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星髪の少女  作者: 軌条
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ハウエルの覚悟

 麻薬の被害は年々拡大している。

 かつて一般に流通していた『白塗佳人』の強い毒性が人間の精神に甚大な影響を与えることが確認され、聖教はこの樹液加工品を根絶することを基本方針とした。

 人間の精神を冒すものは悪魔の囁きである。

 聖教典に示された『信仰心』の章によれば神への不断なる尊敬と祈りが信徒には義務付けられているという。

 ただし、麻薬を用いることで神の意志に近づけると主張する聖職者もいた。

 実際に私は神と対話した、これは神がもたらした什物である、などと。

 そうした報告は方々から上がり、敬虔な信徒ほど麻薬に溺れる傾向も一時期見られた。

 それに対応せざるを得なくなったオーグジリアリ・ハンド教会の司祭長、クレイグ=ハイエイタスの高談が秀逸である。


「我々は日々高みを目指して神との対話を試みている。しかし近年見られるような、得体の知れない女陰を模したようなおぞましき舶来物に現を抜かすような者は聖職にあらず。

 我々は教え導く者である。自覚のみならず、覚他をも成就せねばならぬ身である。肝に銘じよ。神はそのようなものを介して、我々との対話を試みたりはしない。

 我々と神の対話が実現するのは、穢れなき精神の内奥においてのみである。神は我々を常に照覧なさっている。神の光によってたちまち偽りの悟りは見破れようぞ。我々と神のつながりは、その純白の信仰心によるもののみ。偽りの白は黒き本性を見せよう。

 悪魔の囁きを封じ込めよ。悪魔の所産を売り譲る者あらば、その者は人にあらず。全て神の企図に抗う者なり」




     *




 バトムレスの首魁、ハウエルには様々な交友があった。

 決闘裁判の代理人として自慢の肉体を躍動させることで恩義を売った。

 武器商人を助けて資金を調達し、麻薬密売人を助けて確乎たる物資調達経路を獲得し、街娘を助けて市井の動向を推し量った。

 怪僧スウィジンもハウエルに助けられた被告人の一人である。

 下級市民同士の決闘裁判は勝負が拮抗することが多いが、ハウエルが参戦した時点で勝敗は決したも同然だった。

 スウィジンの裁判もハウエルが相手を軽く一蹴してしまった。

 ハウエルの根城である薄暗い小屋の中で、禿頭の大男が豪快に笑う。


「先日はどうも助かりましたぞ。わしのような老いぼれに、決闘は少々重荷でしてのう」


 と、言いつつも、その僧侶は若々しい姿をしていた。

 頭や肌はつるりとしており、脂が漲っている。

 纏う長衣は擦り切れて肢体が露になっていたが、筋骨隆々たる有様だった。

 何気なく腰にぶら下げた小剣は使い込まれ、柄が黒ずんでいた。

 ハウエルは椅子に腰掛け、足を組み直す。

 修繕したばかりの椅子は座り心地がいまいちだった。


「ねえ、スウィジンさん、どうしてこんなに回りくどい方法を採ったのかしら?」


「回りくどいとは?」


 聖職には禁じられている酒を、躊躇うことなく口に運ぶスウィジンは、白を切った。

 ハウエルは金髪に櫛を入れてもらいながら、軽く首を横に振った。

 赤い櫛を持った部下がぎくりと動きを止める。


「しらばっくれたって無駄よ。アナタ、ワタシと接触する為に、わざわざ裁判を起こされるようなことをしたんでしょ」


「何のことだか、さっぱり」


 スウィジンは天井を仰いだ。

 ハウエルは盃を放り投げた。

 卓上に叩きつけられたガラスの破片が、怪僧を襲う。

 ハウエルの部下が逃げ惑う中、スウィジンだけは泰然と酒を飲み続けていた。

 あれだけ破片が飛び散ったのに怪我一つしていない。

 ハウエルはこの得体の知れない男に興味があった。

 何の目的でこの街に来たのか。


「目的は何?」


 回りくどい男に、わざわざ付き合う義理はない。

 ハウエルは直接的に尋ねた。

 スウィジンは苦笑する。


「ハウエルさん、わしはね、人生の目的というのは人類共通だと思うわけですよ。拙僧、悟りましたわ」


「はあ?」


「わしは少数教派のしがない伝道師ですがね、様々な国を巡り歩いて、分かったことがあるのですよ。人間は自分の幸福の為に動いている」


「そりゃ、そうでしょうね。ワタシもそうよ。みんなそう」


「当然の摂理だと思われるでしょう。しかし、違うのですよ。当然ではないのです」


 スウィジンは酒をぐいと飲み干すと、お代わりを要求した。

 少し離れた位置にいた厳しい目つきの腹心が不承不承酒を注ぐ。


「――わしは世に憚る愛だの友情だの恩義だの、そういったものを尊重しておるのです。いいですか、人間にとって一番の幸福は他人に奉仕することです。そして最も他人に奉仕しているのは奴隷です。わしは全人類奴隷化計画というものを目論んでおるのですが」


「はあ?」


「その礎を、このファジー・デツに築きたいのです。この都市を出発点として、全人類を奉仕者とする」


 ハウエルは首を捻った。

 単なる狂人か。

 興味が急激に薄れていった。


「お帰り頂いて」


 はい、と腹心たちが一斉に動き出す。

 怪僧の腕を取り、立たせようとする。

 酔っぱらったようにふらつきながら立ち上がったスウィジンは、にやりと笑った。

 ハウエルははっとした。

 彼の瞳に宿る、紛うことなき理性の光を見た。


「――ちょっと待って。……まだ、言いたいことはある?」


「ええ。わしなら、あなたのお役に立てますぞ」


「役に?」


「情報提供です。わしは少々特殊な力を備えておりましてな。お目にかけましょうか?」


 ハウエルは周囲の腹心たちに目配せした。

 本当は彼らの意見を聞こうと思っただけだが彼らは怪僧の拘束を解いた。

 ハウエルの眼差しに怪僧への関心が滲み出ていたらしい。

 スウィジンは衣服を整え、咳払いした。

 バトムレスの首魁は首を傾げた。


「これから、何をするの?」


「まあ、ご覧ください」


 スウィジンは不敵な笑みを浮かべた。

 次の瞬間、その笑顔が砕けた。

 誰かが悲鳴を上げた。

 まるで石膏像を叩き割ったかのように、頭部が炸裂し、まるでさきほどハウエルが投げつけた盃のように呆気なく破片が散ったのである。

 ハウエルは直視していた。

 スウィジンの剥き出しになった体の断面から、植物の蔦のような緑の異物が這い出てくるのを、驚きと共に見つめる。

 蔦はやがて色味を帯びた。

 赤、青、白、黒。

 虹のように鮮やかでありながら濁った印象のあるおぞましい色だった。

 蔦が蠢き、その間を黒い砂が隆起し、スウィジンの顔がみるみる形成されていく。

 誰かが、また驚きの声を上げた。

 再生されたスウィジンの貌は、エリアスと全く同一のものだったのである。

 眉目秀麗な少年が下品に口元をひん曲げてみせる。


「先日、ハウエル様と共にいた少年の貌です。似てますかな?」


 声までエリアスと同じだった。

 金色の巻き毛の質感まで一緒。

 エリアスと無数の抱擁を交わしてきたハウエルだからこそ分かる、本物のエリアスと違いなど全くない。


「これはいったい……」


「わしの呪術の成果です。顔を自在に変えられる。その気になれば体も変えられますが、時間が少しかかりますので、ここではちょっと」


「悪魔だ」


 誰かが叫んだ。

 スウィジンは気分を害したように口を尖らせる。

 体格が良いだけに、エリアスの美貌はあまりに不自然だった。不気味極まりない。


「心外ですな。拙僧は悪魔などではありませんぞ」


 スウィジンは猛烈な勢いで抗議したが、ハウエルはその変身を興味深く見ていた。

 単純な見世物としても面白いし、密偵にはもってこいだ。

 エリアスなら、彼を重用し多大な成果を上げるだろう。


「どうして、ワタシに協力したいと思うの?」


 有用な人間こそ敵方の密偵である可能性を疑わなければならない。

 スウィジンはエリアスの貌をねちっこい手つきで撫でた。


「ハウエルさんの死を悲しむ人が多過ぎるというのが一つ。それより大きな理由は、前述したように、人類の奴隷化を図りたいのです」


「どういう意味?」


「そのままの意味ですよ。人類には奴隷がお似合いなのです」


 ハハハ、とエリアスの貌をしたスウィジンは笑った。

 腹心たちは部屋の隅まで後退し、まともに応対しているのはハウエル一人である。


「歪んでいるのね」


「歪みこそ人間だ。そうじゃありませんか?」


 スウィジンの頭がまたもや爆発した。

 部下たちは再び悲鳴を上げた。

 人間の頭が砕け散るのを見るのは、とてもじゃないが気持ちのいいことじゃない。

 ハウエルは元々の怪僧の貌が出現したことに満足した。

 若々しい僧侶の顔は不敵な笑みを浮かべた。


「さあ、早速、わしがハウエルさんの悩み事を一つ解消してみせましょうか」


「うん?」


「決闘裁判を終わらせます。わしが敵方を翻弄すれば、正規の手続きなど不可能でありましょう」


 ハウエルは確かに、長く続いている決闘裁判にはうんざりしていた。

 絶対に負けられない戦いが続くのは、消耗甚だしい。

 ……だが。


「それは結構だわ。ワタシは正々堂々、聖教の挑戦を受け続ける」


「はて?」


 スウィジンは首を傾げた。

 バキバキと首の骨を鳴らしながら唸る。


「――面妖なことを。あなたの人生は、ファジー・デツの聖教組織のくだらないこだわりによって、大きく狂わされてきたのではないのですか」


「そうね。でも、ワタシは小狡いことはしたくないのよ。暗殺だって嫌。そんなぁ、血腥いじゃない、やぁねぇ」


「拙僧は平和主義者ですぞ。誰一人傷つけないと約束致しましょう」


「それでもやだの。あなたの能力、面白いわ。だから、ここに置いてあげるのはいい。でも、変なことはしないで。ワタシは自分の力で決闘裁判を乗り越えるわ」


 ハウエルは決然として言った。

 そして髪を撫でつける。


「――ちょっと、髪が乱れてるじゃない。櫛を入れてよ」


「は、はひ、ただいま!」


 まだ衝撃から立ち直れていない部下が赤い櫛を掲げた。

 怪僧は顎を撫でて首を振った。


「残念です。しかし、あなたの言うとおり、わしは静観することにしましょう。いつでも力をお貸し致しますからな……」


 スウィジンの体が爆発した。

 今度は頭部だけではなく、全身が砕け散った。

 今度は誰も何も言わなかった。

 あまりに衝撃が強く、誰もが言葉を失っていた。

 破片は陶器か何かのようで、とても人体が爆発したとは思えない。

 臭いもなかった。


「人間が全員、こんな体なら、戦いもし易いんだろうけどね」


 ハウエルは自身の腕に突き刺さった破片を払いのけた。

 血がじわりと滲み出てくる。


「――あいにく、ワタシたちには血が流れてるのよね」




     *




 数日経って、漸く、ノエルは察した。

 メーベルはこの家に住まうつもりらしい。

 どうしてそんなことになったのか、ノエルには理解できない。

 売春宿の主人がメーベルを連れ出すだけで金を要求してくることには驚いたが、急いでいたので大量に投げ渡してしまった。

 それで買ったと認識されてしまったのか。

 人間を買ってしまったのか、私は。

 とんでもない悪徳だった。

 奴隷なくして文明は維持できない、とはよく言われることだが、人間の売買は禁忌中の禁忌であり、今すぐにでも取り消したい。

 だがメーベルの幸せそうな顔を見ていると「間違いだった」なんて言えるはずもない。

 しかも、


「今夜、いいですよ」


 などと彼女に言われて寝室にいざなわれたときのノエルに、そんな神学的な懊悩などあるはずもない。

 ただ、野獣のように貪り食らうだけだ。

 こんな生活を自分が送るとは思わなかった。

 ノエルは昼間オーグジリアリ・ハンド教会に向かい、勤めをこなし、神学上の議論を交わし、司祭長とは決闘裁判の進捗状況について話をする。

 夜になり家に帰れば、魅力的な若い愛人と無邪気な子供が待っている。

 およそ聖職には許されない生活だが、炎が全く使えず、夜になれば早々に眠るしかないことを除けば、不満の起こりようのない生活だった。


 ロレインは手間のかからない子供だった。

 利口で、素直で、おまけに笑顔が可愛い。

 とにかく頑丈で、戦士というのも頷けなくもない。

 どんなに重いものでも持ち上げるし、体は洗わなくても、いつまでも清潔だった。

 原因はよく分からない。

 人間ではない、とはもう思わなかったが、普通ではない、とは思い続けている。


 以前、妙なことがあった。

 あまりに重く、どうしても動かせない衣類棚があった。

 部屋の模様替えに役立てないノエルは意気消沈していたのだが、それを易々と、ロレインが持ち上げた。

 それだけなら落ち込みはするが、理解はできる。

 ロレインは凄まじい怪力なのだと。

 しかし不思議なのだが、その後ノエルが衣類棚に触れると、いとも容易く動いたのだ。

 まるで紙で出来ているかのように、簡単に棚が持ち上がる。

 メーベルによれば、


「最初は棚が金具で固定されていたのでしょう。ロレインがそれを外したんですね」


 そういうことなら納得はできる。

 しかししばらく経つと、再び棚は動かせなくなった。

 もちろん金具で固定されているわけではなく、単純に重くて動かせないようだった。


 不思議だ。ロレインの周りでは不思議なことが起こる。

 こんな子供が都市政府の調査に引っ掛かり戦士の一人として招聘されることになった。それも不思議だ。

 どれほど強かろうと、こんな子供を決闘代理人として使おうと思うだろうか?

 普通は信用しない。

 実力以前に、人格に不安定な面を見るものではないか。


 ノエルは司祭長にそれとなく尋ねた。

 どういう基準で決闘代理人を選んでいるのか。

 かの紫眼の老人は言った。


「それに相応しい人物は限られる。殺生もあり得る舞台です、女子供は本来、決闘の舞台に立つべきではありません」


 今回の決闘は黒の誓約が課せられる、と司祭長は言った。

 投降と当事者の死によってのみ、決闘の終結が宣言される。

 他に赤の誓約というのもあるが、これは出血によりその者の敗北を決する。

 黄、白、青、というのもあるらしいが、ノエルは詳細を知らない。

 女子供が相応しくないのなら、ロレインは一番選ばれそうにないではないか。

 二番手の代理人とはいえ、本当にあの鬼神ハウエルと一戦交えるかもしれないのだ。

 第一の決闘代理人はイジドアという名前らしい。

 男性らしいが、ちゃんとした戦士なのだろうか。

 もしイジドアが負ければ、次はロレインの出番になりそうだ。


「――情はかけずともいいのです」


 司祭長は言う。ノエルは首を横に振る。


「あんな子供ですよ。しかも黒の誓約。死ぬまで戦うんですよ?」


「確かに女性であり、年端もゆかぬ子供です。ですが、あの子供は特別なのです」


 どういう意味で特別なのか。

 思い当たる節が色々あって思考が纏まらない。


「あの子は――確かに変わっています。しかし、決闘は……」


「私も最初は驚きました。ですが、司教猊下の深慮があってのことです。我々が口を挟むべきことではない」


 司祭長の頑固な表情を見、ノエルは押し黙った。

 それからはもう、実務的な話しかできなかった。

 平穏で、しかし刺激的な日々が過ぎた。

 ノエルは度々錯覚した。

 自分はメーベルと結婚し、メーベルがロレインを産み落とし、この年まで育て上げたのだと。

 錯覚は一瞬で解消される。

 しかし元気に遊んでいるロレインを眺めていると、


「ここまで育ってくれてありがとう」


 などという言葉を投げかけたくなるのだ。

 自分に父性があるなど、驚きだった。

 そういったものとは無縁の人生を迎えるのだ、と覚悟していた。

 覚悟、という言葉は違うか。

 諦めていた、と言うべきか。

 どんな人間であっても、百様の人生を楽しむことはできない。

 聖職でありながら山賊であり、王侯であり、商人であり、奴隷である。

 ……そんな人間がいるはずがない。

 ある程度は努力で何とかなるかもしれない。

 しかしどうしようもない限界線があるだろう。

 聖職者が妻帯し、子供を持つことも、努力ではどうしようもない限界線の向こう側の出来事だと思っていたのだ。

 それが半ば実現している。

 ノエルは夢でも見ている気分だった。

 神の采配であるならば。感謝しなければなるまい。

 メーベルの笑顔とロレインの笑顔は質が違うし、それを眺めて込み上げてくる感情も全く違うが、どちらも守りたいと思うのは共通だった。


 守りたい……。

 自分に、何ができるのだろうか?


「ついに来ました」


 司祭長が言った。決闘裁判の日時が決まったらしい。

 秘密裡に申請が行われていたということだ。

 ノエルはこのオーグジリアリ・ハンド教会の緩やかな営みしか知らなかった。

 この組織の、いったいどんな人物が、そんな血腥い行為の申請を行っていたのだろう。

 同じ聖職だろう。子供を決闘の場に押し出す、そんな卑劣な行為を是としているのか。


「誓約を行う必要があります。明朝、代理人を連れて、裁判所に向かってください」


 司祭長が言った。

 ノエルは虚を突かれて、必要以上に驚いてしまった。


「私もですか?」


「ええ」


 司祭長は頷く。


「――原告の市長と会えるまたとない好機です。聖職者嫌いの市長が、あなたがたにどんな愛想笑いを繰り出してくるのか、見物というものでしょう」


 司祭長の眼は笑っていなかった。

 ノエルは曖昧に笑い、イジドアとかいう戦士とも会えるのか、と期待する感情もあった。

 どれほど屈強な戦士か見てやる。

 もし不甲斐ない虚勢だけの男だったら一喝してやる。

 貴様にはロレインの命も懸かっているんだぞ、と。怒鳴り散らしてやる。

 ノエルは意気軒昂と司祭長の前を辞去した。




     *




 裁判所は教区内にはない。

 と言っても、都市の中枢が集積する中央部から大きく外れているわけではない。

 決闘裁判所は市庁舎に隣接し、そこだけぽっかりと、聖教の権力が及ばない地として定められている。

 ファジー・デツは宗教の力を借りて統治を行いつつも、あくまでその力を支配下に置いているという点で特殊だった。

 いわば宗教は、市長が幾つも所持している統治道具の内の一つに過ぎない。

 使えないと判断すれば呆気なく放擲される。

 こんなことが可能なのも、ファジー・デツが全く独立した都市国家として、周辺区域に絶大な影響力を持つからだ。

 聖教にとってみれば、ファジー・デツに逆らうことは、区域内に住まう信徒を見殺しにするも同義であり、ファジー・デツの意向に逆らえる周辺都市は存在しない。

 ノエルは強大な軍事力を誇るファジー・デツの全容を知らなかった。

 しかし、裁判所付近に練兵所が構えており、裁判所の二階の露台から、その演習風景が一望できた。


「なぜ、練兵所と裁判所が隣接しているのか、ご存じですか」


 控え室の露台に立っていたノエルに声をかけたのは、職員らしき恰幅の良い男だった。


「ええと。練兵場で決闘が行われるからでしょうか」


「違います。決闘はどこで行われても構わないのです。事前の申請が、裁判所で行われてさえいれば」


 男は和やかに言う。

 違う、とあっさり否定されたのに、悪い気分にはならなかった。


「――決闘の後、裁判所は勝敗を判定し、判決を下します。しかし代理人や当事者が死亡している場合もある。そのときも全て裁判所へ『ご足労』をおかけ頂き、判決を聞いて頂きます。練兵場には大規模な死体の投棄場所がありますので、そこへ死体を移します」


「練兵場に、墓地が?」


「墓地ではありません。死体の投棄場所です」


 職員はねっとりとした口調に変わった。

 ノエルにこの話題を提供することに喜びを感じているようだった。


「投棄……。まるで物を捨てるかのような」


「決闘に敗れ、しかも死んでしまうような人間は、弔う価値もないのですよ」


 職員は唾を飛ばす。

 段々と白熱しているようだ。


「――神が勝敗を決するのです。全て神のご意志なのです。ですから、敗れる者は邪悪なのです。悪魔なのです」


 何が教区外だ。狂信的な信徒がここにいるではないか。

 ノエルは驚き呆れた。

 少なくとも聖教典は、決闘裁判に何の根拠も与えていないし、したがってこれは神の意志ではない。

 いったい、何を吹き込まれたのか。

 露台から部屋に戻ると、ロレインが退屈したか、うとうとし始めていた。

 木製の瀟洒な椅子の上で、こくん、こくん、と何度も頭が落ちかけている。

 ノエルが苦笑して、ロレインの傍に寄ったとき、部屋の扉が開いた。

 入ってきたのは四人だった。

 その中の一人に、ノエルは戦慄した。


 中肉中背の男だった。

 慎ましやかな上級神官の装束を纏っている。が、聖職の人間であるはずがない。

 赤みがかった金髪。錆びた鉄のようにざらついている。

 瞳は青いが、濁っていた。

 まるで不純なものを眼球に垂らし過ぎたかのように、復元不能な穢れが全体に浸潤している。

 胸の前に掻き合わせた手の指は、乙女のもののように細かったが、骨張っているわけではなく、粘土を練り合わせて作ったかのような質感だった。

 肩まで垂れた髪を振り払い、その男はまっすぐロレインを見据えた。

 うつらうつらしている少女は反応を示さない。


「彼がイジドア。決闘代理人です」


 イジドアの担当らしき司祭が言う。ノエルは恐縮し、ロレインを起こそうとした。


「――いやいや、構いません。大事な代理人ですからね、どうぞそのまま」


 司祭はノエルに一枚の紙を差し出した。

 細かい典麗な文字がびっしりと連なっている。

 下のほうに、書体が変わって、人名らしき文字の羅列がある。五名分だ。


「既にハウエルと、原告である市長、その代理人であるイジドアが署名してあります」


 市長は署名をしてさっさと帰ったのか。

 ノエルは契約書を眺めた。


「あと、二人分ありますが……」


「それは裁判長と法服裁定員の署名です」


 法服裁定員とは、決闘を実際に取り仕切る裁判所員のことである。


「それは、普通、最後にするべきもののような……」


「基本的に、袖の下がものを言う業界ですから」


 あっさりと司祭は明かす。

 ノエルは裁判というより商取引の現場にでも立ち会った気分だった。

 きっとこのハウエルの署名も本人のものではあるまい。


「あとは、ロレインが署名すれば良いのですね」


「ロレイン? ああ、彼女の名前ですか。サニー・ロックイースト・リヴィアでお願いします。では、どうぞ」


 筆記具を渡されたノエルは、一瞬何を要求されているのか、分からなかった。


「私が書くんですか?」


「彼女は識字しません。彼女を紹介してくれた方がおっしゃっていました。ですから、ノエル助祭、あなたが」


「……分かりました」


 ノエルは、ロレインを紹介したという人物が気になっていたが、数人の人間から注目を浴びて緊張していた。

 筆記具を紙の上で走らせ、六つ目の署名とする。


 誓約書に全ての署名が揃った。

 これで決闘裁判が行われる。

 日時が明記されている。

 黄狸の月の第一三日……、すなわち九日後である。

 まだ時間がある。ノエルは嬉しかった。

 あと少しロレインと過ごせると思うと、気分が軽くなる。

 唐突に、イジドアが黒い唇を動かした。


「人間は空を飛べると思うか?」


 その場にいた誰もが硬直し、イジドアの意図を掴めずに困惑した。

 ノエルとて例外ではなかった。

 しかし、かの決闘代理人が見据えているのは、筆記具を司祭に返そうと腕を突き出しているノエルである。


「あ、いえ……、飛べるのではないですか」


「どのようにして?」


 ノエルは返答に窮した。

 思わず天井を見上げる。


「高いところから墜ちれば。一瞬、飛べるのではないでしょうか」


「空は、そんなに低くない」


 憮然として言ったイジドアは、踵を返して退室した。

 思わず筆記具を落としてしまったノエルは、その跳ね返る音で我に返った。


「……いったい、何なんです?」


 イジドアの後を監視役の二人が追った。

 残った司祭たちは、肩を竦めていた。


「出会う人全てに、あの質問をぶつけるのです。どうぞ、お気になさらず」


「そうですか。変わった人ですね」


 戦士として優秀なのかどうか、分からなかった。

 ただ、普通の感性ではないと感じた。

 もしかすると、麻薬に溺れているのかもしれない。

 幻覚や幻聴に悩まされる人間が多いと聞く。

 イジドアもそうなのか。

 ただ、戦士に麻薬は有用である。

 まやかしの勇気をくれるという話だ。

 痛みだってなくなるらしい。


 ついにすやすやと眠り始めたロレインに、司祭たちが視線を集める。

 イジドアとは対照的だ。

 彼は他人に不安感を与えるが、彼女は安心感を与える。

 司祭がうらめしそうにノエルを見た。

 イジドアの担当になったことを恨んでいるのか。

 ロレインの担当はノエル一人だが、イジドアには三人以上の聖職者があてがわれているようだった。


「では、ハイエイタス司祭長に、どうぞよろしくお伝えください」


「はい。確かに承りました」


 司祭が印を切る。やや古風な型だった。


「清らかなる女神の腕の加護を」


「清らかなる女神の腕の加護を」


 ノエルは返し、ロレインを優しく抱き上げた。 

 異様に軽くなっている大剣も一緒に持ち上げた。

 彼女の背中に固定されている大剣は、鉛色の鞘を鈍く光らせ、まるでノエルを威嚇しているかのようだった。


「お待ちを」


 ノエルが裁判所を出ようとしたとき、声をかけられた。

 振り返ると、先ほどイジドアを慌てて追いかけていった司祭の一人が駆け寄ってきた。


「いいんですか、イジドアさんの世話は」


「ええ。それよりも、一つ提案があるのですが」


「提案?」


「はい。リヴィアさんを、別の決闘裁判の代理人として使ってみませんか」


 使う、という言葉が引っ掛かり、言葉を失った。

 渋面になってしまう。

 司祭はそれを拒絶の意味と取ったようだ。畳み掛ける。


「――組織内で、まだリヴィアさんの素性を知らない者が多いのです。都市政府側が引っ張ってきた人材ですから、聖教内での反発が予想されます。それを躱す意味で、簡単な決闘裁判で実力を見せつけたほうがよろしいかと存じまして」


「……素朴な疑問なのですが」


「はい」


「都市政府がロレインを世話するわけにはいかなかったのですか。私のような男に世話を一任するのは、彼女が負った重責を考えると、不適切のように思われるのですが」


「それがですね」


 困った風に司祭は言う。


「――リヴィア……、ロレインとお呼びしましょうか? ロレインさんを登用する際の条件だったらしいのです。すなわち絶対に彼女を裏切らない人物一人に世話を任せること。待機中はファジー・デツの市街に住まわせること、です」


「それは、何の為に?」


「さあ。分かりかねます」


 司祭は言う。

 都市政府に躍らされているのが気に食わない様子だった。


「――聖教側は、自分たちが引っ張ってきたイジドアさんを優先的に使うという条件で、都市政府側の条件を呑みました」


「条件を呑む?」


 よく分からなかった。


「ええ。市長は絶対に裏切らない部下に心当たりはありませんでした。子供の世話をするとなると女性が適任かと思われましたが、子供とは言え、戦士です。そこで、敬虔な聖教徒に世話を任せることにしたのです」


「都市政府にも、信用できる人材はいるでしょう」


「ご存知か分かりかねますが、今、都市政府には麻薬が蔓延しておりまして」


 ノエルはぞっとした。あの白くおぞましい悪魔の香料が?


「――申し上げにくいのですが、あれを服用すると、止め処のない肉欲に支配されるらしいのです。ロレインさんが被害を受けるにしろ、暴走した男が返り討ちに遭うにしろ、望ましいことではありませんから」


「ええ。……ですが、聖職の中にも、麻薬に手を出す人間は多いでしょう」


「麻薬撲滅運動の急先鋒である、クレイグ=ハイエイタス司祭長のおわしますオーグジリアリ・ハンド教会ならば、その傾向は薄いだろうとのことです。あなたが選ばれたのは、司祭長の最も信頼する人物であったからではありませんか」


 最も信頼する……。

 出世を断念し無為な勤めの日々を過ごす自分が、信頼されている?

 度胸のない、の間違いではないか。

 麻薬に手を出す度胸も、女に手を出す度胸も、背徳に興じる度胸もない。

 そう思われたのではないか。

 司祭はノエルの背中で眠っているロレインの顔を一瞥する。

 その和やかな雰囲気に、自分の申し出がはたして正当なのか、自信がなくなったようだった。


「――それでさきほどの話ですが、ロレインさんを別の決闘裁判の代理人にしてみる気はありませんか」


「そんな大事なことは、私の一存では……」


 というより決定権はもっと上の人間にあるだろう。

 自分はしがない世話役に過ぎない。

 司祭は頷く。


「ごもっともです。実を言えば、既に司教猊下の許可は頂いているのです。猊下もロレインさんの実力を見てみたいと仰せでしてね。あとは実際に世話をしているノエルさんの許可を頂ければ」


 ノエルは口を意味もなく開閉させた。

 やっとのことで絞り出した言葉が、


「私は……、ちょっと、分からないです……」


 正直に言えば、無用な争いにロレインを駆り出したくなかった。

 だが、その理由を尋ねられたら困ってしまう。

 まさか親愛の情が湧いたなんて言えない。

 我が子のように感じているなどと……。

 ノエルの背中が、にわかに重くなった。

 ぎょっとした彼は膝をつき、慌ててロレインを下ろした。

 彼女はぱっちりと瞼を開けて、ノエルの腰に手を置いた。

 水色の髪がわさわさと蠢き、司祭は驚いたようだった。


「あたし、やるよ! いっぱい戦ってこいって、言われたもん」


 ノエルも司祭も唖然としていた。

 ロレインはそう言ったきり、ノエルの背中にもたれ、また夢の世界に没入してしまったからだ。

 背負い直すと、彼女の躰も大剣も軽くなっていた。

 不思議だ、重さが変わるなんて。


「……本人はやる気のようですね」


 司祭の言葉に、ノエルは頷くしかなかった。


「ええ。好戦的みたいですね。普段は普通の女の子なんですが」


「それでどうします?」


「その担当する裁判の仔細を知りたいですね」


「ごもっともです。こちらにどうぞ」


 ロレインを背負ったノエルは、裁判所の資料室へと向かった。

 ノエルは色々と裁判の日程や争点を聞かされたが、内心は懊悩していた。

 司教がロレインの戦いぶりを見たいと所望している。

 ロレインを戦わせないという選択をするとしたら、正当な理由が必要となるだろう。

 子供だから、とか、女だから、という理由は全く通用しない。

 予備の代理人でしかないロレインは、そもそもイジドアほど過保護にする必要はない。

 実力に不透明な部分がある以上、何らかの示威は必要ではないか。


 気づけば、ノエルは書類に署名していた。

 今ではごく一般的になった麻薬の服用に関する罪過の裁判だ。

 原告は麻薬取締局となっているが、これは都市政府直轄の新造部隊で、武装さえしている。

 本来、代理人なんか立てる必要はない。

 というのも、麻薬取締の機会が多過ぎる為に、決闘なしでその場で処罰を加える場合が増えているからだ。

 わざわざ裁判にまで発展させたのは、ロレインの決闘を実現させる為だろう。

 相手方は下級市民、ほとんど金を持たない。

 代理人を立てるにしても、半端な実力の戦士である可能性が高い。

 心配することはない。

 きっとロレインなら勝てる。

 都市政府が目をつけた逸材だ、不思議な力だって備えている。

 署名され、効果を持った契約書を、ノエルは眺める。

 司教の署名がある。

 本来余分な署名だが、ノエルに圧力をかける為であろう。

 そしてそれは有効だった。


 資料を眺めている間、ロレインは部屋の隅の椅子に寝かせていた。

 背負いながら署名することだって、物理的にはできたはずだ。

 だが、彼女の重みを感じながら、そこに彼女の名前を書くことは心情的に不可能だった。

 被告人の名前はアビー。

 姓も聖名もありはしない。

 明らかな下級市民だ。

 被告人の代理人の欄には、まだ何の署名も為されていなかった。




     *




 ユニスが勤労意欲を失う事由には、二つある。

 一つは、客があまりにも『矮小な』オトコだった場合。

 もう一つは、自分自身が金を持ち過ぎること。

 金貨が配られたあの日から、ユニスは客を取ることにそれほど熱心でなくなった。

 良い男が現れても、情熱的になれなかった。

 適当に体を触らせて、終わり。

 この仕事をそれなりに楽しんでいたはずなのに。

 思うのは、今頃メーベルがどんな暮らしをしているのかということ。

 きっと綺麗な服を着て、高級な料理に舌鼓を打ち、本物の愛を感じながらあの男に抱かれているのだろう。

 羨ましい。

 妬む気持ちはないはずだったが、段々自分が信じられなくなってきた。

 夕暮れ、客の出入りが多くなる頃だ。

 ユニスは控え室に詰める同僚が少なくなっていっても、それほど不安にはならなかった。

 部屋の扉が開く。

 しばらくしても入ってくる気配がないので、振り返った。


「何よ、さっさと閉めなさいよ、寒いじゃな……」


 言いかけたユニスは、そこに立っているのが、きらびやかな婦人服を纏い、黒髪に綺麗な飾りをつけたメーベルであることに気付き、愕然とした。

 そして思わず、


「捨てられた?」


 と尋ねてしまった。

 メーベルは微笑した。


「いいえ。よくしてもらってます。でも、今日は相談があります。よろしいですか?」


「え、ええ。もちろん」


 無意識に他人の不幸を期待していたユニスは、自分が嫌になった。

 そして、せめて親身に相談を聞いてやろうと決めた。

 それにしても。


「綺麗な服ね。ここらじゃ、絶対に手に入らないわ」


「物価はそれほど変わらないのに、不思議ですよね。今度、持ってきますよ。家にこういうのがたくさんあるんです」


「ほんと? 是非頼むわ」


 ユニスははしゃいで言いながら、相談って何だろうと思った。

 ノエルによくしてもらってるなら、多少の悩みなんてへっちゃらのはずだ。

 近所付き合いが上手くいかないとか、上級市民の食べ物が口に合わないとか、そんなくだらない悩みだったら叱り飛ばさないと。

 だが、メーベルの悩みは深刻だった。


「勘違いだったんです」


「へ?」


 メーベルは顔を持ち上げた。

 その瞳は濡れていた。

 ぞっとするような凄絶な色気が滲み出ている。

 女同士の恋愛には全く興味がないユニスでさえ生唾を呑み込むほどの色気。


「ノエル様は、私を貰うつもりはなかったんです。ただ、子供の看病に、私を――」


「ちょい、ちょっと待って。勘違いって、どういうこと? 本人がそう言ったの?」


「いえ。雰囲気で分かります。あの方は嘘をつけないみたいで」


 ユニスは唖然としていた。

 あれほど情熱的にメーベルを誘っておいて、大量の金貨を払っておいて、囲うつもりはなかったということ?

 全く意味が分からない。

 分からないが、沸々と怒りが湧き上がってきた。


「なるほど、それで、逃げ出してきたわけね。真実の愛がそこにはないって気付いて」


「いえ。ノエル様は、私を真剣に愛してくださっています」


「ふへ?」


 マヌケな声が出た。膨れ上がった怒りが萎んでいく。


「お優しい方ですから、勘違いだったとは言えないのです。それが痛いほど分かります。あの方の好意に甘えていることが、何とも心苦しく……」


 メーベルは状況を整理すべきだと思った。


「ええとさ……、ノエルがメーベルを買ったというのは、勘違いだった」


「はい」


「でも、ノエルはメーベルを愛している。勘違いだったなんて、一言も言わない」


「ええ」


「メーベルは、勘違いで神官さんの妾になったことが、心苦しい。それで相談に来た」


「その通りです」


「阿呆か!」


 メーベルは目を丸くし、激高したユニスを呆然と見つめた。

 ユニスは怒りを爆発させたことで、売春宿全体がしぃんと静まったことを感じ取った。

 空気が肌を刺す。

 ちょっと赤面しながら椅子に座り直す。


「――そういうのって、関係ないよ。気持ちが通じ合っているなら、それでいいじゃん」


「でも。私の勘違いの所為で、あの方にご迷惑を……」


「売春宿に来た時点で、あのオトコの背徳は決定してたのよ」


 ユニスは決闘裁判について、エリアスが仄めかした情報以上のことを知らなかった。

 だが、メーベルがノエルをたぶらかしたことは知っている。

 それを責めるつもりはない。

 自分だって、仕事で来ている神官から金を巻き上げようとするだろう。

 神官のような、金を持っている人間がこの売春宿に来ることなど、滅多にないのだから。

 売春宿を連絡の場所に選んだのが間違いだったのだ。

 ユニスは知っている。

 メーベルに伝言を頼んだ司祭も、さんざん彼女に金を巻き上げられたことを。


「私はあの方を誘うべきではなかった。あのような善き人は私に相応しくないんです」


「ああ、もう、どうしてそうなるのよ」


 ユニスが呻いた。


 そして、ノエルに対して不満を持った。

 どうしてはっきり言わない。

 さっさと上級市民権を買ってあげれば、メーベルが悩む暇もなく、教区内で暮らすことを余儀なくされる。

 ノエルがひたすらおどおどしているから、無用な問題が発生するのだ。


「――メーベル、服!」


「え?」


「わたしに服を! 上級市民に相応しいやつをね! 一緒にノエルを説得してみせるわ」


「ええ?」


「乗り込むのよ、あいつの家に!」


「えええ?」


 私の家にですか。

 メーベルはひとしきり呻き、ユニスの奔放さに驚いた後、うっすらと笑みを浮かべた。

 あれ。

 ユニスはメーベルがもう一着、簡素だが上質な婦人服を隠し持っていたことに驚き、彼女が策士であったことを思い出した。

 あ、わたしの奔放さが、計算されてる。

 ユニスは自分によく似合った赤と白の婦人服を纏いながら、もう笑うしかなかった。




     *




 裁判所前で詰めていたロイドは、息を呑んだ。

 水色の髪をした少女。

 凄まじい質量の大剣。

 それらを軽々と背負う、紺の外套を纏った痩せた男。

 先日話をした親子だ。

 それが裁判所に何の用だ。

 何らかの事件に巻き込まれたのか。

 ロイドは紫の髪を覆い隠す布の位置を調整してから、通行人を装った。

 すたすたと歩み去る神官を尾行する。


 躊躇はなかった。

 イジドアはハウエルとの決闘裁判後も、複数の裁判に関わり、長期的に都市政府と協力関係を結ぶという話だった。

 それの打ち合わせが夜遅くまで行われると聞いている。

 目を離しても平気だろう。

 ロイドはすやすやと父親の背中で眠る少女を眺め、こんなのどかな親子を警戒して何になるのかと思った。

 が、どうしても気になる。

 あの大剣もそうだが、少女の雰囲気。

 水色の髪の面妖さだけではない、ハウエルと長年接してきたからこそ分かる、戦士の風格。

 誰かに話したら笑われるかもしれない。

 子供に戦士の風格などと。

 だが、それは滲み出るものであり、体格や風貌に影響されるものではない。

 ロイドは確信していた。

 あの子供に自分は勝てない、と。

 だが、そういう直感を、理性が否定するのも確かだ。


「あ、ノエル様」


 しばらく歩いていると、住宅街で、声をかけてきた女がいた。

 先日、一緒に歩いていた黒髪の女――妻だろう。

 それともう一人、歯が抜けているが愛嬌のある女が立っている。


「メーベルさん。……それと、同僚さんですか」


 ノエルが返事をし、背中の少女を揺すり上げた。

 大剣が揺れ、それが意外と軽やかな動きをしたことに、ロイドは驚く。

 傍を通り過ぎながら、耳を澄ませる。


「わたしはユニス。メーベルのだーい親友よ」


 ユニスはなぜだか気のない風に言う。

 ロイドは何気なく近くの物陰に立ち、誰かを待っているように装った。


「どうも。私に何か用ですか」


 ノエルが尋ねる。

 彼は少女をさっさと運びたいようで、ちらちらと近くの家を盗み見ている。

 ユニスが指を突きつけた。

 欠けた爪が鋭利である。


「わたしもさ、メーベルちゃんにただ働きされて癪だけど。これも友情の為せる業ってやつよ。アンタさ、さっさと、市民権買いなさいよ。金、あるんでしょ?」


「へ?」


 ノエルは困惑していた。

 メーベルは一見おろおろしているようだが、その実、ノエルの様子をつぶさに観察している。

 メーベルが友人であるユニスをけしかけ、ノエルに一大決心を迫ろうとしている。

 ロイドは状況を把握した。

 興味が薄れかけたが、あの少女はすやすやと眠ったままだ。

 あの少女はどういう立ち位置なのか。確かめておかなければ。


「――市民権……。そうですね、それをまだ手に入れてませんでした」


「分かってるの? メーベルはさ、まだ下級市民なんだよ。まだ『特権』がないの。都民として権利が限定されてるの。アンタみたいなお坊ちゃんには理解できないだろうけど、わたしたちがどんな思いで日々を暮らしてるか」


 ユニスは熱弁を振るい始めた。

 最初は気乗りしていないようだったが、段々目の前の優遇された人生を送ってきた男に腹を立て始めたようだ。


「――道を歩いていて、肩がぶつかった。相手が上級市民だったら、鞭打ちの刑を一方的に食らうことだってある。教区内を歩いているだけで、ありもしない犯罪の容疑をかけられる。しかもそれが決闘裁判にまで発展してしまう。想像したことある? わたしたちはアンタたち上級市民の背中に、途方もなくでっかい権力を見ているの。年端もゆかぬ上級市民の子供がちょろちょろ歩き回っているのを見かけたら、道の端に移動してじっとしてなくちゃいけない。今にも倒れそうな老婆を見かけたら、全速力で逃げる。なぜなら万が一その老婆が道端でぽっくり逝ったら、殺人を疑われるのは下級市民。馬鹿馬鹿しい理由で処刑された知人を何人か知ってるわ。決闘裁判で勝つのはいつだって金持ち。争いが発生した時点で、わたしたちはもう負けなのよ。上級市民に因縁をつけられただけで、もう何かしらを手放さなきゃいけないの。分かる?」


 はああ。

 長口上を終えたユニスは大きく溜め息をついた。

 ロイドは彼女の言葉に賛同した。

 ユニスの隣に立つメーベルも同じだろう。

 だが、ノエルはいまいちピンときていない。

 腑抜けた顔をしている。

 当然だ。

 上級市民にとっての底辺が、下級市民にとっての遥か高みだ。

 届かぬ。

 その思いは、けして富める者には届かない。

 もし届くのであれば、とっくにファジー・デツに身分差別はなくなっている。

 しかしノエルは、表情を一変させ、決然として頷いた。


「分かりました。メーベルさん、行きましょう」


「え? あの、ノエル様……」


「様なんてやめてください。私とあなたは、同じ上級市民になるんです」


 メーベルは、それを望んでいたくせに、慎み深い表情になった。


「私は……、でも、それに相応しい女性では」


「私が保証します。あなたは上級市民に相応しい!」


「今度は、私の勘違いじゃないですよね」


 メーベルが顔を綻ばせた。

 石畳の街並みにぽっかりと大輪の花が咲いたかのようだ。

 ロイドは微笑し、ノエルとメーベルが家の中に消えるのを眺めた。

 再び現れたとき、ノエルは神官服を堂々と着衣し、メーベルはひときわ絢爛な衣装を纏っていた。

 二人は連れ立って通りの彼方に消えた。

 少女は家に置いてきたらしく、ノエルの背中にはいない。

 市民権は市庁舎で販売されている。

 聖教の免罪符ほど乱発されているわけではないが、かなりの収入源になっているのは確かだ。

 きっと職員は、ノエルたちを歓迎するだろう。

 ロイドは、一人残されたユニスを睨んだ。

 彼女は役目を終えて、ノエルたちの家に入って良いものか、思案しているようだ。

 何かを盗むつもりか。

 あるいは少女の様子が気になるのか。

 ロイドは観察を続けた。


「ああ。まったくもう。役目が終わったら放置かあ。メーベルって不親切なところがあるわよねえ」


 家が気になるようだったがその場を立ち去った。

 どうやら歓楽街ディライトの人間らしい。

 その顔も見たことがあるような気がする。

 ロイドは物陰から進み出る。

 そして、ノエルの家に近づいた。

 入口に立ったところで、中の気配を窺う。少女は眠っているようだ。

 扉を押すと、呆気なく開いた。

 ロイドは深く息を吐いた。

 そして、ゆっくりと、部屋に進み出る。


「なにか用?」


 息を吐き切った瞬間、背中に気配を感じた。

 ぞっとしたが、振り返ることができなかった。

 ハウエルやイジドアにしか感じたことのない、圧倒的な恐怖だった。

 首の筋肉が硬直している。

 腰の小剣の重みが疎ましい。

 部屋に進みかけた体勢が、その重みの所為で、維持できない。


「待った……、ちょっと、話があって」


「おはなし? きかせて、きかせて!」


 少女の声だった。ロイドは勇気を振り絞って振り返る。

 意外なほど遠くに少女は立っていた。

 が、彼女の手に握られた大剣の剣先は天井すれすれ、高く掲げられていた。


「――おとうさんのお知り合い? それとも、おかあさん?」


「お、お母さんだよ。メーベルさんね」


「そっか!」


 少女は飛び跳ねながら大剣を見事に統制した。

 近くで刃物を振り回されたロイドは戦慄したが、少女は寝台に腰掛けると、大剣を膝の上に載せ、鞘に収めた。

 少女はあくまで笑顔だ。

 ロイドは小さく震える我が膝を情けなく思った。こんな子供に気圧されるとは。

 震えを止める為に、近くの椅子に腰掛けた。脚を組む。

 少女は唐突に、


「キレイな髪の毛だね!」


 と言った。

 ロイドはぎょっとした。

 布で覆い隠しているのに、どうして見えるんだ。

 このまま隠しているのが馬鹿らしくて、布を取り去り、紫の髪を払った。

 少女は不思議そうに見る。


「どうして、髪の毛をかくしてたの?」


「……自分じゃあ、あまり気に入ってないんだ」


 本当は気に入っている。目立ちたくないから隠しているのだ。


「――それより、きみの名前はなんていうのかな」


「ロレインだよ!」


「ふうん……、あの二人の子供なんだ?」


「そう」


 ロイドは大剣に気を取られて、いまいち少女の笑顔を堪能できなかった。


「凄い剣だね。重くない?」


「おもくないよ。もってみる?」


「いや、遠慮しとくよ」


 ロイドは苦笑した。

 こんな少女が先ほど自分を圧倒した殺気の持ち主だとは思えない。


「――きみ、戦士の訓練を受けてる?」


「ううん」


「でも、その大剣を上手く使ってるよね」


「生まれたときからいっしょなの」


 ロレインは剣の柄に頬擦りした。

 水色の髪が僅かに光り、蠢く。

 ロイドは唖然とした。


「きみは……、その髪の毛、どうしたの?」


「おにいさんの髪より、キレイかなあ」


「綺麗だよ。でも……」


 不気味だ。

 透き通っている。

 今まで気付かなかったが、生きているように動いているではないか。

 本当に人間か?

 ノエルとメーベルが両親というのは本当か?

 ロイドは今すぐここから立ち去りたい衝動に駆られた。

 しかし、ハウエルの寵愛を受けるエリアスの懐刀ロイドは、これまで多くの諜報活動を成功裏に終わらせてきた手腕を発揮した。

 解消できる疑問はさっさと片付ける。

 目の前の子供は知っていることをあっさりと明かしてくれる格好の情報源であることを看破した。


「――さっき、裁判所に行ってたみたいだけど、何をやってたのかな」


「ケットーダイリニンの手つづきをしてたの」


「決闘代理人? 誰が?」


「あたしがー」


 はーい、と元気よく返事をして、ロレインが小さな手を挙げた。

 白い歯がこぼれる。底抜けの笑顔だ。

 ロイドは思わず笑みを返しながら、これは想定以上のとんでもない情報を得られるかもしれない、と鼓動の高鳴りを感じていた。




     *





 ハウエルは激怒していた。

 都市政府の傍若無人極まりない態度。

 聖教の欺瞞。

 決闘裁判所の柔弱な体質。

 全てが疎ましい。

 まさか、同性愛の咎とは別件で、決闘裁判を申し込まれるとは思わなかった。

 数日後に迫った正規の決闘裁判とは別に、もう一試合やれという。

 しかも黒の誓約だ。

 生死を賭けた勝負。

 精神が昂ぶる。

 規則では複数の決闘裁判で被告になることはない。

 だが、ハウエルが女装をしているときに使う女性名である『アビー』で告訴してくるなどと。

 理屈の上では、『ハウエル』という同性愛者と、『アビー』という麻薬密売人が、別々に訴えられたということだろうが、言うまでもなく二人は同一人物である。


「ワタシを本気で殺したいらしいわね。いっそのこと、代理人を立ててやろうかしら」


 だが、ハウエルにぶつけてくる決闘代理人は強力な戦士に違いない。

 こちらが代理人を立てたとしても、太刀打ちできるとは思えない。

 ハウエル自身が戦わなければ。

 部屋の中をうろうろ歩き回った彼は、怯える側近たちに怒声を飛ばした。


「――しゃきっとしなさいよ! ワタシが負けるわけないでしょ、二十戦無敗の最強の乙女よ、ワタシは!」


「は、はひ!」


 側近たちは逃げ惑い、退室した。

 ハウエルは嘆息する。

 部下の多くは弱卒ばかり。

 首魁がいなくなれば、強力に統率されてそこそこの武力を誇る一派も、あっという間に瓦解するだろう。

 エリアスのような骨のある青年は少ない。

 ああいう仲間がいれば、心置きなく決闘にのみ専心できるのに。

 自分が死んだ後のことを考えると、手が震える。

 自分が築き上げたささやかな共同体に未練がある。

 自分も所詮、小人物。

 ハウエルは自虐的な気分になる。


「お困りのようですな」


 明朗たる男の声。

 振り返ると、部屋の奥にスウィジンが佇んでいた。

 禿頭、怪僧の出で立ちである。

 ハウエルは微笑した。


「あなたね。いったいどこから入り込んできたの?」


「隙間からですよ、ハウエルさん。わしの体は変幻自在なのです」


「お願いだから、頭をふっ飛ばさないでよ。あれを見ると、夢に出るのよ」


「性の壁をふっ飛ばしたあなたからしてみれば、人間の頭が吹き飛ぶ様子など、刺激が少ないでしょうに」


 ハウエルは溜め息をつく。


「……そうかもしれないわね。で、用件はなに?」


 スウィジンは右手で自身の禿頭をつるりと撫でて、左手で顎髭を撫でた。


「わしならばお力になれます。麻薬取締局に潜入し、訴えを取り下げることさえできる」


「そんなこと。別にいいわ。際限がないもの」


「しかし……」


「ワタシだってね、本来心優しい乙女なんですからね。周囲がそう見てくれないだけ。もっと清らかな世界で生きていたいの」


「麻薬を取り扱っている人の言葉とは思えませんな」


「あら、麻薬だって使い様よ。夢と幻の世界にご招待。性差なんてどうでもよくなる、何せワタシと世界が同化するの。オトコとオンナどころか、路傍の石ころと太陽が同列に扱われる世界。素晴らしいじゃない?」


「あなた自身は、麻薬に手を出さないではありませんか」


「ワタシは、現実を見ていないとね。背負うものがあるし」


「どうして、麻薬を広めようと思ったのです?」


「どうしてだと思う?」


「……敵方にも悪徳を促して、いずれは同性愛を認めてもらえるように仕向けた、とかですかね」


「あら、それ良い考えね。でも違うわ。儲かるのよ、麻薬って」


「……金ですか」


 スウィジンは興ざめしたような顔になった。

 ハウエルは頷く。


「下級市民は金さえ積めば、上級市民に格上げされるのよ。麻薬で儲ければ、いずれは皆裕福で差別を受けない暮らしができる」


「しかし、麻薬が原因で転落する人間もおるでしょう」


「幸せなのよ、本人は。幸せなまま死ねるのも、それはそれで素晴らしいんじゃない?」


「本気でおっしゃっているのですかな」


 スウィジンが探るように言い、ぎらりと灰褐色の瞳を光らせた。

 ハウエルは微笑する。


「まさか。でも、多少の嗜みは毒にはならないわ。少なくとも部下には適量に留めるように指示してる。大量に買うお金もないしね」


「……大量に麻薬を購入できる上級市民たちは、人間としての本性を剥き出しにしてしまいますな。なるほど、ハウエルさんが都市政府や聖教に危険視される原因が、よく分かりました」


「恐れ入った?」


「ええ、大いに。これはますます、ハウエルさんに協力したくなりましたぞ」


 ハウエルはスウィジンの笑みを見て、彼の真意が分からなくなった。

 最初はハウエルの影響力を利用しようと近づいてきたのだと思っていたが、どうやら違う。


「なら、一つ、お願いしてみようかしら」


「ほう?」


「今度、ワタシに吹っ掛けられた麻薬取締局の喧嘩だけど、あなたが代わりに受けてくれないかしら」


「ははぁ。わしは、荒事は苦手でしてな」


 スウィジンは即答する。

 ハウエルにしてみれば、拍子抜けだった。

 かの怪僧は何度も頷く。


「――ちょっと調べてみたのですが、今度の正規の決闘裁判の相手……、イジドアという男は、危険極まりないですぞ」


「へえ?」


「二番手のリヴィアという戦士も有能ですが、とにかくイジドアとは関わらないほうがよろしかろう。代理人を立てるべきです」


「……それは、ワタシに捨て駒を強要しているということ?」


「もはや敗訴を覚悟すべきです。この都市を追放されたとしても、また別の都市で勢力を強めればよろしいではありませんか。ハウエルさんならば、できましょう」


「馬鹿らしいわね。ワタシは、この都市を離れるつもりはないわ。故郷ですもの。死ぬときはこの街でって決めてるの」


「頑迷ですぞ」


「何ですって、もう一度言ってみなさい!」


 拳を振り上げると、スウィジンは笑いながら後退した。

 その動き一つで分かる、荒事が苦手だなんて嘘だ。

 ハウエルは目の前の得体の知れない人物を見据える。


「――ワタシはね、皆を救いたいの。このくだらない伝統に縛られた街で、元気に生きて欲しいの。ワタシ一人がいなくなって全てが収まるなら、喜んで命を捨てるわ」


「ハウエルさん。しかし」


「ええ。分かってるわ。ワタシが今死んだら、皆は都市政府に叩き潰される。敗訴すれば連中にバトムレスを叩く口実を与えるわ。聖教だって黙っちゃいないわね。同性愛者は全員追放か、最悪処刑よ」


「他の都市では次々にそういた萌芽は潰されているそうですぞ。この都市だけです、堂々と男同士女同士がいちゃついているのは」


「誇りね。ワタシが築いたのよ」


 スウィジンは頷いた。

 少し寂しげだった。


「イジドアとは死闘になるでしょう。どうかご無事で」


「ええ。ありがとう」


 スウィジンは退室した。

 今度は体を砕くことなく、普通に去るのか。

 ちょっと残念な気持ちもある。

 ハウエルは愛用の椅子に腰掛けた。

 イジドア。胸騒ぎがする。

 イジドアの噂は、それほど情報通ではないハウエルであっても、聞いたことがあった。

 死ぬかもしれない。

 決闘の前は、いつも考える。

 だが、今回は感覚が違った。

 壁に掛けた大剣が泣いている。いつも、戦いの前は笑うのに。

 ハウエルは椅子に凭れ、天井を仰いだ。


 自由に生きたいだけだ。

 それが、慕われ、担ぎ上げられ、多くの人間の運命を背負うことになった。

 幸せな毎日だった。

 エリアスをはじめ、多くの恋人に恵まれた。

 思えば、これまでの放蕩生活は、何も思い残すことのないよう、自分に覚悟を迫るものだったのか。

 この日々が永劫続くはずがない。

 いつ死ねば、皆が幸せになるのか、ずっと機会を窺ってきたつもりだった。

 だが、単に死にたくなかっただけなのか。

 重責を理由にして延命していただけか。

 さっさと火種は踏み潰すに限る。

 自分さえいなければ、これほどまでに貧民と富民が対立することはなかったのに。

 分からない。

 どうすれば事が収まるのか。

 答えが得られぬまま、最強の刺客が送り込まれてしまった。


「ハウエル様」


 エリアスの声だった。

 一瞬、スウィジンの悪戯ではないかと思ったが、やはり本物と偽物は違う。

 その慕う心までは模倣できない。本物だ。

 部屋の入口に立ったエリアスは、緊張の面持ちだった。

 ハウエルは首を傾げる。


「どうしたの、可愛いエリアス」


「今月十三日に行われる『ハウエル』決闘裁判の代理人二人の名前が判明しました」


「まだ、そんなことを調べてるの、もう! 無茶しないで!」


 ハウエルは理不尽に怒ったが、エリアスの表情は硬いままだった。

 ハウエルに怒られると、むしろ嬉しそうにするのがエリアスなのに。


「――そういえば、ワタシが許したんだっけね。それで?」


「はい。十三日の『ハウエル』決闘裁判での相手はイジドアという男なんですが、二番手の代理人は、リヴィアという子供のようです」


 スウィジンが持ってきた情報の繰り返し。

 しかしハウェルは態度に出さなかった。


「子供? 子供の戦士? ワタシに子供をぶつけようって?」


 相手が子供ならば手を出せないとでも思ったのだろうか。阿呆らしい。

 エリアスは神妙な面持ちで頷く。


「ええ。しかも先日急遽ねじ込まれた九日の『アビー』決闘裁判の相手ですが、代理人をそのリヴィアという子供が担当するようなのです」


「……はい?」


 ハウエルは首を傾げた。

 そしてすぐに気付く。

 本気だ。都市政府と聖教が手を繋ぎ、大波が襲ってくるとは予感していたが、戦士の質ばかりでなく戦略まで変えてくるとは。

 今回は二人だが、今回を切り抜けたところで、次はもっと数を増やしてくるかもしれない。

 今回は聖教と麻薬取締。

 その次は、善良なる一市民の告発? 

 都市の未来を憂う主婦が勇気の一声を上げる?

 みんなでハウエルさんを訴えてみましょう。せーのっ!


 絶対に逃さないつもりだ。ハウエルは自分の寿命を悟った。

 たとえ決闘裁判に勝ったとしても、もはや暗殺の可能性だってある。

 バトムレスそのものを軍隊で制圧する可能性だって。

 あってなきような法に従う必要はなくなりつつある。

 二つの決闘裁判を同時にこなさなければならないハウエルは、ここに表面上の正義さえ磨滅したことを知った。

 どっちが正義で、どっちが悪だ。

 ふと、スウィジンの言葉が蘇った。


『二番手のリヴィアという戦士も有能ですが、とにかくイジドアとは関わらないほうがよろしかろう……』


 何か、違和感があった。ハウエルは、その正体を掴むことができなかった。




     *




「嫌です! 嫌ったら嫌なんです!」


「あたしもいやー!」


 メーベルとロレインが喚き散らし、家中に涙の雨を降らしている。

 ノエルはほとほと困り果てて、寝台に腰掛けた。

 メーベルは涙の暴風から逃れたノエルを見つけると無理矢理立たせてその胸に顔をうずめた。

 ノエルは咄嗟に彼女の黒髪を撫でた。

 彼女が小さく震えているのが気の毒だった。


「でも、メーベルさん。あなたが例の指令を私に伝言してくれたんじゃないですか。とっくに察しているかと思っていた」


「愚かな私をどうぞ好きなだけ嘲ってください。でもロレインだけは連れていかないで」


 メーベルの涙は本物だった。ノエルの寝巻きがぐっしょりと濡れる。

 ロレインも便乗してノエルの脚にしがみ付いた。

 少女は『アビー』決闘裁判に参戦することをむしろ喜んでいたが、メーベルを泣かせているノエルに抗議しているのだろう。

 ノエルは溜め息をついた。

 メーベルがきっと顔を持ち上げる。


「――ロレインが可愛くはないのですか」


「可愛いですよ。大事にさえ思っている。ですけど、この子はそもそも、決闘代理人として都市政府に雇われて……」


「あのハウエルさんと戦わせるんですよ? しかも黒の誓約です。どうして、こんなことに……。無用な争いだとは思わないんですか。既に決闘裁判が一つ、ハウエルさんを被告に立ち上がっているんですから」


「そうですよ。ですが、これは都市政府と聖教組織の共同意志です。私のような下っ端が口出しできるようなことでは……」


「最終的に断る権限を持っていたそうじゃありませんか。署名しなければ良かったんです!」


 そうは言われても。司教猊下の署名が先にあった。

 それで拒否するのは、まるでファジー・デツの聖教組織に反旗を翻しているようではないか。

 それにロレインだって戦いを望んでいる。

 普段の言動や見た目からは信じられないが、この子は血に飢えているのだ。

 ノエルの膝をくすぐるロレインの髪。

 水色に透けて光り、一本一本が意志を持っているかのようだ。


「……すみません、メーベルさん。ですが、もう決まったことです」


「そんな」


 そこでメーベルは泣き腫らした瞼をこすると、不敵に言った。


「――もう、してあげませんよ。昨晩のように」


 ノエルは赤面したが、決然と首を横に振った。


「結構! ロレインは戦士です。どういう経緯でこんな子供が職業戦士になったのか分かりませんが、歴とした都市政府に雇われた戦士なんです。彼女が戦うことは義務とさえ言える」


「こんな子供に義務だなんて」


「あるんです、メーベルさん。……きっと、大丈夫ですよ」


 根拠などなかった。

 相手が二流戦士ならば、期待しても良かったかもしれないが、あいにくハウエルと戦わなければならない。

 ノエルとて、今朝まで相手方がハウエルとは知らなかった。

 彼が女装をしているときアビーを名乗ることがあったなんて、知るはずがない。

 ロレインがけろりと泣き止んでいる。

 元々この少女の涙は気分によるものだった。


「ねえ、おとうさん。まだ行かないの?」


 ノエルは微笑し、少女の髪を撫でた。

 包み込むように、水色の髪がノエルの手の上を這った。


「そろそろ行くよ。メーベルさん、許してくださいますね」


「許すも何も、ロレインは……」


「大丈夫です。私が、危ない目に遭わせません」


 これこそ根拠のない約束だった。

 いざ決闘裁判が始まれば、どちらかが死ぬまで戦いが続く。

 降伏によっても終結し得るが、それには双方の同意が必要となる。

 すなわち、降伏をしたほうは、相手に無残に殺されても文句は言えない。

 黒の誓約とは、勝者が敗者を確実に殺すことのできる決闘形態なのである。

 ノエルは不服そうなメーベルの頬を指で撫でた。


「――待っていてください。ちゃんと二人で帰ってきますから」


「ノエル様は、平気なのですか」


 平気なわけがない。

 ノエルは返事をせず、ロレインと手を繋いで、家を出た。

 少女は大剣を背負っていたが、メーベルが背負い方を工夫させ、歩くたびに柄が頭を叩かないようにしていた。

 二人が決闘場所である郊外に向かい始めたとき、それをじっとりとした視線で観察する影があった。

 それに気付いたロレインは視線を投げかけたが、観察者は物陰に隠れ気配をも消した。

 ロレインは首を傾げ、ノエルと共に通りを歩いて行った。

 観察者イジドアはにやりと笑った。

 彼を監督していた神官二人の血の臭気を纏った彼は、ゆっくりと移動を始めた。

 ノエルたちが歩み去った方向とは違うほうへ進む。


「やはり、俺の勘通りだ。あの子供なら、俺の疑問に答えを――」


 イジドアの狂気の瞳が愉悦に染まり、尋常の人間では持ち得ない無限の闇を湛えた。

 教区を出て、都市の防壁をも出る。

 一面に広がる荒野は死の匂いを放つ。

 一種甘美な気配さえある。

 空は鉛色。

 一片の蒼さえない。

 個人を処断する決闘裁判としては、破格の人数の見物客が詰めかけていた。

 ただしいずれも都市政府に属する者か、聖教組織に殉ずるべき者どもである。

 決闘裁判の見物には人数制限がかけられているが、関係者が優先的にその席を毟り取ってしまったのだ。

 岩場を削り取って整備された決闘場に、二人の戦士が昇った。

 女装した奇相の戦士ハウエル・アビー=ジ・オーガ。

 対するは遠国の戦士サニー=ロックイースト・リヴィア。

 無表情で情熱に欠けた見物客が環状に立ち並び、ところどころ幌馬車が停まっている。

 その中に司教のような大物もいるのだろう。


 ノエルは見物客より決闘場に近い位置で、戦いが始まるのを鬱々とした気分で待っていた。

 原告である麻薬取締局の人間がノエルの傍で唸っているが、彼自身、麻薬に溺れていることは間違いなかった。

 黒い覆面の奥で血走った目をしている。

 恐らく、麻薬に興じる人間を抹殺するのが、彼ら麻薬取締局の人間の務めなのだろう。

 殺人と麻薬に興じる彼らこそ、最大の背徳を日常的に繰り返す神の叛徒であった。

 だが、ノエルはそれどころではなかった。

 彼らの背徳を糾弾するのはいつだって構わない。

 今はロレインの無事を祈るのみだ。

 ハウエルはエリアス一人を引き連れての参上だった。

 エリアスはノエルの向かい側に立ち、その痩せ細った顔を見やる。


(メーベルにどっぷりはまった色欲神官……。ロイドの報告もあるし、彼女と彼女の市民権を買ったというのは本当だろう。金持ちなんだな)


 エリアスは舌打ちしていた。

 売春宿でメーベルとノエルが交わしていた伝言。

 恐らく、このリヴィアという戦士にまつわるものだったのだろう。

 こうしてまともな決闘が組まれてしまったということは、エリアスたち密偵の努力が実らなかったということだ。

 ハウエル様に申し訳ない。エリアスは戦装束に身を包んだハウエルを見やる。


 ハウエルはいつものゆったりとした婦人服ではなく、鎧を装備していた。

 ただし女物であり、膨らんだ胸当てやら、華奢な装飾の鉄靴やらで、エリアス以外の見る者の気分を害していた。

 あまりに綺麗に束ねられた金髪も、彼のいかめしい顔つきには致命的に似合っていなかった。

 だが、近くの岩塊に立て掛けられた彼の大剣には、誰もが見惚れた。

 黄金色に塗装された柄。抜き身の刃には青白い輝きが灯る。

 柄頭の宝石は赤い鋼石であり、無骨になりがちな形状の得物に鮮やかな彩りを与えている。

 ハウエルが大剣を持ち上げると、誰もが息を呑む。

 彼の筋肉が盛り上がり、大剣と戦士が一つの腱で繋がっているかのような、確かな調和を見て取ることができる。

 エリアスが惚れ惚れと見つめている中、ハウエルは立会人に声をかけた。


「そろそろ時間じゃない、お兄さん! あちらさんも準備はいいみたいよ」


 ロレインが大剣を持ち上げた。

 こちらにも、誰もが息を呑んだ。

 少女の細腕に支えられた大剣は微動だにせず、空中に固定されたかのような、不気味な静謐を湛える。

 立会人が不思議そうにロレインを見つめたが、正気に返ったようで、両者の意気衝天たる様子を見やった。


「では、口上を」


「口上なんか、いらないわよ。省略して」


 ハウエルが唸る。

 決闘裁判、特に一回目の決闘に際して、長々とした口上が延べられるのが通例だった。


「しかし……」


「ワタシがアビーっていう女だってことを認めてくれたのは嬉しいけどね。あの面倒な手続きを繰り返すのは御免よ。日が暮れるわ」


 ハウエルは胸を張る。

 凄まじい胸筋に、見物人の誰もが戦慄した。


「――ワタシはハウエルよ。茶番は要らないわ。さっさと始めましょうよ」


 立会人は近くに立っていた裁判所員の同僚に視線を送る。

 しばらく相談が行われたが、やがて宣言した。


「ではここに決闘裁判の開催を宣言する! 原告ファジー・デツ麻薬取締局々長メリル=ブラックアイド、代理人サニー=ロックイースト・リヴィア、被告アビー、立会人は都市裁判所一等法服裁定員ホレス=ローズセント、同じく二等法服裁定員マシュー=シンクレアの二名である」


 立会人は声の限り叫び、見物人の熱狂を促したようだった。

 普通の決闘裁判ならば、誰かが歓声を上げたかもしれない。

 だが、ここでは誰もが両者の実力を見定めようとしていた。

 ハウエルは改めていかほどの実力なのか。

 あの子供は果たして本当に強いのか。

 イジドアはハウエルに勝てそうか。

 ノエルが叫んだ。ロレインが周囲の異様な雰囲気にきょとんとしていたからだ。


「ロレイン、危なくなったら逃げていいからな! 無理はすることはない」


 ロレインは大剣を軽々と振り回した。

 唸る風。

 見物人が剣の質量に気付き圧倒された。


「あたし、にげないよ。だって、たたかわないと」


「無理はしちゃダメだ」


「ムリなんかしないよ。あたし、楽しいもんっ!」


 ロレインが跳び上がった。

 尋常の人間なら、到底不可能な高さだった。

 少女の飛翔と共に雲に切れ目が入る。

 陽光がハウエルの視界を遮った。

 眩しそうに瞼を閉じたハウエルは、しかし、冷静だった。

 地面すれすれに大剣を振り、勢いをつけて回転する。

 エリアスは叫ぶ。


「出た! 必殺だ!」


 エリアスの子供っぽい歓声に、他の見物客は息をするのを忘れた。

 空中で躍動するロレインの体躯を、ハウエルの凄まじい大剣が叩き落とすように見えたのだ。

 ノエルはロレインの名前を呼ぼうとして失敗した。

 舌が凍りついていた。

 風が鳴く。

 ロレインの巨大な大剣と、ハウエルの洗練された大剣は、ほとんど同じ質量に見えた。

 それらが正面からぶつかる。

 金属の甲高い音が、この俄かに晴れ渡りつつある空の下に轟き響くと、誰もが思っていた。

 ところが。


 ぼすっ。


 ふかふかの寝具に飛び込んだときのような、拍子抜けしてしまう音と共に、ロレインの体が吹っ飛んでいた。

 ハウエルは岩の決闘場の上で、自分が振り切った大剣に振り回されている。

 エリアスが拳を固めて叫ぶ。


「圧勝だ!」


 ロレインは宙を舞っていた。

 弧を描いて岩場に激突したロレインは、頭から着地してしまったようだ。

 ノエルは口をわなわなと震わせていた。

 まさか。負けてしまったのか。

 いや、それより、死んでしまったのか?

 頭から血を流したロレインは、ひょっこり頭を持ち上げて、恥ずかしそうにしていた。


「いてて……、吹っ飛んじゃった」


「大丈夫なのか!」


「だいじょぶだよ、おとうさん」


 立ち上がったロレインは、しかし、よろめいた。

 頭から鮮血が滴り落ちる。

 もはやこの怪我一つで、メーベルは発狂寸前まで追い込まれてしまうことだろう。

 これ以上負傷したら、ノエルはもうあの優しい元売春婦と話して貰えなくなってしまうかもしれない。

 必然、夜の営みだって……。

 ええいそんなことはどうでもいい。ロレインは本当に無事なのか。


「本当に頑丈だな」


 隣の麻薬取締局の男が言う。

 ノエルは、戦いに習熟しているであろう男を睨んだ。

 男は視線に気付いたらしいがさして動じる様子も見せない。


「――頭から墜ちたのに、あの程度で済むとは。勢いからして、即死してもおかしくなかった」


「でも、あの怪我は」


「怪我した内に入らん。黒の誓約だぞ」


 覆面で表情が窺えなかったが、にやにや笑っているようだった。

 声に喜悦が混じる。


「――感情豊かな子供を叩き割るのは楽しいもんだ。ハウエルもきっと、楽しんでいるだろう」


 ノエルは嫌悪感に支配され、この男と二度と口を利かないことを誓ったが、ハウエルが突然動いたことに気を取られた。

 ハウエルは大剣が激突した瞬間、衝撃があまりに少ないことに驚いていた。

 普通、あれだけの質量の大剣が衝突すれば、多少なりとも押し戻す力が働くはずである。

 それが、手応えがなさ過ぎて体勢を崩してしまった。


(あの子、不思議ね……、殺す気はないけど、手は抜けそうにないわ)


 ハウエルはこれまで、いくつか黒の誓約の決闘をこなしてきたが、誰かを殺したことはない。

 相手を完全に屈服させ、降参させる。

 殺さないと言っても、二度と戦士として成立しないほどに叩きのめすから、命をほとんど奪っているも同然だった。

 相手が子供であろうと関係ない。

 こんな場所にのこのこ現れるほうが悪い。

 だが。

 ロレインの眼差しは死んでいなかった。闘志を失っていない。


(手を抜くどころじゃないわ。ワタシも、死を覚悟して、決死の一撃を繰り出さないと)


 幾つもの死闘を潜り抜けてきたハウエルだからこそ、こういうときに気を引き締めないとならないことが分かっている。

 エリアスが歓声を上げているが、幻聴と思え。

 彼らに決闘場の上で繰り広げられる勝負の世界を正しく認識できるとは思えない。


「ワタシにも、守らなくちゃいけないものがあるのよ……!」


 ロレインが漸く直立してまともに剣を構えたとき、既にハウエルは大きく振りかぶっていた。

 先ほどの『ぼすっ』という音が気になるが、ハウエルは渾身の力を込め、ロレインの頭頂部目がけて一撃を見舞った。

 ロレインは信じられない機敏さで、大剣を起点にして地面を滑り、その死の一撃を躱した。

 しかしハウエルはそれを予測していた。

 それくらいしてもらわないと困る。

 地面すれすれで大剣を支持したハウエルは、その勢いを利用して横に薙ぎ払った。

 またもや凄まじい跳躍力を発揮したロレインは、大剣をだらりと垂らした状態で、ハウエルの一撃を受け止めた。


 ぼすっ。


 またもや折り畳んだ布を叩いたかのような音がする。

 しかし、今度はハウエルの腕に痺れが走った。

 先ほどの軽々しい感触ではなく、今度はロレインの大剣の質量をまざまざと実感させられた。

 腰を入れて敵方の大剣を払ったが、またもや体勢がくずれていた。

 今度もロレインは吹き飛ばされたが、見事に着地し、素早く大剣を構え直した。

 ハウエルは自身の得物の重さに振り回されながらも、少女の余裕の表情を見た。

 ――戦い慣れている。


「お嬢さん、綺麗な髪ね」


 ハウエルは息を荒げながら言った。

 ロレインは片手で大剣を構えながら、自身の髪を撫でた。


「えへへ。ありがと」


「でも、ワタシの髪も綺麗でしょ?」


 ハウエルは自慢の金髪を振り払った。

 ロレインは首を傾げる。


「キレイ……? うーん、きたなくはないけど、キレイじゃないかなあ」


 エリアスが決闘場に乗り出し、激怒する。


「貴様、ガキだからって容赦しないぞ! ハウエル様の美しさを認めない奴はぼくがぶち殺してやる!」


 しかし、ハウエルははっとしていた。


(まさか。ワタシの髪がかつらだって、見抜いたのかしら)


 他でもない、エリアスから調達した髪である。

 本当のハウエルの髪は、薄汚い焦げ茶色をしている。

 白髪さえ混じっている。

 ロレインはしかし、汚いとは言わなかった。

 本当の髪は汚い。見抜いているわけではないのか……?

 ロレインが踏み込んでくる。

 ハウエルは雑念を消した。

 大剣を押し出す。

 大抵の攻撃は弾き返す自信があった。

 が、ロレインの一撃は常軌を逸していた。

 空中に飛び上がりざま一撃を降らす。

 その軌道の予測が困難だった。

 通常ではありえない段階で、角度のある攻撃をしてくるのだ。

 すなわち、柄から完全に手を離し、ちょっと指の腹で押し出すようにして、文字通り剣を降らす。

 通常なら威力なんてない。

 方向さえ定まらない。

 それが、違う。

 ハウエルは本能的に防御を万全にした。

 それでも、ロレインの一撃は苛烈だった。

 大剣を弾かれる。

 火花が散る。

 刃の一部が欠けた。

 ハウエルは後方によろけ、見物人たちが悲鳴に似た声を上げた。

 ハウエルは、楽しそうに着地して剣を構え直すロレインを睨む。


(物理法則を無視して動き回る……。羨ましいのは髪質だけじゃないってわけね)


 自然法則には神さえ従わざるを得ない。

 それが物理というものであり物理の存在意義である。

 目の前の少女がどのような手段で不可能を可能にしているのか、興味があった。

 ロレインは踏み込んでくる。

 まるで風を味方につけているかのような軽やかさで接近する。

 見た目以上に速い印象がある。

 ハウエルは持ち前の剛腕で大剣を振るった。

 しかしロレインは軌道を読み切ったのか、すんなりと躱す。

 見物客の誰かが、ハウエルが押されている、と呟いた。

 冗談ではない、互角だ、あちらの攻撃はまともに通っていないのだ。

 一方ロレインは、頭に怪我をしている。

 ロレインの一撃がまたもや振ってきた。

 ハウエルは百戦錬磨たる己の力量を存分に見せつけることにした。

 大剣を放り投げる。

 ――これは剣士の戦いではない。

 ロレインの驚いた顔を間近に見ながら、ハウエルは微笑する。

 ――これは生死を懸けた戦いだ。剣でのみ戦うなんて幻想を抱いたお嬢さんの負けよ。

 ハウエルにとっては、己の矜持に傷をつけかねない行為だったが、ロレインの実力を認めたからこそだった。

 ハウエルの投げ出した大剣がロレインの視界を一瞬塞ぎ、彼の剛腕が空中に伸びる。

 その手には短剣。

 大剣を弾き飛ばしたロレインは、目の前にハウエルの巨大な躰が迫っていることに気付くのが遅れた。

 超人的な反応で短剣を弾き飛ばしたが、それまでだった。

 ハウエルの手が、彼女の首にかかる。

 ノエルが叫んだ。


「逃げるんだ!」


 ロレインは目を見開き、ハウエルの膂力に負けて、地面に叩きつけられた。

 ハウエルが馬乗りになって、そのまま、ぐいぐい首を絞めつける。

 ロレインは声一つ発さなかった。

 ハウエルは勝利を確信し、その白く細い首が容易に折れることを確信した。


「降参しなさい。声が出ないでしょうから、指を動かすのよ。ワタシも、殺さずに決着がつくのなら、それに越したことはないわ」


 しかしロレインはじっとハウエルを見据えている。

 両手で首を絞めても、あまり動じない。

 いや、それどころか、徐々に力を加えていっても、ロレインは平然としていた。

 ついには渾身の力で、首の骨を折ろうとしても、びくともしない。

 いったいどういう体をしているのか。ハウエルは愕然としていた。

 一方、ノエルは、もはやロレインの命はないように思えた。

 決闘場に思わず駆け上がろうとしたが、隣に立っていた麻薬取締局の男が襟首を掴んで引き倒す。


「何を考えているんだ」


「しかし……」


「戦いが終わるまで邪魔するなよ。決闘裁判の当事者および代理人に危害を加えた者は、死罪に値するってな」


「危害だなんて、とんでもない」


「決闘場に乗り込むと、そういう風に解釈されるんだよ」


「……だが」


 ノエルは涙を流していた。

 ハウエルがロレインに馬乗りになっている。

 少女はぴくりとも動かず、天を仰いでいる。


「――今、助ければ、まだ命はあるかもしれない。メーベルさんに約束したんです」


「はあ?」


 男は首を傾げたが、ふんと鼻を鳴らした。


「――どうしてもハウエルを止めたかったら、お前がロレインの代わりに降参すればいいだろうが。お前、あのガキの保護者なんだろ?」


「私に、そんな権限が?」


「話によると、お前が誓約書に署名したんだろ。その署名が効力を持ってるってことは、お前がロレインの保護者だ。まあ、細則は知らないが、試しに立会人に呼びかけたらどうだ。ロレインの負けです、敗北を認めます、と」


 ノエルは決闘場の中央で戦いを見守っている立会人を見据えた。

 降参すれば良いのか。

 一瞬迷った。出過ぎた真似じゃないのか。

 だが、ロレインを失いたくないという思いが、当然強かった。

 ノエルが決意を固め始めたとき、ハウエルは、自分の手が不思議な感触に包まれるのを感じた。

 まるで目に見えない手が自分の手に折り重なり首を絞める力を弱めているかのような。

 背後から羽交い絞めにされて、絞殺するだけの力を奪い取ろうとしているかのような。

 ロレインの瞳が、金色に光る。

 まるで猛禽だ。

 それでいて無垢なのだから恐ろしい。

 この少女は、純粋に戦いを求めている。

 人間ではない。ハウエルは悟った。

 この少女は、人間ではなく、もっと別の……。


 肩に衝撃があった。

 夢想に耽っていたハウエルは、不覚にも体勢を崩した。

 ロレインを解放してしまう。

 割り込んできたのは黒い服を纏った神官――ノエルだった。ハウエルは憤慨した。


「ちょっと、あんた、何を考えて……」


 立会人たちが、ノエルに向かって何か叫んだ。

 ハウエルはそのとき、周囲を見回し、ノエルが敗北を宣言したことを悟った。

 このままだと、ノエルが立会人によって死罪を言い渡されてしまう。

 ハウエルは反射的に言った。


「――ロレインの敗北宣言を認めるわ。だから、そこのお兄さんを責めないであげて」


 立会人はきょとんとし、ロレインを必死に揺さぶっているノエルを睨みつけた。

 ノエルは瞼を泣き腫らし、何度もごめんと言っている。

 ロレインは揺さぶれる度に白い歯を見せ、錯乱する保護者を面白く感じているようだった。


「ごめん、ロレイン、生き返ってくれ……!」


「おとうさん、あたしはだいじょぶだよ。ちょっとおもかったけど」


 ハウエルは、先ほど自分を襲った感覚について考えていた。

 大剣を背に括り付け、駆け寄ってきたエリアスと軽い接吻を交わす。


「お見事でした、ハウエル様。素晴らしい機転です。まさか剣を捨てて首を絞めにかかるとは」


「あの子、剣しか見てなかったから、もしかしてと思って。ま、苦肉の策よ。次、やるとしたら、こうはいかないかもだねえ」


 ハウエルは言い、嘆息した。

 首を絞めても死なない少女。

 いや、首を絞めようとすると相手を脱力させる少女、と言ったほうが正しいだろう。

 彼女には何かしら、凡人には理解できない不可思議な力が宿っている。

 絶えずその体を守っている力は不可視である。

 だが、生命を起源とする力であることは間違いない。

 ハウエルはロレインを絞め殺そうとしたとき、巨大な生命に抱かれるのを感じた。

 こんな感覚は初めてだ。何らかの巨大な力がロレインを意地でも生かそうとしている。

 決闘、それも黒の誓約向きかもしれない。ロレインならば、長くこの稼業を続けていけるだろう。


「――行くわよ、エリアス。帰ったら戦勝会よ」


「既に宴の準備は万端整えております」


「さすがワタシのエリアス。おいで、だっこしてあげる」


 さすがにエリアスは人目を気にしたようだった。

 ハウエルは笑い、さて次はイジドアかと気を引き締めた。

 たとえハウエルが死ぬことがあっても、皆には逞しく生きていて欲しい。

 その為にすべきは。

 ハウエルには答えが分からなかった。

 しかし、彼らの可能性を信じてあげても良いのではないかと思える。


「ワタシが死んだら」


 ハウエルは呟いた。

 エリアスが暗い眼をして見上げてくる。


「――あなたが首魁になって統率するのよ、エリアス。たくさんオトコを侍らせて、別にオンナでもいいけど、とにかく住み易い街を創って」


「ぼくは、ハウエル様と死にます」


 エリアスははっきりと言う。

 ハウエルはそんな少年の頭を小突いた。


「最後くらい、ワタシの忠告を受け取るべきだと思うけど? ワタシに隠れて、暗殺者をたくさん放って。それで成果が上がらなかったんでしょ?」


「ぼくは――」


「言い訳はナシ。あなたがワタシを追って死んでも、何にもならないわ。ワタシはそんなことを求める為に、あなたを愛してたわけじゃないの」


「ハウエル様……」


「リヴィア――あの神官はロレインと呼んでたわね。あの少女を見てて思ったのよ。生きるのって楽しいんだなって。生きている限り、不可能を可能にできるかもしれない。是非あなたにはそれに挑戦してもらいたい。ワタシたちの安らげる場所が、きっと創れる」


「ハウエル様のいない街に、いったいどれだけの価値があるというんです!」


 エリアスが泣き出した。

 ハウエルは少年を抱き締めるしかなかった。

 誰だって何かに依存する。

 そして巣立ちの瞬間を避けることはできない。

 エリアスはそろそろ、自立するべき年頃なのだ。

 空が澄み渡っている。

 空には青い星が浮かび上がる。

 本当に晴れ上がった空にしか現れない青い星は、青空よりも青かった。

 ハウエルは子供の頃、人間が死んだら魂はあの青い星に吸い込まれ、あの青を発する燃料となるのだと、教えられていた。

 だから戦争や飢饉が起こると、自然と空に青い星を探してしまう。

 そしてその強い輝きを見ると、無性に悲しくなるのだ。

 だが今は、妙に晴れやかな気分だった。

 自分の魂の行き先があんなに綺麗な光を放っている。

 そう思えるからかもしれなかった。


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