小アジアの大地に
一筋の血がつたう右手を夜空に掲げ、彼はつぶやいた。すでに血は乾き、それは星空を流れる星の軌跡のようにも見えた。
あたりには、一面に荒れ野が広がる。それは、彼が生まれたカスティリヤ王国では決して見ることのできない風景であった。
その地に、今自分が朽ち果てようとしている――
彼は自分の故郷を思い出していた。いわゆる死を目前にした人間が心の中に浮かべる、『憧憬』というものだろうか。
彼の名はエスファーノ=デ=リコルド。カスティリヤ王国の騎士であった。
カスティリヤ王国は、のちにアラゴン王国と合併し、『太陽の沈まぬ帝国』スペイン王国となる国家である。スペイン王国が成立する一〇〇年ほど前のカスティリヤ王国に、エスファーノは生まれた。
それがいまこうして、遠く離れた地の上で傷つき、斃れようとしている。
しかし、エスファーノは神への救いの言葉を唱える気にもならなかった。
痛みはすでに消え失せ、ただ無力感のみがエスファーノを体を支配していたのだ。
――遠く離れた東方の異国へのカスティリヤ王国の外交使節団。エスファーノはその副大使であった。その任を受けた時には想像もつかなかった。まさか、野盗などにその使節が襲撃されるとは。
油断はなかったはずだ。カスティリヤ王国使節団一行は護衛も含めて三十名からなる、それなりの戦闘集団である。騎馬も、荷物運搬用とはいえ十騎ほど連れていた。使節の隊員はみな帯剣しており、カスティリヤ王国の長い内戦を経験した強者もそろっていた。
盗賊がさらに強かった、と考えるしかない。
統率がきちんととれ、こちらの財産よりもまずは命、戦闘能力をそぐことを第一に考えて攻撃してきた。放り出された財貨には目もくれず、一人、また一人とカスティリヤの騎士たちは倒れていったのである。
エスファーノもまた奮戦したが、あまり武技は上手という方ではない。あっという間に手傷を負い、地に伏した。
そのことが、彼にとって幸いであった。なおも奮戦する騎士たちは、戦うのにより有利な地形を求めて戦場を移動していった。それにつられて野盗共も姿を消す――
そのため、エスファーノは取り残される形となり、また戦闘の際の印象の薄さからも、盗賊たちから忘れられ、このように命をつなぐことができたのだった。
とはいえ、状況はきわめて悪い。
かなりの傷を負い、あと半日もつかどうかという傷の状態である。何しろ出血がひどい。コルドバの大学に在籍していた時、医学を志していた学友から聞いたことがある。瀉血をする際にあまり血を抜きすぎると、死に至ることがあると。もう体の半分くらいの血が抜けているようにも感じられた。
しかし、彼にとってそんなことは、もうどうでもよいことであるように感じられた。
この死は自ら望んだ結果でないとはいえ、自分の判断の報いであろう。異教徒の領土内――オスマン帝国の領土を突っ切って、はるか東のかなたティムールの治める国にまで外交使節を送る。そんな無謀な使節団の副大使の役職を受けた、自分自身の選択の――
彼は目を閉じる。次に目が覚める時には何が待っているのか、それだけが彼の今の関心事であった。
天国か地獄か。
この異郷の地で死んだとしても、行先は同じなのだろうか。
まるで眠りに入るように、ぼんやりとした心地よさが体を包んでいった――