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星髪の少女  作者: 軌条
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ノエルの懊悩

全4話



 乱発された決闘裁判で悪名高い都市ファジー・デツには幾つもの伝説が生まれている。

 鬼神ハウエル・アビー=ジ・オーガの隆盛と没落も、後世に語り継がれるべき事柄であろう。

 彼は男であったが、女装癖があった。

 そして当然のように同性愛を貫いた。

 人口の増えない愛に厳しい聖教は、度々ハウエルを追放処分に処しようとした。

 だが、ハウエルは市民に約束された権利を主張し、決闘裁判に持ち込んだ。

 聖教側は宗教裁判の開催を申請したが、都市政府は頑なにそれを拒んだ。

 ハウエルはそもそも聖教の信徒ではなかったし、彼は教区外の貧民窟『バトムレス』の住民だった。

 都市政府は聖教との利権争いで消耗していたが、まさか彼ら黒衣の神官の好き勝手に市民を蹂躙されるわけにはいかなかった。

 ハウエルは都市政府が少なからず聖教と対立する姿勢を見せてくれたことに感銘を受け、恋人や女装仲間たちに末永く今の政府を応援するようにと遺言を残した。

 いや、遺言のつもりだった。

 ハウエルは聖教という巨大な組織と裁判を構えた時点で、死を覚悟していた。

 だが、彼は彼が思っている以上に剛腕であった。

 二十度に渡って決闘裁判は繰り返されたが、ハウエルは重大な怪我を負うこともなく生き残った。

 それが必ずしも勝訴とならないのが決闘裁判の厄介な点だが、ともかくもハウエルは決闘に勝ち続けた。


「どうりで彼には女装が似合わないはずだよ」


 誰が言ったか、鬼神。

 彼はいつの間にか女装好きの狂戦士として市民に認識され、バトムレスの総大将へと上り詰めていった。

 彼の下には弱卒が集い、決闘裁判の代理人の依頼が殺到した。

 彼に頼めば、あらゆる裁判で少なくとも敗訴はなくなるからである。

 かくしてハウエルは巨万の富を得た。 

 一度は死を覚悟した彼だったが、潤沢な資金を背景に麻薬の流通を司る組織を形成した。

 麻薬に溺れた背徳者の中には聖教の神官たちも混じっていたというから、皮肉な話だ。

 だが、一度は一市民としてハウエルに自由を保障した都市政府も、公序良俗の観点からこのまま放置するわけにはいかなくなった。

 聖教においても麻薬は禁忌とされている。二つの勢力は漸く手を組み、鬼神ハウエルの排斥に本格的に動くようになった。




     *




 ファジー・デツは紅狐大陸の中心に位置する、内陸の都市である。

 近隣には商業都市や工業都市、農園都市がせめぎ合い、紅狐大陸で最も聖教研究が進んでいると言われるファジー・デツの恩恵を得ようと息巻いている。

 ファジー・デツが誇る政府軍は、近隣都市の軍隊を全て併せたものより強大だと言われている。

 聖教の地盤が比較的緩んでいる紅狐大陸の聖教組織は、ファジー・デツの軍事力を利用し、布教活動を推進していた。

 ファジー・デツでは、その意味で、都市政府の支配力が優勢であったが、傲岸な黒衣の神官たちはこの状況を是としなかった。

 下級市民への支配力を強めていつか立場を逆転させようと画策し、様々な手段を講じていた。

 その余波が、この都市を混沌に突き落としていると信じている者は多い。

 漠然とした感覚だが、それが原因で聖教への反感に繋がっているのだから、無視はできまい。


 そんなファジー・デツで最も騒々しい場所と言えば、歓楽通りディライトであろう。

 麻薬と賭博と売春と放蕩と、金さえあればあらゆる娯楽が満喫できる。

 バトムレス同様、教区外ではあったが、多くの聖職者がお忍びで足を運ぶことがある。

 純粋に個人の楽しみを見出す者が大半だったが、教区内で密偵の耳に怯えなければならない神官が、密談の場としてディライトを選ぶことがあった。

 冬が深まりだし、冷気が都市の満腔に揺蕩っていた。

 おかげで、紺の外套で身を包んだ神官は、常に身を突き刺す寒さと戦わなければならなかった。


 夜の歓楽街。

 行き交う人はほとんど例外なく酒に酔い、他人と肩がぶつかっても知らん顔だった。

 おかげで痩身の神官は何度もよろめき、目的の売春宿に到着するのも一苦労だった。

 待ち構えていた宿前の客引きは、意味ありげに神官に目配せした後、通常通り甲高い声で招き入れた。

 宿の中は饐えた臭いが充満していたが、不思議と不快ではなかった。

 薄暗い店内を行き来するのは、半裸の女と鼻を赤くした男どもである。

 神官は極力何も見ないようにしながら、二階の一室に案内された。

 部屋には一人の女が待っていた。

 寝具の上で、膝を抱えて座り込んでいる。

 他の女たち同様半裸であり、白く透けたような太腿が眩しかった。

 神官は赤面を押し隠す為に外套の襟を立てたが、くすりと笑われて早々に観念した。

 部屋の隅の衣架に外套を掛け、他に誰もいないか見渡す。


「誰もいませんよ。いたら、おかしいでしょう?」


 女が言った。黒髪が美しい、若い女だった。神官はどぎまぎしながら、やや距離のあるところで座り込んだ。


「今日は話があって来たのですが……、誰もいませんか」


「私がいます」


 少し拗ねたように女が言った。

 顔立ちは端正だったが、輪郭がやや歪んでいた。

 神官はそれでも、彼女ほどの美人と話したことがなかった。


「ああ、すみません。あなたがいましたね。しかし、私は今日、ここに……」


「密談しに来られたのでしょう? 知っていますよ。私が伝言を承っていますから」


「伝言?」


 神官は素っ頓狂な声を上げた。

 てっきり当事者と話し合えると思っていた。

 不満に思いつつ、目の前の女に不機嫌な顔を見せるわけにはいかないと、妙なこだわりを持った。

 動揺を押し殺し、淡泊に頷いた。


「そうですか。是非、お聞かせください」


 しかし、女は微笑を湛えて首を傾げたまま、一向に話そうとしなかった。

 神官は女性と見つめ合っている現状に気後れした。


「あれ? あの……、お金がまだでしたでしょうか。おいくらです?」


「そうじゃありません」


 女は、神官の目が眩むような蠱惑の微笑を見せつけた。

 白い歯がこぼれ、神官は息をするのを忘れた。


「ここをどこだと思っているんです。話の前にするべきことをしましょう」


「するべきこと?」


 神官は自分の仕事を成功させることに手いっぱいであった為、思考が遅れた。

 漸く理解が追いついたとき、彼の顔は鮮紅に染まっていた。


「わ、私は生涯童貞を誓っているのです。神に殉職する価値は計り知れません」


 女は寂しそうに俯いた。

 が、すぐに彼女の笑い声が狭い部屋に響いた。


「冗談ですわ。私だって、神官様のお邪魔にはなりたくありませんから」


 彼女の瞳は茶褐色で吸い込まれそうなほど深い色味を帯びていた。

 神官は曖昧に笑い、安堵しつつも、どこか残念に思う自分にも気付いていた。

 ――まだまだ精進が足りぬ。

 このご時世に、珍しく殊勝な心を持った神官は、内心で呟いた。

 自らの弱さが、このような邪な情念を惹起させてしまうのだ。

 女が手招きする。


「どうぞ、こちらに」


「だから、私はそのような房事には……」


「伝言です。あまり大きな声では言えないことですので」


「あ、ああ……、そうですよね」


 神官は自らの勘違いを恥ずかしく思った。

 膝を抱えて座り込む彼女をちらちらと見ながら、擦り寄った。

 耳を向けると、女は小声で伝言を口にした。

 それは淀みなく話しても数分は要する長文であった。

 一字一句記憶しているらしく、いちいち言葉が堅苦しい。

 神官は女の記憶力に驚きつつも、しっかりと胸に刻んだ。


「……なるほど。分かりました」


 内容について女と相談してみたい欲求に駆られた。

 この女は相当に頭が切れる。

 もしかすると売春婦ではないのかもしれない。

 間近で女の瞳を見た瞬間、神官は自分の中の何かが変容するのを感じた。

 具体的に言えば、聖教典の一部分の記述を、ごっそり記憶から抹消してしまったかのような。

 神官は伝言の内容を吟味しつつも女から離れられなかった。

 さっさと距離を取りたい。

 だが、寝具の上で二人は見つめ合っていた。


「神官様、どうなさいました?」


 女が言い、神官は呪縛が解けた。

 慌てて引き下がる。


「すみません。去ります」


「こんなに早く退出してしまわれたら不審に思われます。もう少しここにいてください」


 その口調は出来の悪い生徒に道理を諭す教師のものに酷似していた。

 神官はその懐かしい響きに笑みをこぼした。

 女も慎ましい笑みを返したが、不意に、


「私は別にいいですよ」


「え?」


 神官は聞き返した。

 彼の視線は、もはや彼女の顔にはとどまらなかった。

 さっきから気になって仕方ない。

 極力見ないようにしていたが、どうしたって、そのざっくり開いた胸元を注視せざるを得ない。

 いや、これまでも、じっとりとした視線で見ていたのかもしれない。


「何が、いいんです。何が……」


「聞かないでください」


 女は笑みを消した。

 神官の手が震えている。

 その手に、女のかさついた手が重なった。

 神官は荒く息をついた。

 女は彼の手を自身の胸元に引き寄せる。


「でも、私は心配なんです。聖職の方は、その……、禁じられているんでしょう?」


「そのような記述は、もう、忘れました……」


 神官は女の名前を尋ねた。

 女も神官の名前を尋ねた。

 それからはもう、彼らの間の隔たりはなくなったも同然だった。




 隣の部屋で聞き耳を立てていたエリアスは舌打ちした。


「これだからオンナってやつは。あの神官、これからどっぷりはまっちゃうだろうな」

 

 エリアスが壁に耳をつけて盗み聞きしている間、寝具の上で暇を持て余していた売春婦が、歯の抜けた口で質問する。


「何か分かった? 男色家さん」


 エリアスは振り返り、歯を剥いた。


「ぼくは男色家じゃない。女が好きだ」


「でも、ハウエルさんの恋人なんでしょ?」


「そうだ」


 エリアスは胸を張った。

 金色の巻き毛を手櫛で整える。

 売春婦は複雑な表情をしていた。


「ハウエルさんって、おっさんじゃない。やっぱりアンタ、男色家でしょ」


「馬鹿なことを。この醜いブタめ」


 エリアスは本気で怒った。

 店の入り口で小剣を預けざるを得なかったことが悔しかったほどだ。


「――ハウエル様以上に完璧な女などいない。貴様ら愚物にはそれが分からないのか」


「はい、はい」


 売春婦は呆れて首を横に振った。

 エリアスのような美男子が客として入ったことに、最初ははしゃいでいた女だったが、次第に熱は冷めていった。

 エリアスが本物の男色家であることが判明したからだ。

 もっとも、エリアス本人は自分が女性好きであると盲信していた。

 自分が他の男と違うのは、ハウエルの美しさに気付くことのできる『曇りなき眼』を備えている点。

 エリアスはハウエル以外の男と、ハウエル以外の女、全てを軽侮していた。


「それで、何か分かったの」


 女がしつこく尋ねた。

 その好奇心の強さに、エリアスはうんざりした。


「どうしてお前なんかに教えなきゃならない」


「だって、興味があるんだもん」


「お前に教えて、ぼくやハウエル様に得はあるのか」


「教えてくれたら、何でもするんだけどな」


 女は意味ありげに唇を舐めた。

 しかしエリアスには効果なしだった。


「なんでも、か。じゃあハウエル様の麾下に入れ。美男子を誘惑してバトムレスに連れてくるんだ」


「ちょっと、いいの? アンタ、ハウエルさんの恋人なんでしょう? 敵が増えるんじゃないの」


「これだから凡愚は」


 エリアスは吐き捨てた。


「――ハウエル様の器は無限大なのだ。情事も戦争も謀略も金儲けも、全て難なくこなせるからこそあの方は一流なのだ。恋人をぼく一人だけで済ませようだなんて、そんな小人物なはずがないだろう! あの方には常に恋人が二十人はいる。一番の寵愛を受けているのはぼくだが」


 エリアスは恍惚とした表情で言う。

 男の欲望に熟達した売春婦も、さすがにエリアスの言葉には理解を示せなかった。


「あ、そう……」


「そうだ。で、ハウエル様に忠誠を誓うのか?」


「遠慮しとくわ……」


「まあ、それがきみにはお似合いだな。この薄汚れた宿で、男たちの欲望の捌け口に専心するのが良い。それだって、立派な役割だ」


「はあ」


 売春婦が呆れている間もエリアスは壁に耳をつけていた。

 薄い壁を隔てた向こうでは、巧みな振る舞いで金蔓を確保した手練の売春婦が、うぶな神官を導き色事に興じている。


「悪趣味ね。今、最中なんでしょ」


 売春婦が辛辣に、しかし楽しげに言う。

 エリアスは首を横に振った。


「だからこそ、だ。高揚した神官が彼女の耳元で秘密の情報を漏らすかもしれない」


「だからってねえ……」


「一緒に聞くか?」


 売春婦は目を輝かせた。


「いいの?」

「いいさ。ささ、きみの耳を貸してくれたまえ」


 エリアスは壁に耳をつける体勢を維持するのがきつくなっていた。

 実のところ、彼は神官たちがこそこそ話していたので、肝心なところがほとんど聞き取れなかった。

 このまま帰ってもハウエルに報告できることなんてない。

 だが、ここ数年ハウエルに仕えていたエリアスには、これが決闘裁判の打ち合わせであることが分かっていた。

 なんとか掴まなければならないのは、相手方が擁立する決闘代理人の詳細である。


 決闘裁判は互いに代理人を立て、決闘を行うことで有罪無罪を取り決めるものである。

 原告あるいは被告本人が決闘に興じても良いが、極めて稀である。

 決闘は一回だけとは限らない。特に、上級市民は事実上無限に再審理を求めることができる。

 被告も上級市民の場合、裁判は互いの資金が尽きるまで行われる。

 下級市民は再審理の権限を持たない為に、下級市民が上級市民に勝訴することはまずない。

 代理人を雇うのも、代理を申請するのにも金がかかる。

 それだけで下級市民にとっては一大事だった。

 しかも決闘に勝っても再審理が無限に行われるのなら、もはや裁判に持ち込まれる前に敗北を認めたほうが合理的だった。

 おかげで、実際に決闘裁判により決闘が行われるのは、下級市民同士の諍いに多い。


 ハウエルの場合はやや特殊だった。

 彼は下級市民だったが、彼自身が決闘を行うので、金が全くかからない。

 しかもめっぽう強く、職業戦士を薙ぎ倒して決闘裁判の再審理継続記録を更新しつつあった。

 事態は膠着状態にあった。

 だが、ハウエル傘下の人間は、ハウエルがけして全能の存在ではないことに気付いていた。

 決闘裁判が行われる前に相手方の代理人を突き止め、対策を講じなければならない。

 相手が有能な戦士だった場合は暗殺も考慮に入れる。

 エリアスはさしずめ、ハウエル配下の諜報・暗殺部隊の長だった。


 売春婦は彼の隣で無邪気に壁に耳をつけていたが、彼が殺人さえ厭わぬ男であるとは思っていない。

 と言っても、エリアスはまだ少年だった。十六歳である。

 彼の部下のほとんどが年長だが、最も有能で魅力的なハウエルの恋人は彼だった。

 それは誰もが認めるところである。


「何も聞こえないわね」


 売春婦が言う。エリアスはまだあどけなさが残る貌で頷いた。


「衣擦れの音しかしないな。何かしらを囁いてくれると期待していたのに」


「慣れてないのよ、きっと。童貞なんだわ」


 でもまあ、と売春婦はうっとりとした表情になる。


「――すぐに上手くなるわ。彼らは研究熱心だし、献身的な行為には慣れているから。明日から通い詰めてくれるだろうし……」


 そこでエリアスは一つ思いついた。


「そうだ。駄賃を弾むから、明日からも神官の情事に聞き耳を立ててくれないか」


「ええ? そんな悪趣味な……」


 そう言いつつも、売春婦はまんざらでもない表情をしていた。

 片手を突き出し、駄賃を受け取る体勢を万全整えている。

 懐から金貨を取り出しながら、エリアスはほくそ笑んでいた。


「今熱心に仕事をしている彼女の名前は? 彼女に協力してもらえるなら、これほど楽な話はないけど」


「ああ、駄目よ。彼女は客を絶対に裏切らない。愛と共に誠意も売っているの。それに、目の前の女より先に、顔も知らない売春婦の名前を尋ねるなんて、どういう了見なの」


「おっと、すまなかった」


 エリアスは素直に謝罪した。


「――では、きみの名前は?」


「わたしはユニス。隣の部屋の美人はメーベル。アンタの名前は?」


「エリアスだ。女装しているときはソフィアと名乗っているけれど」


「女装なんかしてるの」


 ユニスと名乗った売春婦は目を丸くした。


「ハウエル様の模倣だよ。別に本当に女になりたいわけじゃない」


 エリアスは言い、片目をつぶってみせた。

 顔立ちが整っているだけに、女装もそつなくこなせるだろうと、ユニスは苦笑した。


「メーベルには話さないほうがいいわ。神官さんに警告して、逃がしてしまうかも」


「そうか。なかなか骨のある女だな」


 エリアスは腕を組んで唸った。

 いつまでも手を差し出しているユニスに気付き、金貨を放り投げる。


「成功報酬はこの三倍出すよ。じゃあ、そろそろお暇するか」


「もう行っちゃうの?」


 ユニスは金貨の輝きに目を奪われつつも寂しげな声を発した。

 エリアスは肩を竦めた。


「きみはぼくみたいな不能男に興味なんかないだろ。そんな名残惜しそうな顔をすることないじゃないか」


「本当に不能なわけじゃないでしょ」


「ま、そうだが、同じことだろ。絶対に行為には至らないんだから」


「また来てよ。アンタならさ、眺めてるだけでわたしは満足だから」


「やれやれ。分かったよ」


 エリアスは苦笑して部屋を出た。

 彼はどうでもいい女に惚れられる運命にあった。

 鬱陶しいとは思うが、彼女たちを利用できると思えば、恵まれた境遇だと考えることも可能だった。


 歓楽通りディライトから貧民窟バトムレスまでは、かなり近い。

 徒歩で数分というところだろう。

 それだけに、バトムレスの顔馴染みと出くわす危険がある。

 売春宿から出たエリアスは外套で顔を隠した。

 この綺麗な貌はハウエル様だけに捧げるのだ。

 エリアスは寒風に震えながらも、揺るぎない信念を抱えて毅然と歩き続けた。




     *




 星。

 青い星。

 無限の愛が折り重なり、青く光る星。

 観察者は地上に立ち、空にぼんやりと光る青い星を見上げている。

 大気が遥かな山脈を霞ませ、その偉大なる自然を覆い隠すように、その星の真実も両者に隔たる長大な空間によって秘匿されていた。

 拡大。

 雲を突き抜けた先。

 観察者は飛ぶ。

 星と星を繋ぐ暗き空虚なる空間は、地上のどのような冷寒の地とも比較にならないほど凍えていた。

 暗き空間に浮かび上がる星は宝石のように光り輝き、その威容を惜しげもなく披露していた。

 拡大。

 その星には大陸があった。

 島があった。

 川があった。

 更には都市がある。

 砦がある。

 巨大な帆船が海洋を横断し星の表面を這いずり回っている。

 その営みは混沌としていたが、絶え間ない蟲の行列にしばしば幾何的美を見出せるように、律動的な流れを見せていた。

 拡大。

 観察者は、かの星に侵入する。

 都市には様々な色の屋根が建ち並び、複雑な形状をしている通りは、生命を維持する人体の血脈のように張り巡らされていた。

 行き交う馬車が随分無茶な動きをしているように見える。

 人の群れの中を突っ切り、それでいて馭者はのんびりと欠伸などをしている。

 通りに面する商店では身を乗り出して物を叩き売る女衆がいる。

 愛想が良いのは客の身なりがマシなときだけだ。

 見たこともない銀貨を受け取って満面笑みになる。

 広場の真ん中で少女が空を見上げていた。

 観察者は少女に気を取られる。

 というのも、その少女は得体の知れないものを背負っていたからだ。

 観察者から見れば、少女は星の表面に張り付き、逆さになってこちらを見返していた。

 観察者はぎょっとする。

 少女はかの存在を知覚していた。


「みんな、いい人ばかりだね。ともだちになりたいな。まずはあなたと」


 少女は笑む。

 白皙に浮かび上がった赤い頬は、あどけない貌に似合わぬ妖艶さを湛えている。

 風が吹いた。

 少女の髪が流れる。

 観察者はしばらく、その星の住人に目を奪われていた。




     *




 眩暈。その後に訪れる違和感。

 ふと振り返った神官は、奇妙な表情を作った。

 礼拝堂での祭事は無事に終了しつつあった。

 それだけに、多くの同僚はその神官の振る舞いに不快感を示した。


「どうした、ノエル」


 同僚の一人が囁く。

 列席する神官の多くが、ノエルと呼ばれた男の挙動に注意を奪われていた。

 ノエルは首を横に振る。

 先日神への誓いを破り、童貞を捨てた神官は、ついに幻覚に見舞われたかと、自分の運命に暗いものを感じた。


「声が聞こえたんだ。女の子の声……。ここではない、別の星で」


「夢でも見てたんじゃないのか」


 呆れたような声が返ってくる。

 ノエルは説明するのを諦めた。

 今の声と情景が悪魔の所産のように思え、べらべらと他人に話し過ぎるのは躊躇われた。

 神の誓いを破った罰が襲ったのか。

 あるいは神の加護を失い、悪魔がこの肉を狙っているのか。

 どちらにせよ、罪深いことをしてしまった。

 定例祭事は無事終了し、壇上の司祭長が解散を告げた。

 ノエルは黒い神官服の皺を伸ばしたり、その場で祈りを捧げる仕草をしたりして、時間を潰した。

 そして、誰もいなくなった礼拝堂で、矮小な人間を睥睨する巨大な女神像を仰いだ。

 赦しの女神の彫刻はあまりに美しく、均整の取れた体つきをしていた。

 だが、今のノエルには物足りなく感じる。

 生身の女が良い。

 ノエルは不遜な考えを取り払うことができなかった。

 瞼を閉じ、己の信仰を疑う。


 ああ、美しいメーベル。

 歪んだ頬のメーベル。

 無限の愛を湛えたメーベル。


 黒い衝動が胸の奥でくすぶっている。

 今すぐにでも、昨晩のように彼女と関係を持ちたい。

 これほどまでに肉欲が膨れ上がったことはなかった。

 これは恋なのだろうか、

 それとも単に肉体的関係を望んでいるだけなのか。分からない。


 ノエルはあまりに若かった。

 神学校で優秀な成績を残し、ファジー・デツで最も出世欲に支配された神学生が集う『オーグジリアリ・ハンド教会』の勤務が決まったものの、出世街道からは早くも脱落していた。

 ノエルは、必要悪という言葉が嫌いだった。

 すなわち、彼は神学界で慣例となっている邪悪を受け入れることができなかった。

 よく言えば敬虔だが、敬虔な聖者が崇められる時代はとうに過ぎていた。

 ほとんどの聖職者はとうに童貞など捨てて、自分の女を何人か持っていたのに、ノエルはそんな実情さえ把握していなかった。

 そうした話題から鼠のように逃げていた結果だった。

 ただ自分だけが背徳を冒したのだと信じ切って、


「ああ、私はもうじき地獄に落ちるのだ」


 そんなことばかり言っていた。

 礼拝堂でぽつんと佇むノエルを見かねたか、ハイエイタス司祭長が近づいてきた。


「助祭ノエル。悩んでいるのですか」


「いえ。私のような人間が悩むなどと。そんな高級な真似、許されませんよ」


「……重症ですね」


 司祭長は老いた貌に鋭い眼を備え、なよなよとしているノエルを見据えた。

 紫色の瞳は神から授かった特異なものか。

 見つめられるだけで鳥肌が立ち、身が引き締まる。


「あなたには重要な任務を課している。間違いは犯さないと思いますが、頼みましたよ」


 その一言で目が覚めた。

 ノエルは頷き、きびきびと礼拝堂を後にした。

 売春婦のメーベルから伝言を承っている。

 決闘代理人はファジー・デツの外からやってくる。

 決闘裁判までの面倒を、ノエルが担当することになっていた。

 決闘裁判の日時は定かではない。

 再審理の申請がまだなのだから当然だ。

 決闘裁判の全ての行程が終了するまで、代理人は教会が用意した住居で暮らすことになる。

 色々と面倒な立場に立たされる為、協力者の存在が欠かせない。

 それがノエルだった。


 メーベルの伝言によれば、決闘代理人に擁立された戦士は相当な変わり者とのことだ。

 ノエルが世話人に選ばれたのも、彼の性分が考慮されてのことだという。

 どんな意味で変わり者なのか詳細は不明だった。

 大いに手を焼くだろうと言われたが、ハウエルのような無法者だろうか。

 だとしたら、多少の怪我は覚悟せねばなるまい。

 外は小雨だった。

 祭事が始まった頃は見えていた太陽も、薄雲に隠れている。

 空を仰ぎ見て、すぐにやむと判断した。

 教会前では慌ただしく人が行き交っていた。

 教会の大きな庇の下で、ノエルはそれを眺めていた。

 ふと、大きな人の流れの中で、一つの人影が微動だにしないことに気付いた。

 教会前の石畳の交叉路の真ん中で、少女が佇んでいる。

 そして間もなく、ノエルは更なる異常に気付いた。


 大剣。

 少女の背中に、その身の丈以上の刃を誇る凄まじい大剣がおぶさっている。

 あまりに巨大な異物。

 かえってノエルの頭は、それをなかなか認識できなかった。

 通行人の何人かが驚いたように少女を見やったが、はりぼてか何かだと思ったようで、すぐに視線を逸らす。

 だが、本物だ。鉄でできている。

 ノエルは直感し、少女をまじまじと見つめた。

 水色の蓬髪が微風に揺れている。

 雨に濡れて、まるで一本一本が生きているかのような複雑怪奇な動きをしている。

 少女の金色の瞳は、まっすぐ、ノエルに向けられていた。

 ノエルは喉の渇きを覚えた。

 雨の中に歩み出て、天を仰ぎたい気分だった。

 悪魔か? 彼女は自分を食らいに来た悪魔なのか?


「だって……」


 少女が言った。

 その短い脚を不器用に動かす。

 背の大剣が大きく揺れて、歩き難そうだった。

 大剣が度々、彼女の後頭部を叩くのだ。


「――あたしにはきこえるの。おにいさんのひめいが」


「悲鳴?」


 ノエルは阿呆のように聞き返した。少女が庇の下に入る。

 間近で見る少女の髪は透き通っていた。

 水色の光沢がうっすらと見えるが、普通の髪ではない。

 人間ではない、とノエルは叫び出したかった。


「だから、ともだちになってあげようと思ったんだけど……」


 何の話だ。ノエルは面食らっていた。

 少女が手を差し出す。

 血にまみれていた。掌のあちこちに潰れたまめが見られる。

 ぎょっとしたノエルに少女は微笑む。


「――ごめんなさい。あたし、ねむいんだ……」


 少女は瞼を閉じ、ノエルにしがみ付くようにした。

 全ての体重を背徳の神官に任せる。

 慌ててノエルは大剣を背負った少女を支えた。

 しばらく身動きできなかった。

 自分の腕の中で眠る少女に、驚嘆の眼差しで見入る。

 雨が降りやんでいる。

 うっすらと架かった七色の橋は、哀れな神のしもべに新しい地平の所在を示唆しているかのようだった。




     *




 星。

 黄金色の星。

 無数の信仰が複雑に絡み合う怨嗟の星。

 聖教という名の信仰が地上を席巻している。

 人は自分たちが住むこの星を『神の座』と呼ぶ。

 全世界を創造した女神が住まう、世界の中心地であると信じているからだ。

 そして天空に張り付いた無数の星々を『神の座』の支配者である女神の下僕たちと見做している。

 赤い星、黒い星、白い星、輪を持つ星、塵を纏う星、双子の星、それぞれ大きさは違えど、空を埋め尽くす星々は人々の想像力を掻き立て、無数の神話が生まれた。

 天空に張り付く星々の中で、最も馴染み深いものが、青い星『太陽の子』であろう。

 その星は青空よりも青く、輝きが色褪せることがない。

 自らを強く光らせるその星を、人々は『神の座』の女神の一番の配下であると信じ切っていた。

 女神の恩恵を受けているからこそ、あれほど力強く光ることができるのだ。

 しかし、別の伝承もある。

 あの星は死者の国であると。死んだ人間の魂が燃料となってあの星を光らせているのだと。

 真実は誰にも分からない。

 あの青い星『太陽の子』に住まう者を除けば。

 晴れ上がった空には、冬であれば、五五〇もの惑星の姿を見ることができる。

 人々はそこに神が住まうことには疑問を差し挟まなかったが、自分たちの星と同じように、そこに人間が住んでいるとは思わなかった。

 黄金色に輝いていると信じる自分たちの星が、実は暗褐色の淀んだ空気を纏っているということも、俄かには信じられなかっただろう。

 他の星々の住民から凶星と呼ばれる『神の座』には、混沌が渦巻いていた。

 この腐りかけた星の中でも、特段頽廃的な雰囲気に冒されたファジー・デツに、しかし、一つの青い輝きが舞い降りた。

 他の星々の天文学者たちは、のちに、この日のことを『信仰がきざした日』として後世に語り継ぐこととなる。




     *




 ノエルはオーグジリアリ・ハンド教会に住み込みをしている。

 司教から支給された住居は、決闘代理人をもてなす為のものだが、決闘裁判が終結するまで自由に使って良いと伝言を受けていた。

 要するに、ノエルは決闘代理人につきっきりの世話をするのだ。

 それが役目だった。

 何にも優先すべき、司教からの厳命――だが、ノエルは代理人より先に、別の人物をその住居に招き入れていた。

 少女。水色の乱れた髪が痛々しい、十歳前後の子供である。

 昏々と眠り続けるその貌は無比に整い、余計に人間離れした頭髪がおぞましく思えた。

 水色というのも珍しいが、透き通ったように輝くのだ。

 おそるおそる彼女の蓬髪の中に指をまさぐり入れると、自分の肌の色が髪に透過した。

 まるで本物の水だ。ノエルは呻く。

 司教が用意した住居は、俗人が集まる住宅街の中に埋もれた中級の家だった。

 数人住むのには十分な広さがあり、既に調度品は運び入れられ、寝台も三つあった。

 もしかすると、これまで別の人が住んでいたのかもしれない。

 部屋に仄かに香るのは女が好んで使いそうな香料である。

 聖職者が囲っていた遊女だろうか。まさか、司教の?

 妄想は膨らむ。

 ノエルは少女の背中の大剣を苦労して壁に立て掛けると、彼女を寝台の一つに寝かせた。

 服が濡れている。

 脱がすべきかどうか、迷った。

 こんな子供でも一応女だ、風邪をひかれると困るが、放置するほかないだろう。


「しかし、面倒なことになった……」


 ノエルは自分の判断が正しかったのか、迷い始めた。

 この少女は、ノエルの腕の中で眠り始めると、どんなことがあっても起きようとしなかった。

 放置して立ち去ることもできただろう。

 だが、それは彼の良心が許さなかった。

 では教会に預けるべきだったか? 

 権力に渇望するハンド教会の司祭や助祭たちは、孤児の引き取りになど応じない。

 すぐにでも少女をバトムレスやディライトに送り込むだろう。

 自分の寮に連れて行くこともできない。

 聖職にある人間が子供を家に連れ込むなどと。

 小児愛は近親相姦に並ぶほどの大罪である。

 この少女を見捨てることができないなら、ノエルは立場上、この代理人を世話する為の家に置いておくしかなかった。


 もし少女が通常の風体をしていたら、孤児院に送り込んでいたかもしれない。

 良心は痛んだろう、しかし世の中にはどうしようもないことがある。

 憎き『必要悪』というやつだ。

 だが、あいにく、少女は悪魔の如き風貌をしていた。

 往々にして悪魔は美しい貌をしているものだ、それに頭髪が不気味過ぎるし、大剣を背負っていた。

 悪魔でないとするなら何なのだ。

 この悪魔を自分が呼び込んだと信じ切っているノエルは、この少女の存在そのものが恥に思えた。この後、どうすればいいだろう。途方に暮れた。


 少女がくしゃみをした。

 大きく上半身が仰け反る。

 ノエルは慌てた。

 少女はぐっしょりと濡れている。

 乾かさなければ。

 備え付けの暖炉には薪がごっそりと入っていた。

 金属製の火工品を暖炉の鉄床に叩きつけると火花が散った。

 よく燃える屑紙が薪に活力を与える。

 少女を抱き起こし、暖炉に近づける。

 悪魔を介抱する自分が愚かしかった。

 しかし目の前の子どもを、悪魔かもしれないという理由で見殺しにできるほど、ノエルは揺るぎない信仰を持たなかった。

 何せ前日に聖教典の一部分を意図的に忘却した身である。

 少女がうっすらと瞼を開けた。


「炎、やだ……」


 ノエルはびくりとした。

 躊躇ったが、体を乾かす為にはこうするしかない。


「ちょっと、きみ。自分で服を脱げるか? 乾かさないと」


「……脱がして」


「不可能だ。不可能なんだよ。これ以上私に罪を犯させないでおくれ」


 ノエルは叫んだ。

 助けが必要だった。

 特に女の協力者が。

 女が少女を介抱すれば、問題などないのに。

 ノエルは女の知り合いが極端に少なかった。

 気安く家に呼びつけられる女となればなおさらだ。

 神学校の生徒は全員男だったし、職員も男ばかりだった。

 異性との出会いなど皆無の人生だった。

 一人しか協力してくれそうな女が思いつかなかった。

 少女を再び寝台に寝かせたノエルは逡巡したが、結局は出口に向かっていた。


「どこへ行くの?」


 少女が尋ねる。

 振り返れば、とろんとした目が焦点を結んでいない。


「きみの世話役を連れてくる。……きみ、何者なんだい」


 尋ねると、少女は脱力したように寝台に寝転んだ。


「あたしは、リヴィアだよ。……そう名乗れって言われた」


「……?」


 リヴィア。どこかで聞いた名だ。

 動転していたノエルは、早く世話役を連れてくることで頭がいっぱいだった。


「そうか。じゃあ、待ってて。寒かったら暖炉の火に当たるんだよ」


「炎、やだ」


 ノエルは家の外に出た。

 先ほどまでの雨が嘘のような快晴だった。

 汗ばむほどの陽気である。

 漆黒の神官服を隠す紺の外套を纏うと、石畳の通りを疾走した。




 ノエルが少女との邂逅を果たした頃、メーベルは仕事に取り掛かろうとしていた。

 馴染みの客を存分に楽しませた後、再会の約束を取り付ける。

 料金以外の餞別をふんだくる為に世辞を口にし、軽い口づけをかわす。

 これだけでメーベルは、他の売春婦の数倍の稼ぎを実現していた。

 彼女の神秘的な雰囲気と左右非対称の歪んだ輪郭は、大抵の男の財布に比類なき冷気を吹き込むらしかった。

 無一文同然となった客は、それでも笑いながら宿を後にした。

 それを見送ったメーベルは、同僚が集う控え室に向かう。

 大卓を囲んでいる売春婦の中で、煙草を吹かしているユニスを見つけ、メーベルは傍に歩み寄った。


「首尾は?」


「上々ですよ。ユニスさんは?」


 ユニスは口を尖らせ、お手上げの姿勢を取った。


「最近は景気が悪いよね。さっきの客なんか最低料金以上を絶対に払おうとしなかった。これだから貧乏人は」


 メーベルは苦笑した。

 ユニスは非常に可愛らしい女性だが、お金にがめつかった。

 それを男に見透かされるようでは逆効果だ。

 男は『あえて』何かをすることが好きなのだから。

 メーベルはユニスの隣の席に腰掛け、他の売春婦たちに軽く挨拶をした。


「ところで、先日の神官さん、来た?」


 ユニスが歯の抜けた口で器用に煙草を噛み潰し、尋ねた。

 メーベルはもう一度苦笑した。


「昨日の今日ですよ。まだ昼ですし、気が早いです」


「そうかなあ。わたしの勘だと、メーベルにどっぷりはまった感じだったけど。相性も悪くなかったっぽいしね」


 そこでメーベルはユニスの顔を一瞥した。


「まさか、盗み聞きをしていたんですか」


「まさか。まさか、まっさか」


 ユニスは慌てて言った。

 その慌ただしさが怪しかった。


「部屋から出てきたとき、あの神官さん、満足そうだったからさ。メーベルのこと、女神を拝むかのようにして見つめてたわよ。あれはメーベルに、ついでに言うとメーベルの女神様にも、完全に惚れたわねぇ、うんうん」


 女神、と発音するとき、不自然なほど卑猥な響きを持たせたユニスだった。

 メーベルはそれに気付かないフリをした。


「冗談はよしてください。あのような高貴の方が、私のような女に惚れるなど」


「あらあら、天下のメーベルちゃんが、ご謙遜を。この宿で一番若くて美しいメーベルが玉の輿を実現しないと、全体の士気が下がるわよ。夢見させてよね、もう」


 売春婦の誰もが、いつかは教区内の住宅街に住まい、社交的な暮らしを満喫したいと願っている。

 教区内で住まうには上級市民にならなければならないが、最も手っ取り早い方法が、上級市民との結婚だ。

 だが、神官や都市の要人は、遊びとしてでしか教区外の売春宿を訪ってくれない。

 メーベルは金を持て余した男から効率的に報酬を受け取る方法に熟達していたものの、結局一枚上手なのは常に男のほうだと知っていた。

 住む場所が違う。


 それはいわば、釣り人と魚の関係に似ている。

 どれだけ力の強い魚が釣り人の手を焼かせたとしても、魚が釣り人の立場を脅かすことはない。

 魚は水底で釣り人を手玉に取ったと自慢するしかない。

 一方、釣り人が魚を釣り上げたなら、それはすなわち魚の死を意味する。

 元々が不公平な争いなのだ。

 魚が釣り人を池に引きずり込むことなんか、滅多に起こらない。

 釣り人は危なくなったら、釣竿を手放せば良い。


 メーベルは微笑した。


「夢を見るのはもう、諦めました。これまで十人以上、聖職の方と親睦を深めて参りましたが、三度通ってくれた方さえ稀でした」


「そうなの? 意外ね、彼らは情が深いかと」


 ユニスは聖職の人間からの評判がいまいちらしく、そうした経験がないようだった。

 歯が一本抜けた顔が間抜けに見えるらしい。

 メーベルは首を横に振った。


「情が深い故に数度しか会ってくださらないのでしょう。余計な希望を持たせない為に」


「なるほどねえ。でも、メーベルなら、きっといつか……」


 控え室の扉が開いた。

 いつもは勘定台の前で無愛想な態度を見せている主人が、笑顔で手招きしている。


「メーベル、お客さんだ」


「すみません。ちょっと休ませて頂けませんか――先ほどのお客さんが激しくて」


「いいから、出てこい」


 主人が一転して不機嫌になり、がなる。

 長い間待たされている売春婦の一人が、メーベルを睨みつける。

 軽く気後れしながらも立ち上がる。

 ユニスが不安定な口笛を吹いた。

 メーベルは手を振り、部屋から出た。

 驚いたことに入口には紺の外套を纏った昨晩の神官が立っていた。

 メーベルは絶句し、思わず呟いた。


「どうなさったのです、ノエル様――お顔が真っ青です」


「一緒に来てくださいませんか」


 蒼白な顔をしたノエルはいきなりそう言った。

 メーベルの心臓の鼓動は止まりそうだった。

 傍らに立つ主人の揉み手が視界に入る。

 売春婦の買い取りにはかなりの金が必要となる。

 ノエルは払えるのか。


「いえ、しかし……」


「あなたが必要なのです。今の私には」


 ノエルは熱心に言った。

 メーベルは何度も深呼吸して落ち着こうとした。

 メーベルの目の前に立つ青年。

 若き神官。

 若干男らしさに欠けるところはあるが、男としては上々の容姿と言える。

 何といっても裕福な暮らしが約束された聖職の人間である。

 結婚相手としては最上だった。

 いや、しかし。

 聖職者は妻帯が禁じられているはずだ。

 特に、教義への隷従が厳格化されている、ファジー・デツでは。

 規則をねじ伏せるだけの権力が彼にあるのか?


「よろしいのですか」


「責任は全て私が取ります。厄介事も全て解決してみせます。全て……、全てです」


 ノエルの眼差しは揺るぎなかった。

 メーベルははっとした。

 宿の主人さえも、ノエルの言葉の力強さに、呆気に取られたほどだった。

 メーベルの背後で歓声が上がる。


「やほー、ついにこの日がやって来たのね!」


 ユニスが手を叩いて笑っている。

 他の売春婦たちも驚きながら笑顔を見せていた。

 仕事の真っ最中だった女も、客をほったらかして、顔を出していた。

 メーベルは万雷の拍手に包まれて、涙ぐんだ。


「みんな、ありがとう。ありがとう……」


 感極まるメーベルの二の腕を、ノエルが掴んだ。


「早く来てください。これ以上は待てない」


「ノエル様……!」


 主人がノエルに詰め寄る。


「ちょっと待ってください、神官様。メーベルにはざっとこれだけの値が」


 計算器で値段を示そうとした主人に、ノエルは袋を放り投げた。


「これで足りますね? 彼女は連れて行きますよ!」


 袋には金貨が詰まっていた。主人はあまりの額に目を見開く。


「えっと……、足りますが……、いいんですか?」


「何がです。では、私たちは行きますよ」


 ノエルは焦っているようだった。

 メーベルは少し不審に思いつつも、喜んで彼の速足について行った。

 宿には着替えやかなりの額の貯蓄が残っていた。

 だが、どうでも良かった。わざわざ取りに戻らなくとも、彼の向かう先に栄光はある。

 メーベルは半裸の格好で街を歩いた。

 刺激の強い街ディライトであっても、その姿は目立った。

 ノエルも途中でそれに気付き、教区内に入ると共に外套を貸してくれた。


「すみません。気づきませんで」


「いえ。……あの、今からどこへ?」


「家です。私を手助けして頂きたい。神のお導きなのです」


 ノエルは言い、メーベルが夢にまで見た住宅街へと彼女を導いた。

 教区外の薄汚れた宿とは違って、清潔な外観で、行き交う人々も洗練された服装や歩き方をしていた。

 ディライトでは上品な女として通っていたメーベルも、さすがに気後れした。

 ノエルが示した家は、広さはそれほどでもなかったが、信じられないほど頑丈だった。

 中に入ると空気が固定されているのを感じる。

 すなわち、隙間風のない、一流の建築屋が建てた一流の建物だということだ。

 ノエルは家の入口で立ち尽くすメーベルを置いて、奥の部屋に向かった。

 メーベルが慌てて彼の後に続くと、寝台の上に、奇妙な物体が蹲っていた。


 最初は人間には見えなかった。

 奇妙な水色の頭髪が、少女の小柄な体を覆い尽くさんばかりに蠢いている。

 ノエルが呻く。


「なんてことだ。髪が伸びてるぞ」


 メーベルは唖然としていた。

 どうやら目の前の物体は人間の子供らしい。

 服だって着ている。

 だが,髪が透き通っている。

 ガラス細工を頭皮にくっつけたかのようだ。


「あの、この子は……」


「悪魔です。介抱してたんですが」


「悪魔?」


 メーベルには、目の前の子どもが悪魔には見えなかった。

 人間に見える。


「――悪魔を介抱したんですか? 何の目的で?」


「自業自得なんです。私がきっちり、この試練を乗り越えなければなりません」


 他にも聞きたいことはあった。

 だが、メーベルが少女に近づくと、案外可愛い貌をしていることに気付いた。

 しかも、髪の奥で隠れていた表情は、あまりにも苦しげだった。

 はっとして髪を掻き分け、額に触れると、灼熱と形容してもいいくらいの熱さだった。


「風邪をひいています。凄い熱……、服が濡れてる」


「そうなんです。ですから、あなたに脱がして貰おうと……」


 一瞬、ノエルの顔がひどく間抜けに見えた。

 脱がして貰う? なんだ、それは。


「そんなことを言っている場合ですか!」


 メーベルは怒鳴っていた。

 ノエルは唖然として、立ち尽くす。


「――服を脱がせることくらい、できたでしょう。それとも、あなたは己の魂の尊厳を守る為に、子供を見殺しにするんですか!」


 ノエルはしどろもどろだった。

 彼にとってみれば、メーベルがそれほど激昂する女性だとは思わなかったのだ。


「いえ、あの……、ですから、私も最善は尽くしました。暖炉も……」


「暖炉から離れた寝台に寝かせていたのでは、意味がありませんよ! あなたは私とまぐわったはずではありませんか。これ以上、何の罪を恐れるというのです?」


「小児愛は禁忌とされています。非常におぞましいことで……」


「あなたにやましい心がなければ罪にはなり得ません。そうじゃありませんか? ……いいです、自分の死後の運命がそれほど大事ならば向こうの部屋で待っていてください」


 ノエルは不満そうにその場をうろうろとしていたが、意外と鋭いメーベルの眼光を浴びると、そそくさと隣室に消えた。

 メーベルは少女の服を脱がせた。

 乾いた衣類が、部屋の隅に置いてあった衣類棚から溢れていた。

 まるであるだけ詰め込んだかのような雑然さだった。だが、量は十分だ。

 丹念に体を拭き、新しい衣類を着させる。

 改めて体温を調べると、医者に診せたほうがいいのではないかと思えた。

 売春宿ではあまり頼れない存在だったが、上級市民に対応する医者ならば、信用はできるのではないか。


「ノエル様、お医者様を呼んできてくださいませんか」


「……悪魔に効く薬などありませんよ」


 ノエルが隣室から声だけで応じる。

 メーベルはつっけんどんに、


「あなたは医者ですか?」


 もはや上品さなどかなぐり捨てていた。

 ノエルは隣室でぎょっとしているようだった。


「――つまらないことを言ってないで、早く行ってください」


「は、はい」


 ノエルが慌ただしく家から出る。

 メーベルはあれこれ少女の介抱を続けたが、ふと、笑いの衝動が込み上げてきた。


(ノエル様に、厳しく言い過ぎてしまったかしら……)


 だが、もはや夫婦同然の関係なのだ。

 ノエルはあれほど熱烈にメーベルを求めた。

 この家はノエルがメーベルの為に用意してくれた愛の巣だ。

 この子供は、恐らくはメーベルとの恋愛関係を補完する為に拾ってきた孤児だろう。

 悪魔というのは、己の罪深さを象徴する彼なりの表現だ。

 きっとそうだ。そうに決まっている。


 熱に冒されている少女が愛おしく思えてきた。

 ノエルとメーベルの間で子供を作るのはさすがにまずい。

 メーベルはそもそも子供を作れない体だが、メーベルが普通の結婚生活に憧れていることを察知したノエルが、養子を貰うという気配りを見せたのだ。

 なんと鋭いノエル。

 それなのに子供の裸に怯えるノエル。

 頼りないというか誠実過ぎるというか。

 メーベルはくすりと笑っていた。

 少女の瞼がうっすらと開く。

 自分の髪を撫でつける、売春婦の優しい手をちらりと見た。


「おねえ、さん……?」


 メーベルは深く頷いた。


「違うわ。おかあさんですよ。あなた、お名前は?」


「分からない……、リディアって名乗れって……」


 少女は呻いた。メーベルは濡らした布を、少女の額に載せる。


「名乗れ……? 赤ん坊のときに孤児院にでも送り込まれたのかしら。本当の名前がないのね。じゃあ、私が新しい名前をつけてあげましょうか? 新しい生活に、新しい名前。そうですね……、ロレインというのは、どうでしょう?」


 少女は微笑した。


「可愛い……、名前」


「そう! 気に入ってくれたんですね。ありがとう、ロレイン」


 少女の首を抱きしめたメーベルは、この熱い脈動を強く感じた。

 ここに命があるのだと強く思った。

 メーベルはもう、子供を産めない体だった。

 今よりもっと若かった頃、無茶な堕胎を繰り返し、不妊の体となってしまったのだ。

 だから、自分の子供を持てたことが信じられなかった。

 そして、この一見不気味な少女を健やかに育ててみせると決意した。

 その決意は、ノエルが神の前で捧げた忠誠の誓いよりも、よほど堅固なものと言えた。

 なぜなら、この瞬間より、メーベルは少女の命が自分の命より重いことを、魂全体で感じ取ったからである。

 壁に立て掛けたあった大剣が、突然、倒れた。

 床に跳ね返り、盛大な音を立てる。

 思わずロレインを庇ってから、メーベルは笑った。


「物騒な調度品ですこと……。怖くないですからね、ロレイン」


 メーベルは少女の髪を撫でつけた。

 そこには本物の母性愛と慈しみが宿っていた。

 少女は再び意識を失ったが、苦しげな様子は消え、安堵の笑みが広がっていた。




    *




 メーベルが意志薄弱なノエルを怒鳴りつけて家から追い出した頃、鬼神と恐れられるハウエルも、部下を叱責していた。

 ハウエルの小山のように巨大な体躯の前で、小さくなってうな垂れているのは、美貌の少年エリアスであった。

 ハウエルは婦人服を着て、厚い化粧でその肌の黒さを誤魔化していた。

 鮮紅に染まった唇は艶があり、床まで垂れ下がった金髪は光沢を放つ。

 その双眸も女性的な柔らかさがあったが、いかんせん、その肩幅の広さや、髭の濃さ、筋骨隆々たる肢体などによって、ハウエルが紛れもない男であること、どこまで突き詰めても女装は女装に過ぎないことを示していた。


 対照的なのがエリアスだった。

 彼は特に女装はしていないのに、その立ち姿には女性的な美しさが付き纏っていた。

 金色の巻き毛と白いうなじには色香が漂い、特に男色を嗜まない男でも、エリアスの誘惑には関心を示すということがままあった。


「どうして、こんなことをしたの、エリアス?」


 ハウエルが野太い声で尋ねた。

 彼が腰かける椅子は特注品で、通常なら三人は腰掛けられる大型のものだ。

 それをバトムレスの女帝は一人用として使用している。

 エリアスは叩頭した。

 彼が跪く姿をハウエルの腹心たちは環を作って見下ろしている。


「申し訳ございません。出過ぎた真似を」


「どうしてそんなことをしたのかって聞いてるのよ、ワタシは!」


 ハウエルが苛立ったように肘掛けを指で弾いた。

 ハウエルの指一本はエリアスの腕一本並の力を誇る。

 畢竟、椅子は凄まじい音を立ててひび割れる。

 ハウエルは舌打ちする。


「――また壊しちゃった。後で直しといてね」


「ははっ」


 腹心の一人が返事をし、嬉しそうに頷く。

 ハウエルの部下にとって、彼の為に働けることは何にも勝る幸福であった。


「エリアス、ワタシはあなたを信用したいの。いい、正直に話すのよ」


「はい。ぼくは、これがハウエル様のお役に立つかと」


「日頃から言っているでしょう。こそこそした真似はやめなさいって。日陰に生きるしかないワタシたちだからこそ、人に後ろ指差されるようなことはしちゃダメ」


「はい」


 エリアスはひたすら平伏した。

 しばらくハウエルは怒りの形相を作っていたが、やがて嘆息して苦笑した。


「もういいわ、エリアス。こっちに来て」


「はい」


 エリアスは驚きと共に喜びを感じつつ、立ち上がった。

 自分の背丈の二倍はあろうかという巨躯なる首魁に歩み寄ると、ハウエルは美貌の少年を抱き締めた。


「綺麗な貌。羨ましいわ。お願いだから無茶はしないで。神官の尾行なんかして、神様から天罰が下ったらどうするの」


「天罰など、怖くはありません。ハウエル様を失うことに比べれば」


「でも、ワタシの信用を失うところだったのよ?」


「はい……、申し訳ございません」


「うふふ。分かったのなら、いいわ。いつもワタシに尽くしてくれるあなたには、いくら感謝してもし切れないわね」


「勿体なきお言葉です」


 先ほどまでエリアスを小気味よく眺めていた腹心たちは一転、無限の寵愛を受けるエリアスに嫉妬の眼差しを送った。

 エリアスは澄ました顔でハウエルの愛を受け取り、至福の時間を過ごした。

 やがて他の腹心は退去し、部屋にはハウエルとエリアスだけとなった。

 エリアスはハウエルの膝に腰掛け、彼の太い腕に包まれていた。


「エリアス、ワタシにはあなたが必要なのよ。絶対にどこかに行っちゃダメよ」


「どこにも行きません。ぼくはハウエル様と共に……」


「その言葉、信じてもいいのよね? ワタシなら平気よ。決闘裁判くらい、簡単に乗り越えてみせる」


 ハウエルは自分の実力を信じている。

 エリアスはそれを過信だと思っていた。

 確かにハウエルは強い――だが世の中は広い。

 ハウエル以上の戦士が、必ずどこかに存在しているだろう。

 聖教と市長勢力が手を組んだのなら、周辺の都市から強力な戦士を引っ張ってくることは容易になる。

 これまでは互いの勢力がせめぎ合い、賄賂の金貨が飛び交い、権謀術数が権力者を翻弄してきたが、もはや事態は簡潔に推移しつつある。

 すなわち、趨勢はハウエルを排斥する方向に急激に傾いていた。

 この体制は長く続かない。

 指を咥えて弱者が弱者らしく振る舞っていれば、世界は強者の生き易い構造に変容する。


 許さない。

 そんなことは、ぼくが許さない。

 エリアスには強い決意があった。


「ハウエル様、有用な情報がございます」


 ハウエルは露骨に嫌そうな顔になった。

 エリアスが実務的な口調を崩さないことに嫌気が差したのだろう。


「尾行の成果? 売春宿みたいな汚らしい場所で得た情報なんかで、耳を汚したくはないわ」


「いえ、尾行の成果は微々たるもので、この情報は別の方面からのものです。すなわち、相手方の決闘代理人は二人おります。その内の一人の所在を掴みました」


 ハウエルは何とも言えない表情になった。

 彼には卑劣な真似を嫌う潔癖さがあった。


「情報の出所を教えてくれる?」


「はい。上級市民の中に協力者が大勢おります。今回の情報源は匿名での取引ですが、信頼の置ける情報を提供してくれています」


「どこの誰かも分からない匿名さんの情報ね。……で、この情報をどう使うつもり?」


「暗殺」


 エリアスは冷たくこごった表情で言った。

 ハウエルの口が開きかける。

 エリアスは子供じみた朗らかな笑顔になり、首を横に振った。


「――と、言いたいところですが、身辺調査で精いっぱいですね。敵の弱点を洗い出してみせます」


「決闘は真剣勝負よ。相手を観察しただけで、どうにかできるとは思えないわ。心配しなくても、ワタシはワタシの実力で相手を倒すわよ」


「もちろん、ハウエル様の手腕を、ぼくは信じています。しかし……」


 エリアスは寂しげに笑う。


「――ぼくも何かをしたいんです。ハウエル様を失いたくないから……。教区内での調査を、許していただけますか?」


 ハウエルはしばらく黙り込んでいたが、やがて、エリアスの体をきつく抱き締めた。

 ハウエルのごつごつした体躯は、エリアスの柔らかな躰に尋常ではない痛みをもたらしたが、この美少年は内心、喜んでいた。


「無茶はしないで。約束して、エリアス」



「分かりました。ぼくはハウエル様を悲しませるようなことはいたしません」


「ああ、ほんとに可愛い子ね、エリアス。あなたが好きで好きで堪らないわ」


 エリアスの胸は熱くなっていた。

 こんなにも必要とされている。

 無茶をするなとは言うが、無茶がしたくて仕方がなかった。

 この人の為なら命を捨てても構わない。

 ハウエルとの長い抱擁を交わした後、エリアスは部屋を出た。

 待ち構えていたのはハウエルの腹心たちであった。

 半分ほどが女装をし、午後から始まるハウエルとの会食を待ち望んでいる。


「長い話だったわね」


 女装した男が辛辣に言う。エリアスは肩を竦めた。


「そうだね。じゃ、ぼくは行くから」


「どこへよ!」


 男が野太い声と共に立ち塞がった。

 エリアスは嘆息する。


「教区内への立ち入り許可を貰った。これから諜報活動に入る」


「こそこそするのはやめろと言われたでしょうが!」


「認めてくれたんだよ。ハウエル様はいつだって、ぼくのすることを認めてくださる」


 わなわなと震えている男の横を素通りした。

 他の腹心たちも厳しい眼差しを絶やさなかった。

 エリアスは笑いを押し殺しながら、そのまま屋外に出た。

 外ではエリアスを信奉するロイドが待っていた。

 長身の青年で、紫色の長髪が艶めかしい。

 黒と白の礼服を着込み、上級市民として通用する落ち着きと威厳を備えていた。

 エリアスほどの美貌ではないが、女装の名手として有名である。


「エリアスさん、教区に放っていた密偵の件ですが……」


「うん。歩きながら話そう」


 二人はバトムレスの猥雑な通りを歩き始めた。

 ハウエルの影響で男色に目覚めた男が大勢いた。

 彼らは人目を憚るということを知らないので、物陰を覗き込むと怪しげな挙動をしている者が簡単に見つかる。

 聖教の神官はバトムレスを『地獄』と呼ぶことがあるが、彼らにとってはまさしくそうだろう。

 犬畜生にも劣る行為は万死に値する、そう主張する者が後を絶たない。

 愛の形なんて千差万別、凡庸な愛にはうんざりする。

 エリアスは相手を好きにさえなれば、男同士だろうが女同士だろうが、関係ないと思っていた。

 本当、神官たちは偏狭である。

 もっと広い視野でものを見られないのだろうか。


「……新しい情報が入ったのか?」


 エリアスは自由な振る舞いが許されるバトムレスの通りの様子に満足しながら、小声で尋ねた。

 ロイドは青白い貌に苦悩を滲ませた。


「いえ。その……、イジドアを監視していた同志が、斬殺されました」


 エリアスは絶句した。

 監視は今朝早くからだったはずだ。


「もうばれたのか?」


「俺も危ないところでした。あの決闘代理人は妙に勘が鋭い。あれは本物の戦士ですよ」


 決闘代理人の中には、大して実力のない戦士が混じっている。

 たまたま戦場で功績を上げた英雄気取りとか、過去を偽り実力不相応な厚遇を受けている傭兵とか。

 だが、今回は油断の許されない相手らしい。

 今回の決闘代理人、東方の移動都市から招聘されたイジドア=イムーヴァブル・ネクストは、実のところ、数か月前からその影が確認されていた。

 聖教が当代最強の戦士として前々から目をつけており、今回の来都は想定内だった。

 したがって、その監視も容易だった。

 事前に密偵を近辺に張り込ませておくことなど造作もない。

 その密偵が斬り殺された。


 エリアスは、イジドア監視の責任者であるロイドの恐怖を感じ取った。

 命を捨てろと発破をかけることは簡単だが、無駄死にを推奨するわけでもない。

 エリアスは思案した。が、妙案はない。


「暗殺計画を見直す必要があるかな。イジドアが身を寄せている場所は、確か……」


「大聖堂です。司教の住まいでもあります」


「助祭の一人として振る舞っているのだったな。誰か聖職の人間を買収できないのか」


「何年も前から試みていますが、さすがにあの牙城は崩せません。あの高級取りたちは安定志向ですからね……」


 密告が頻発する聖教の内部に裏切り者を創出するのは難しい。

 狙いは落ち目の中堅どころだが、大聖堂に自由に出入りできる聖職者に隙はない。

 密偵を潜り込ませるのは比較的容易だが、殺されてしまうのでは意味がない。

 相手方の警戒を強めてしまう。

 エリアスは首を横に振った。


「ハウエル様を信じるしかないのか。いや、何か手はあるはずだ。イジドアを殺す……、あるいはこの都から追放する……、決闘代理人の資格を失わせる……」


 考えても答えは出なかった。

 エリアスは仕方なく、ロイドにこう命じるしかなかった。


「監視を続けろ。人員に糸目はつけない」


 何人失ってもいいから好機を窺え。そういう意図だった。

 ロイドは沈痛な面持ちで頷き、


「密偵の屍は磔にされるそうです。聖教に抗った邪教徒の咎で」


「邪教徒!」


 エリアスは叫んだ。

 教区外だが、同じ都市に住まう人間ではないか。

 そんなおぞましい存在と同列に扱われるなんて。

 死体を奪還したい思いに駆られた。

 だがそれは不可能だ。

 相手方は、こちらの感情を逆撫でする為に密偵の死体を凌辱するのだ。

 みすみす飛び出していくことは愚の骨頂。

 エリアスは手を振った。


「――行け。同志の最期を見届けるんだ。せめてお前たちが、祈りを捧げてやってくれ」


「分かりました」


 ロイドが都市中央部、教区内の住宅区へと向かう。

 彼は上級市民としての嗜みを熟知しており、自然に振る舞うことができた。

 密偵としては最低限の技能であるが、彼ほど完璧にこなせる人間はいない。

 立ち去り方も優雅だった。


 エリアスは金髪の巻き毛を布で隠した。

 歓楽街ディライトに向かう。

 先日、ユニスという女に盗み聞きを依頼したが、もしかするともう成果が上がっているかもしれない。

 あの神官は、もう来ているだろうか。

 例の売春宿の前まで来ると、妙な声が聞こえてきた。

 最初は喘ぎ声が漏れているのかと思ったが、どうやら違う。

 歓声?


 宿の中に踏み込むと、いつもは落ち着き払った主人が、勘定台の奥でにやにや笑っていた。

 売春婦たちは客の相手もせずに浮かれ騒いでいる。

 客たちは憤激しているかと思いきや、一緒になって手を叩いたり笑っていたりする。

 異様な状況だった。エリアスは唖然とする。

 ユニスが全裸で談話室の卓上によじ登り、下品な踊りを披露していた。


「おっ、おっ、おっ、×××~!」


「おい、何があったんだ。今日は祭りか」


「ああ。エリアス! 一緒に踊りましょうよ!」


 ユニスが腰を振りながら歯の抜けた顔で笑う。

 まるで子供みたいな奔放さで近くの男にしがみ付く。

 エリアスは狂ったとしか思えない人々に押されたりいきなり接吻されたりで、早くもうんざりしていた。


「何があったんだ? ……メーベルはどこだ?」


 エリアスはさっきからノエルの相手の売春婦を探していたが、見つからなかった。

 ユニスは酒に酔っているらしく、紅潮した顔で暢気に言う。


「それが、めでたいのよ。メーベルを貰ってくれるお客さんがいたのよ、フゥォっ!」


「貰う?」


 意味が分からなかった。


「そう。神官さんだから結婚は無理みたいだけど。囲ってくれるみたいよ。それはもう、熱烈なお誘いだったんだからぁ」


 エリアスは思考を働かせた。

 どうやら状況は妙な方向に向かいつつあるらしい。

 ハウエルの決闘裁判と関わる可能性は低い。

 が、神官が決闘代理人と関係を持っている以上、ある程度状況を把握する必要がある。


「二人はどこへ行った?」


「教区内の新居じゃない? きゃっ、素敵!」


 ユニスがはしゃいでいる。

 成功した仲間を妬むわけでもなく、あくまで祝福するのか。

 どいつもこいつもお人よしだな。

 売春婦も客たちも、ノエルがもたらした法外な額の金貨のおこぼれを頂戴して高揚している部分もあったのだが、エリアスはそんなことは知らなかった。


「新居はどこにある?」


「そんなことは知らないわよ。知ってたら今頃押し掛けてるって、あははん」


「それもそうだな。……じゃ、ぼくは失礼するよ」


 エリアスは喧騒の売春宿を後にした。

 神官は普通、教会や寮に住まう。

 女を囲うときはそこから離れた長屋にでも隠すのが通例だ。

 人を使えば、すぐにでも居場所は見つけられるだろう。

 焦ることもないか。

 それにしても、あのうぶな神官が売春婦を囲うなど。随分と思い切ったものだ。

 何となく応援したい気持ちが湧き上がったが、今は決闘裁判が優先だ。


 決闘裁判。ハウエル追放を求める聖教の横暴。

 神官も女を囲うという罪を犯す。神学上の罪だ。

 ハウエルの生き方に異議を申し立てる資格などないではないか。

 エリアスは全ての生き方を受容する。

 だが他人の生き方を排斥するような生き方は許せない。

 戦い続けることを誓う。

 戦い続けるであろう自分を誇りに思う。

 エリアスは童顔に似合わぬ冷徹な形相を浮かべ、教区内へと歩み始めた。




     *




 はっきり言って医者は無能だった。

 怪しげな薬を処方してもらったものの、ロレインの熱は下がらない。

 ノエルは部屋の中をうろうろしていた。

 メーベルは一見落ち着いているようだが、窓辺に凭れたり暖炉の炎を神経質に確認したり、動揺はしているのだろう。

 ノエルは少女が依然苦しげなのを睨み、玄関に向かった。


「どこへ行かれるのです」


 メーベルが言う。

 売春宿で見た彼女とは印象が違ったことに驚いたが、愛しい女性ということに変わりない。

 ノエルは振り返ってぎこちなく笑った。


「また医者を呼んできます。薬の効き目がないようなので」


「でも、効果は数時間経たないと出ないって……」


「もう数時間経ちましたよ」


「経ってません。太陽がほとんど動いていないじゃないですか」


 窓辺に立ったメーベルは空を仰ぎ見て言った。

 ノエルは苛立たしかった。


「……分かりました。もう少し様子を見ましょう」


 ノエルは言ったが、メーベルの指示で全てが動くのが気に食わなかった。

 彼女だって売春婦に過ぎない。

 子供の治療に何かしらの知識を持っているとは思えなかった。

 むしろ、神学校で教養諸学を修めたノエルのほうが、知識はあるだろう。

 メーベルがノエルを、道理を知らない男として扱うことには我慢ならない。

 椅子に腰掛けたノエルは、暖炉の温もりを感じた。

 冬は日々深まりつつあるものの、今日は比較的温暖だった。

 本当は暖炉は必要なかったかもしれない。


「炎、やだよ……」


 ロレインが呻いた。

 少女の顔は苦悶に歪んでいる。

 メーベルが話しかけても、苦し紛れの笑顔しか見せてくれない。


「ひどくなってませんか」


 ノエルは呻いた。メーベルも頷いた。


「……ですね。熱も上がって……」


 メーベルは思いついたように窓を開けた。

 寒風が入り込んでくる。

 ノエルは慌てて窓を閉めた。

 風邪をひいているときに寒風を浴びたら悪化してしまう。


「何を考えているんです。せっかく、部屋を暖めているのに……」


「それがいけないのかもしれません」


「え?」


「もう一度、話してくださいませんか。ノエル様とロレインの出会いを」


「出会いも何も」


 ノエルは話した。

 話している本人も理解できない悪魔との邂逅の次第を。

 神の加護を失った神官が見舞われた試練の仔細。

 メーベルは何度も頷いた。少し呆れている節もある。


「この子は悪魔などではなく、人間です。ですが、普通の人間ではないのかも」


「どういう意味ですか」


 ノエルは首を捻った。

 メーベルはそれには答えず、暖炉に近づくと、蓋を閉めた。

 間もなく火は消えるだろう。

 ノエルは仰天した。


「この子は、風邪を引いて……。暖かくしないと」


「もう体は乾いています。それに、炎は嫌だって言ってましたから」


「いや、それにしても……」


 メーベルの断固とした態度に押されて、ノエルは彼女が窓を開け放すのを眺めていた。

 症状が悪化したらどうするんだ。

 そう思った直後ぱちりと少女の瞼が開き、ぐったりしていた水色の頭髪が蠢き始めた。

 まるで命が宿っているかのようだ。

 おもむろに上半身を持ち上げた彼女は、大きく伸びをして、溜め息をついた。


「あー、よく寝たよ。散歩に行きたいな」


 朗らかに言った少女は寝台から降りた。

 寄せ集めの服を着せてあったので、服の大きさがあってなかったり柄が不吉だったり、そのまま外には行かせられそうになかった。

 ノエルはロレインの腕を取る。


「きみ、本当に大丈夫なのか? 熱は下がったようだが……」


 少女はあどけない顔に疑問の表情を浮かべる。


「大丈夫だよ。炎は、やだけどね」


 ロレインのふわりとした微笑に見惚れながら確認すると、彼女の額はひんやりと冷たいほどだった。

 メーベルが少女の髪を撫でた。


「きっとこの子にとって炎は毒なんですわ、ノエル様。これから気を付けてあげないと」


 ノエルは震えた。

 そうだ、この家に連れてきたときはまだ眠そうだっただけで、具合が悪かったわけではない。

 体を乾かそうと暖炉に火を灯したときからおかしくなったのだ。

 自分の所為だ。ノエルはうな垂れた。

 自分が余計な気を回さなければ、少女は無用な苦しみを味わわずに済んだに違いない。

 メーベルがノエルの肩に触れる。


「何はともあれ、良かったじゃないですか。元気になって」


「そうですね」


 返事はしたが、自分が間抜けに思える。

 少女が首を傾げてこちらを見ている。申し訳ない思いが突き上げたが、少女は気にしていないようである。

 いや、だが、謝罪をしなければならないだろう。


「申し訳なかった……、リヴィア。いや、ロレインのほうが良いのかな? とにかく、私の愚かな振る舞いの所為で」


「おにいさん、あたしは気にしてないよ。ちょっと息苦しかったけど、よく眠れたし」


 慰めるわけでもなく、ロレインは言った。

 それが偽らざる気持ちのようだった。

 少しは救われる。ノエルは微笑した。

 メーベルが意味もなく少女の肩を抱いていた。

 その髪のすべすべした感触が気持ち良いようで、顔を近づけて嬉しそうにしていた。


「ねえ、ロレイン、この方のことはおとうさんって呼ぶのよ。私はおかあさん、って呼んでくださいね」


 ノエルはメーベルの言動に疑問を感じたが、今はどうでも良かった。

 自分の本来の役割を思い出す。

 そうだ、決闘代理人の出迎え。

 今日の午後、この家に案内することになっている。

 待ち合わせはオーグジリアリ・ハンド教会前だ。

 他でもない、メーベルが伝言してくれた内容である。

 慌ててノエルは神官服の皺を伸ばし、自分の身なりが正常か見下ろした。


「ああ、あの、メーベルさん」


「はい?」


「私は、ちょっと出かけてきます。ロレインを任せてもよろしいですか」


「あたしも行くよー、おとうさん!」


 ロレインが嬉しそうに手を上げる。

 ノエルは困惑した。


「いや、それは……」


「あたしも、外に用事があるんだった。あたしも行く!」


「用事って……」


 ノエルは困惑した。

 メーベルはにこにこと、本当にこの少女の母親になったかのような鷹揚さで、


「ノエル様、よろしいんじゃないでしょうか。一緒に連れて行ってあげてください」


「いや、でも、子供を連れていくわけには……」


「大事なお役目なんですか?」


「ええ、そうです。そういうわけで、後は任せましたよ!」


 ノエルは家から飛び出した。

 背後からメーベルとロレインの声が追いかけてきたが、無視した。

 そうせざるを得なかった。




 ノエルが立ち去った後、メーベルとロレインは顔を見合わせて笑った。

 ノエルの慌て様がおかしかったのだ。

 ロレインはちょこちょこと部屋を横切り、壁際で倒れていた大剣に近づいた。

 メーベルは慌てて少女の肩を掴んだ。

 意外と少女は力強く、引き留めようとしてもその歩みは止まらなかった。

 メーベルはなんとかロレインより先に大剣に手を伸ばした。


「こんな危ないものは、手の届かないところに仕舞っておきましょう。いいですね?」


「え、やだよ」


「やだも何もありません」


 ノエルのような痩せた男が、少女と大剣をこの家まで運んできたのだ。

 メーベルは自分にも大剣を持ち上げられると確信していた。

 しかし、柄を掴んだ瞬間、悟った。

 あまりに重過ぎて、別の場所に移すどころか、指一本分浮かせることさえ不可能だと。


「意外と、ノエル様って力持ちなんですね……」


 息を荒げながら感心していると、ロレインが澄ました顔で柄を掴んだ。

 そして軽々と持ち上げてしまった。


「え?」


 絶句したメーベルの目の前で、少女は鞘から大剣を引き抜く。

 身長が足りないので、抜剣の為には一瞬柄から手を放して剣を浮かせ、放り投げるようにしなければならなかったが、少女は難なくそれをやってのけた。

 片手で剣を支えたまま、刃の様子を調べる。

 メーベルはロレインの凄まじい怪力に、やはり人間の子供じゃないのかしら、と考えていた。

 刃の様子に満足した少女は、巨大な鞘を蹴り上げると、器用に刃を収めた。

 紐で剣と鞘を固定し、背中に括り付ける。


「じゃあ、行ってきまーす」


 少女はぎこちなく歩き始めた。

 柄が頭を律動的に叩く。

 剣があまりに大き過ぎるのだ。


「だ、大丈夫ですか?」


「大丈夫だよ。あたし、いっつもこの剣と一緒だったから」


 にこりと笑んだ少女に、頷くしかないメーベルだった。




 教会前にやってきたノエルは、交叉路のどこにもそれらしき人物がいないことに安堵した。

 まだ到着していなかったか。

 決闘代理人は二人いる。

 その内の一人の世話を、自分がすることになっている。

 その重責に押し潰されそうだったが、ノエルが担当するのは二番手の戦士らしい。

 それがせめてもの救いだった。

 万事上手くいけば、ノエルが世話する戦士の出番なしに、裁判は終結するのだ。

 戦士の名前は、確か、サニー=ロックイースト・リヴィア。

 身体的な特徴は何も聞いていないが、一目で戦士と分かる格好をしているらしい。

 きっと、屈強な男なのだろう。

 ハウエル並の巨漢に違いない。


 ノエルはそわそわしながら待っていた。

 空の虹はとうに消えていたが、その向こうにうっすらと見える青い星が輝きを増しているように思われる。

 いつもは空の青に溶けてほとんど目立たないのに、雨が降って空気が清められたか。


 サニー=ロックイースト・リヴィア……。


 どこかで聞いたことがある。

 この感覚はついさっき味わったばかりだ。

 いや、薄々、最初から気付いていた。

 あの少女の名前だ。リヴィアと言っていた。

 一目で戦士と分かる大剣を背負っていた。特徴には合致する。

 だがそんなはずがなかった。

 あの子供が決闘代理人? 十歳程度だ。戦いは無理だ。

 ちらちらと通りの様子を窺ってしまう。

 あの少女、ロレインという名前をメーベルから授かった子供が、この待ち合わせ場所に来るのではないか。

 そんな恐怖と戦っていた。

 なぜ、恐れる必要がある。

 あの少女が決闘代理人であるなら、あくまで身の回りの世話をするだけだ。

 自分に誰が戦士に相応しいか判断する役目は与えられていない。

 職務に徹すれば良いのだ。

 阿呆のように、言われたことだけをこなしていればいい。


 心の動揺を潰し切ったノエルは、婦人服に着替えて腕に上着を抱えたメーベルと、彼女に手を引かれて歩いてきたロレインを見ても、それほど取り乱さなかった。

 少女は例によって、歩くたび後頭部を大剣に打ち付けている。

 メーベルが自分の手を差し入れて緩衝材にしようとしているが、少女の歩き方がぎこちなくふらふら揺れるので、あまり上手くいっていなかった。

 向かい合ったノエルとロレイン。

 メーベルはその間で不思議そうな顔をしていた。


「きみが、決闘代理人だったのか。どうして、言ってくれなかったんだい?」


「眠かったの。ごめんなさい……」


 少女はしゅんとして言った。

 ノエルが全身から怒気を放っていることを、敏感に察知したようだった。

 こうなるとノエルのほうが慌てる。


「ああ、違うんだ、そうじゃなくて……。いいんだ、話は家でじっくり聞こう」


 ノエルが少女の手を取って歩き出す。

 それは聖教から支給された例の家の方向だった。

 ひたすら首を傾げていたメーベルが、ノエルの空いているほうの手を取る。

 ぎょっとしたノエルは、その手の温もりを感じつつ、しどろもどろに言った。


「え、あの、メーベルさん……?」


「もう帰ってしまわれるのですか」


「ええ、そのつもりですが」


「せっかくですし、三人で街を歩いてみません? ロレインも、散歩したいと言っていましたし」


 ノエルは少女を見下ろした。

 ロレインは満面の笑みで頷く。

 視線をメーベルに戻すと、彼女もまた、微笑していた。


「――私自身も、ゆっくり見物したいです。ディライトの街並みしか知らない浅学の身ですから……」


 ノエルは二人の女性にねだられて、無下に断れるほど、乾いた生き方ができなかった。

 メーベルの手に触れていると、あのあまりに衝動的だった夜の記憶が蘇る。

 そんなことをしみじみと感じていると、メーベルはノエルから手を離し、少女と手を繋いだ。


「――おとうさん、構わないですって。良かったですね、ロレイン」


「うん! おかあさん、おとうさん、ありがとう!」


 おとうさんって、妙な呼び方だ。

 それにメーベルはいつ売春宿に戻るのだろう。

 あちらの仕事を休んで大丈夫なのだろうか。

 ただ、この和やかな雰囲気を破壊する気がして、気軽に尋ねられなかった。

 まあ、散歩くらいは構わないだろう。

 ハウエル一派の密偵が暗躍しているという話だが、まさかこんな子供が決闘代理人とは思わないだろう。

 街をぶらぶら歩いても、危険はないはずだ。


 空は快晴、ロレインはそれをあまり歓迎していないようだった。

 度々眩しそうにする。それでも嬉しそうだ。

 雨が、好きなのだろうか。

 雨の中に立っていた彼女は、奇抜な髪のせいもあるが、輝いて見えた。

 今はそれほど髪に光沢はなく、異様な状態には見られないだろう。

 ロレインは二人に挟まれて、嬉しそうに手を繋いでいた。

 本当の親子のようだ。

 メーベルとは妻ではないのに。

 ロレインは本当の子供ではないのに。

 ノエルはこうして歩いていることに不思議な満足感を覚えた。


 そして慌てて、神官服を外套で隠さなければならないことに気付いた。

 メーベルが外套を差し出す。

 全てを見通したような笑顔だった。


「私は、ちゃんと服を着ていますからね」


 もう必要ありません。メーベルは呟く。

 彼女は上級市民に相応しい婦人服を、優雅に着こなしていた。

 歪んだ輪郭も一つの格式美の大枠に組み込まれ、衣服、態度、雰囲気などと見事な調和を果たしていた。

 ノエルは外套を纏い神官服の黒を隠した。

 こそこそしなければならない立場が疎ましかった。

 こんなことは初めてだった。

 これまでは聖職である自分に誇りしか感じなかった。

 しかし、以前のままでも良かった、とは思わなかった。

 この役目を押し付けられて、違った自分を発見できたのも事実だ。

 罪を犯してしまった、その負い目はあるが、神は許してくださる。

 こんなにも幸福の予感に心を動かされている信徒に、本当に罰を与えるだろうか? 

 この気持ちが邪なものであると判断し、天誅を加える? 

 信じられない。


 三人は人通りの多い中央通りに向かった。

 ファジー・デツの教区は円状に広がっている。

 中心には大聖堂が構え、歴史的な痕跡とも言える防壁の残骸が各所に散らばっている。

 教区外、バトムレスやディライトといった貧民通りは、円に接するように敷かれており互いに交叉しているところもある。

 それらは自然発生的な区分だったが、教区内は違った。

 上級神官の進言により都市計画は進められ、中央通りも極めて整然とした印象である。

 左右に建ち並ぶ商店に、ロレインはあまり注意を払わなかった。

 それよりも行き交う人に興味があるようである。

 それに対してメーベルは物につられた。

 楚々とした女性だが、多少の物欲はあるようである。

 商店で陳列されている衣服や宝石に、視線を奪われる。

 ノエルにはロレインを世話する為の十分な資金が与えられていた。買うこともできた。

 だが、メーベル自身がそれを阻止するかのように、


「あ、あちらのほうが可愛いですね」


 とか、


「あ、さっきのもののほうが上品でした。失敗ですね……」


 などと、わざとらしく言う。

 結果、ちょこまかと移動し、何も買う暇がなかった。

 ノエルは彼女の優しさに触れながら、やはり彼女が好きだ、と、自らの思いを確認した。

 あのときの情熱は嘘ではなかった、と彼女の横顔を見ながら思うのだ。


 ロレインが突然、通行人の一人を指差した。


「キレイなかお! 女の人みたい!」


 彼女の無邪気な声は二人の保護者を驚かせたばかりでなく、その通行人をも驚かせた。

 通行人――エリアスの命令で大聖堂に向かっていたロイドは、自分の貌を褒めてくれた子供を撫で回したい衝動に駆られたものの、自重した。

 男性らしい落ち着いた雰囲気で応対する。


「よく言われるがね。私としては威厳を損なわれたようで複雑だな、お嬢さん」


「すみません、うちの子が……」


 と、メーベルがなぜか嬉しそうに間に入る。

 ノエルはロイドがそれほどの美貌とは思わなかったので、ロレインの言動には疑問だった。

 頭に布を巻いた紳士服の通行人が立ち去ると、ノエルはメーベルに尋ねた。


「どうしてそんなに嬉しそうなんです?」


「ええ。『うちの子がとんだ粗相を。申し訳ございません』とか、そういうことを一度でいいから言ってみたかったんです」


「子供が欲しかったんですね」


「ええ。産めない体になってから、そういう願望が膨らんできて」


 ノエルは何も言えなかった。

 産めない体、か。

 それほど珍しいわけでもないだろう。

 事実、メーベルだって軽く流している。


 ロレインは立ち去る紳士の後姿を見送っている。


「キレイな髪だったのになあ。どうしてかくしているんだろう。ウーン、分からない。ムラサキの髪が、そんなにはずかしかったのかなあ」


 ノエルはメーベルと顔を見合わせた。


「あの男性の髪の色、見えました?」


「い、いえ。布に隠れていて、私には……。ロレインは背が低いので、下からなら見えたのかもしれませんね」


 メーベルはそう説明する。

 なるほど、恐らくはそうだろう。

 だが、ロレインは不思議な子供だ。

 普通の人間と違う視界を持っていたって、驚くに値しない。

 ノエルはロレインの手を握り、先を促した。


「行こう、ロレイン。そろそろ家に帰ろう。色々と話したいことがある」


「うん、わかった、おとうさん!」


 笑顔でそう言われ、強く手を握り返されると、本当に自分はそうなのではないかという気になってくる。

 実際、自分はメーベルとそういう行為に興じているのだ。

 メーベルと交わした罪が、この子供をもたらした……。

 なるほど、普通の夫婦と、構図は変わらないのかもしれない。

 そう思うと、ノエルは少女にロレインという独自の名前をつけたことが正解だったような気がした。


「ロレイン。ロレインか……、良い響きだな」


「おとうさん、呼んだ?」


「呼んでない。いや、呼んだかも。ただ、良い名前だな、と」


「ありがとうございます」


 メーベルが返事をする。

 彼女の黒髪が風に揺れて、彼女の茶目っ気が透けて見えたような情景だった。

 ああ、メーベル。

 ノエルは彼女を抱き締めたい衝動に駆られた。

 早く家に帰りたい。ノエルは天に叫びたかった。

 私は幸せだと。

 何もかも職務を忘れて、この二人の女と過ごしていたいと。

 三人が連れ立って歩く姿を、背後から見据えているロイドの影に気付くこともなく、帰宅の途に就いた。


 ロイドは紳士服の襟を直しながら呟く。


「あの子供……、見ない顔だな。あの大剣は玩具の一種か? それにしては迫力が……」


 ロイドは大聖堂への道を一瞥した後、方向を変えて、尾行を始めかけた。

 だが、自制心が働く。

 イジドアの監視は継続しなければならない。

 あんな細い男と、色香が漂う若い女、それに子供を尾行して、何になるというのか。

 ロイドは苦笑し、踵を返した。



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