ローマの浴室
エスファーノは元老院の歓迎の祝福を受けた後、別な建物に案内される。
『歓迎の宴は夕方となる。それまでゆっくりと体を休めてほしい』
リウィアがそう命ずると、召使いらしき男性が恭しく礼をしてエスファーノをいざなう。
いまだに完全に状況が飲み込めた訳では無いが、危害を加えられることはないという確信を感じていた。
言われるままに、召使いの後をついていくエスファーノ。
大理石づくりのいくつもの石柱の間を通り、広間を突っ切っていく。途中長いローブを羽織った一群と出会うが、不審な目を向けられるでもなく丁寧にお辞儀を返された。
床も大理石――それも果てしなく続くような壮大な回廊にエスファーノは息をのむ。
エスファーノは自分が生まれたカスティリヤ王国で、このような風景は見たことがなかった。東方のムスリム(イスラーム教徒)のカリフが住まう都市の繁栄を本で読んだことがあるが、それともまた趣を異としている感じだった。
それは正しく古代のローマ帝国――古代ローマの詩に出てくるような風景が、目の前に再現されていた。
召使いは狭い路地にエスファーノを案内する。
両側に緑の木々が見え始める。
突き当りには林に囲まれた、ドーム型の建物がそびえていた。
中に入り、エスファーノに説明する召使い。リウィアに比べるとかなり平易なラテン語であった。
すすめに従い、一室へと足を進める。
風呂にはいるように、勧められたのだ。
誰もいない空間で服を脱ぐ。着替えはすでに渡されていた。
あの野盗との戦闘で、エスファーノは重症を負ったはずであった。左足の腿と右胸に切りつけられた記憶は今でも生々しい。
しかし、開いているはずの傷口はなにか糸のようなものに縫われて、口を閉じていた。出血もない。
エスファーノはムスリム人の医学を思い出す。彼らは戦闘で傷ついたものを、このように治療するという――とはいえ、傷口が膿んだりしないのも不思議であったのだが――
裸になったエスファーノは、風呂場に足を踏み入れる。
大きな池のような水槽がなみなみと水をたたえていた。手を入れると、少しぬるい。視線を上に移すと、階段の上に小さな桶のような浴槽がいくつも並んでいた。湯気が立ち、樋のようなもので水が満たされている。
その一つにエスファーノは入る。
さすがに最初、傷口に違和感を感じるがさほどでもない。それどころか何かじんわりと傷口に温かい、心地よい感触が広がっていく。
湯をひとすくいし、それを舌に運ぶ。
――苦い。
普通の水ではない。鉱泉、にしては色が透き通っている。
合わせて、この温度。
温かい水が自然と湧いているという話を聞いたことはある。これもその類のものなのだろうか。
そんなことを考えていると、軽い眠気にエスファーノはおそわれる。
風呂に入る習慣はエスファーノの生活にも存在した。しかし、それは大きめの盥で水浴びをする、という程度のものである。気持ちよくはあったが、それは体を『清掃』するにとどまりこのような『快楽』を与えてくれるものではなかったはずだ。
エスファーノはいつの間にか眠りに入る――その夢ははるか遠くのカスティリヤを思い浮かべながら――
目が覚めると、エスファーノは椅子に座っていた。服もいつの間にか着せられていた。あの召使いがしてくれたのだろうか。
エスファーのはすっと立ち上がる。
体の軽さを感じる。傷の痛みもほとんど感じない。
床に自分の衣服の裾が長く、広がる。その下に来ている服もエスファーノのものではない。先程、行き交った男性のものに似ていた。
召使いが現れ、エスファーノに深々と礼をする。
「これから、宴の予定です。よろしければご案内いたします」
先程リウィアが言っていたものらしい。
よろしい。この世界をもっと知ってやろう。
そうエスファーノはこころの中でつぶやく。
本では読んだことのある古代ローマの世界。それがなぜ、オスマン帝国支配下の小アジアの、この地に存在するのか。そして、なぜ自分を歓待しているのか。
一度は死んだ身である。怖いものはない。
エスファーノはう一度力強くうなずくと、歩みを進める。召使いの命ずるままに――