、ゆっくりと椅子に腰掛けた。

 スウィジンは窓際に立って外の様子を注視している。


「静かですな。嵐の前の静けさと言おうか……」


「もう嵐は起こったんじゃないの」


「言われてみればそうですな」


 スウィジンは軽快に笑う。

 エリアスは呆れて視線を逸らしかけたが。

 スウィジンの姿が元の僧侶の出で立ちに戻っていた。

 不敵な笑みと共に手を振る。


「――しかし、二度目の嵐はもっと激しくなるかもしれませんぞ」


 かの怪僧の姿が砕けて砂塵となった。

 エリアスはぼりぼりと頭を掻き、地下牢の臭気を大量に吸った己の躰を忌々しく思った。

 ノエルは自らの糞尿の臭いを纏い、既に家全体に臭いを振り撒きつつあった。


「ったく、結局、ノエルの世話はぼくがしろってか? そんなことをする義理はないってのに」


 文句を垂れつつも、とりあえず着替えからさせなければなるまいとばかりに、衣類棚を漁り始めたエリアスだった。




     *




 ファジー・デツ司教カラム=ベタニー=ビリーフは激怒した。

 しかしハイエイタス司祭長は、それが見せかけであることを見抜いていた。

 従って、自分も見せかけの動揺を見せることにした。

 腰を屈めて謝罪する。


「申し訳ございません……。ノエル助祭を逃してしまって」


「もはや彼は助祭ではない。破門である。明日にでも教皇から御状を頂戴するつもりだ」


「左様ですか。宗教裁判にて決着はつけないので?」


 司教は椅子に凭れたまま微動だにしなかった。


「司祭長、それが貴様の考えか?」


「彼は聖教や都市政府の考えに疑念を抱いております。野放しにするのは危険かと」


「白き婦人に身を委ねたのだろう。ならば彼はもはや人ではなくなっているはずだが」


「だからこそ行動が読めません。宗教裁判を開き、即刻彼の背徳を糾弾すべきでしょう。幸い、彼は白き婦人のみならず、ディライトの売春婦にも魅せられております。即日処刑が行われるでしょう」


「……ふむ? 清廉潔白な助祭と聞いていたが、やはり肉欲には抗えないものなのかね? 私のように無欲でい続けることは難しいのかね?」


 確かにノエルは清廉潔白な聖職者だった。

 しかし彼を肉欲の泥沼に沈めたのは、他ならぬ司教と司祭長だった。

 わざわざ伝言を売春宿で行ったのは、彼を貶める為の布石でしかない。

 いざというときに盾となってくれる、大事な大事な捨て駒。

 司祭長はくすりと笑む。

 

「欲に抗うなど、常人には至難の業でありましょう、司教猊下」


「司祭長、貴様はどうだ」


「私は……」


「白塗佳人撲滅の急先鋒たるハイエイタス司祭長に訊ねるまでもなかったかな?」


「いえ……。司教、では、ノエルの一件は、宗教裁判にて……?」


「少し待ちたまえ」


 司教は傲岸な態度ながら、やや神経質な口調で言った。


「宗教裁判の開催、および勝訴、断罪、全く滞りなく行われるであろうことは明白だ。その点に心配はないのだが、バトムレスの殲滅を問題視する輩が教皇庁の審問官の間で擡頭している」


「審問官、ですか……」


「異端者の告発に魂を捧げている倒錯者どもだ。仮に彼らがファジー・デツの行っている麻薬取引を突き止めるようなことになれば、私にも責任が及びかねない。そこで、審問官を一点に釘付けにする為に、防波堤を築きたいと思う」


「防波堤、と言いますと」


「ノエルだよ。彼には一切の咎を負ってもらおうと思う。すなわち、彼こそが麻薬取引の首謀者であり、主要な橋渡し役であり、悪徳の塊であったと。しかも宗教裁判により破門するのではなく、破門した後に糾弾するという形が望ましい。審問官が我々の牙城に立ち入る理由を作るわけにはいかない」


「なるほど、しかし、そうなりますと、聖教組織に直接属さぬ者の裁判では、都市政府の許諾が必要です。連中は突っぱねませんか?」


「もしそうなれば、決闘裁判にて粉砕するだけだ。こちらにはイジドアがいる。イジドアだぞ? 十人束になっても奴の勝利は揺るがないだろう。それほど圧倒的な強さだ」


「確かに……。では、早速手続きを。原告は麻薬取締局、被告はノエルと」


「もっと広くいこう。原告はこの私だ」


「しかし……」


「私は悪徳神官に憎しみに近い感情を抱いている。そう審問官に話すつもりだ。私の言う通りにしたまえ」


「御意に……」


 ハイエイタス司祭長は平伏した。

 彼は思い出していた。

 ハウエル打倒を掲げた当初もこのように軽い気持ちだったように思う。

 軍隊を総動員して被告人を捕縛できる宗教裁判と違って、決闘裁判では形式上は対等な人間の争いということになる。

 暗殺者でも雇ったほうが手っ取り早いと思うのだが、隣接都市の暗殺者が跋扈する世上の息苦しさは筆舌を尽くし難いという。

 実際、権力者自身も暗殺者に怯える身の上であり、戦力を羅列して開示する効果のある決闘裁判という形式は、まさに強者が推奨するべき機構であった。

 しかしハウエル自身が強者であった為に裁判は長引いた。

 今回の相手はノエル、脅威があるとは言えないが、油断は禁物である。


 問題はノエルを排除した後だ。

 司教にはまだ話していないが、聖教の麻薬流通経路を粉砕しようと画策する者がいる。

 幸い聖教の内部にも麻薬栽培人との直接の取引網が形成されていたから、量を確保するのは難しくないが、厳しい立場に立たされた。

 いったい誰が麻薬を栽培している森林の民を聖教の名を騙って痛めつけたのか。

 犯人を即刻見つけ出して対応しなければならない。

 そうしなければ麻薬取引の首魁である我が身も危うい。

 全てはノエルのような秘密を知ってしまった者を排除することから始めなければならないし、情報を漏らした密告者も特定しなければならない。

 問題が山積していて眩暈がした。

 いや、この眩暈はもしや……。


 ハイエイタス司祭長はゆっくりと瞬きした。

 喉の渇きにも似た苦痛がじわじわと胸から拡がりつつある。

 もうすぐ麻薬の効果が切れる時間だ。

 適量を守り良質のものだけを選び続ければそれほど日常生活に支障はない。

 この優雅とさえ言える暮らしは、なるほど、神の悟りに接近する為に必要なものなのかもしれない。

 司祭長は司教の執務室を辞去し、紫眼に狂気を滾らせ、足早に裁判所へと向かった。




     *




「駄目。駄目だって」


 エリアスが何度も言っているのに、メーベルは介抱を続けようとしている。

 エリアスはやっとのことでノエルを半裸にしたが、新たに服を着せるのは難航した。

 悪戦苦闘している内にメーベルが帰宅し、かいがいしい世話をしようと腕を伸ばしたのだが……。

 妄想の世界で肉欲に支配されたノエルは、メーベルの柔らかな肢体に触れるなり暴走した。

 いったいどんな夢を見ているのかその一端を思い知ったエリアスは慌ててメーベルを引き剥がした。

 さしもの売春婦もしばらく床に座り込み茫然としていた。


「でも……。私が助けないと」


 メーベルの努力は涙ぐましいものだった。

 最初は冷めた目で見ていたエリアスも、この二人の間には、愛だの信頼だの絆だの、そういった簡素な言葉では片付けられない強固な何かがあることを見て取った。

 エリアスがノエルの手足を縛り上げ、なんとか着替えを済ませることができた。

 汚れたノエルの躰を拭くメーベルの後姿を見た少年は、汗を拭きながら肩を竦めた。


「もう、こいつは終わりだよ。命が危ないし、たとえ助かったって聖職ではいられない。何せ聖教の敵になっちゃったんだから」


 メーベルの表情は女神のように穏やかで、エリアスの発言をあっさりと受け止めた。


「この方は私の夫です。……ロレインの父親であり、私の一部です。エリアスさん、あなたは形が気に食わないという理由で、自分の指を切り落としたりしますか?」


「自分の一部、ね。そういう感情は分からないでもないけどさ」


 エリアスにとってハウエルがそれだった。

 それも指の一本や二本といった末梢の組織ではない。

 まさしく心臓と言っていい存在だった。

 それが失われた今、本当なら生きる意味なんてない。

 それでもこうやって汗を流してノエルの着替えを手伝った。

 自分は生きているのだと、どうしようもなく生きているのだと実感せざるを得ない。


「――ところであの子供はどこだい? あの気色悪い髪の女……」


「ロレインは……。私にもどこに行ったのか」


 メーベルは一瞬泣き出しそうな顔になったが、すぐに引き締まる。

 そしてそのまま硬直して、まるで氷の膜を帯びたかのようだった。

 エリアスはメーベルに意地悪な質問をしたことに気付き、自分が嫌になった。

 いったいどんな反応を示すだろうかと興味があったのだが、こんなことをしても意味がない。

 やれやれ。女の感情を慮る日が来ようとは。

 エリアスは窓際に立ち外の様子を眺めた。

 すると物々しい街の様子に気付く。

 閑静な住宅通りに現れたのは、聖戦士に守られた黒衣の神官たちであった。

 彼らは明らかにこの家を目指している。


 宗教裁判。

 エリアスは直感して振り返り、メーベルを見据えた。

 怜悧なる売春婦はすぐに事態を察すると、立ち上がってエリアスを押し始めた。


「隠れてください。あなたはバトムレスの重罪人でしょう」


「ちょっと待て。どうしてぼくを匿う。それより先にノエルを隠したほうがいいだろ」


「どうせ彼らの目的はノエルさんなんです。下手に隠したら捜索されて、あなたまで見つかってしまう」


「ぼくのことなんかどうでも……」


「死なせませんよ」


 メーベルの声ははっとするほど力が籠っていた。


「――バトムレスの新たな首魁なんでしょう、あなたは。私はディライトにいましたが、バトムレスの方々は嫌いではありませんでした。もう一度、再興してみせてください」


「そんなの……」


「私はノエルさんと共に生きます。ご心配なさらず」


 それが心配なんじゃないか。

 エリアスは首を捩じってメーベルの表情を確認する。

 彼女は泣いていた。

 歪んだ顔がぞっとするほど美しかった。

 ハウエル様に次いで、という副詞句を慌てて付け足す。


「これだからハウエル様以外の女はろくでもないんだ。弱いくせに虚勢を張る」


「衣類棚の後ろに隙間があります。そこに体をねじ込んでください」


「ちょっと待て、無理がある、ぼくの躰はこんなに薄っぺらじゃあ……」


「文句垂れずにさっさと入る!」


 メーベルはエリアスの華奢な躰を押し込むと、衣類棚の中にあった衣服を乱暴に取り出し、部屋中に撒き散らした。

 そして衣類棚の隙間をさりげなく隠すと、部屋にあった小物をぶちまけて部屋を荒らした。

 準備が完了すると共に家の入口がドンドンと叩かれた。


「裁判所の法服裁定員です。ノエル様はいらっしゃいますか」


 その穏やかな声音とは対照的に戸を叩く音はけたたましい。

 殴り破ろうとしているかのようだ。

 メーベルは深呼吸し、入口へと歩み寄った。




     *




 黄狸の月、第二二日。黎明。

 朝の日差しは弱々しい。

 世界の底に溜まった澱を吹き飛ばすだけの力は期待できない。

 メーベルは朝陽を直視したが、新しい日が始まったのだと実感することはできなかった。


 先日聖教から破門告知があったノエルには白い儀礼服を着させていた。

 麻薬の禁断症状は断続的にあり、暴走を封じ込めることはメーベル一人では難しい。

 エリアスは全身傷だらけになり、助っ人に来た売春婦たちも多かれ少なかれ傷ついていた。

 肉体的な疲労はもちろんだが、人はこれほどまでに堕ちるのかと慄いていた。

 メーベルだけはノエルの回復を確信していた。

 今朝も目覚めの口づけを交わす。

 ノエルは貪欲に彼女を求めたが、エリアスが傍についていてすぐに引き剥がした。


「私は別にいいのに……」


 メーベルはエリアスに謝意を示しつつも口を尖らせた。

 エリアスは呆れた。


「きみさ、絞め殺されるよ。今のノエルに理性なんてないんだから」


「それでも……」


 構わない、と言いかけたメーベルを、ユニスが小突いた。

 歯の抜けたこの売春婦も、数人の同僚を引き連れてノエルの家に詰めていた。

 いずれもノエルの家から勝手に拝借した婦人服を着用している。

 彼女らはそれなりにこの状況を愉しんでいるようだった。


「滅多こと言わないの、メーベル。アンタがいなくなったらロレインちゃんが悲しむでしょうが」


「ロレイン……。でも、あの子は」


 あの大剣少女はハウエルが死んだあの日から姿を見せない。

 ユニスはメーベルの弱気な表情を見て平手を繰り出した。

 しかしメーベルは機敏であった。

 反射的にユニスの平手を躱した。

 そのおかげで勢い余ったユニスは半回転してその場に尻餅をついてしまった。


「だ、大丈夫ですか、ユニス」


「何で避けるのよ、メーベル。……もう、あの子は大丈夫よ。たぶん奔放に辺りをうろつき回ってるんだわ。ディライトの人たちが昨日も見かけたって言ってたし」


「でも、この家には帰ってきません。私のことを嫌いになったのでは……」


「もう! んなわけないでしょ! 悔しいことに、アンタのことを嫌いになれる人間なんていないのよ! この捻くれたわたしがアンタのこと大好きなんだからね!?」


 ユニスは立ち上がってメーベルを抱き締めた。

 メーベルのほうがやや長身だったのでむしろユニスのほうが抱き留められているような恰好になる。

 エリアスはノエルの動きを封じ込めながらそれを眺めていた。


「きみたちも同性愛の気があるんじゃないか? 怪しまれるようなことはよしなよ」


 キッとユニスが睨みつける。

 エリアスは肩を竦めて自慢の金髪を揺らした。


「――さあ、そろそろ出発しようか。決闘裁判は裁判所隣接の練兵場で行われるんだろ? ここからだと少し遠い。ノエルを運ぶのに時間がかかる」


「少しくらい遅れたって構わないじゃない」


 ユニスについてきた年少の売春婦が言う。

 エリアスは彼女に軽蔑の眼差しを送った。


「細則を知らないようだから言ってやる。遅刻は不戦敗、すなわち決闘裁判での敗訴に繋がるんだ。わざわざこっちから付け込まれるような隙を作る道理はないだろうに」


「ねえ、でも、逃げたほうがいいんじゃない? 勝ち目なんてないわけだし」


 別の売春婦が言う。

 お世辞にも器量が良いとは言えない女だが、立派な体格で、激しい労働にも堪えられそうな印象だ。

 エリアスは一瞥しただけで彼女への侮蔑を表明した。


「監視の眼があるのに? もう決闘裁判の開催は決定しているし、あらゆる書類は発効している。それを枉げるような行為は死罪だ。ここは形だけは法治都市を標榜しているからね、逃げるような素振りを見せただけで教会の犬が飛んでくる。ついでにきみたちも捕まっちゃうんじゃないか? 言っとくけどぼくは犬の腰振りなんてみっともないものを見たくはないよ」


 一同は押し黙った。

 が、場の空気を無視することにかけては図抜けているユニスが首を傾げる。


「でも、どうして決闘裁判なんだろう。宗教裁判なら有無を言わさずノエルを処罰できるのに」


 ここ数日、何度も議論が交わされた点だった。

 エリアスはここで討論を交わしても無意味だと知っていた。

 これまでの成果の要点を並べることで答えとする。


「まず考えられるのは聖教側にノエルの破門を急ぐ理由があるということ。宗教裁判は信徒を対象にしたものであり、破門はその者の聖職のみならず信徒であるということさえ許さないからね、破門した者を相手に宗教裁判を開くことはできない。聖教側にも背徳の種があることだし、たとえば審問官の調査を恐れて身内に背徳者を摘発することを避けたのかもしれない。宗教裁判は書類という大量の証拠を残すけれど、破門はむしろその逆だから。で、次に考えられるのはイジドアの存在だ。聖教側もイジドアの実力を計りかねているんじゃないかなってこと。あの剣士が本当に信用に足る存在なのか試す為に場数を踏ませる段階にある。あるいはもっと多くの関係者にその強さを誇示したいとか。奴は絶望的な強さだからね。で、その次に考えられるのは宗教裁判自体が持つ性質を危険視したということ。宗教裁判は腐っても神学的な催しだから、当然内外の神学者が出入りし、その知見をぶつける。万が一この開催に異議が申し立てられ、それを封殺するような事態に陥ったら、それこそ審問官の出番ということになりかねない。で、次に考えられるのは……」


「もういいって。喋り過ぎ、エリアス。アンタは黙ってるほうが可愛いんだから」


 ユニスが叫ぶようにして言う。

 自分から言い出した話題のくせに。

 自分勝手な女だ。

 これだから好きになれないんだ、女って奴は。

 メーベルがくすくす笑いながらノエルの手を引く。

 かの堕落神官は比較的落ち着いており、エリアスが後ろから押さえ込んでいるとはいえ、素直に彼女の導きに従った。


「お前は本当、幸せな男だな。羨ましいとは……、言えないけどさ」


 エリアスはぼやき、自らの美貌を頭巾の奥に隠した。

 決闘裁判の舞台へと赴く神官とその支持者たちは、武装した男たちの監視の下、遅々とした足取りで通りを進み始めた。




     *




 練兵場は閑散としていた。

 秘密裡にノエルを処理したいという魂胆が見え透いていたが暗殺者を解き放たないだけ公正だったと言えるだろう。

 エリアスはノエルに「感謝しなきゃいかないかもだぞ」と言った。

 無論売春婦たちの白眼を浴びることになる。

 ノエルを裁判所から拝借した椅子に括り付けた。

 ユニスはそわそわと周囲を見渡し、このだだっ広い敷地にほとんど誰の姿もないことに不安を禁じ得ないようだった。


「……こんな場所じゃ、何をされたって誰にも分からないよね。わたしたちまで殺されないかな」


「そういう無法な手段に出るんだったら、とっくにやってる。住居の周りに物々しい装備の連中が詰めてたんだからさ。それに、そういう危険は承知でここにいるんじゃないの」


「そりゃあ、そうだけどさ。でもエリアス、アンタまでどうして付き合ってるのよ。ノエルのこと、気に入ったの?」


「そういうわけじゃ……」


 自分でも分からないのに言葉で説明できるはずがない。

 ただスウィジンに強引に世話を任せられただけだ。

 メーベルたちが来た時点でもう退散しても良いはずなのだが、なぜかそういう気分にならなかった。

 生きる気力を失うと、何もかもを拒絶するのではなく、何もかもを受諾してしまうものなのか。

 あるいは誰かの為に動くことで生きる目的を模索しようとするのか。


 くだらない。

 エリアスは遠くを見つめた。

 練兵場を取り囲む二重の石塀とその間に植えられた喬木がやけに物寂しく見える。

 晴れているはずなのに一帯が明るく感じない。

 自分の瞳が曇ったかと思い瞼をこすった。

 それから裁判所を見上げる。

 二階、あるいは三階の窓辺では数人の男が練兵場を見下ろしているのが確認できる。

 その中の一人に見覚えがあるような気がしたが、自信はない。

 見間違いかもしれない。


「それにしても、私たちの決闘代理人、まだ来ないのかしら」


 売春婦の一人が言う。

 まだら模様の奇抜な髪の色をした小柄な女だ。

 エリアスは視線を下ろした。


「ディライトの傭兵が名乗り出てくれたんだろ。物好きもいたもんだよな」


 ユニスが頬に手を当てる。


「イジドアに勝てるわけないけど、勝負は時の運って言うしね。やってみないと分からない……。でも、本当に命を捨ててまで戦ってくれるのかしら」


 重苦しい沈黙が一帯を支配した。

 金は既に一部払っている。

 金だけ貰って退散した可能性もある。

 どれだけ信用できなくとも、形だけでもイジドアと対決する姿勢を見せた男が他にいなかった。

 だから致し方ないのだが、不安しかない。

 それまでノエルの手を握って黙り込んでいたメーベルが、屹然と顔を持ち上げた。


「いざというときは、私がノエルさんの代わりに戦います」


 そのあまりに無茶な発言に一同は絶句した。

 そして誰もが、メーベルは本気であると知っていた。

 エリアスは、もしこの中でノエルの代わりに戦うとしたら自分が適任できると気付いていた。

 だが名乗り出ることはできない。

 ハウエルを殺したイジドア。

 話によればロイドをもあの男が殺したという。

 自分まで奴に殺されるのか。

 むしろそれを望むべきなのだろうか?

 いや、そうではない。

 恐怖しかない。

 自分は生きたいのか?

 エリアスは意外な気持ちで震える己を感じた。

 そして改めてメーベルの勇気に感服する。


「まだ来ていないのか?」


 金色の縁どりをした漆黒の長衣を纏った司教が、徒歩で練兵場に入ってきた。

 日頃司教に反感しか持っていない一同でも、思わず佇まいを正してしまうのだから、下級市民としての生き方がすっかり染みついているようだ。

 司教の傍らには紫眼のハイエイタス司祭長が控えている。

 どこかぼうっとしているように見受けられる。

 メーベルだけは堂々としていて、普段の元気が嘘みたいに竦み上がった売春婦たちの前に進み出る。


「まだ決闘代理人のカトーさんが来ていません。もうしばらくお待ち頂けますか」


「こちらもまだイジドアが来ていない。戦士という人種は大雑把に出来ているらしい。気にせずとも良い」


 司教は鷹揚に頷いてみせた。

 声には威厳が込められていたものの、その容貌は街中でどこにでもいる隠居老人のものと大差なかった。

 ただ、眼光だけは活き活きとしていて、為政者としての意欲さえ感じ取れるような気がする。

 メーベルは低頭し、司教が用意された天幕の中に消えるまで俯いていた。

 エリアスは意味のない呻き声を漏らすノエルを眺め、その頭をやや乱暴に叩いた。


「お前の奥さんは踏ん張ってるぞ。お前はどうなんだ?」


 返事はない。彼の瞳は虚ろそのもので、紫に変色して凝っていた。


 いよいよ刻限が迫ってきた。

 傭兵カトーより先にイジドアが姿を見せたとき、エリアスは落胆した。

 相手の不戦敗で勝訴に持ち込めたら最高だと思い始めていた矢先だった。

 イジドアは練兵場の真ん中で寄り添い合う一行をじろりと見渡し、黒い舌で口の周りを舐めた。


「どいつも重そうだ。本当に生きているのか?」


 全く意味が分からない。

 エリアスは肩を竦め、阿呆か、と呟いた。

 つまらない自尊心を抱いている戦士ならば見咎めそうな態度だったが、幸いイジドアは見逃してくれた。

 売春婦たちは肝を冷やしたようで、イジドアが去った後エリアスの頭をしこたま殴った。


「あの傭兵、カネだけ貰って逃げやがったな。もうすぐ時間だ」


 エリアスが頭をさすりながら言うと、一同は諦めたように首を振った。

 誰もがこうした展開を予期していたのであろう。

 練兵場には聖職関係者や都市政府の査察役、法服裁定員の面々が揃いつつあった。

 彼らはノエルの決闘代理人が不在であることを意識しているようだ。

 練兵場の正門をちらちらと見ては、広場の隅にある原始的な漏刻を確認している。

 法服裁定員の一人、薔薇の匂いを漂わせる小太りの男が練兵場の中央に進み出る。

 エリアスはぞっとした。

 いよいよ決闘裁判が始まろうとしている。

 そのとき代理人がいなければノエル自ら戦えと強要されるであろう。

 イジドアが相手でなくとも敗北は決定的だ。

 何せノエルはまっすぐ歩くことさえできないのだ。

 幻覚の世界の中で花畑を疾走するような状況なのだ。


 メーベルは毅然として前を見据えている。

 エリアスはどうするつもりなのかと彼女に問いたかった。

 本当に決闘を代行するつもりだろうか。

 本当にこんな神官の為に命を投げ出すつもりなのか。

 法服裁定員がわざとらしいゆったりとした動作でエリアスたちを見回す。

 近くに立っていた年少の売春婦が小さく舌打ちした。


「あの男、いかにも意地悪そう……。嫌になっちゃう」


 エリアスは同意したが、返事はしなかった。

 時間を稼ぐ方法はないものかと、頭を回転させていたからだ。

 もしかしたら傭兵カトーも少し遅刻しているだけでここに来るつもりかもしれない。

 望みは薄いが、時間を稼ぐことくらいしか今できることはない。

 法服裁定員が何度も咳払いし、もったいぶって言う。


「決闘代理人カトー=ラナウェイの姿が見えないが? 決闘裁判を執り行っても構わないでしょうか?」


 エリアスは前に進み出て時間を稼ごうと思った。

 しかしそうする前にメーベルが声を発する。


「ええ。しかし、その前に、決闘代理人の変更を申請したいのですが」


「ほう?」


 エリアスはメーベルの横に並び立ち、肘で彼女の腋を小突いた。


「死ぬ気じゃないだろうな? ここはぼくに任せておけよ。ぼくだってハウエル様から武術を叩き込まれている。一矢報いてやるから」


「いえ」


 メーベルは涙を流していた。

 それでいて笑っている。

 法服裁定員、その遥か後方でにやりとしている司教を見詰め、性悪女のような笑みを湛えた。


「――必要ありません。私には頼れる戦士がついていますから」


 轟音。

 爆発。


 エリアスは仰天して振り返った。

 土埃が濛々と立ち込め、それが収まった後には練兵場を取り囲んでいた土壁が崩れているのが見て取れた。

 瓦礫を乗り越えて飛び跳ねながら走り寄ってきたのは、水色の髪をした少女と、少女に背負われて不機嫌そうに大きく揺れる大剣であった。

 エリアスはその金色の瞳をまともに見据えてしまった。

 喜悦に満ちている。

 意味もなく陽気にさせられてしまうような、生の喜びに満ちた眼差し。


 ああ、これで大丈夫。

 エリアスは理屈抜きでそう感じてしまう自分を滑稽に思った。


 ロレインの背後からは、驚いたことに、下級市民どもがぞろぞろとついて来る。

 ここは教区内であり、下級市民の立ち入りは制限されている。

 実際にはそれほど強い取り締まりがあるわけではないが、裁判所の周囲では武装した兵士が監視の眼を強めているはずだ。

 どうやってここまで来たのか。

 それに、何をしに来たのか。単なる観戦? 

 メーベルがロレインを抱き締めた。

 天真爛漫なロレインといえども、母親のその切羽詰まった表情には驚いたようだった。


「ないてるの、おかあさん?」


 少女は母親の頭を撫でた。

 メーベルは微笑する。


「心のどこかでは分かっていたんです。ロレインが私たちを見捨てるわけがないって。でもこの子を戦わせるわけにはいかない……。あなたを失うわけにはいかない……」


「だいじょぶだよ、おかあさん! あたし、もうあのおにいさんとたたかってるもん!」


 ロレインは快活に笑っている。

 水色の髪が喜びの所為なのかわっさわっさと蠢く。


 エリアスは、ロレインならばイジドアに勝てるかもしれないと思い始めていた。

 傭兵カトーよりも格段に信用できるのは確かだ。

 だが、ロレインは都市政府に雇われた戦士のはず。

 ノエルの個人的な決闘代理人になる権利があるのか。

 もしかすると聖教側だってその使用権を買い取っているかもしれない。

 おそるおそる司教陣営を見れば、彼らは驚きつつもにやにや笑いを止めていなかった。

 法服裁定員たちが協議を始めており、寒空の下、夥しい量の書類を広げている。

 結論は思いのほか、早く出された。

 法服裁定員がノエルに歩み寄る。

 ノエルの傍らにはメーベルとロレインが肩を抱き合いながら待ち構えていた。


「ええ、まずは、予期せぬ群衆の乱入についてですが」


 続々と練兵場に入場する下級市民たち。

 彼らは少々の熱気に支配されており、口早に言葉を交わし合っている。

 そしてロレインのほうを見やると万歳三唱を始めたり笑い出したりした。

 エリアスには意味が分からなかった。


「――特別に許可しましょう。入ってきてしまったものは仕方がない。ただし、戦士リヴィアが決闘代理人としての資格があるかどうかは、確認を要します」


「確認?」


 メーベルが不安げな声を発する。

 法服裁定員は厳かに頷き、そして、


「おや、おいでのようですよ」


 裁判所の方向を指差した。

 練兵場に入ってきたのは、数人の護衛を引き連れた長身の男だった。

 上級市民とも下級市民とも取れそうな、粗末だが小奇麗な服装で身を包み、練兵場の踏み固められた土をその革靴で音を鳴らしながら歩んでくる。

 丈のある帽子を斜めにかぶり、後ろで手を組み、胸を突き出すようにして歩く様は、傲岸そのものだった。

 全くの無表情であり、髭のないつるりとした顔だった。


「リヴィアは都市政府と聖教の『所有物』であり、決闘裁判での使用には『所有者』の許諾が必要となります。聖教側はその『所有権』を放棄すると先日表明しておりますから、都市政府の代表である市長の許可があって初めて、リヴィアを決闘代理人として認める形になります」


 法服裁定員が口早に言う。

 市長が許可するはずないが、と言外に伝えてくる。

 エリアスは諦めの気持ちと共に、意地悪そうな顔をした市長を一瞥し、おや、と思った。

 見覚えがある。

 特にその灰色の瞳……。

 市長が法服裁定員を手招きで呼び寄せる。

 司教陣営もぞろぞろと中央に進み出て来て事態の趨勢を見届けようとしている。


「別にいいさ。ノエル氏にリヴィアを貸し与える。決闘代理人としての使用も認める」


 市長はあっさりと言った。

 法服裁定員の一団が唖然としている。


「え……、は……? ちょっと、え……?」


 市長は取り巻きたちでさえも唖然とさせた後で快活に笑った。


「さあ、時間が押しているぞ。さっさと始めたらどうだ。拙僧……、じゃない、私は決闘裁判を見に来たんだ」




     *




「いったいどういうことだ」


 エリアスはスウィジンの隣を陣取った。

 最初は市長の護衛が頑なに排除しようとしたものの、市長の姿をしたスウィジンが、


「新しい愛人だ」


 と臆面もなく言ってのけるので、退かざるを得なかった。

 スウィジンは粛々と口上が述べられるのを聞きながら、軽く息をついた。


「どういうことも何も、この通りです。拙僧は市長だったのです」


「ふざけるな……。いつからだ、いつから市長になりすましていたんだ」


 スウィジンはエリアスの憤懣に満ちた声を柔らかく受け止めた。


「ロレイン嬢を決闘代理人として推挙したときからです。市長自身になりすまして事を運ぶのが最も手っ取り早かったものですから」


「それはそうだろうけど……。本物の市長は」


「既に麻薬漬けでおかしくなっていたので、僻地に追放しました。こう見えても拙僧、最近利口になったって秘書に褒められているんですぞ。ときどきふらりといなくなって公務を放擲するのが玉に瑕だそうですが」


 エリアスは嘆息した。

 練兵場の中央ではロレインとイジドアが対峙している。

 その周囲には柵が立てられ、熱気を帯び始めた群衆たちを遠ざけている。


「……お前の目的を改めて聞こうか。ロレインをどうしてそう気に掛ける?」


「どうしても何も。それが拙僧の役目ですからなあ。前にも話しましたが、皆さんにはロレイン嬢を是非好きになってもらいたい。彼女の『友達』を増やしたい。その一心なのですよ」


 ロレインの名前を呼ぶ群衆の声がうるさい。

 いつの間にか大応援団を組織したロレインは彼らの声援に笑顔で応えた。

 それを一瞥した司教の表情は険しく、側近の神官たちに口早に命令を下しては、何度も市長のほうを睨みつけてくる。


「またこの街は荒れるな。ハウエルという共通の敵を得て小康状態が続いていたのに、対立が再開するのか」


「それが自然な流れではないでしょうかな。一方が他方を利用しようと圧力をかければ何らかの反発力が働くのは当然。互いに圧力をかけ合っているとなれば、抗争は避けられないでしょう」


「スウィジン、お前はこのまま市長を続けるつもりか。このファジー・デツを戦場にしないでくれ」


「それがハウエルさんの望みですからな。まあ、善処はしましょう。ただ、拙僧も飽きればさっさと自殺して新しい市長に頑張ってもらうつもりです。わしのような放蕩者に定職は似つかわしくないですからなあ」


 もちろん自殺と言っても実際に死ぬわけではないだろう。

 スウィジンは全身が砕け散っても再生する魔術師である。

 人間ではないのかもしれない。


「ロレインも、お前と同類……。つまり、普通の人間じゃないよな」


「今更ですな。あんな小さな女の子が、大剣を振り回せるはずないでしょう」


「だが、実際には」


 ロレインは剣を抜き身のままぶんぶんと振っている。

 口上を続けている法服裁定員が恐怖の所為か声が甲高くなったり聞き取れないほど小さくなったりする。

 その度に詰めかけた観衆がどっと笑い声を立てている。


「――あんなに軽く振ってる。いったいどんな仕掛けがあるんだ?」


「仕掛けと言いますかな」


 スウィジンは顎に指を添えて笑っている。

 その笑みを見る限り、彼女がイジドアに敗北するかもしれないなどという杞憂は全く抱いていないようだ。


「――ロレイン嬢は皆さんの力を借りているだけですよ。彼女だって、彼女なりの準備を整えて今日という日を迎えたはずです」


 メーベルが椅子に腰掛けたノエルに何か囁いている。

 ノエルは穏やかな表情だった。

 依然虚ろな眼差しだったが、落ち着いているようだ。

 ロレインの放つ生気がかの堕落神官を元気づけているのだろうか。


 エリアスは口上が終わったことに戦慄する。

 いよいよイジドアが殺気を放ち始める。

 ここから決闘場までは少し距離があるのに、全身の毛孔が開くような感覚があった。

 対峙するロレインは笑顔である。

 笑顔で、あの狂人イジドアと向かい合っている。

 怖くないのか。

 無知だからか。

 それとも勝算があるのか。

 そもそもあの少女は何者なのか。

 スウィジンはきっとそれを知っている。

 全てを知っている。

 この男は疑問に答えてくれるのだろうか?


「始まりますぞ」


 法服裁定員が、イジドアとロレイン、両方に恐怖し、そそくさと退場した。

 イジドアの狂気の瞳がまっすぐ少女に向けられる。

 射竦められたのは当の少女剣士ではなく、その背後から張り裂けんばかりの応援を繰り広げていた群衆たちであった。


 一瞬で静かになる。



     *




 イジドアは鉄片を軽く回してその調子を確かめた。


「ふむ。調子は悪くない」


 ロレインは大剣を構える。

 その細腕で支えられるはずがない、巨大な剣だ。

 見かけ以上に軽い、というわけではない。

 ロレインが怪力である、というわけでもない。

 それくらいはイジドアにも分かる。

 全く別の力がその大剣を支えているのだ。

 不可視の力――あるいは普段人間が見ようともしないほど些末な力。

 それらが束となって、その超重量の得物を支えている。


「――お前は重い。どうしようもなく重い。それなのに飛べる。不公平だな?」


 イジドアはロレインに歩み寄りながら言った。

 少女剣士は大剣を低く構えた。

 表情が真剣になっている。

 本気になったか。と思ったらすぐに笑顔に戻った。


「おかあさん、見ててね!」


 あろうことか、観客のほうに手を振った。

 その間、片腕で剣を支える形になる。

 感嘆の声があちこちから聞こえる。

 たとえ両手を離したとしてもその剣は固定されていただろう。


 イジドアは踏み込んだ。

 砂が舞う。

 少女が意外そうにこちらを見る。

 油断している。

 顔面に剣を突き入れる。

 確かな感触がある。

 鮮血が飛び散るはず。

 イジドアは十分押し込んでから刃を下に払った。


 手応えは確かにあった。

 だが少女は平然としていた。

 僅かに横に移動しており、攻撃が外されたのだと思おうとした。

 だが手応えはあったのだ。

 負傷していないとおかしい。


「お前は、今、死んだのか? それとも……」


 ロレインが剣を振りかぶる。

 イジドアには二つの選択肢があった。

 踏み込み、攻撃される前に相手の手首を斬り落とすか。

 それとも避けるか。


 これまでは何があろうと前者を選択していた。

 考えるまでもない。

 それが可能であったのだから。

 しかし今回の相手は多少勝手が違った。


 体勢を低くしながら後退し鋒鋩で威嚇しながら相手の出方を見る。

 ロレインはその巨大な剣を払って剣風を浴びせてきた。

 しかし全く恐怖に値しない。


 群衆からは拍手が湧き起こった。

 イジドアは風で自分がよろめいたことに気付き、一瞬意味が分からなかった。

 膝が揺れている。

 眼を見開いた。

 ロレインが隙なく大剣を正面に構えている。

 その圧迫。

 触れなければ単なる鉄塊に過ぎないそれが、殺人の道具であることが意識される。


「ん……? 重いな、躰が」


 イジドアは怒りが湧き上がってくるのを感じて驚いた。

 ロレインは笑っている。

 無邪気に笑っている。

 笑いながら人を殺すのか、お前は。見直したぞ。


「人をころしちゃ、ダメなんだよ」


 ロレインが言う。

 口が動いた気がする。

 いや、もしかするとこれは自身の追憶かもしれない。

 以前こんなことを言われた気がする。


 今日はおかしい。

 考え過ぎる。

 もっと簡潔に剣を振るえ。

 軽い躰になれ。

 イジドアは瞬きを三度した。

 空にロレインが張り付いていた。

 飛翔したのだ。


 斬撃の雨が降ってくる。

 頬を刃がかすめる。

 鮮血が散る。

 ロレインのではなく、自分の血。

 剣風が躰を持ち上げようとする。

 もう少しで飛べそうだった。


「空を飛べると思うか? 本当に? お前は本当に飛んでいるのか?」


 剣を空に突き上げた。

 あともう少し腕が長ければ太陽に届くと子供の頃は信じていた。

 実際にはもっと遠い。

 ロレインにさえ届かない。


「ここだよ。もっと、こっち、こっち」


 ロレインが笑っている。

 いつまでも笑っている。

 嗤われているわけではないが腹が立った。

 なぜ苛立っているのか自分でも分からない。


 ふと躰が浮き上がった。

 風が吹いている。

 いや風ではない。

 風に似ている。

 風は空気の動きにしか過ぎないのに対し、この力は実体を持ってイジドアの躰を持ち上げようとしている。

 僅かな温もり。

 この力は。


「いっしょに飛ぼうよ、おにいさん!」


 イジドアは目を見開く。

 自分に言っているのか。

 赤みがかった金髪が頬を撫でる。

 自身を押し上げる力がこの肉体の周りで踊っているのを感じる。


「……殺すぞ」


「しなないもん」


「殺す。重くしてやる。地に叩き落としてやる。踊れなくしてやる」


 ロレインの頬が膨らんだ。


「あたしのこと、好きじゃないの?」


 イジドアは躰が浮き上がる自分を頼もしく思った。

 やっとこの呪われた世界から解放されるのだと思った。

 この少女がそれを実現したのだと思った。


「好きだ。だから、殺す」


「……おにいさん、かわってるね」


 イジドアはにやりと笑った。

 この無邪気な少女に少しでも嫌悪感を覚えさせることに成功したのなら、なかなか上等な痛快事である。

 剣を振り回した。

 しかし空中での機動はロレインが上手で、剣先が届かない。

 イジドアは空中でもがき始めた。

 少女は飽きたように首を傾げると、するすると降下し始めた。


「待て、女」


 イジドアは叫んだ。

 ロレインは、ばいばい、と手を振った。


「おにいさんは一人であそんでて。空、飛びたかったんでしょ?」


 イジドアは見た。

 どれだけ高みに昇ろうとも大きさが変わらない日輪の異様な姿を。

 薄く透明な膜を伴ったかのように輝く青い星の静けさを。

 その輝きがまさしく少女の髪の麗らかさと類似していることを。


「そうだ、俺は、今、自由だ……」


 イジドアはけたたましく笑った。

 躰が勢い良く浮上する。

 太陽はなおも大きさが変わらない。

 腕を伸ばした。

 もう少しで届くと思った。

 剣を取り落とす。

 重力の力を借りて落下していく。


 お前はもう要らない。

 俺は自由だ。


 太陽を斬るのに剣など不要。

 自由とはそういうものだ。

 自由者には何もかも許される。

 空さえ飛べるのだから、太陽を斬るくらい、造作もない。

 もう少しで届く。

 届きさえすれば何とでもなる。

 届きさえすれば……。


 イジドアの濁った青い瞳が陽光を浴びて薄らいだ。

 笑みが消えた。

 そこに何があるのか理解した。

 胸を突き上げるこの感情。

 畏怖。

 生きることへの恐怖。


 この青空。

 降り注ぐ光線。

 自分の為に輝いていると信じていた太陽の輝きの何と禍々しいことか。

 一人で受け止めるには、あまりに、重過ぎる。


「う、おおおお……?」


 堪らず地を見た。

 ここから墜ちれば死ぬ。

 それに気付いた彼は叫んだ。


「俺は自由だ! 誰も束縛できん! 誰よりも際立って、卓絶した、自由なのだ!」




     *




 空の彼方に消えたイジドアを見送ったエリアスは、するすると降下し着地したロレインを拍手で迎えた。


「凄い……。本当にあいつを空に飛ばした……。これなら戦わずして倒せるぞ。後は地面に叩きつければ確実に殺せる」


 昂奮したエリアスを、スウィジンは笑殺した。


「まさか。ロレイン嬢はそんなことはしません。彼女はけして人を殺しませんからな」


「何だと……」


 何ともおぞましいことに、まさしくその通りになった。

 イジドアの姿が空の彼方から見える。

 ゆっくりと降下し、多くの観衆が見守る中、無事に着地した。

 売春婦たちがぬか喜びをさせられたと言ってロレインにぶーぶー文句を投げつけた。

 ただし親しみが込められたものだった。


「ああいう人なのです、ロレイン嬢は。決闘代理人になりたいと駄々を捏ねたのは彼女ですが、それは他人を傷つけたいからではなく、純粋に誰かと遊んでもらいたかったのでしょう。彼女が住んでいた星は戦争ばかりで、ほとんどの人間が剣を嗜んでおりました。誰も彼女と遊んでくれるような余裕などありませんで、仕方なく、剣を用いた遊びを覚えるようになったのです。彼女にとって、剣は、切実な意味で、遊びの道具なのです」


 スウィジンはしみじみと言う。


「――彼女は何があろうと勝ちますぞ。その為に下級市民の方々をここまで呼びつけたのでしょう。応援されればされるほど、ロレイン嬢は強くなります」


 エリアスは首を傾げた。


「応援されればされるほど強くなる……?」


「はい。というか、応援は彼女の原動力なのですよ」


 エリアスは再び対峙するロレインとイジドアを見詰めた。

 イジドアの様子がおかしい。

 何とか剣を拾い上げたが、まともに直立できていない。

 大きく息をつき、苦しそうだ。


「俺は……、自由だ……。誰よりも、揺るぎなく、自由だ……」


 ロレインは首を傾げてイジドアを見ている。 

 かの狂剣士は不安げに少女を睨んだ。

 そしてはっとする。


「――お前の瞳! あの星と一緒だ! お前も俺の生を否定するのか?」


「ひてーなんかしないよ! だいじょぶ、おにいさんもあたしのともだちになるから!」


 ロレインは朗々と言い、高らかに笑った。

 イジドアは獣じみた叫び声を上げた。


 エリアスは二人の剣士が激突するのを見て驚いた。

 先ほどまではイジドアがロレインの動きを上回って全く相手にならなかったのに、今度は力任せにぶつかっているだけだ。

 剣と剣がぶつかり、大きな金属音が鳴り響く。


 そのときエリアスは奇妙なものを見た。

 ロレインと彼女の大剣を取り巻く風に、急に色が付いたように感じた。

 はっきりと見える色ではなく、そこにあるかもしれないとうっすらと思えるような、錯覚にも似た曖昧な認識。


「見えましたか」


 スウィジンはふふふと笑った。


「――彼女は他人の力を借りて剣を振るっている。ようく見てみなさい」


 エリアスは青い風が何らかの形を伴っているのに気付いた。

 手。

 人間の手。

 大きな手に小さな手。

 ごつごつした手に華奢な手。

 白い手に黒い手。

 爪が長かったり欠けていたり。

 肉付きが良かったり染みがあったり。

 驚いたことに猫のように毛がふさふさの手や、指が七本もある手もある。

 様々な手がロレインと大剣を支えている。


 イジドアとまともにぶつかっても押し負けないのは、その手がロレインの代わりに全ての荒事を引き受けているからだった。

 ときどきイジドアの剣が飛んできても怪我をしないのは、幾重にも重なった手が緩衝材となって代わりに血を流してくれるからだった。

 飛び散った手はすぐに再生してロレインを守りに戻る。


 エリアスは驚嘆した。

 スウィジンが支えてくれなかったら卒倒していたかもしれない。


「大丈夫ですかな、エリアスさん? 今までもあの青い手はロレイン嬢を取り巻いていたのですが、普通の人には見えないのです。どうやらあなたはこの道の素養があるらしい。どうです、拙僧の弟子になりません?」


「いったい……。これは……。それに、人間以外の手があるような」


「ああ、あれは異星の住民の手です。ほら」


 スウィジンは空を指差す。

 明らかに蒼穹に浮かぶ青い星を示していた。


「あの星に、人間が住んでいるのか……? 馬鹿な」


「数億の人間が住んでいますよ。そしてその全ての住民がロレイン嬢の応援者となることを承諾したのです。彼女は彼らを『ともだち』と呼んでいますが、まあ奉仕者ですな。奴隷を自称するほど彼女に心酔している者もおります。さすがに距離が開き過ぎて応援の力が弱まっていますが、ほら、新規の応援団が出来ましたからな」


 柵を乗り越えんばかりの情熱でロレインを応援する下級市民たち。

 数百人はいる。

 エリアスは彼らがうっすらと青い光を放散しているのを見た。

 その光がロレインを支える力となっているのか。


 ああ、そうか。

 エリアスは理解した。

 あの空に浮かぶ星が青いのは……。

 青空よりも透徹した青い輝きを放つのは……。

 そういう理由だったのか。


「空が青いのは俺が自由であることの証拠だ! 空は俺のものだ! 太陽を斬って許されるのは俺だけだ!」


 イジドアが喚いている。

 スウィジンは笑いを噛み殺している。


「あの剣客も気付いたようですな。空の上で何を見たのか知りませんが、青空は誰にも等しく分け与えられるべきもの。それに対し、あの空の上で輝く小さな星は、ロレイン嬢の為に輝いているのです。イジドアがどれほど多くの空の青を受け止められるのか知りませんが、どちらがより多くの祝福を得られるか、明らかです。何せ、言い方が大仰になりますが、ロレイン嬢は神のような存在なのです。一つの星の全ての住民の信仰を集めた存在なのです。さしずめ、わしは『リヴィア教』の教皇ということになるのでしょうかな」


 エリアスは思わず笑った。

 あの小さな子供が神?

 じゃあ、あの青い星からこの世界に舞い降りてきたのは、布教活動の為だったということか。

 何と滑稽で壮大な話だろう。


「実を言いますと、拙僧、数百年も前に死んでいるのです」


 スウィジンが告白する。

 エリアスはその砂しか詰まっていないであろう躰を一瞥した。


「お前、幽霊か何かなのか」


「本来はそうであるのです。ですが、わしがロレイン嬢を好きになる前に死んでしまったので、彼女はわしに命を吹き与えたのです。拙僧はその恩義に応える為に、彼女の為に尽くしているわけで。彼女の望みは『ともだち』を増やすことですから、わしはその為に奔走しているのです。ロレイン嬢とハウエルさんは良い友達になれそうでしたので、できれば彼を死なせたくはなかったのですが。彼が死ねば多くのバトムレスの住民が殉じるのは目に見えていましたしな」


「……ふん、なるほど、人を死なせたら友達にできる数が減るからな。布教規模が縮小するってわけか」


「もちろん、ロレイン嬢は、単純に、たくさん友達を作りたいだけなのですがね。彼女は数百年以上もずっとあんな感じですよ」


 スウィジンは目を細めた。

 一つの星の征服者に向けられた眼差しにしては、穏やかで優しげな光を湛え過ぎていた。


 ロレインが大剣を振り回した。

 イジドアの躰が吹き飛び、背中から地面に叩きつけられた。

 冷静であったなら容易く受け流せただろうに、今は動転している。

 力任せに粉砕しようと躍起になっている。

 もはやロレインの敵ではなかった。


 万雷の歓声を浴びたロレインは素早くイジドアに詰め寄った。

 さすがにイジドアは立ち上がり迎撃の体勢を整えたが。

 ふわりとロレインの躰が浮き上がる。

 イジドアが羨望の眼差しでその姿を捉えた。

 自身も空に浮かぼうと踵を浮かすが。 

 その躰は重過ぎる。

 イジドアの眼に生気が漲った。

 いや殺気か。

 空を飛ぶ者への憎悪が、再び彼を狂剣士として奮い立たせようとしているのか。

 凄まじい勢いでイジドアの黒い剣が突き上げられる。

 振り下ろされたロレインの大剣と搗ち合う。

 鈍い音。

 紫電。

 砕ける。

 幾千の人の血を吸ってきた禍々しき魔剣が、細かい鉄粉を飛散させながら、砕け散る。

 イジドアの顔面を破片が襲い、彼は呻いた。

 その両眼が潰され、鮮血が迸る。

 そのまま背中から地面に倒れ込み、遅れて、ぱらぱらと鉄剣の破片が地面に落ちる音が続いた。

 顔面を押さえたイジドアは、破片を取り除くと、ゆっくりと、瞼を開いた。

 血が混じった彼の瞳は、不思議なことに、綺麗な青を湛えていた。


 水色――違う。

 空色――違う。

 星色――ロレインの髪と同じ色。


 この場にいる多くの応援者が纏う生気と同じ色。

 イジドアは空を仰いで笑っていた。

 そして突然、気絶する。

 彼の魔剣が、枯れ果てたかのように、半身を砕かれ、練兵場の地面に突き刺さっている。

 もはやその剣に脅威を感じる者など一人もいなかった。

 司教陣営が騒然としている。

 売春婦たちがノエルをも巻き込んで跳び上がっている。


「勝った! 勝った! ロレインが勝った!」


「おれたちの勝ちだ! 決闘裁判が何だ!」


「おれたちにはロレインがいるぞー!」


 誰が打ち上げたか、大量の紙吹雪が舞った。

 その白い紙片を払いながら、エリアスはノエルの傍まで走った。

 毅然とロレインの戦いを見届けていたメーベルが、また頬を濡らしている。

 ノエルの手を掴んで、何度も良かった良かったと声を漏らしている。


「おかあさん、おとうさん、かったよ! あたし、かったよ!」


 ロレインが満面の笑みで手を振る。

 その背後で司教がぎらついた視線を送っていた。

 側近たち、傍で様子を見ていた麻薬取締局の荒くれどもが、俄かに殺気を帯びる。

 しかしその動きを牽制したのは下級市民たちであった。

 好き勝手に練兵場を横断し、ロレインを生身の躰で死守してやると息巻く。

 あっという間にロレインの周りが人で埋まった。

 司教が叫ぶ。


「再審理だ! 即日再審理だ! イジドアはまだ生きている! もう一度戦わせろ! そしてリヴィアの所有権を聖教が買い取る! 決闘裁判は何度でも……」


 そこで市長に扮するスウィジンが進み出た。

 都市政府側の側近たちはどこかビクビクしているように見える。

 威風堂々の市長に縋り付いた秘書が慄いている。


「司教猊下。私も戦士リヴィアの放出には吝かではないのですが、きちんと相談してもらわないと……」


 司教の顔が邪悪に満ちる。


「貴様の口車に敢えて乗ってやろう。金は惜しまん。言い値でいいから……」


「金など結構ですよ。猊下に譲るつもりはありませんからな。リヴィア……、いえ、戦士ロレインは、たった今バトムレスの首魁エリアス殿に買い取って頂くことになりました」


 司教の顔が忿恚と当惑に染まる。


「それはいったいどういう意味……」


 エリアスは即座に諒解し、澄ました顔で進み出た。


「そのままの意味だよ、この淫猥司教。ぼくたちバトムレスの市民は都市政府との協力姿勢を取ることになった。ハウエル様の遺言だし、これはぼくの意思でもある」


 司教は何か言いたげに口を開閉したが、とうとう黙った。

 そして顔を赤黒くしたまま怒りのあまりふらついた。

 ハイエイタス司祭長に支えられ、情けない退場となった。


「――これでいいのか?」


 エリアスが問うと、スウィジンは不敵に笑った。


「あなたが第二のハウエルとなるのです。きっとハウエルさんもそれを望んでいたはず」


 エリアスは天を仰いだ。

 諦念にも似た決意が滲み出てくる。


「メーベルにも言われたけどね。ま、やるならぼくしかいないだろうな。死んでしまった多くの同志の為にも、やるしかないか」


 エリアスの決意がやっと固まった頃、ロレインは多くの人に揉みくちゃにされて歓喜の輪の中心にいた。

 メーベルは何度もロレインとノエルを引き合わせようとしたが、ノエル自身まともに歩けない上、ロレインを抱き締めたいと熱望する多くの市民が邪魔になり、なかなか達成できずにいた。


「ちょ、誰、どさくさに紛れて変なとこ触ったの? 金払いなさいよ、金ぇ!」


 ユニスが喚いている。

 メーベルは彼女と二人で、一旦ノエルを歓喜の輪から遠ざけることにした。

 昂奮した人々に踏みつけられて死んでしまったら、決闘で勝った意味がない。


 メーベルがやきもきしているとき、突然、全ての下級市民がふわりと浮き上がった。

 誰も彼も空に浮かび、虚しく手足を振り回している。

 たった一人浮かび上がっていない人物がいた。

 ロレインだ。

 星色の髪を振り乱して駆けてくる。


「おかあさん! おとうさん! ひさしぶり、だねー!」


 メーベルは腕を大きく広げて娘を出迎えた。

 きつく抱き締めたときに感じた幸せを、メーベルは一生忘れないと確信した。

 涙がまだ零れ出る。

 水を吸ったロレインの髪は鮮やかに輝く。

 生命の躍動が迸る。

 なるほど、ロレインは生命そのものだ。生命の塊なのだ。

 人間にとっては水が生命の源だ。

 私にとってはロレインが命の源泉だ。

 この子を愛し続けると誓った。

 その滑らかな髪をさする。

 もう離さないと心の中で叫んだ。

 ふと、ノエルのことが気がかりになった。

 ロレインを断腸の思いで引き剥がし、この親切な夫を見る。

 紫の瞳が僅かに揺れていた。


 途端に悲愴な想いが溢れ出る。

 ノエルはけしてロレインを抱き締めることができない。

 この可愛い娘を抱き留め、その愛を感じることはできない……。

 ロレインは無邪気な顔で椅子に腰掛けるノエルに触れた。


「ね、おとうさん。おとうさんもあたしをだきしめて?」


 しばらく反応はなかった。

 事態を見守っていたユニスが辛そうに首を横に振った。

 だが、遠くから見つめていたエリアスには、ロレインから青い輝きが迸り、ノエルを包み込むのが見えた。

 みるみる輝きは増して彼が纏っていた紫色の邪気を押し潰していく。

 そしてその瞳がぐるりと一回転し、漸く、光を宿した。

 乾いた唇がゆっくりと動く。


「ろ……、ロレ、イン……?」


 少女は笑う。

 髪が発光して透徹し、血の繋がっていない父親を優しく撫でた。


「おはよう、おとうさん!」


 ノエルは微笑した。

 ゆっくりと娘の頬を撫でて、一字一句、丁寧に発音していく。


「おはよう……。ロレイン……。私の……、女神……」


 メーベルは二人を抱き締めた。

 これからノエルやロレインにどれだけの苦難が襲い掛かろうと、この三人がいる限り幸せであり続けるのだと、彼女は知っていた。


 空の青い星は不磨なる愛の証。

 地上に降り立った幼い女神は愛の架け橋。

 そこに言葉なく、理屈なく、大義なくとも。

 笑顔さえあれば彼女は満足だ。

 笑顔に満ち溢れた練兵場で、ひときわ輝く笑顔を見せた三人だった。


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