エスファーノの決心
その疑問は彼女とあった時から存在していた。
なぜリウィアが、自分を『必要』としているかその、理由である。
あえて言うなら『カスティリヤ王国の副大使』という肩書が必要なのだろうが。それにしても、この荒野の中の『ローマ』になぜそのような肩書が必要なのか。
その質問をエスファーノは包み隠さず、リウィアに打ち明ける。
やや黒みがかったリウィアの目の光が揺れる。
「当然の質問だな。今更ながらで失礼だが、説明しよう」
本棚の一角から丸いボールのようなものを取り出し、リウィアはテーブルに置く。
不思議そうにそれを見つめるエスファーノ。
「これが世界――副大使どのの祖国はここだ」
ボールの上の一角をリウィアは指差す。
球体の上の祖国――解せぬ顔をするエスファーノにリウィアは説明を続ける。
「実のところは私も見たわけではないので分からないが、この世界は球体の上にあると考えて良さそうだ。地平線があるのが何よりの証拠。古代ギリシアのエラトステネスはその考え方に従い、この周回を 二五万スタディアと求めた――そしてここが我々がいるところ。オスマン帝国の小アジアの外れになる」
リウィアは指で大きくオスマン帝国の領土を囲む。
「オスマン帝国はその領土をどんどん拡大してきている。ビザンツ帝国は風前の灯。遅かれ早かれ、その命運が尽きることになるだろう。そして、我が『ローマ』も」
エスファーノはビザンツ帝国の話は知っていた。オスマン帝国により包囲されつつあり、ビザンツ皇帝は西ヨーロッパ中を駆け巡り、援軍を求めているという話も。
「そのような圧力を感じたからこそ、カスティリヤは使節を派遣したのだろう。いずれは西ヨーロッパにも攻め込んでくるかもしれない。そうなる前に挟み撃ちにしようと。いま東で日の昇る勢いのティムールと手を結ぶことによって」
はるか東、ティムールの支配する領土を指で示す。先程指さしたカスティリヤとの間に挟まれたのはオスマン帝国であった。
「その同盟に我々も加えてほしい。それが副大使どのを助けた理由だ」
簡潔な説明。しかし、十分に納得しうるものであった。
オスマン帝国の力がこれ以上強くなれば、その領土内にあるこの『ローマ』も遅かれ早かれ攻撃されることだろう。そうなる前に手を打とうとするのは理にかなっている。
自分はどうすべきなのだろうか、とエスファーノは途方に暮れる。
正直、エスファーノはあまり細かい指示を受けていなかった。国王から『ティムールとの友好を図れ』という一言があっただけである。今はすでに亡き大使が密命を帯びていたかもしれないが、今となっては知る由もない。
自分の存在などその程度の立場なのだということをエスファーノは痛感する。
そもそも、本来ならばこの副大使の役目は父のものであった。しかし、出発の前日になって事件は起こった。父が街中で刺されたのである。刺客はようとしれず、怨恨か陰謀かははっきりとしなかった。
はっきりとしていたことは、父が副大使としてティムールの元に赴くことは不可能になったということである。
長男の兄のカルロスはきわめて保守的な人物で、王命とはいえ見たこともない草原の荒れ地にいくことを、良しとはしなかった。
「国王陛下には大恩あるとはいえ、そこまでの義理はない。」
長男がいかなければそれに代わる代理のものをたてなければならない。
そして、白羽の矢は三男であるエスファーノに向けられた。長男が決して無理強いしたわけではない。それは、話の流れで自然と決まったことであった。
エスファーノの返事は、曖昧なものであった。そして、それが積極的な拒絶でなかったことが、この件を決定事項にしてしまう。
エスファーノは、ちょうど二十歳を迎えていた。武芸よりも学問に興味があり、一度はコルドバの大学に籍を置いていたことあった。しかし学問で身を立てようと考えるほど熱心でもなく、古代ラテン語とアリストテレス哲学の初歩を身につけたくらいで、自分の荘園に戻り、読書と作詩の日々を過ごしていた。
そろそろ、身の振り方も考えなくてはいけない頃合いであった。
エスファーノはリコルド家の三男坊であり、今後分家したとしても貴族の称号を獲得するのはたぶん無理であろう。また、分家を創設するほど父の領土は広くなく、また聖職者になるほど信仰に興味があるわけでもない。
彼の返事の曖昧さは、このあたりの気持ちに由来していた。むろん武芸に対して自信のない彼のことである。異国での危機的な状況に対しての不安はあったが、なんといってもカスティリヤの公式な使節である。危険が多かろうはずもない、そう考えた彼は副大使の役目を最終的に引き受けることになったのであった。
その結果がこれであった。
エスファーノは少し考えた後、うなずく。
リウィアの真意はどうか知らないが、もう後戻りできないところに自分が来ていることを強く感じながら――