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星髪の少女  作者: 軌条
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イジドアの狂気


 移動都市グリーン・シェイドは、紅狐大陸東部の覇権を握る一大遊牧都市である。

 岩石を主食とする〈鉄貶牛〉を主な家畜とする。

 その体高は普通の野牛の数倍はあり、気性も荒い。

 毎年数百人の人間を襲って食らってしまう。

 だが〈鉄貶牛〉の糞には多量の鉄分が含まれ、グリーン・シェイドの主な産業となっている。

 彼らは家畜を囲う防壁を移動させながら、牛の餌となる上質な岩石を求めている。

 自然を破壊することも厭わない。

 時には他国を侵略さえする。

 グリーン・シェイドが、かつて隆盛を誇った岩窟都市インタレイスド・クラッグの住民を奴隷として扱き使っているという話は、あまりに有名である。

 上質な鉄を生み出す牛は世界各地から商人を呼び込む。

 都市は絶えず移動しているというのに、無数の人間と家屋と商売を迎え入れ、様々な営みが行われていた。


 イジドアも奴隷であった。

 獰猛な〈鉄貶牛〉の世話をする過酷な仕事に従事していた。

 人間さえも踏み潰してしまう巨大な牛は、多くの奴隷を貪り食った。

 岩石を主食とする彼らが人間を美味そうに食らう理由は明らかではなかった。

 イジドアも死を覚悟していたが、偶然牛糞から極度に凝り固まった鉄片が見つかった。

 彼はそれを削磨し、鋭利な刃物に仕立てた。

 奴隷の監督者を殺し、脱走した。

 だが移動都市を離れることはなく、その腕前を見込んだ商人の用心棒として働くことになった。


「俺はこの都市と気性が合う」


 イジドアは我流の剣士だったが、その得物は、例の無骨な鉄片であった。

 その切れ味や凄まじく、柄と刃の区別もないその剣は、いつしか黒く染まっていった。

 彼に名声を与えたのは、所属不明の侵略軍からグリーン・シェイドの至宝とでも言うべき〈鉄貶牛〉を守り通した、一連の戦いであろう。

 彼は一夜にして、移動都市に侵入した戦士を百人斬ったと伝えられる。

 かの凶暴な〈鉄貶牛〉でさえも、イジドアにはけして襲いかからなかったとされる。

 彼は天性の魔を秘める剣客であり、その威容に動物たちは怯えてやまなかったのだ。


 評判は山野を越え、海を越えた。

 有能な戦士を求めていたファジー・デツの聖教組織に幾度も声をかけられたが、突っぱねた。

 彼はグリーン・シェイドの退廃的な雰囲気が好きだった。

 自分が死んでも墓を作られることもなく、死体は〈鉄貶牛〉の餌となるだろう。

 あるいは荒野に打ち捨てられるだろう。

 その無頓着さが良かった。

 イジドアは死後、自らの肉体が祀られ、何らかの注目を浴びるということを恐怖していた。

 自分の意志が働かぬ場所で自分が扱われる。

 これほどの恥辱はない。

 彼にとってグリーン・シェイドは、自らの死の尊厳を守ってくれる、格好の揺り籠であり墓場であった。


 幾度か聖教の使者を追い払った。

 あるとき、あまりに鬱陶しいので殺すことにした。

 だが使者は逃げ足が速く、都市の外に出た。

 イジドアはそれを追った。

 砂塵と枯れそうな低木以外に何もない荒野で、イジドアは使者に追いつき、その胸を剣で抉った。

 使者が息絶えたのに満足して空を仰いだとき、彼は見てしまった。

 空を飛ぶ影を。

 青い空に、より淡い青の影を残して、飛び去る二人の人間を。

 自由だった。

 その影は、自由に空を舞っていた。

 イジドアの中で初めて、敗北感がよぎる。

 自分こそが世界で最も自由な人生を謳歌すると思っていたのに。

 空を飛べる人間がいるのか。

 イジドアは、迷うことなく、その影を追った。

 山野を越え、海を越え、影が彼方に消えてしまった後でも、あてのない旅を続けた。

 聖教組織の人間に発見されることがなければ、行き倒れていたかもしれない。

 イジドアはふと、ファジー・デツの空が、グリーン・シェイドの空よりも澄み渡っていることに気付いた。

 恐らく、この空のほうが、飛び易いだろう。

 イジドアは決闘裁判なる前時代的な営みが行われる都市に逗留することにした。


 そしてリヴィアと出会った。

 衝撃的だった。あの水色の髪。まるで空の色だ。

 彼女なら、空を飛ぶ方法を知っているかもしれない。

 あの無限の海を。恒久の自由を。


「俺は信じている。いつかあの子供が、俺に答えを教えてくれる」


 空は待っている。真の自由に目覚めた人間が、その躰をどこまでも深い青に委ね、解放の喜びと共に世界を舞うことを。




     *




 ファジー・デツ司教カラム=ベタニー=ビリーフは、馬車から降りるなり、興奮のあまり大声を上げていた。


「イジドアを呼べ!」


 これに慌てたのは、保護役を任じられた司祭たちである。

 イジドアを大聖堂に封じ込めておくつもりだったが、彼は監視していた神官を半殺しにして外に出て行ってしまった。

 司教はさっさと最高教務室に引っ込んでしまう。

 司祭たちがイジドアを捜索しようと顔を見合わせたとき、当のイジドアが、悠然と現れた。

 まだ年若いくせに、錆びたような髪をしている。

 体も均整が取れているとは言えず、不自然な角度で手首を返し、抜き身で晒している鉄剣を指二本でつまみ持っていた。


「人間は空を飛べると思うか」


 司祭たちは幾度も投げかけられる質問に辟易しつつ、大聖堂へと促した。

 血にまみれた神官服の上に、上着をかぶせる。


「司教猊下がお呼びです。お目通り願います」


「剣は手放さんぞ」


「構いません」


 司祭に囲まれて移動したイジドアは、大聖堂の教務室を幾つも潜り抜けて、最奥にある司教の部屋に辿り着いた。

 司教は革張りの安楽椅子に凭れ、聖教典の赤表紙を撫でていた。

 イジドアの濁った青い瞳を見るなり、口髭を引っ張り立ち上がる。


「ハウエルに勝てるか」


 いきなりの質問だった。

 司祭たちが、もちろんでございます、と卑屈に言うが、


「貴様らには聞いていない」


 と、一蹴されてしまった。

 イジドアは懐に剣を仕舞い込み、装飾過多と思われる天井や内壁をじろじろ見ながら、


「空を飛んでみたいんだが、方法を知らないか」


 と、質問した。

 司教は肩を竦めた。


「噂通り、自己中心的な男だ。空を飛ぶ方法などない。もしあったら、国家が軍事的に利用しているだろう」


「それもそうだな。権力者に尋ねても無意味か」


 イジドアはゆっくりと頷き、面白そうに唇を歪めた。

 司教は嘆息する。


「それで、貴様はハウエルに勝てるのか」


「勝てる。殺せば、勝ちなんだろう? 確実に勝てる」


 司教は安堵したように椅子に腰掛け直した。


「その言葉が聞きたかったのだ。都市政府が自信をもって送り出してきた、リヴィアという子供――怪物じみた剛腕と動きであった。ハウエルはそれをも上回った。あれに勝てる人間はいないのではないかと心配していたところだ」


「リヴィア――空色の髪の女か」


 イジドアの不躾な口調に司祭たちは肝を冷やした。

 司教はさして気にも留めずに頷く。


「そうだ。貴様、あの子供には興味があるのだな」


「リヴィアが負けたのか」


 イジドアは淡々と、しかし同時に失望を滲ませながら言った。

 司祭たちにとっては驚きだった。

 イジドアが人間じみた感情を垣間見せるなどと。

 司教は肘掛けに体重を預ける。


「見事な戦いぶりであったが、一歩足りなかったな。死は免れたようだが」


「なるほど。降伏したのか。確か、世話役の神官がいたな。あいつの専断か」


 確かにそうだった。

 司祭たちはイジドアがけして愚かな男ではないことに薄々感づいていた。

 知性はある、だが、あえてそれを駆使せずに行動しているように見える。


「勇断だよ。有能な戦士を失わずに済んだ。私はあの少女を気に入った。今後も決闘代理人として活躍してもらいたい」


「それがいいだろう」


 珍しくイジドアがまともな返答をした。

 司教が片眉を持ち上げる。


「貴様も、リヴィアを気に入っているようだな。小児愛好者か? 特別に司教直々に許可してもいいぞ」


 おぞましき話題に突入したことに、一部の司祭は部屋の隅で顔を青くした。

 そもそもリヴィアは都市政府の所有物だ。

 司教の一存でどうにかできるものではなかったが、イジドアは平然としていた。


「ここでは小児愛は罪なのか。グリーン・シェイドでは一般的な嗜みだった。美しい子どもの奴隷は、男女問わず、大切に扱われた」


 イジドアはちらりと部屋の出口を見やる。


「――だが、あの女は戦士として使うのが良い。話はそれだけか? 俺はそろそろ昼寝の時間なんだが」


「ああ。構わん。行け」


 イジドアが上着を剥ぎ取り、血まみれの神官服を露にすると、司教は顔を顰めた。

 イジドアが退室すると、近くの司祭に尋ねる。


「奴はまた人を殺したのか」


「いえ。重症ですが息はあります。二人やられましたので、監視員を補充しませんと」


「ハウエルの決闘裁判が終結するまでは、信頼できる者だけを登用するようにしろ。密偵が神聖なる組織の中をうろつき回るのは我慢ならない」


「はい」


 司祭は返事をしつつも、ハウエル一派の密偵が既にイジドアを捕捉していることに気づいていた。

 そもそもイジドアはかなりの名声を持った男だ。

 ならず者が幅を利かせるグリーン・シェイドで長年生き残るだけでも凄まじいのに、何の権力も持たない彼が移動都市のあらゆる組織から恐れられていたのである。

 どれほどの実力か分かるというものだ。

 そんな目立つ男をいつまでも隠し通せるわけがない。

 イジドア自身に協力の意思が皆無とあればなおさらである。

 しかもハウエルの配下には優秀な人材が揃っているようだ。

 司祭たちは連れ立って退室し、ノエル一人で管理が出来ているリヴィアを羨ましく思った。

 あちらの担当になっていれば、手間は少なく済んだだろう。


「これもあと数日の辛抱だ。決闘裁判が行われれば、ハウエルは死に、バトムレスの背徳者は一掃される。聖教の威信を懸けた長き戦いは終焉を迎える」


 一同は頷き合い、大聖堂の絢爛豪華な回廊を足早に通り過ぎて行った。




     *




 一切の手続きが終わったのは、決闘裁判が行われた翌日の深夜だった。

 麻薬取締局は再審理請求を諦めたので、アビーの勝訴が決定された。

 ノエルは眠りに就いたロレインを背負いながら、様々な書類に目を通し、裁判所員といつ終わるのか知れぬ手続きをしなければならなかった。

 帰宅前に、オーグジリアリ・ハンド教会に立ち寄った。

 司祭長も決闘場にいたようだ。


「惜しい戦いでした。しかし、司教猊下は今後もリヴィアを決闘代理人として重用するお考えのようです」


「本当ですか。世話は、引き続き私が……?」


「まだハウエルの決闘裁判が終わっていません。それまでは従来通りでしょう。その後のことは、何とも言えません」


「分かりました。ありがとうございます」


 深夜になっても教会に詰めている司祭長に感銘を受けつつも、ノエルは帰宅した。

 家では美しくも優しいメーベルが待ってくれているはずである。

 家には灯りが点いていた。

 炎があると、ロレインの気分が悪くなってしまう。

 ノエルは家の前で咳払いした。

 灯りが消え、戸口が開いた。

 闇の中で何も見えなかったが、メーベルのほっそりとした手に導かれ、ノエルは居間に入った。


「負けてしまったんですってね」


 メーベルが言う。

 ノエルはロレインを寝台に寝かせながら頷いた。


「ええ。ですが、ロレインは無事です。何とか命はあって――」


「無事ですって。ご冗談でしょう?」


 メーベルがいきなり大声を出した。

 ロレインの寝息が途絶えた。

 ノエルは困惑し、闇の奥にあるであろう彼女の美しい顔を探した。


「無事ですよ。ついさっきも、互いに笑い合っていたほどです。全く体に異常なし」


「頭に怪我をしたと聞きましたよ。もし痕になったらどうするんです。可愛らしい貌が台なしじゃないですか」


「大丈夫です。一応医者に診せましたが、痕には残らないと」


「藪医者とは言いませんが、本当にその医者はロレインの躰を理解しているのですか」


 メーベルが間近で怒鳴っている。

 ノエルは何とも答えられなかった。

 疲弊していたし、実際医者の見立てなど無意味だった。

 ロレインは普通の子供とは違うのだ。

 ノエルは椅子を探して腰掛けた。眠気が襲っていた。


「ロレインの頭を探ってください」


「え?」


「あなたの心配は杞憂に過ぎません」


 既にロレインの頭の傷は完治していた。跡形もない。

 メーベルはそれを確認した。

 機嫌が直るかと思いきや、


「心配です」


 と、全く予想とは正反対の反応をした。


「いったい、何が心配なんです。ちょっとやそっとの傷じゃあ、ロレインは倒れないってことです。喜ばしいことじゃないですか」


「こんな子供なんですよ? また決闘に駆り出されることがあるかもしれない」


「それがロレインの役目ですよ、メーベルさん。ロレインもそれを望んでいます」


「ノエル様は、心配じゃないんですか」


「『様』はやめてくださいって言ってるじゃないですか……」


 ノエルは口論に発展してしまうことが嫌だった。

 しかしメーベルは臆さない。


「話をすり替えないでください。あなたはロレインの父親も同然じゃないですか」


「……そうかもしれません。喜ばしいことです。ですが、ロレインは今後も、都市政府と聖教組織お付きの決闘代理人として活躍することになりますよ。まあ、今回の決闘裁判の結果を見て、都市政府は契約を打ち切る可能性もあるようですが」


「聖教は?」


「司教猊下はロレインを戦士として気に入ったようです。今後も、私やメーベルさんと一緒に暮らせるかもしれません」


 これで引き下がってくれないか。

 決闘代理人としてのロレインとしか、ノエルたちは暮らせないのだ。

 そもそも、この住居は聖教が確保したものである。

 ロレインが去るとき、メーベルもここにはいられない。

 しかし、純真な女であるメーベルは引き下がらなかった。


「そんなことより、ロレインが無事でいられることのほうが重要です。こんな子供を、女の子を、戦士として消費する世界は、間違っています」


「私にどうしろって言うんですか……」


 ノエルは途方に暮れた。

 これが母性というやつだろうか、メーベルはロレインのこととなると発狂寸前まで昂ぶる。

 もちろんノエルだってロレインを大事に思っている。

 だが、それぞれ人間には立場がある。

 ノエルはロレインを世話し、決闘裁判に備えることが役割だ。

 ロレインは決闘に挑み勝利することが役割。

 メーベルは……。

 ノエルは目の前に立つ女を見据えようとした。

 闇が邪魔をしている。


「隣の部屋で話をしましょう」


 ちゃんと顔を見て話をしたかった。

 メーベルは無言だったが、了承する気配があった。

 しかしそのとき。

 闇に青白い光が刺さった。

 ふと見ると、ロレインの髪が発光している。


「ケンカしないで」


 メーベルが寝台に横たわりながら、うっすらと瞼を開けている。

 意外なほど近くに立っていたノエルとメーベルは顔を見合わせ、互いの表情が間抜けに見えたことで、思わず笑ってしまった。

「ケンカなんかしないよ」


 ノエルは言った。

 メーベルも、和やかな表情で頷く。


「お母さんとお父さんは、隣の部屋でものすごーく仲良くしてますから。心配しないでいいんですよ、ロレイン」


「うん!」


 ロレインは嬉しそうに頷き、瞼を閉じた。

 すぐに寝息が聞こえてくる。

 髪の発光も薄れていった。

 二人はそそくさと隣室に移動し、蝋燭も灯さずに同じ寝台に倒れ込んだ。


「明日話せばいいじゃないですか。ロレインを交えればケンカにもならないでしょうし」


 ノエルの提案に、メーベルは唇を押し付けることで返事をした。


「――メーベルさん。私も、怖かったんです。一瞬、ロレインが死んじゃったんじゃないかって思ったんです。そのときの気持ちと言ったら……。私はもう、決めました。絶対にロレインを失いたくない」


「ノエル様。いえ、ノエルさん。あなたなりに、考えていることが?」


「ええ。今は静観してください。今はまだ、ロレインが決闘代理人でも、実際に戦うことはありませんから」


「信じてよろしいんですね?」


「はい。私が、あの子を危ない目には遭わせません」


 ノエルの気持ちに嘘はなかった。

 だが、ロレインが相当な実力者であることが分かり、決闘裁判に参加しても危険は少ないと判明したことは収穫だった。

 要はハウエルのような実力者と当たらないようにすれば良い。

 しかしメーベルは、決闘裁判への参加そのものを危険視していたのだった。

 もちろんノエルもそれには気付いていたが、じっくり話し合いをすれば、十分埋められる溝だと思っていた。




「ねえ、おとうさん」


 翌朝、ノエルはロレインの声で起床した。

 裸でメーベルと隣り合っている現場を少女に見られた。

 ひどく動揺したが、ロレインはにっこりと笑んでいる。

 全く気にしていないようだった。


「お客さんだよ」


「客? 誰……」


 言いかけたところで、ひょっこり顔を出した貴婦人がいた。

 見慣れない顔だ。

 金色の頭髪を後ろで束ね、うっすらと化粧している。

 翠の婦人服の裾にはきらびやかなひだが付けられ、華奢な体躯によく似合っている。

 濡れた唇は肉感たっぷりだった。

 ノエルは慌てた。

 床に投げ捨てられている衣服をかき集める。


「どちら様ですか、ちょっと今、取り込んでまして」


 貴婦人は少しも驚いた様子を見せず、ロレインを連れて隣の部屋に消えた。

 少女のはしゃいだ声からして、知り合いかもしれない。

 メーベルが漸く瞼を開けた。


「……騒がしいですね……。何か、ありました?」


「お客さんです。服を着て」


 メーベルの表情が一変した。


「まさか、聖教組織の方ですか? 私がここにいたら、まずいのでは……」


「私の知っている人物ではありませんでした。女性です」


 むしろ、メーベルの知り合いではないか。

 ノエルは思ったが、神官服をおざなりに着て急行した。

 隣の部屋で、金色の髪の貴婦人はロレインと手を繋いで遊んでいた。

 互いの手を振り回し合いながら転げ回るという、無意味な遊びだ。

 見た目に反してやんちゃな女性のようだ。

 ノエルは咳払いした。


「失礼ですが、どなた様ですか……。面識はないと思われるのですが」


「面識はないだろうな」


 貴婦人はぞんざいに言った。

 不敵な笑みを浮かべる。

 ノエルは驚愕していた。ある事実に気付いたからだ。


「その声……。男……?」


 貴婦人は溜め息をついた。


「つい最近までは、会話をしても見破られることはなかったんだけどね。ぼくもついに声変わりを迎えちゃったからな。いっそのこと幼いときにちょんぎれば良かったかもな」


 貴婦人はかつらを取って正体を明かした。

 金色の巻き毛がふわりと現れ出でる。

 かつらを取っても、女性にしか見えなかった。

 しかし明らかに、声は男である。


「――ぼくの名前はエリアス。ハウエル様の腹心であり恋人だ。今日は伝言を預かってきている」


 ノエルは驚きのあまり仰け反った。

 ハウエルの使い。敵ではないか。

 ロレインはエリアス少年に纏わりついている。

 少年は面倒そうに応じる。


「先日の決闘裁判に、ぼくも同席していたんだけどね。覚えてない?」


 人が多過ぎて、他人の顔などいちいち確認していない。

 しかも目の前の少年は化粧をしている。

 言われても全く分からなかった。

 エリアスは肩を竦めて首を縮込ませた。


「――ま、いっか。伝言を言うよ。リヴィアをバトムレスの決闘代理人として迎えたい」


 ノエルは言葉を失った。

 遅れて部屋に入ったメーベルも、その言葉に唖然とした。


「……何ですって?」


「ハウエル様はリヴィアを気に入ったようでね。是非にとのことだ。まあ、イジドア戦には間に合わないけれど、今後は自分の代わりに、決闘裁判商法の核になって欲しいと」


 決闘裁判商法とは、有能な決闘代理人を組織的に貸し出すことで利益を売る商法のことであろう。

 ハウエルが既に実践している。

 ノエルは驚きから回復すると、猛然と反発した。


「そんなことが可能なはずがない。ロレインは都市政府に雇われている。聖教の管理下にもある。バトムレスに味方することはありえない」


「ぼくもそう言ったんだけどね。ハウエル様はリヴィアにゾッコン惚れちゃったんだ」


 エリアスは口笛を吹いた。

 状況を憂えるような低音の旋律だった。


「――ただ、ハウエル様は何かを知っているようだった。悟っている、と言ったほうがいいかな。いざというときこの申し出を思い出してくれれば、役に立てるかもしれないよ」


「敵だろう。私ときみたちは」


「組織としてはね。ノエル、だったよね。ぼくはあんたとそこの女が初めて結ばれた夜のことを知っている。背徳の神官だ。あんたこそ、聖教組織に身を置いていられるのかい」


「な、何を……」


「組織から頂戴した住居を私物化している上に、夜な夜な女とまぐわっている。破門されても文句は言えないね」


「脅してるつもりか」


 ノエルは震えていた。


「いや。別に。他にも背徳神官には心当たりがあるし、どうこうするつもりはないさ。ただ、覚えておくがいい。組織はあんたをいつでも切り捨てられる」


 エリアスは欠伸をした。


「――という伝言だよ。ぼくにはどうだっていい。ハウエル様の決めたことには従う。それだけだから」


 エリアスは家を出ようと部屋を横切った。

 ノエルはその細腕を掴んで引き留めた。


「待ってくれ。どうやってこの家を突き止めた」


「有能な密偵を揃えておりまーす」


 エリアスはにやりと笑い、躰を回転させた。

 気づけば、ノエルは床の上に尻餅をついていた。

 ロレインが駆け寄る。


「だいじょぶ、おとうさん?」


「あ、ああ……」


 エリアスはロレインに、片目をつむってみせた。


「ロイドがよろしくって言ってたよ。じゃね」


 かつらをかぶり直したエリアスはさっさと外に行ってしまった。

 ノエルはロレインに起こして貰い、もはやこの家は安全ではないことを知った。

 メーベルが口元に指を当てて考え込んでいる。


「今のは、脅しですか……」


 ノエルは呟いた。

 メーベルは頷かない。


「ハウエルさんは、そんなことをする人ではありませんよ。珍しい……。あの人が女性を頼るなんて」


「女性。ロレインのことですか」


「ええ。ロレインは子供ですが、女性には違いありません。ハウエルさんは、けして女性の力を借りないことで有名なんです」


 ノエルはその点に関しては、さして気にならなかった。

 ロレインの住居がばれているので暗殺者が送り込まれるかもしれない。

 そういう懸念が大きかった。

 しかしメーベルはハウエルを信頼しているようだった。

 もしかすると、同じ下級市民だった身として、ハウエルに陶酔する部分が、彼女にもあったのかもしれない。

 ハウエルがロレインに暗殺者を送り込むとは思っていないのだろう。


「――胸騒ぎがします。ハウエルさん、死ぬ気なのかもしれない……」


「えっ?」


 イジドアがハウエルに勝てばそうなる。

 実際そうなるだろう。

 所詮は一都市の王者に過ぎないハウエルより、世界的に有名なイジドアのほうが優れた戦士である可能性が高い。

 メーベルはハウエルの死を望んでいないのか。

 ハウエルが死ねば、ロレインは当面、強敵と戦うことはなくなるのだ。

 ロレインの保護者としてはそれが望むべき展開だ。

 ノエルは数日後に迫ったハウエルとイジドアの決闘を想った。

 司祭長に願い出て観戦に出向こうか。

 今度の決闘は広く市民に公開されるはずだ。

 決闘後バトムレスを決定的に叩くには、ハウエルが敗訴する様子を民衆に見せつけなければならない。

 ロレインとの決闘が公には秘匿されたのは、ロレインが絶対に勝つという確信がなかったからだろう。

 実際勝てなかったのだ。自分が降参しなければ、戦いがどうなっていたのか。

 ロレインはあのまま、首を絞められて死んでいただろうか。

 それとも反撃し、ハウエルに勝利した英雄として称えられただろうか。


 どちらでもいい。ノエルは思う。

 結果としてロレインは死ななかった。

 それで十分じゃないか……。


「一緒に見に行きませんか。決闘を」


「……ええ」


 メーベルは少し躊躇った後、頷いた。

 ロレインは二人の大人が相手してくれないので、自分の髪の毛とじゃれて遊んでいた。




     *




 黄狸の月の第一三日。正午前。

 ハウエルとイジドアの決闘が行われることになった。

 今度の舞台は郊外ではなく、教区内の中央広場である。

 大きな衝立を何枚も並べ、即席の決闘場を造り上げる。

 観戦自由。それにも関わらず、広場に集まった市民は少なかった。

 さしあたり決闘観戦以外にまともな娯楽がない市民たちであるのに、異常事態であった。

 イジドアは神官服ではなく、質素な麻の擦り切れた衣服を着ていた。

 賑わうことのない広場に首を傾げてみせる。


「グリーン・シェイドでは、ケンカとなれば、野次馬が湧いて出たものだが。ここの市民は流血騒ぎが嫌いなのか」


 お付きの司祭が首を横に振りながら、おっかなびっくり答える。


貴顕きけんの思惑に振り回されるのが嫌になったのでしょう。これまでハウエルに有力な戦士をぶつけるときに限って観戦を自由にしてきましたが、彼が勝つと決闘内容は他言無用、漏らせば裁判なしの実刑。毎回そんな風に脅されていれば、それはうんざりもしますよ」


「そうか」


 イジドアは天を仰いだ。

 快晴である。

 空が遠くまで見通せるというのは、良いことだ。

 イジドアは愛剣を懐から取り出した。

 湾曲した、単なる鋭利な鉄片。

 それを得物として使っている。

 とてもじゃないが、まともに刃を打ち合えば、押し負ける。

 そんなことは分かり切っている。

 だから、戦法は一つしかありえなかった。

 斬られる前に斬る。

 あるいは、もっと簡素に、

 斬る。

 それだけだ。

 それ以上の戦術は無意味。

 イジドアはあえてそのような状況に自らを追い込んできた。

 簡素に。

 単純に。

 もっと軽く。

 もっと薄っぺらに。

 空を飛ぶには、一切の重りを脱ぎ捨てるしかないのだから。


 イジドアは立ち上がり、まばらな見物人の視線を浴びながら、決闘場に降り立った。

 既にハウエルは決闘場に立っている。

 彼に付き添いはいなかった。

 二人は睨み合った。

 女装している男はおぞましい姿をしているが、それというのもハウエルが男としてあまりに凛々しい貌をしているからだ。

 髭が濃いし、彫りが深い。

 体格だって平均的な男の水準を遥かに上回っている。

 哀れだ。笑いさえ誘う。

 イジドアは剣を構えた。

 ハウエルはなかなか構えなかった。

 立会人に視線を送り、諦念のこもった声で言う。


「口上をお願い。あの、長ったらしいやつ」


「は? いえ、規則では、省略することに……」


「いいから! 二十回以上も裁判やってるから、久しぶりにあの口上を聞きたくなったのよ。イジドアだって、聞いたことないみたいだから、丁度いいでしょ?」


 イジドアは返事をしなかった。

 彼にとって誰かと戦っていない時間というものは、止まっているも同然。

 退屈さえ感じない虚無なる心情を獲得していた。

 だからどれほど口上が長くとも平気だった。

 ハウエルはしばらくかの狂戦士を注視していたが、やがて頷いた。


「――ほうら、イジドアだって聞きたいってよ。さっさとやってよ」


 立会人は暫く迷っているようだったが、ハウエルの凄まじい大剣を間近に見て、屈服した。

 玲瓏たる声音で述べる。


「この凛冽たる荒野に温潤なる光あり。天上を総攬せし豊饒の光輝にして、常盤の闇黒を内含する女神の祝福なり。判明なる正義は漲天し、醜き欠缺は窒息する。曖昧な死には明快なる死を。聞こえたるは悪鬼の怨嗟、それを払うは輻輳する公理の力なり……」


 ときに聖教典の一節、ときに市民宗教としての名残が見られる口伝、ときに決闘裁判の根拠と由来。

 口上は粛々と述べられた。

 イジドアは微動だにせず聞いていたが、ハウエルは空を仰いで、言葉の一つ一つを噛み締めているようだった。


「――斯様にして、審理はここに結ばれる。すなわち、女神の裁定によって。戦士の血と骨によって。剣の光と剣の闇によって。正義と悪の決着によって」


 口上は終わった。

 少し疲れたらしい立会人は、ハウエルとイジドアの紹介をおざなりに終え、簡単に今回の裁判の争点について触れた。

 ハウエルは瞼を閉じた。

 大剣の柄を握る手に力を込めている。

 イジドアは巨漢の様子を無感情に見ながら、どの部分から切り刻むべきか思案していた。

 恐らく、足は最後がいいだろう。

 空を駆けるときに必要となる。


「人間は空を飛べると思うか」


 イジドアは質問した。

 ハウエルはにやりと笑った。

 冷や汗が額に光っている。


「……飛べるわ。その気になればね」


 イジドアはハウエルに歩み寄りながら、笑みを返した。


「まずはその野暮ったい腕から切り落とすか。その後は血を抜く。次に高い空から地上を見下ろしたとき、恐怖に慄かないよう、あってもなくても同じと思われる空っぽな頭を排除する。そこまですれば、飛べるかも」


「あなた、狂ってるわよ」


「お前に言われたくないが」


 二人は激突した。

 数少ない観戦者は、何が起こったのか理解する前に、勝負が決着したことに戸惑った。




 ノエルとメーベルも同様だった。

 最後方で見物していたノエルは、自分があまりに凄惨な光景を目の当たりにしていることに気付き、ヒィっ、と息を呑んだ。


「腕が、ない……」


 ハウエルは大量の血をその両脇から吐き出しながら、よろめいた。

 大剣の刃は中央から真っ二つに割れていた。

 決闘場は静寂に包まれていた。

 イジドアだけは、その怪物じみた指を折り曲げたり伸ばしたりして、調子を確かめて陽気に振る舞っている。


「まさか、剣を斬れるとはな。畜生の糞にも劣る剣か。見かけ倒しもいいところだ」


 ハウエルは両腕を失い、もはや命はないも同然だった。

 顔面蒼白、痙攣しながら、その場に卒倒する。

 ノエルは現場を直視している自分が信じられなかった。

 腕を失った人間――人類に与えられた『想像』という能力により、ノエルは恐怖に駆られた。

 もし、自分が腕を斬られたら、どんな感覚だろう?

 想像するだけで寒気が走る。

 ハウエルの首を、イジドアの剣が呆気なく斬り飛ばした。

 高く宙に飛ばされた首は観客席に墜ちた。

 悲鳴が起こり、退避する人間が後を絶たなかった。

 反対に、かの大逆ハウエルの最期を見届ける為に駆け寄る者もいる。


 メーベルが蹲っている。

 ノエルは彼女の背中をさすった。

 ノエルは己の鈍重さを幸いに思った。

 もし敏感な人間だったら、あの光景を仔細まで観察する余裕があったかもしれない。

 ノエルの中では、ハウエルの死はぼんやりとしたものだった。

 直視はしていた。しかし理解できる範囲を超えていた。


「イジドアは、化け物だ……。ハウエルとは、格が違った」


 所詮はケンカ屋と職業戦士の違いが大きかったというわけだろうか。

 聖教と都市政府は望み通りの結果を得たということだ。

 早くも、貧民窟の方向から煙が立っている。

 火事だろうか。聖教軍が火をつけた?

 それにしても早過ぎる。

 決闘が始まる前から準備をしていたとしか思えない。


「だから、言ったのに」


 声がした。

 振り返ると、禿頭の僧侶が佇立していた。

 聖教亜派の装束。

 この都市では珍しい。

 ノエルは思わず立ち上がった。


「あなたは……?」


「わしですか。しがない僧です。スウィジンとお呼び捨てください」


「いえ、そんな。スウィジンさん、ハウエルのお知り合いだったのですか」


「まあ、そうですな。イジドアとは戦うなと忠告した者でもあります」


 スウィジンは自身の禿頭をつるりと撫でた。

 顎髭をぴんと張り、決闘場でなおも死体を弄るイジドアを見やる。


「――あの男はもはや完全に剣の一部となっている。あの剣には柄がありませんが、イジドアがその代わりになっていると言いますかな。あんな男とまともにやり合って、勝てるはずがないのです。あなたも、そうは思いませぬか?」


 ノエルはメーベルの様子が気になりつつも、頷いた。


「今となっては、そう思います。あのハウエルが、こうも簡単に……」


「こうなっては、もはや都市政府や聖教の横暴に敵う者はおらんでしょう。バトムレスは潰され、麻薬流通は彼らに掌握される」


 ノエルは頷きかけて、ふとスウィジンの表情を窺った。

 よく見れば若い。

 ノエルとそう変わらない歳だろう。


「……掌握? 潰されるのではなくて、ですか」


「ご存じないのですかな」


 スウィジンは、露骨にこれを報せたかった、という表情をした。

 長衣をたくし上げて身を乗り出してくる。


「――都市政府は麻薬に溺れております。聖教組織とて腐敗を止めることはできない。あなたのよく知っている同僚の方が、麻薬の常用者という可能性さえあるのですよ」


「そんな、馬鹿な」


「しかし、この二大組織が、ハウエルの麻薬流通経路を掴みたいと願っていたのは確かですぞ。直視すべき現実というものです。まあ、あなたの所属するオージリアリ・ハンド教会には、反麻薬運動の先達ハイエイタス司祭長がおります。そこだけは潔癖かもしれませぬなあ」


「どうして、私のことを」


 ノエルは驚き、警戒した。

 そうだ、ハウエルと知り合いという時点で、怪しむべきだった。

 ノエルは自分の頭が相当に鈍化していることに気付き、戦慄した。


「私のことを調べて、どうするつもりですか」


「別に……。わしは大概のことを知ることができますからなあ。何となく、知ってしまっただけのこと。ときどき知りたくもないことを知って困り果てることがあるのです。いやあ、有能過ぎるというのも厄介なことです」


 スウィジンはぶらりと歩き始め、血腥い死体解体が行われている決闘場に背を向けた。


「――バトムレスの通りがどんなことになっているのか、見に行くことにします。あそこには拙僧の寝床もあるのですよ」


 ノエルはスウィジンを見送った。

 特に名残惜しかったわけではない。

 少しでも視線を動かしたら、決闘場の惨劇をちらりとでも見ることになるのではないか。

 そう懸念して動けなかったのだ。


「メーベルさん、行きましょう」


 背後では、イジドアがハウエルの死体を解剖し、何事か呟いている。


「まだ重いか……、足を斬り落とすか? だがそうなると、何が残る? 腹の皮だけか。そもそもどれが本体だ?」


 メーベルを立たせてその場を去った。

 遅れて風に乗った血肉の臭いが追いかけてくる。

 凄まじい悪臭だった。

 これが人間の中身の臭いか。

 どんな獣の中身よりおぞましい臭いをしているように思われる。

 メーベルが汗を流し、白い肌がますます白くなっている。

 病的とさえ言える白は、陽光の下で光り輝くことがない。

 いつもの美貌が台なしだった。


「私に掴まってください。家まで行きましょう」


「すみません、ノエルさん……」


 メーベルを半ば背負うような形になり、ノエルは彼女に役立てる自分を誇りに思った。

 そしてあの悪夢のような光景を忘れようと努めた。

 空を見上げてみる。

 どうか不浄なる瞳を清めてくれ。

 青空に浮かび上がる青い星は際立って見えた。

 いつもは空に溶け込むようなのに今日は自らを強く主張しているようだ。

 血肉の臭いに混じり、何かが焦げる臭いも感じ取れるようになった。

 貧民窟が本格的な火災に見舞われているらしい。

 これからどうなるのか、考えるのも煩わしいが、考えずにはいられない。

 あのエリアスという少年。

 ハウエルの死を知り、動揺するだろうか。

 ディライトの売春婦たちは、戦いに巻き込まれないだろうか。

 ぼんやりと思う、他人事ではあったが、気にはなる。

 ほとぼりが冷めたら、見に行ってみよう。

 きっとメーベルも知りたがるだろう。

 ファジー・デツの新しい時代が、ハウエルの死によって訪れるのだ。


「俺は空を飛びたいんだ」


 イジドアの叫び声が聞こえてきた。

 ノエルは耳を塞ぎたい気持ちと戦いながら、一歩一歩、家への道を踏みしめた。




     *




「また、いらっしゃいね」


 ユニスは客を送った後、早々に控え室に引っ込んだ。

 同僚たちが、控え室の隅に立て掛けてある、上質な婦人服を眺めて、羨ましそうにしている。

 ユニスがロレインから譲り受けた例の服だ。


「ちょっと、触らないでよね」


 同僚たちが一斉に振り返る。

 その中の一人が躰をくねくねさせながら言った。


「ねえ、今度、教区内に用件があるの。これ、貸してくれない?」


「冗談じゃないわ。アンタ、自分の体型、分かってるの」


 辛辣な言い方になってしまった。

 ユニスは少し後悔しつつも憤然として席に腰掛けた。

 同僚がこそこそ内輪で話している。

 嫌われてしまったかもしれない。

 構うものか。最近は気分が悪い。

 最初はメーベルの出世を喜ばしく思えたものだが、あの立派な家と、きらびやかな衣服の数々を目撃し、嫌気が差した。

 自分はこんなに質素な暮らしをしている。

 身を売って金を稼いでいるのに。

 男に殴られることだってある、それを我慢して日々を一生懸命暮らしているのに。

 歯の抜けた口は生きてきた証でもある。

 誇りでさえあった。

 だが、こんな思いをしてまで得られたものにどれだけの価値があるというのか。

 ユニスは何度も嘆息を漏らした。


「ねえ、大変」


 控え室に飛び込んできたのは年少の売春婦だった。

 薄い胸をむしろ売りにしている少女だ。

 ユニスが半笑いで応じる。


「なに、どうしたの。また親父さんが勘定が合わないって騒いでるの」


「違うの。バトムレスに、続々兵隊さんが……」


「兵隊さんって、アンタ。あんな連中に敬称つけなくてもいいわよ。で、兵卒どもがどうしたって?」


「バトムレスを攻めてるのよ!」


 ユニスは首を傾げた。

 同僚たちもぽかんとしている。


「……それって、どういうこと?」


 年少の売春婦は栗色の短髪を振り乱し、何度も首を横に振った。


「分からないわよ! でもバトムレスの同性愛者たちは、事前に攻撃を予測してたみたいで、要所に大量に土嚢を積んで防壁にしてる」


「嘘。昨日まで、そんなものなかったわよ」


「それがあるのよ。徹底抗戦してる!」


 ユニスたちは可愛い後輩を馬鹿にしつつも、気になって外に出た。

 売春宿の主人も、通りの真ん中に立ってぽかんとしている。

 ユニスは外に出るなり、きな臭い空気に辟易した。

 そして、東の低い空に煙が立ち昇っているのを見た。


「戦争……?」


 ユニスは呟き、同じように途方に暮れているディライトの住民たちを眺めた。


「次は、俺たちだ……」


 賭博場に入り浸っていたと思われるみすぼらしい身なりの男が通りの真ん中で蹲った。


「――上級市民の連中は、俺たちを虫けらかそれ以下の存在としか思ってないのさ……」


 ユニスは反駁したかった。

 メーベルのように、生粋の下級市民でも、人格を認められた女がいる。

 いや。

 彼女は比類なき美貌を持っていた。

 したたかな一面もあった。

 特別な人間だったのかもしれない。

 ユニスたちは彼らに凌辱されるのを待つしかないのか。


「ハウエルさん、死んだのね」


 ユニスは呟いた。

 今日は決闘裁判の日だ。

 悪が勝利する裁定が下されたのだろう。

 ハウエルは正義だった。

 彼が同性愛を公言したのは、同じく自らの歪んだ性愛に苦しむ人々を救う為だった。

 彼らにとっての楽園を建設する為だった。

 彼が麻薬の流通を支配したのだって、きっと理由があるはず。

 ユニスには分かる。

 ハウエルは鬼の顔をしていたかもしれない。

 だが心はそうではなかった。

 彼には慈愛があった。

 エリアスのような気高い男が忠誠と愛を誓うほどだ。


 ディライトに入ってきた甲冑の一団がいる。

 五名程度しかいないが、相当な重装備である。

 あらゆる方面からバトムレスを攻め、陥落させるつもりらしい。

 他の町人はさっさと屋内に逃げ込んだ。

 面倒は御免だ、ということらしい。

 同僚たちも野次馬になるのを諦めて、宿に引っ込んだ。

 年少の売春婦がユニスの袖を引っ張る。


「先輩、早く。目つけられたら、何されるか」


「うん……」


 ユニスは頷いた。

 だが、気付けば足元に落ちていた石を拾い上げていた。


「――この……」


 遠くに見える兵卒に石を投げつけた。

 ユニスの非力さと言ったら、彼女の想像以上だった。

 石はとても兵卒までは届かなかった。

 隣に立っていた売春婦が呻く。


「何してるの、馬鹿じゃないの、先輩!」


 無理矢理屋内に引きずり込まれた。

 ユニスはしかし、もっと近づいて行って、石をぶつけてやりたかった。

 間違ったことをしているのは、アンタたちだろ。

 ユニスは叫びたかった。

 しかし恐怖と自制心が、それを止めた。

 隷属するのが宿命の下級市民だ。

 ユニスは宿の入口でぺたりと座り込んでしまった。




 ユニスが義憤に駆られている頃、エリアスは奮闘していた。

 彼はハウエルより厳命を頂戴していた。

 決闘裁判の日、勝負の勝敗に関わらず、聖教軍が攻め上がってくる。

 自分は必ず裁判に勝利し、後方より軍を叩くから、それまでバトムレスの防衛は任せた、と。

 エリアスは奮起し、ロイドに伏兵部隊を任せた。

 ハウエルの参戦と共に軍を攻撃する為に、事前にバトムレス以外の貧民窟に彼らを潜ませた。

 まともに戦って勝てるわけがない。

 ファジー・デツの騎兵隊は近隣都市においても最強の呼び声高い。

 だが、ハウエルの言葉を信じていた。

 勝機はあるのだ。


 エリアスはバトムレスに通じる全ての道を封鎖した。

 教区内に直接通じる道は二つ、他の貧民窟につながる道は四つ、郊外に繋がる道は三つある。

 その全てに障害物を置いた。

 あらゆる家財道具を持ち運び、障害物に利用した。

 武器ならば、資金はあったので豊富にあった。

 不足していたのは兵士の数だった。

 エリアスの呼びかけに応じたバトムレスの住民は、百名を僅かに超える程度だった。

 そのほとんどが戦闘に堪える屈強な男であった。

 しかし、それにしても。

 守るべき要地が多過ぎる。

 バトムレス全体を防衛するのではなく、一部を放棄することも検討した。

 だが、エリアスは決意していた。


「それではハウエル様に顔向けできない。一片たりとも、バトムレスの石ころ一つ、連中に譲り渡すことはできない」


 その強硬な姿勢に、部下たちは共鳴した。

 そして各々、武器を抱えて長大なバトムレスの防衛作戦に命を懸けた。

 だが、開戦直後から劣勢は否めなかった。

 巨大な闘馬に跨った重装騎兵が、障害物に突進し、決定的な亀裂を与える。

 エリアスに率いられた市民は弩を使って応戦したが、歩兵の投槍の威力は凄まじく、集団戦に慣れていない市民は好き勝手に逃げ回って統率を乱した。

 エリアスの指揮がどれだけ的確で、態勢を整えても、騎兵一人倒すのに十人の市民を負傷させていては勝ち目はない。

 兵力に劣るバトムレス勢では勇猛果敢に戦っても成果を挙げられない。

 聖教軍を指揮していた将軍はバトレムス軍の浮足立った布陣を見て一笑に付した。


「ド素人だな。どれ、力の差を見せつけてやれ」


 エリアスは慣れない武器に悪戦苦闘する市民を鼓舞していたが、聖教軍の応射を浴びて愕然とした。

 まるで矢の雨。

 逃げる場所などありはしない。

 軽装だった市民はばたばたと倒れていった。

 エリアスも肩に傷を負った。

 もぬけの殻となっている家屋に逃げ込み、まるで勝負にならないことを悟った。


「駄目だ。遊撃戦術に切り替える以外に勝ち目はない。だが、そうなると、バトムレスをみすみす明け渡すことに……」


 しかも他の区域の下級市民にも迷惑をかける。

 教区内を派手に暴れ回るか……?

 エリアスは舌打ちした。

 これだけはしたくなかったが、致し方ない。


「ロイド部隊に伝令。攪乱に移れと」


 部下が元気よく返事をして、屋外に走り去った。

 エリアスは肩の傷に悶えながらも、床を這った。

 まるでこちらが卑劣な行いに興じている気分だ。

 だが、ほんの少しの間だ。

 ハウエルが帰ってくるまで……。


「どうしてだ。どうして、こんなにも悲しい……」


 エリアスは涙を流していた。

 ハウエルのことを考えると、胸が痛む。

 原因は分かっている。

 ハウエルはイジドアに勝てないだろう。

 そんなことは自明だ。

 さっさと彼の後を追わないと。

 自害しないと。

 天国であの人に会うことができない。

 だが、他ならぬハウエルがそれを許さない。

 エリアスは託されてしまった。

 バトムレスに住まう人々の暮らしを。

 彼らの平安と幸福を、守らなければ。


「何だって、やってやるよ……!」


 エリアスは叫んだ。

 脂汗を撒き散らし涙を飲んで鼻水を啜った。

 唇を噛んで食い破る。

 新たな痛みが、彼を一つの方向に突き進ませた。

 エリアスは決然と屋外に進み出る。

 目の前に聳える障害壁が破られようとしていた。




     *




 ノエルが家に到着したとき、メーベルはまともに歩けるようになっていた。

 彼女は恥ずかしそうに笑っている。


「ロレイン、退屈にしているでしょうね」


「そうでしょうね」


「ちゃんと相手してあげないといけませんね」


 メーベルの笑顔は悲愴に満ちていた。

 空元気というやつだ。

 痛々しいが、どうすることもできない。

 人の死を目の当たりにして、興奮する人と、衝撃から立ち直れない人がいる。

 メーベルは後者のようだ。

 決闘を見に行ったのは間違いだったのかもしれない。

 家に入ると、ロレインが入口で待っていた。

 しかし、いつもと様子が違った。

 メーベルが髪を撫でても笑顔にならない。

 ただ、じっと、二人を見比べている。


「どうしたんだ、ロレイン」


 ノエルは尋ねた。

 水色の髪の少女は小さな口を開く。


「まちが、ないてるよ……」


「泣いてる?」


「うん」


 ロレインは踵を返して、部屋の窓辺に立った。

 じっと空を見上げている。

 ノエルとメーベルは顔を見合わせた。

 そのとき、裂帛が高く響き渡った。

 ぎょっとしたノエルは思わず振り返り、外に出た。

 悲鳴の声の主は住宅街の真ん中で伏していた。

 黒い長衣を石畳の上に広げている。

 倒れているのは老婦人のようだった。


「どうかしたんですか……」


 駆け寄ろうとしたノエルは、ふと、通りの端で不審な動きをする男を見た。

 背が高く体格も良い見事な『男』なのに、髪を長く伸ばし、彩り豊かな髪飾りを幾つもつけている。

 ハウエル配下の女装仲間だ。

 ノエルはその男が、弩を構えているのを呆然と見た。

 狙いは、ノエルにつけられている。

 金属の弦がしなる音。

 鉛弾が弾き出される。

 ノエルは気付けば、目と鼻の先に凶弾が迫っているのを感知した。

 死ぬ――指一本動かせずとも、それだけは直感した。


 ぼすっ。


 間の抜けた音と共に、鉛の弾が逸れていった。

 ノエルは一切の衝撃を受けず、その場に立ち尽くしていた。

 弩を構えていた男が驚いたように構え直す。

 そこに飛び掛かる巨大な影があった。

 ロレインだ。

 ロレインと、彼女の大剣である。

 空中を駆けるロレインはもはや別次元の生き物だった。

 男は驚嘆し、慌てて弩を傾けてロレインに狙いをつけようとしたが、素早過ぎて上手くいかない。


「ダメだよ! ダメなんだからね!」


 ロレインの大剣が唸る。

 掬い上げるような軌道で男の脚を払った。

 男は頭を石畳に打ち付けて昏倒してしまった。

 ノエルはロレインが着地するのを見て、漸く事態を理解しようと思い立った。

 老婦人の傍に歩み寄る。


「大丈夫ですか……、うっ」


 肩に触れると、婦人の首に鉛の弾がめり込んでいた。

 死んでいる。

 思わず距離を取ったノエルは、家の前に立つメーベルに首を振った。

 ロレインは大剣を引き摺りながら周囲を見回していた。

 教区内まできな臭い。

 ノエルは昏倒している男を見下ろした。


「この男は、たぶん、ハウエル配下の人間……。教区内で暴れて、バトムレスを攻める兵力を分断させようという狙いだろうか」

 だがそんなことをしても、都市政府を本気にさせるだけだ。

 家屋を破壊して回るだけならまだしも、無辜の人民を殺害するなんて。

 いや、下級市民にとっては、上級市民は日ごろから憎んでいる相手なのかもしれない。

 ノエルは危機感を募らせ、一見静寂に包まれている住宅街を見回した。

 どこに敵が潜んでいるのか、分かったものではない。


「おとうさん、おかあさん、おうちの中にいて」


 ロレインは言う。

 ノエルはこの小さな女の子をまじまじと見た。


「ロレイン?」


「みんな、いい人なんだよ。なのに、あらそうなんて。あたしは、ただ、あそびたかっただけなのに」


「……ロレイン? どうしたんだ」


 ロレインは水色の髪を震わせていた。

 大剣も僅かに発光しているように見える。

 彼女の金色の瞳が濡れているようだった。


「かんじるの。ないてる人がたくさんいる。たすけてあげないと」


 ロレインは走り出した。

 ノエルは追いかけようとしたが、少女の俊足には、一目で追いつけないと観念した。

 メーベルが金切り声を上げる。


「追いかけてください、ノエルさん!」


「は、はい」


 ノエルは驚きつつも、走り出した。

 メーベルがその場にくずおれるのを見る。

 あっという間に少女の姿は見えなくなった。

 ノエルは中央通りに出たが、騒ぎは起こっていなかった。

 まばらな人通りにさしたる混乱があるようには見えない。


「どこに行った、ロレイン……」


 途方に暮れたノエルは、自分でもどこへ向かっているのか分からないまま走り続けた。




   *




 ロイド部隊はほんの十名程度に過ぎなかった。

 彼らが教区内で暴れ回っても、それほどの混乱は起きなかったし、聖教軍の兵力を大きく分断させるには至らなかった。

 そもそも、バトムレスの防壁はあまりにも脆弱だった。

 鉄鎧に身を固めた騎兵の突撃、凄まじい威力を誇る投槍などで、次々と防壁は破られていった。

 ロイドが本格的に攪乱作戦に動き出したとき、既にバトムレスは陥落し、次々と同志たちが殺害され、捕まっていた。

 そしてハウエル死亡の一報も、同時に入ってきた。

 士気を維持できるはずもなく、所詮はならず者に過ぎない部下は次々脱落していった。

 ロイドは市外に逃げ出す彼らを引き留めることができなかった。

 まさか部下に死ねと言うことはできない。

 しかし自分に対しては命令できる。

 ロイドは敵の目を欺く為に女装していたが、その姿のまま敵の拠点を破壊することを決心した。

 狙ったのは比較的防備の薄い大聖堂である。

 聖教軍はバトムレス制圧後の展開を主導したいと見え、多くの人員を割いていた。

 逆に、都市政府軍はどういう理由か知らないがバトムレス侵攻には加担せず、遠巻きに眺めているのみ。

 ロイドは大聖堂の防備がおざなりになっていることを見て取り、決死の突撃を決意した。

 成算などない。

 だが、聖教の無能どもにちょっとした火傷でも負ってもらわないと、割に合わない。

 標的は大聖堂の奥でふんぞり返る司教。

 ファジー・デツ聖教を支配する教区責任者。

 ロイドは紫の髪を露に、大聖堂まで歩み寄った。

 だが、人員が少なくなっている分、大聖堂の衛兵は警戒を強めているようだった。


「今日は礼拝ができません」


 物々しい装備をした兵士が言う。

 ロイドは声を出すと女装がばれるので、強行突破するしかないと判断した。

 相手は女だということで油断しているだろう。

 ロイドは槍を構える衛兵を振り切り、中に踏み込んだ。

 衛兵は容赦なく槍を突き込んできた。

 元々、バトムレスの人間が攻め上がってくることを想定していたのだろう。

 だがロイドも単なる密偵ではなかった。

 床を転げ回り、素早く距離を取ると、自ら兵士の懐に踏み込み、顎を打ち砕いた。

 卒倒した兵士の槍を奪い、礼拝堂を突っ切った。

 長くイジドアの監視をしていたおかげで、中の構造は分かり切っている。

 教務室では司祭たちが退屈な仕事に興じていたが、全てを無視して突き抜ける。

 司教の最高教務室の前には四人の衛兵が立っていた。

 神官服の中に鉄板を着込んだ軽装の兵士である。

 ロイドの登場に目を丸くしていた。

 槍をぶん投げたロイドは臆せずに突っ込んだ。

 そして叫ぶ。


「この鬼どもめ! 貴様らがハウエル様を殺したんだ!」


 衛兵たちは大盾を立てて教務室への道を塞ごうとしたが、ロイドは跳躍してそれを飛び越えた。

 そのまま扉にぶち当たり、司教の部屋に雪崩れ込む。

 司教は悠然と椅子に凭れていた。

 床に伏したロイドを一瞥し、冷笑する。


「バトムレスの女装男か。背徳甚だしい。万死に値する」


「黙れ」


 ロイドは唸った。

 衛兵たちが素早く手足を押さえつけ、身動きできなくなった。

 司教は大袈裟な溜め息をつく。


「どういうつもりで抵抗しているのか知らないが、貴様らに勝ち目はない。決闘裁判を長引かせることが、貴様らの唯一の道だったはずだ。私は是非聞いてみたかったのだが」


「何だ」


 ロイドは手足を縛られながら唸った。

 司教は立ち上がる。

 樫の杖に支えられながら、ゆっくりと歩く。


「どうして貴様たちは有能な代理人を他から探してこなかった。聖教と都市政府が反目している時期にイジドアのような剣鬼を味方にしていれば、ハウエルを死なせずに済んだ」


「……ハウエル様のご意志だ」


「つまり、自分の力を過信していたのだな。ふん、野蛮人の陥りそうなことだ」


「違う! あの方はあくまでも、他人に迷惑をかけることを良しとしなかった。自分の代わりに代理人が傷つくことを嫌っておいでだった」


「……その、ハウエルの命令で、貴様らは抵抗しているのだろう。同志が大勢死んでいるぞ。それはどのように説明する」


「それは……」


 ロイドはあっけなく敗北したこの状況が信じられなかった。

 ハウエルが命じたからには勝利が約束されていたはずだ。

 何をどう間違ったのか。

 ロイドが何も答えられずにいると、司教は薄く笑みを浮かべたまま命じた。


「公開処刑の手配を。バトムレス在住の背徳者の生き残りは全て広場で見せしめとする」


 司教の言葉をロイドは聞いていなかった。

 胸に妙なざわめきを覚えたからだ。

 イジドアを監視していた頃に覚えた、不快感。

 ロイドは愕然とした。


「待ってくれ、ここで殺してくれ。公開処刑まで、間に合わない」


 司教は首を傾げた。


「何を言っている?」


「頼む、ここで殺してくれ。イジドアが来る……、奴に殺されるのは嫌だ……」


 ロイドの言葉通り、ふらりとイジドアが現れた。

 彼は例の鉄剣をだらりと下げて、ロイドを見下ろした。

 衛兵たちが恐怖し、さっと部屋の隅に立ち退く。


「お前だろう? 俺をずっと見張っていたのは」


 ロイドはイジドアに呼びかけられても、返事できなかった。

 心臓が凍っている。

 イジドアは床に伏すロイドに跨った。

 首に刃物を突きつけられる。


「――手際が良かったから見逃していたが。まさかこんなところに乗り込んでくるとは」


「……黙れ、お前の愉しみの為に死ぬつもりはない」


「なあ、まだ聞いてなかったな。空を飛べると思うか?」


「飛べるわけがない。人間は地を這うだけの生き物だ」


「……そうか。残念だな。お前には確かに、それがお似合いだろう」


 ロイドの首に剣を突き立てられた。

 背骨が断裂するのを感じる。

 それからの感覚はなかった。

 痛みさえない。

 ロイドは感心していた。

 イジドアは、やろうと思えば、相手を苦しませずに殺すこともできるのだ。


「皮肉なものだな。奴らは決闘裁判のあり方を憎んでいた。だが他ならぬ裁判の規定が、奴らの砂上の楼閣を保持していたのだ」


 司教が呟いた。

 イジドアは安らかに眠ったロイドの死体から離れ鉄剣を仕舞い込んだ。


「これで俺の役割は終わりか。それとも、まだ何か用があるか」


「今後も貴様とは契約を結びたい。早速、仕事があるが?」


「聞かせろ」


 司教は咳払いし、近くに立っていた衛兵たちに目配せした。

 間もなく彼らはロイドの死体を引き摺りながら退室した。

 二人だけになると、司教は再び椅子に腰掛けた。

 少し疲弊したように苦笑する。


「全てのバトムレスの愚民どもを抹殺してもらいたい。軍からは既に『重要人物』の確保に成功したという一報が入っているからな、生かすべき者はもういない」


「殺しの場を提供してくれるのか」


 イジドアはにやりと笑った。


「――気晴らしにはいい。殺しは俺の魂を浄化し、軽くしてくれる。欠かせない習慣だ」


 イジドアは嬉々として退室した。

 司教はそれを見送ると、文机に肘をつき、見晴らしの良い窓に視線を向けた。

 まさか下級市民どもを虐殺しているようには見えない、落ち着きのある街並みだ。

 白亜の長屋には、そこに人が住まっているとは思えぬ清冽な輝きがある。

 およそ生活感とは無縁の街並みである。

 聖教が束ねるに相応しい。

 この輝ける都市は神の導きによって運営されるべきである。


「イジドアか……。奴さえいれば、少なくとも裏の攻防で負けることはまずない」


 司教は部屋に残った血痕を凝視した。

 鮮血だった。

 床を張り替えないと、邪気までは拭うことができないだろう。


「――聖教はイジドアを雇った。都市政府はあの子供だ。面白い逸材だとは思うが、とても釣り合わんな」


 司教は独白し、ゆっくりと椅子に凭れかかった。




     *




 冬は深まり、凍えた朝露は石畳の街を青く透明な膜の中に封じ込める。

 教区と教区外の狭間に聳える尖塔。

 物見台としての役割よりも、牢舎としての役割のほうが大きい。

 地下に埋められた牢獄では、より厳しい寒さに見舞われた囚人たちが、絶え間のない怨嗟の声を上げている。

 冬の地下と言えば地上より暖かいのが普通だが、近くを水脈が通っているらしく年中土壁を通して冷気を送り込んでくる。

 その中を薄い麻服を一枚纏って過ごさなければならない。

 凍死してしまう者が後を絶たなかった。

 エリアスも、ここで一晩過ごしただけなのに、何度も死を覚悟した。

 独房なので囚人同士で体を温めあうこともできない。

 黒い石が敷き詰められた独房で、エリアスは牢に近づいてくる足音で目を覚ました。


「看守かな。ぼくのこと、女だと思ってるんじゃないだろうな……」


 嬲られても泣き寝入りするしかない乙女とは違う。

 やられそうになったらへし折ってやる。

 エリアスは淡々とそれだけのことをやってのける自信があった。

 だが、現れたのは全く予想外の人物だった。


「ノエル……?」


 そこに立っていたのは黒い神官服を纏った中背の青年、ノエルであった。

 薄暗い牢獄を不安げに歩いている。

 エリアスの声に気付き、鉄格子に顔をくっつける。

 エリアス少年は苦笑した。


「おいおい、そんなに近づいたら、目玉抉って食べちゃうぞ。ぼくは凶悪なんだからな」


 ノエルはエリアスの姿を認めると、咳払いした。

 後ろに控えていた看守に目配せする。


「二人だけで話がしたいのですが……、よろしいですか」


 看守は肩を竦めたがノエルは彼の手に何かを握らせた。

 間もなく邪魔者は歩み去った。

 エリアスは凍えた体を無理に起こして、ノエルを見据えた。


「賄賂か。得意技だね」


「そうかもしれない。だが、今はどうでもいいじゃないか」


 ノエルは鉄格子の向こうで立ち尽くしていた。

 幽鬼のような、青白い顔をしている。エリアスは猛烈な眠気と戦いつつも、頷いた。


「そうだね。で、話ってなに」


「バトムレスは潰れた」


「そう」


 エリアスはいまさら、そんなことを聞かされても動揺はしなかった。

 エリアスが連れ出されるとき、相当数の市民が未だに抗戦の意思を見せていた。

 だが、相手方の陣地に入りその物量を確認したから、勝敗など分かり切っている。

 勝てるはずがなかった。

 ハウエルが健在であったとしても。

 貧民が全て一致団結したとしても。

 上級市民を庇護するあの軍隊は強力無比だった。

 さすが対外的にも一定の圧力を持つ精鋭部隊である。

 戦いの素人がまともな戦いを繰り広げられるわけがなかった。


「――それがどうかした、ノエル? ぼくを嬲りに来たのかい」


「まさか。だけど疑問に思ったんだ。きみならその疑問に光を投げかけられると思って」


「ぼくがその疑問をさらにこんがらからせてやろう。どうぞ、話してごらん」


「心強いね」


 ノエルはわざとらしく笑った。

 およそ聖職者の顔ではなかった。

 疲れ切り、どんな背徳でも冒してやるという顔つきだ。

 エリアスは頽廃した聖職者を何人も見てきたから、こういう表情は馴染み深いものだった。


「――ロレインって、可愛い女の子がいるだろう。あの子がいなくなってね。私は昨日、街中を駆けずり回って彼女を探していたんだ」


「ロレイン。リヴィアのことだね。大して可愛いとは思わないけど」


「聞き捨て鳴らないが、まあ、人それぞれかな。それはともかく、私はバトムレスを覗いてみた。ロレインが迷い込んでいるんじゃないかって、思ったから」


「それで?」


 エリアスは退屈していた。

 何の話をしようとしているのか。

 ノエルは神妙な面持ちで、しかも無理に笑おうとして失敗した末の険悪な表情を浮かべたまま、小さく頷いた。


「それで、バトムレスを見た。酷かった。死体と、家を漁る兵しかなかった。次々に家に火を放たれて、家屋が黒焦げになっていった」


「ふうん」


 エリアスは無感動に聞いていた。

 やはり嫌がらせに来たのかと思った。

 だが、ノエルは苦しげに言い放った。


「政府軍は淡々と作業を進めているように思えた。貯蔵してあった武器を押収し、麻薬を焼き捨てた。隠れていた子供や女を見つけたら、さっさと隣のディライトに追い払って。私は彼らの対応が的確で人道的だったことに驚いた。紳士的だったとさえ言える」


「紳士か。随分と荒事が好きな紳士なんだな」


 ハウエルも対立以前は、都市政府に恩義らしきものを感じていたようである。

 聖教がハウエルを潰そうと画策していたとき、都市政府は彼の権利を認め、宗教裁判ではなく決闘裁判で争うよう指示した。

 それが都市政府と聖教の対立に端を発したものだとしても、ハウエルは構わなかった。

 都市政府には多少の正義があると感じたのだ。

 エリアスには懐かしくさえある考えだった。

 都市政府だってハウエルを殺すことを目的としていた。

 今や、敵だ。仇だ。


「エリアス、都市政府は全く問題じゃない。私は聖教組織に属する者だ。学園都市で聖教の徒となるべく勉学に励み、憧れと期待を持ってファジー・デツでの勤めに邁進した。だが、本当に問題なのは、聖教のあり方だと気付いたんだ」


「うるさいなあ。この背徳者め。背徳者が言いそうな言葉だよ。自己弁護の為に、聖教の教義に異を唱えるってか」


「背徳だって……」


「そうだよ。女を抱いて毎日良い思いをしてるんだろ。神官として最大級の悪徳だ」


「それがどうした。私はメーベルさんを愛しているんだ」


 エリアスは一瞬きょとんとして、ハハハ、と哄笑してしまった。


「開き直りやがったよ、この好色神官が。何を言っても説得力ねえよ、あんた」


「私は、聖教軍の動きを不審に思った。だから、教えてもらいに来た」


 ノエルは鉄格子に頭を突っ込もうとしているかのように、身を乗り出した。

 エリアスは彼の瞳の力強さに、息を呑んだ。


「……なんだよ。教えてやることなんて、何もないよ」


「ハウエルは麻薬流通経路を確保していたのだろう。麻薬はどこから調達していたんだ」


「話すわけがない。ぼくはついさっきも尋問されたけど、何も言わなかったんだから」


「じゃあ、質問を変える。聖教は、麻薬流通を牛耳ろうとしているんじゃないのか。ハウエルは、本当に私利私欲の為に麻薬を流通させていたのか」


「……はあ? 何を言ってるんだか、さっぱり」


「きみが知らなかったら、誰が知ってるというんだ!」


 ノエルは叫んだ。

 エリアスは愚かな神官に憐れみさえ覚えた。


「そんな大声を出していたら看守が来るよ。彼に仕事をさせちゃあ駄目だよ。低賃金でかわいそうなんだからさ……」


「エリアス、きみはハウエルの遺志を継ぐんだろう。……本当はこうなんじゃないのか」


「こう?」


「聖教が、元々麻薬を広めようとしていた。白塗佳人って名前の毒物だ。聖教が誰に売ろうとしていたのか、というと、下級市民たちだ」


「貧乏なぼくたち? 相当安価で売らないと、買えもしないよ」


「そう、安価でもいいから大量に売る。麻薬は人を惑わせる。麻薬に溺れた人々はそれを吸い続けない限り正気を保てない。下級市民は麻薬を売る聖教に服従せざるを得ない」


「まあ、そうだろうね」


「聖教は都市政府の支配下から抜け出すことができない。だが、下級市民の全てを掌握すれば、そういう構図はなくなる。たとえば農場奴隷が麻薬漬けになったらどうなる。軍事力では支配できない。剣を突き刺しても、麻薬に溺れた人間にとってはへっちゃらだ」


「よく知ってるじゃないか、ノエル。まさかあんたも嗜んでるのかい」


「見たんだ。昨日、聖教軍が使ってるのを見た。傷を負った兵士に吸わせていた。笑いながら死んでいったよ」


「結構なことじゃないか。慈悲って奴だ」


 ノエルは頷かない。


「それについての是非は知らない。私はただ、聖教がそういう手段を使って都市政府を打倒しようとしていることに、危機感を覚えているだけだ」


「どうしてそんな妄想をするようになったんだい? そりゃあ、聖教が都市政府を圧倒する権力を握りたいと思っていることは明らかだよ。でもさ、現実的な考えじゃないな」


「しらばっくれるのはやめてくれ。教えてくれた人がいたんだ」


「誰だい、その命知らずは」


「スウィジンさんという異宗派の御仁だ」


 エリアスは顔を顰め、考えられる限りの悪罵を尽くした。


「……あンの、クソ坊主がぁ……!」


「事実なんだろう。スウィジンさんは優秀な密偵だと聞いたぞ」


「優秀だよ。あの男――ことによると女かもしれないが、あいつに優る密偵はいないよ」


「だったら事実だろう。実際に聖教組織に潜り込んで収集した情報だって言ってた。半信半疑だったけど、バトムレスでの聖教軍の振る舞いを見ていたら信じざるを得なかった」


「振る舞いね……」


「彼らは聖戦士などではない。麻薬に溺れている。麻薬は勇敢な戦いを可能にするが神の代わりに悪魔に魂を売ることになる。そちらのほうが聖戦士らしくいられるらしい」


「そんなことは分かり切っていた。ノエル、今更だ。あんたの中で答えが出ているのならどうしてわざわざここに来たんだ。ぼくは何を言われたって心を変えることはないよ」


「私は、何を信じるべきか模索しているんだ。ロレインだって戻ってこない。もしかすると彼女は、腐敗する聖教に身を置く私を、軽蔑したのかもしれない」


「あるいは、仲が良過ぎる夫婦に呆れちゃったのかもね」


「エリアス、きみはこれから殺されるかもしれないんだ。いったい、何を信じて、その強い意志を維持しているんだ」


「ぼくが信じているのはハウエル様だけだ。ノエル、あんたは聖教を信じていればいいだろう。そうやって生きてきたんだから」


「もう、信じられない」


「神を信じれば?」


「だが、私は、もはや神が霞んで見える」


「じゃあ、もう、狂うしかないのかもね。そうしたら何だってできるよ」


「ロレインはどこへ行ったんだ……」


「それをぼくに聞いてどうするんだ。しっかりしなよ。でも、そうだなあ……」


 エリアスはふふんと笑った。


「――もしかすると逃げたのかも。ハウエルさんが死んだから、次は自分の番だってね。聖教は都市政府を潰すつもりなんだろ? 都市政府の戦士であるロレインは邪魔だよね」


「馬鹿な。司教猊下はロレインを気に入った」


「はははは。裏を返せば、敵にだけはしたくないってことだろう。じゃあ、仲間にならないと分かったら、ロレインを殺すよ。権謀術数というのは、そういうことでしょ?」


「私は知りたい。聖教を信じたい気持ちもまだあるが、現状ではそうする勇気もない。ハウエルがどこから麻薬を調達していたのか突き止められれば一発だ。どうか教えてくれ」


「馬鹿馬鹿しい。ぼくにとっては、あんたも聖教の手先なんだから」


「だが、私は――」


「どうせあんたは騒動が収まったら、メーベルもリヴィアも見捨てて質素な寮生活に戻るんだろ。たまに女を買ったり、市民権を与えることはあっても、所詮はお遊びで終わる」


「遊びなんかじゃない」


「遊びだよ。聖教組織と決別するつもりはないんだろ? それでいてメーベルと結ばれ、しかもリヴィアを実の子供として預かろうなんて。聖職者は自分の子供を持てないのに」


「養子という道がある。実態はむしろそちらに近い」


「じゃあ、さっさと申請しなよ」


「……ロレインは、都市政府から預かっている、戦士だ」


「ほらね。あんたにとって、リヴィアってのは、その程度の存在なんだよ。立場を超克できる人間じゃないんだよ、あんたは結局さ」


「私の質問に答えてくれ。ハウエルの取引相手を、一人だけでいい、教えてくれ」


「またそれを言うの。しつこいなあ。知ってどうするんだ。あんたみたいな非力な男が迫ったところで、誰も何も教えてくれないよ」


「……分かってるさ。だけど、私は失いたくないんだ」


 ノエルの目から何かが滴り落ちる。

 大の大人が、泣いちゃって。

 エリアスは呆れたが、彼が真摯な姿勢だということは分かった。

 軽く息をつく。


「何を? 何を失いたくないんだよ」


「誇りだ。私は、誇りを持って生きていきたいんだ」


「誇りねえ。信仰を全うすること? それとも、人倫とか道徳とか、そういうコトバを引っ張り出してくる?」


「分からないさ。だが、ロレインを前にしても、恥ずかしくない程度には、立派な人間でいようと思う」


 ノエルは涙を拭った。

 どうして泣いているんだ。

 エリアスには理解できなかった。

 泣きたいのはこっちだ。

 エリアスはよっぽど言ってやりたかった。

 恋人を弔うこともできない。

 このまま尋問、あるいは拷問され、死ぬしかない身だ。

 どうして羨ましそうな顔をしている。

 神官じゃないか、あんたは。

 ぼくたちには持ち得ない様々なものを持っているじゃないか。


「神官を中に入れたって?」


 突然、野太い声が響き渡った。

 二人はびくりとして薄暗い牢獄の闇に目を凝らした。

 向こうで看守が怯えた声で応じる。


「は、はい……、緊要の用件とのことで」


「誰も通すなと言ったでしょうが! 幾ら貰ったんです、この汚職看守。あなたは都市政府の雇われですか」


「はい」


「都市政府に正式に抗議します。明日にでも家畜世話係に格下げされるでしょう、覚悟しておきなさい。……中に、まだいるのですか」


「は、はい」


「名乗りましたか」


「ノエル……、オーグジリアリ・ハンド教会の助祭、ノエルと」


 偉そうな声の主が黙り込んだ。

 エリアスは牢獄の奥に引っ込み、さてノエルがどんな罰を受けるのか、見物だとわくわくしていた。

 肝心のノエルの表情は奇妙に歪んでいた。

 恐怖に怯えているだけではない、目の前の現実を見据えたくないという、臆病者特有の顔だった。

 こんな顔なら幾つも見てきた。

 どいつもこいつも、こんな顔をした後、都市から逃亡したものだ。

 だがここに逃げ道はない。どうするのか。


「神よ女神よ清浄なる右腕の女神よ我が魂の平穏を守る黄金の腕よ淀みなき流れに我を導きたまえ神よ女神よ豊饒なる左腕の女神よ我が潔癖を補助する白銀の腕よ……」


 エリアスは唖然とした。

 ノエルが凄まじい勢いで祈り始めたのだ。

 気が狂ったのか。

 闇の中から、燭台を片手に現れたのは、背の曲がった老人だった。

 矍鑠としているが、物腰は柔らかで、あの激しい声の主とは思えない。

 ノエルはぶるぶる震えていた。

 エリアスはその様子が尋常ではないことに気付いた。

 何か、巨大な恐怖と戦っている。


「助祭ノエル、何をそう怯えているのです」


「司祭長……」


 ノエルが絞り出すように言った。

 そしてその場に跪く。


「――司祭長。どうか、お聞かせください」


「はい?」


 ハイエイタス司祭長は穏やかな表情でそれに応じる。

 背後に立つ看守が、目を丸くして老人の変貌を眺めている。


「……私は司祭長を信じてもよろしいんでしょうか? それとも……」


「信仰とは信じることです。あなたは、信仰を放棄するのですか」


「私は、あなたを信じていたかったんです」


「神のみを信じなさい。あなたが咄嗟に神に祈ったように」


 司祭長はふと寂しげに笑った。


「――良い手駒だと思ったんですがね。予想以上に敏感ですね、あなたは」


「司祭長……」


「汚職看守。この青年を、収監してください」


「は、はい」


 看守が無抵抗のノエルを立たせる。

 司祭長は鷹揚に言ってのける。


「後で土産を持ってきます。きっと気に入りますよ。嫌なことを全て忘れられる」


 麻薬か。人格を破壊できるだけでなく、聖職を奪う格好の道具となる。

 淫行と麻薬服用を合わせれば、一発で聖職剥奪に繋がる。

 終わったな。

 そもそもノエルがこの牢獄を生きて出られるのか疑問だ。

 エリアスは看守に連れられて闇に溶けようとしているノエルの後姿を、目に焼き付けることにした。


「エリアスくん。麻薬流通に関する重要な事案について、相談があるのですが」


 司祭長が言う。

 エリアスは壁に凭れて首を傾げた。


「ぼくは何も言わないよ。目玉を刳り貫かれようと、肉親が目の前で八つ裂きにされようと、ぼくは動かない」


「ええ。それは期待していませんよ。ただ、あなたは、生きてさえいればいい」


 エリアスは口を尖らせた。


「……どういう意味、それ?」


「あなたが欲しいと。そう言っている人がいるのです」


「……いや、どういう意味だよ……?」


 司祭長はにやりと笑った。その邪悪な笑みに、エリアスは一帯の気温が下がったかのような錯覚に苛まされた。




     *




「人間は空を飛べると思うか?」


 イジドアは死体に呼びかけた。

 傍から見れば奇妙に思われただろうが、イジドア本人は矛盾しない思考を辿っていた。

 というのも、目の前の死体は、傷口から砂のような膿を出していた。

 人間ではない。

 これまで人間ばかりに質問を投げかけてきたが、もはや益はないのか。

 イジドアは絶望に突き動かされ、この怪物との邂逅を、むしろ嬉々として受け入れた。

 イジドアに腹を裂かれたスウィジンは、ぎょろりと目を剥いた。


「いやあ、酷いですな。いきなり斬りかかるとは」


「やはり生きていたか。お前は誰だ」


「拙僧はスウィジンといいます」


 スウィジンは瓦礫から身を起こした。

 すっかり荒廃してしまったバトムレスの通りを眺める。

 焼け焦げた家屋や、イジドアに解体された死体、障害物として利用された家具が散らばっており、乱雑に思われた貧民窟がこれまでどれほどの秩序を保っていたのか、思い知らされる有様だった。


「――イジドアさんですな。空を飛べるか、とお聞きで?」


「そうだ」


「人間は飛べやしませんよ。少なくとも、独力では」


「一人でなければ、飛べるのか」


 イジドアは剣をだらりと垂らしながら尋ねた。

 麻服と粗雑な作りの外套には返り血が無数に飛び散っている。

 バトムレスの残党を殺し回り、彼らの最後の反抗心を根絶やしにしているところだった。

 スウィジンは頷く。


「そうですな。ただ、容易なことではありませぬ。血の代わりに砂を吐く程度の芸当ができなければ、空を飛ぶなど、かなわんでしょう」


 そう言いながらスウィジンは砂を吐いた。

 腹にぽっかり空いた裂傷は治りつつある。

 やはり人間ではない。

 イジドアは深く息を吐いた。

 空を見上げた。


「お前は、空を飛べるのか」


「まあ、少々」


「俺を飛ばせ」


「それは無理です。わしにはそこまで馬力がありません」


「飛ばせ。殺すぞ」


「どうして、空を飛びたいのです」


 スウィジンが試すように尋ねる。

 イジドアは空を見上げたまま答えた。


「自由だからだ。途方もなく、自由だからだ」


「わしから見て、あなた様はこの上なく自由だと思いますが。狂気に彩られているが、それに支配されることもない」


「俺は、太陽を斬る」


 イジドアは言った。


「――それが自由だ。世界を終わらせる権利。それが自由だ」


 スウィジンは嘆息した。


「なんと傲岸な……。しかし、惹かれるものがあるのも事実」


 スウィジンは立ち上がり、埃を払った。

 頭をつるりと撫でて石片を除ける。


「――ならば、嫌われ者のわしではなく、彼女に頼んでみたらどうです。彼女は全ての人民に愛されておりますぞ。絶大な支持です」


「……?」


 イジドアはスウィジンが目の前で砂となって消えるのを見た。

 砂塵が舞い、それが収まったとき、バトムレスの殺伐とした世界に青い色彩が躍った。

 水色の髪の少女、ロレインだった。

 とぼとぼと歩いている。

 大剣の柄が、少女の頭をコツンコツンと叩いている。


「――リヴィア……、確か、そういう名前だった」


 だが、いまいちしっくり来なかった。

 イジドアは沈思する。

 あのお付きの神官は、少女を何と呼んでいたか?


「――ロレインだ。そう、あのひ弱な神官は。ロレインと。実の娘を呼ぶような声で。ロレインと」


 少女がつと顔を持ち上げた。

 少女は泣いていた。

 イジドアは少し意外な気持ちがした。


「――泣いているのか、ロレイン」


「あなたが……、いっぱいころしたの?」


 ロレインは大粒の涙を流し、それを拭うこともせず、えずいていた。

 イジドアは弱々しく肩を震わせる少女が、物々しい大剣を背負っていることに、違和感を覚えた。

 単に不釣り合いという理由ではない。

 砂を吐く怪人を見ても驚かなかったイジドアである。

 そうではなく、その大剣と少女の動きが連動していないように見えたのだ。

 少女が大剣を揺り上げて、一歩一歩運んでいる。

 だが、まるで少女の背中から伝わる力以外に、不可視の腕が存在し、その巨大な質量を支えているかのように見えた。

 イジドアは深く息を吐く。

 空を飛ぶとは、そういうことか。

 イジドアには何となく分かってしまった。


「人を殺すことは罪か。自由は認められるべきではないか」


「ころしちゃ、ダメなんだよ。おじさん、それだけは、ダメなの」


「駄目な理由を教えてくれ。俺は他人を殺すことで充足する。他に方法を知らない」


 ロレインは泣きながら笑った。

 晴れているのに雨が降っているみたいなもので、不意打ちの感が強かった。


「ともだちを、たくさんつくればいいんだよ。あたしは幸せだよ」


「友達……?」


 イジドアはあまりに素朴な言葉に、虚を突かれた。

 そしてそれがおぞましい響きを伴っていることに気付く。


「――ロレイン、人間は空を飛べると思うか」


「飛べるよ」


「どうやって?」


「みんなの力をかりて」


「みんな……。鳥か? それとも風?」


 ロレインは首を横に振った。

 水色の髪は透けているように見える。

 まるで空の色だ。

 イジドアは空を見上げた。

 彼女の髪は空に溶け込みそうで、やや違っていた。

 近いのは、空の向こうにある青い星。

 あの色と酷似している。

 星色。

 視線を戻すと、ロレインは大剣を抜き放っていた。

 イジドアは寒気を感じた。

 脅威を感じたわけではない、その意外なほど無邪気な少女の笑みに厖大な『信頼』を感じたのだ。


「ううん、みんなはみんなだよ。みんなの力で、あたしは飛ぶの」


 少女の小さな体が、空中を駆けた。



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