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悲哀なる"アヴィラー"  作者: 弐水 (nisui)
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____だから僕は、父を殺すと決めた。

まずは第1章。構成からコツコツ、楽しく書きました。ぜひ最後まで、主人公の成長を見届けてやってください。

   プロローグ 始まりの夜


 射し込む光で、少年は目を覚ました。長方形に切り取られた光は、ベッドに寝転がる少年の顔をめがけて伸びている。何事かと、気だるげに目をこすった。寝室の扉が開けられ、廊下の光が入り込んでいることに気づいた。枕もとに置かれた小さな時計を見ると、深夜の一時過ぎ。薄く開いた目には、ぼんやりとした視界が広がっていた。

 少年はふとあることに気づく。廊下の電気は、センサー式のはずだ、と。瞬間、背筋がひやりとした。父か母が見に来たのだろうか。そう考えた。だが、こんな時間に……?今まで、両親が見に来ることに、気づいたことはない。

 すぐそこに、誰かがいる。

 これだけは確かだった。センサー式ライトは、勝手には付かない。付いたとしても、自分の寝室の扉が開く道理がない。まだ小学生の少年には、何だか怖かった。

 このまま寝ているフリをしようかと考えたが、やめた。よく目をこすり、視界をはっきりとさせる。そして、扉に目を向けた。誰かが、寝ている自分を見下つめていた。廊下の光が逆光になっていて、顔はよく見えない。しかし、細く背の高いそのシルエットに、少年は見覚えがあった。

「……父さん……?」

 間違いなく、父だった。小さく発した少年の声に、父の肩が僅かに跳ねる。少年は、不思議に思った。

こんな時間にこんなところで、何してるんだろ……。

「仕事……?」

 そんなことはないと思いつつも、なぜだかそう言ってしまった。少年は、眉をひそめる。父は、「そうだ」と軽く返した。しかし、その声はどこか震えていたように感じる。父は身体を反転させ、少年に背を向けた。少年は、横向きになった一瞬の父の顔を、確実に捉えていた。そして、探るような声のトーンで言う。

「父さん、泣いてるの……?」

 父の目元は、一瞬だけ光って見えた。少年に背を向けた今も、淡く光り続けている。美しく、それでいて穢れてもいる涙。

「そん……なわけ……ないだろ?」

 声を絞り出すが、泣いていることは明らかだった。少年は少し困惑するも、徐々に重くなっていくまぶたに負け、再び視界が暗くなる。気持ち良さそうに眠る少年の顔を、父は振り返って見つめていた。「ごめんな」と小さく呟いたが、少年には聞こえるはずもない。頬をつたう涙が、静かに床に落ちた。扉を閉める音が僅かに響く。

 この日以降、父の姿を見た者は誰もいない――。

   第一章 崩壊、そして……。


「ほわあぁっ!」

 ゴールから大きく外れた彼のシュートは、またもや多くの溜息を生んだ。シュート直前のフォームは、しているスポーツがサッカーなのか疑わしくなるレベルだった。ばたばたと足を小刻みに動かし、今にも転んでしまいそうである。周りの連中は、怒るでも苛立つでもなく、ただ息を吐くばかりだった。

 現在、放課後の部活動時間。校庭を十数人で陣取るのは、彼らサッカー部だ。

 どんよりムードが広がる中、彼に声をかけたのは、花宮はなみや真太郎しんたろうだった。

雪矢ゆきや、気にしなくていいぞ!次は入る!」

 数えると両手の指だけでは足りなくなるくらいには、聞きなれた言葉だった。爽やかな笑顔を浮かべ、目をキラキラさせている。

「……は……はは……」

 彼も、もう笑うしかなかった。周りの連中も、今さら謝罪なんて求めていないだろう。吊り上がってしまう頬と共に、苦笑を浮かべた。

 彼の名は、辻村つじむら雪矢ゆきや。九州のとある田舎の町の、中学二年生。運動能力が皆無だが、親友の真太郎に誘われてサッカー部に入った。誘われて入った、と言うと聞こえは良いが、ほとんど強制的に入らされたようなものだ。「サッカーやろうよ、ねえ、サッカーやろうよ、ねえ、サッカーやろうよ、ねえ……」こんなことを一日に何百回も機械的に言われ続けると、頭がおかしくなる危険を感じて入部してしまう。

 雪矢とは対照的に、真太郎は運動が何でもできる。高身長を生かし、体育ではバスケやバレーなどで活躍してきた。勉強はあまりできないが、変に勘が鋭い。

今更だけど、これ以上みんなに迷惑をかけられない……!

 雪矢の拳に、ぐっと力が入る。雪矢の数々のミスで、今のところ負けている。甲高いホイッスルの音と共に、相手チームが攻撃を始めた。前方にいた味方が相手のボールをスティールし、たまたま雪矢の方へ転がってくる。雪矢は、チャンスとばかりに思った。ドリブルで抜けなくても、せめて取られないようにしようと考える。相手ゴール前に、味方が見えた。

(ここからゴール前までパスが繋がってゴールが決まれば、僕も役に立てたことになるはず!)

「一発逆転だあああぁぁぁあ!」

 大きく右足を振り上げる。雪矢は、不敵に笑った。自分に向かってくる相手へ、まるで嘲笑するかの如く……。

サッカーを始めて三か月、ようやくチームに貢献できるぞ!見てるか真太郎、僕の勇姿をッ!

 雪矢に向かってくる相手プレイヤーは、目を大きくした。

「まっ、まさか……!」

「ふふっ!」

 ボールへ向けられた雪矢の足は、確かな感触を捉えた。力のままに蹴り上げ、勢いよく、それでいて正確に、ゴール前の味方へと飛んでいく。

 しかしながら、彼は重大なミスを犯していた。それに気付いていないため、コート全体がどよめいたのは自分が初めて活躍するからだと思い込んでいた。

「雪矢!?」

 真太郎が、声を大にして驚いたように言う。雪矢の蹴ったボールは、ゴール前にいた味方にしっかり届いた。コートの端から端へ、寸分の狂いも無しに。

いける!さあ、そのままゴールするんだ!

 後方で、ひそかに願った。その心情は、希望に満ち溢れている。いつもミスをしてばかりで、雪矢がチームを導いてきた。敗北に。運動能力の高い真太郎とは、いつも同じチームだった。プラスである真太郎とマイナスである雪矢を相殺させ、チームへの影響力をゼロにしようという、顧問の先生のシンプルかつ残酷な考え。しかしそれも虚しく、雪矢の運動能力の低さは、常人の遥か上をいっていた。真太郎の高度な技術をも凌駕する、圧倒的才能の無さ。

 もはや、誰もどうすることもできなかった。ヘタさが暴走していたと言ってもいい。

 それが今は、どうだろう。サッカーにおいて、こんなにもいきいきした表情を浮かべる雪矢は、誰も見たことがなかった。今この瞬間、必死に羽を大きく広げ、足取りが覚束ないながらも気持ちだけは高揚し、飛び立つ直前の鳥の如く、いや、まるでそれが化身にでもなったかのように、力強く羽を動かし始める。

 雪矢が覚醒した瞬間だった。

いっけええぇぇえっぇぇ!

 心の中で、強く叫んだ。

……これが、サッカー!

 スポーツの楽しさを初めて知る。

 それではここでひとつ、冷静に考えてみよう。後方でゴールを守っていた雪矢は、自身に転がる流れ玉を思い切り蹴り飛ばし、相手ゴールの前にいる味方へとパスを繋いだ。このプレイは、オフサイドという反則である。ちなみに、雪矢は全く気づいていない。

 ボールを蹴った数秒後、監督が悲しそうな顔でホイッスルを吹いた。当然、雪矢にはその意図は分かっていない。一人混乱する中、真太郎が雪矢の肩にぽんと手を置き、申し訳なさそうに言った。

「オフサイド……」

「……………え?…………」

 雪矢は、目を丸くした。それから、口をわなわなさせ、ついには震えだした。

「えっ、おい雪矢、大丈夫か!?」

 真太郎が慌てる。さすがに今回は、「次はうまくいく!」なんてことは言えなかったのだろう。サッカー部員が全員集まり、十数人で雪矢を囲む。地上へ釣りあげられて息もできず、憐れに飛び跳ねることしかできない魚を見るような目で、その場にうつ伏せで倒れ込んだ雪矢を無言で見ていた。顧問の先生さえも、何も言えずに黙りこんでいる。

 とりあえず雪矢をコート外へ移動させ、練習を再開しようという話になった。その後約一時間練習は続いたが、その間雪矢は、校庭の隅で地面に鼻を押しつけ、負のオーラを全面的に出していた。


                    ※


 時は午後六時三十分。雪矢は、見慣れた道を歩いていた。今は七月なので、空はまだまだ明るい。部活サッカーの帰りに、真太郎とハンバーガー店へ行くところだ。暗くもないのに数メートル間隔で街灯が点いていて、鮮やかな緑の木々とブロック塀が道を作りだしている。二車線の車道に、広い歩道。十分に開けていて、落ち着いた道だ。

 校庭でずっと寝ていたので、体力も回復し、ショックからも無事立ち直っていた。うつ伏せだったので、鼻が赤い。

 居心地の悪さを感じない沈黙を、真太郎が静かに破った。

「なあ雪矢、このゲーム知ってっか?」

 スマホの画面を雪矢に見せて言う。画面には、ボールを蹴る直前のサッカー選手を捉えたアイコンが、大きく映し出されていた。

「うげえ……」

 雪矢はあからさまに嫌そうな顔をし、ジト目で真太郎を見る。真太郎は、笑顔で続けた。

「雪矢お前、ゲーム上手かったろ?リアルなサッカーができなくても、これならできるんじゃないか?」

「この状況で容赦なくサッカーの話題を振れるあたり、真太郎はかなりえげつない神経を持ち合わせてるんだろうな」

……まあでも、真太郎も自分なりに僕を励まそうとしてくれてるのかもな。ここで断るのもなんか違う気がするし。

「……僕にゲームで勝てるなんて思わないでね」

「………!」

 真太郎の顔が、ぱっと明るくなる。雪矢は、僅かに微笑を浮かべた。

「へへっ!おうよ!」

 力強い笑顔で、真太郎はそう答えた。今まで、雪矢の小さな変化にも、大きな変化にも、誰よりも早く気がついていた。そして、何か自分にできることはないか?と不器用ながらも自問自答を繰り返して、ときには雪矢の気を楽にし、ときには怒らせた、成功ばかりではなかったけれど、間違いなくこれだけは言えた。

 雪矢は、何度も真太郎に救われた。

「おっ、着いたな。行くか、雪矢」

「うん」

 ハンバーガー店の入口の自動ドアが、二人を歓迎するかのように開く。注文を済ませたのち、二人組用の席に座った。その数秒後にはもう、二人ともスマホを手にしている。先ほど真太郎が言っていた無料のサッカーゲームを、雪矢は早速ダウンロードしていた。

「とはいえ、あんまり気が進まないなあ……」

 サッカーの才能が皆無の雪矢には、当然といえば当然だった。

「ま、そうかもな。リアルより先にゲームから始めてれば良かったのに」

 真太郎は、スマホに目をやりながら言った。

「え、なんで?」

 雪矢は画面から顔を上げ、不思議そうに問う。

「ん?そりゃお前、あれだろ。バスケ漫画読んだとして、かっこいと思うから自分もやってみる。そういうこと、あるだろ?」

 雪矢は、不思議そうに首をかしげた。

「ごめん、ちょっとよく分かんない。ていうか普通そうなの?」

 真太郎は目を細くして、呆れたように言う。

「はあ……マジか。だいたいの中学生はな。要は憧れだよ。雪矢もサッカーの漫画読んだりゲームやったりして、キャラに憧れ持てばそれ目指して熱中できるんじゃないか?……って話」

 雪矢には、いまいち理解できていないようだった。確かにスポーツ漫画は面白いが、どんなにかっこよくても、それになりたいとは思わない。

 サッカーの漫画も一作品だけ読んだことがあったが、サッカーを始めようとは考えなかった。事実、その漫画は本当に面白かった。キャラ同士の友情、かわいいマネージャーさん、立ちはだかる数々のライバルたち。全てが魅力的で、キャラも個性が強く、ストーリーも充実していた。傑作というに相応しい作品だった。

 しかし、雪矢は憧れはしなかった。もちろん個人差はあるが、ほとんどの中学生男子ならば、上半身裸で外に出て家の庭で雨に打たれながら腕立て伏せをしたり、滝に打たれたりしていりはずだ。

 雪矢にはそれがないから、真太郎の言う「憧れのキャラを目指して熱中する」というのは効果がない。こればっかりは仕方がないことだが。

「おっ、真太郎、ダウンロード終わったよ」

 雪矢のスマホの画面には、「インストール中」という表示が、アプリを「開く」という表示に変わっていた。時間は、二分くらいしかかかっていない。

「よっし、んじゃやるか!」

 真太郎は組んだ掌を上へ伸ばし、伸びをする。雪矢は一通りチュートリアルを済ませた後、「マルチゲーム」の文字をタップし、真太郎の募集するマルチ部屋へと入った。

「だいたい操作は分かったけど、そんなに難しそうじゃないね」

 雪矢がぽろっと呟く。すると、真太郎が誇らしげに返した。

「ふはははははは!雪矢、俺はこのゲームに昨日五時間も費やしたんだ!そう簡単には負けんよ?何と俺は、ランク四だ!ちなみに限界はランク百!負けたら一つだけ何でも言うこと聞いてやるぞ!」

「…………」

 雪矢は、あえて何も返さない。やはり人には、向き不向きがあるんだなと思った。

五時間で上がったランクが四。このゲームのことはよく知らないけど、その速度はある意味凄くないか?サッカー上手いやつがサッカーのゲームをしたら下手になるのか?ていうか、サッカーゲームでランクとかあんの?

「行くぜ、スタートッ!」

 威勢よく声を上げる真太郎だが、先ほどの部活中の自分を見ているようで、雪矢は何だか悲しくなった。手加減は良くないなと思い、雪矢は本気でプレイすることにした。

「おらっ、パスカット!」

「何っ!?」

「おいこら走れ七番!そう、そこ!スクリーンで抜いてっと、はい二番!もっかい落とし!よし、そのままワンツー、からのヒールリフト使って予期せぬパスを出してくぅ!んで、最後十番、前行け!そこ!取れよ?敵の股通してと、ここ!おらっ!よし、パス通ったな、決めろ、十ば……ってぶねえ!スライディングを華麗に避けてぇの、最後、ハイどーん!」

 一度も敵にボールを奪われることなく、雪矢の完全勝利。雪矢はふう、と息をつき、真太郎は目を大きく見開いている。

「ゆ、雪矢お前……」

「ククク……だから言ったろ、僕にゲームで勝てる奴なんて、この世には存在しないんだよ!」

「何……!?マジか!すげえなお前!リアルの三千倍は周り見えてたぞ!」

「そりゃそうだろ。リアルでも同じ動きをしろって方が無理な話。さあ、もっと持ち上げろ、我が勝利に乾杯!貴様の敗北にくす玉!ふはは!今夜も酒が美味いわ!」

「ひどっ!あと酒飲むな!……ったく、昨日五時間もやったのに……」

 真太郎が、顔をしかめて言う。

「しゃあねえな……。雪矢、一つだけ言うこと聞いてやんよ!ほら、何だ?金か?」

「違うわ。人を何だと思ってんだよ。……でもまあ、特に思いつかないから今度言うよ」

 真太郎は、「おう!」と返した。

「十二番の番号札をお持ちのお客様―、十二番の番号札をお持ちのお客様―」

 ハンバーガーが用意できたらしく、店員が無駄に明るい声で言う。丁度ゲームも一区切りついたところだったので、良いタイミングだった。

雪矢が椅子を立とうとすると、真太郎がそれを止めた。

「いいぜ、雪矢。俺が取り行くよ。負けたからな!」

 人懐こい笑顔とともに、小走りでカウンターへと向かう。雪矢はその間、背もたれを十分に使い、ぼーっとしていることにした。

 だが、そうもいかなかった。

 ――ピコンッ。

「……?」

 不意に、机に置かれた雪矢のスマホが鳴った。画面を見ると、殺人事件の速報だった。

「……変死体……ねえ……」

 雪矢は、ぼそっと呟く。


 ――昨夜未明、山で女性(詳細不明)の変死体が見つかった。遺体は、腹部が切断され、胴と下半身が切り離された状態だった。切り口が異様に綺麗だったことから、何らかの特殊な凶器を用いての犯行であるとみて、警察は捜査を続けている。


「またか……」

「ん?どうした雪矢」

 真太郎が戻ってきていたようで、椅子を引きながら問う。

「いや、見てこれ」

 雪矢は、画面を真太郎に向けた。すると、真太郎は目を細くし、うーん……、と唸る。

「最近多いよなあ……変死体」

 ここ最近は、よく変死体が見つかっている。被害者は、何らかの事情で山に出かけている人が多い。それぞれ切断部など遺体の状態は異なるものの、全てに共通して断面が綺麗なのだ。だが、同一犯の犯行だとは考えられていない。各地で変死体が見つかるからだ。

 雪矢たちの住むこの田舎の町も、度々ニュースで取り上げられる。変死体が見つかるからだ。やはり、山で見つかることが多い。田舎と言ってもそこまで極度な田舎ではなく、スーパーや本屋、コンビニ、そしてハンバーガー店やその他いくつかの食堂など、一部分だけだが、栄え始めている。少し昔は、本当に何も無かったらしいが……。

「そういやさあ、この前三年生の先輩から聞いた話なんだけどよ……」

 真太郎が、何やら神妙な面持ちで話し始めた。

「その人の友達が、化け物を見たってうるさくて、全部嘘だと思っていたらしいんだ。でもその先輩も、友達があんなに必死で訴える様子を見たことなかったし、とりあえず話だけ聞いたんだと。その友達が言うには、路地裏で、腕が触手みたいににゅるにゅるしてる『何か』を見たって……。大雨の日だったらしいぞ」

 真太郎が、怖い話をするみたいに小声で囁くように言うが、正直、雪矢には信じられなかった。それも当然だろう。いきなり、「化け物を見た」なんて言われて、「えっ、マジ!?怖っ!」となる人間は、そう多くないだろう。ただの作り話だと思っていた……のだが。

「この間、三年生が一人行方不明になったろ?」

 真太郎が、小声で続ける。雪矢の肩が僅かに跳ねた。つい先月、三年生のとある生徒が行方不明になっていたのだ。見つからぬまま今に至るのだが、その生徒は、山になど行ってはいなかった。変死体の事件の被害者はみな、何らかの事情で山に出かけていたのだ。しかし今回、もしもその生徒が変死体の件に関わっているとして、何らかの理由で殺されてしまったとすれば……。

 殺人鬼は、この町のどこかでふらふら歩いているということになる。

 雪矢は、まさか……と思った。

「じゃあ、その行方不明になった三年生って……」

「そう、俺が話を聞いた三年生の、化け物を見たっていう友達だ」

 雪矢は、ごくりと生唾を飲み込む。一気に信憑性が増した。

「先輩がその友達から化け物の話を聞いた翌日から、友達は学校に来なくなったんだ」

「じゃあ、化け物が本当にいたとして、殺されたと仮定した場合、その三年生の友達は『化け物』を見たから殺された、っていうふうに考えられるよね」

「ああ。これが正しければ、例の連続殺人鬼は化け物である可能性が高い。俺達は、『化け物』の存在を知らなかった。多分、自分の存在を知られた化け物が、全員殺してきたんだろ」

「そしてそれこそが、最近の変死体事件の犯人……ってことだよね。でも何か、『化け物』って言ってもざっくりし過ぎてて、全然イメージつかないや」

 あくまで化け物なるものがいたときの仮定なので、実際には何の確信もない。だが、雪矢は、妙な胸騒ぎを覚えた。心臓を掌で押されるようみたいに胸が苦しくなり、息が詰まる。

 それを払拭するかのように、目の前に置かれた二個のハンバーガーの内の一つを取り上げ、口を大きく開けて頬張った。夢中で喋りすぎて、真太郎もまだハンバーガーに手をつけていなかった。山のように積まれたそれは、もはや数えることすら面倒になるほどの数で、雪矢には到底食べることはできない。

「真太郎、ホントよく食べるね……」

 げんなりした様子で言う。

「雪矢、お前こそそれだけで足りんのか!?俺の少しやろうか?」

 雪矢はさらにげんなりし、それを見た真太郎がいたずらっぽく笑った。

 それから十五分くらい経っただろうか。真太郎の前に積まれたハンバーガーの山は、一瞬にして消え去っていた。

「真太郎、早すぎるでしょさすがに。ホントリアクションに困るからやめて?何回見ても慣れないわ」

 真太郎は「おう!」と笑顔で答える。何が「おう!」なのかはよく分からない。真太郎は、どのアニメや漫画にも必ず一人は出てきそうな、典型的な大食いスポーツ系男子なのだ。その食べっぷりは、見る人の食欲が失せてしまうほど。

「よし、んじゃ、そろそろ帰るか!」

「そうだね」

 気づいたら、七時半を過ぎていた。外は薄暗く、独特な雰囲気を出している。

 部活帰りに友達とハンバーガー店に行くという、雪矢の夢見たシチュエーション。今となっては日常化しつつあるが、雪矢にとって、大切な時間だった。

 世間的に見て、真太郎との関係を友達と言っていいのか、雪矢には正直分からなかった。なぜなら……。

 あの日から真太郎には、感謝してもしきれない恩がある。自分を助けてくれた。

 文字通り一人きりだった自分を、助けてくれた。雪矢が感謝すべきは、厳密には真太郎の両親なのかもしれない。いや、きっとそうなのだ。だが、真太郎への感謝も大きかった。

 雪矢の人生は残酷だった。あの日、あの夜、あの瞬間から、彼の人生はすでに狂い始めていた。歯車が連動して動いていくみたいに、負が負を動かし、それがまた負を動かす。

 そこから雪矢を引っ張り出し救ったのは、真太郎だった。


                    ※


「宿題絶対終わんねえ……」

 帰路を歩く真太郎は、溜息混じりに呟いた。

「また怒られろっ」

 雪矢は、笑いながらそう返す。数メートル間隔で設置された街灯が、役に立ち始めていた。今日に限って宿題が多い。部活動生からしてみれば、学校の授業で地獄、帰っても多量の宿題が待っているので地獄。真太郎はテストの点数がそこまで悪いわけではなく、順位でいうと、中の上くらいで、頭の中までは筋肉ではなかった。

「それにしてもさ」

 雪矢が、夜空を見上げて言う。

「こういうありふれた日常って、結構大切だよね」

 真太郎が、雪矢に顔を向ける。そして、にかっと笑った。

「そうだな」

多分、真太郎とはずっと友達だよな。

 空には、星など輝いてはいなかった。黒い空を、さらに真っ黒な暗雲が包み込む。

「ありがとう、真太郎」

「……ったく、お前それいつまで言うつもりだよ。……まあでも、気にすんな」

 ゆっくりとした歩調は、変わらない。

「僕がこうやってここにいられるのは、真太郎のおかげだから……」

「……」

 雪矢は、うつむき加減で言う。真太郎がいなければ、雪矢は間違いなくこの場にはいない。そういう事情なのだ。残酷だった雪矢の人生を塗り替えてくれたのは、真太郎だ。

「化け物なんてものが本当にいたとしたら、多分そいつに殺されたんだ……」

 雪矢は、「あの夜」のことを思い出していた。ざわつく胸をシャツごと握りしめながら、声を絞るようにして言う。

「父……さん……あのとき、何で……泣いてたの?」

 雪矢は勢いよく夜空へ顔を上げ、涙を頬へ零した。

「……雪矢、お前の親父さんは死んだとは限らないだろ?」

「真太郎、僕はもう……これ以上失うものなんて何もない……。でも、まだ何か奪われてしまうとしたら……」

 涙はとどまるところを知らなかった。その目は全てを諦めているように真っ黒で、それと同時に、まだかすかに残る希望と輝きを必死に守っているようでもあった。

「もう……何も失いたくない……」

 雪矢は、笑顔を浮かべていた。自らの涙を誤魔化すため、あるいは、自分の感情が分からなくなったから。笑顔に悲しみの涙が浮かぶ様子を、真太郎は初めて見た。

 正直真太郎には、少しだけ怖く感じられた。

「雪矢、お前は一人じゃない。もう俺がいるだろ?それでも駄目ならお前の親父さん、一緒に探してやるよ!」

 真太郎は、無垢な笑みを浮かべる。この笑顔と言葉に、雪矢は何度も助けられた。友達の存在を改めて大切に感じる。

「雪矢、帰ろう!遅くなると母ちゃんに怒られちまう」

 真太郎は、歩調を速めた。

「ま、二人(、、、)で(、)怒られる(、、、、、)の(、)も(、)悪くないか!」

 雪矢も、真太郎に追いつくようにして歩調を速める。

「……はは……そうだね」

 雪矢は目を細め、顔を綻ばせた。

 そこからは、他愛もない話だった。学校で嫌いな先生や、可愛い先輩、テレビの話や漫画・アニメの話など、どこの中学生もしている普通の会話。何のオチもなかったが、特に気にならない。

 好きな女子の話題で盛り上がっていたそのときだった。

「こんばんはー」

 不意にかけられた声に、二人とも肩が僅かに跳ねる。妙に高いその声は、なぜか怖く感じられた。辺りはかなり暗い。雪矢は、街灯に照らされた電柱へ目を向ける。声の主と、もう一人の人間を確認できた。

こんな時間に誰だ?まさか酔っ払いか?

 雪矢は、額に汗を溜めた。真太郎は唾を飲む。

 すると、街灯がつくるスポットライトから、一人の長身で細身の男が歩いて出てきた。

「僕たち、あっちの高校の教師の者なんですけどもー、興味無いですかー?」

 眼鏡をかけているのだろうか、一瞬だけフレームのようなものが光って見えた。

 男は斜め後ろを指差し、相変わらず高い声で言ってくる。そしてその間も、歩みは止めない。身体をくねくね横に揺らしながら、どんどん近づいてくる。その様子から妙な迫力を感じ、雪矢と真太郎は思わず一歩後ずさった。

「興味いいいぃぃぃぃぃぃいいぃありませんわよねええぇぇぇぇえ?あっちの高校の者ですうううぅぅうぅぅ。あっちのよおおぉぉぉぉぉ?」

光の影響で顔はよく見えないが、男がにやにや嗤っているように思えて、恐怖を覚えた。

「……こいつ、やばいぞ……」

 真太郎が、汗を流しながら小声で言う。雪矢にも、言われるまでもなく分かっていた。

何だこの人!?呂律は回ってるから酔っ払いじゃなさそうだけど……完全に頭おかしいぞ。

 まずい人に遭ってしまった、雪矢は思う。無論、真太郎も同じ考えだった。

 蛇に睨まれたカエルのように動けなくなる二人に向かって男は両手を広げ、なぜか覆いかぶさろうとした。

「ふっ、若き者よ、我が体を受け止めてみよ……」

 男は低く言う。雪矢は恐怖のあまり、思考が混乱した。なぜかキャラがぶれぶれで、どれが男本人のものなのか分からない。いや、そんなことはどうでもいいのだ。今、自分はどんな行動をするべきなのか。勿論逃けなければいけないのだが、今はとても冷静に判断できる状況ではない。夜にいきなり変人が現れ、よく分からない喋り方で高校の教師だと言い、なぜか自分に覆いかぶさろうとしている。目がぐるぐると回るような感覚。

 頭はさらに混乱するばかりだ。

「「うわあああぁあぁぁっぁ!」」

 雪矢と真太郎の悲鳴が、閑静な住宅街へ響く。男は小さく、あ、やべ。と漏らした。恐らく、これが素だろう。広げていた両手を戻し、男は街灯のスポットライトのもとへ、すすす、と後ずさりをしていった。顔はうつむいている。

なぜ戻る!?いや、こっちにいてほしいわけじゃないけど!

 そこで雪矢はふと、もう一人の男を思い出した。やはり身長が高く、こちらはがっしりとした体格。男二人の顔が、今はっきりと見えた。

 目が細く、眼鏡をかけた長身痩せ型の、テンションがおかしな男。

 坊主頭で、がっしりしたタイプの高身長の男。

 両者共に、黒スーツの上になぜか合羽を着ている。

「やめろ馬鹿たれ」

「あてっ!」

 坊主男が、眼鏡男の頭を軽く殴る。眼鏡男は白い蒸気の立ち上る頭を両手で押さえ、その場にしゃがみ込んだ。

「痛い……」

 坊主男が雪矢たちに近寄ってきた。二人とも身構える。

「……雪矢、気をつけろ……」

「……真太郎も」

 二人にしか聞こえないような声で注意を促す。すると、坊主男は口を開いた。

「うちの奴がすみませんでした。自分、南高校の教師の者でして、剛原ごうはらといいます」

 南高校とは、雪矢たちが暮らす町の南側にある高校で、現在、雪矢は北中学校に通っている。剛原と名乗る男は、その高校の教師だという。

「は、はあ……」

 近づいたはいいが、先ほどの眼鏡男と同様、顔がよく見えない。雪矢も、どう反応すればいいのか分からなかった。

剛原さん……この人は普通の人っぽいな……。それにしても、ホントに高校の先生なのか?

「こいつは高瀬たかせです……って、あ」

 剛原は高瀬、という男を指差しながら、自分の顔が暗くなっていることに気づいた。スーツのポケットに手を入れてスマホを取り出し、ライトを点けて自らの顔に当てる。

「おっと、失礼」

 小さく言う。その顔は笑っていた。しかし、下からの光のせいでありえないくらい怖い。

「「ぎゃああああぁぁぁぁぁあぁ!」」

 悲鳴。冗談抜きで、そろそろ警察が来るかもしれない。

「わあっ!えっと、すまない!」

 剛原は慌ててスマホをポケットにしまい、街灯のスポットライトへ戻る。

いや、戻るなら何で近づいたんだよ!

「……えっと、改めて謝罪します。うちの高瀬がすみませんでした。ところで、二人は中学生ですよね?南高校に興味はありませんか?」

 にこやかな笑顔で言う。高瀬も特にふざける様子はないが、だるそうに頭をかいている。

 剛原が「興味はないか」と問うが、雪矢はそれどころではなかった。真太郎も、かなり警戒している。こんな時間に勧誘など、完全に怪しいだろう。

「……どうする?真太郎」

「いや、どうするって言っても……。……走るか?」

 今すぐ走り、この場から逃げるという意味だろう。雪矢は黙って頷き、姿勢を低くした。

「いいか、いくぞ!」

 真太郎が小さく発し、大きく一歩を踏み出したその瞬間だった。

「……廃校になるかも……しれないんだ……」

 高瀬がうつむき加減で言う。思わず、二人とも足を止めた。

「はは……ごめんね。近くに東高校があって、そっちが人気なんだ。先生たちの教え方も上手だって評判みたいで……。近くに学校があるから、どうしてもそっちに人が集まっちゃう」

「……」

 高瀬は苦笑を浮かべ、続ける。

「生徒数がどんどん減ってきてて、もう少しで廃校になってしまうかもしれないんだ。でも僕たち、南高校が母校で、たくさんお世話になったから大切で。……どうしても、廃校にはしたくない。南高校を守ることが、僕たちにできる恩返しだと思う。……さっきは少しでも気を引いてほしくて、ふざけちゃったんだ。……本当に、ごめんね」

 雪矢は何だか、胸が痛んだ。真太郎も同じらしく、黙って下を向いている。ただの変な人達だと思っていたが、逃げる必要はないかもしれないと思った。

「こんな時間に、悪かったね。また他を当たってみるよ」

 高瀬が下手くそな作り笑いを浮かべながら、剛原と共に歩きだす。

……何かすっきりしない……。

 雪矢と真太郎の胸の中には、何だかモヤがかかっているようだった。先ほどの高瀬の変人のような挙動は、自分の母校を守るためだった。完全に逆効果だったのだが。

 雪矢の拳に、ぐっと力が入る。

「あっ、あの……!」

「……?」

 雪矢の言葉に、高瀬と剛原が振り返った。

「南高校、特に悪い噂も聞かないですし、むしろ中学校の先生たちは、人数は少ないけどいい生徒ばかりだって絶賛してます。えっと、それで、僕も廃校になるのは何か嫌っていうか、とにかく、僕も大事にしたいなって思いました!お二人にここまで大切に思わせるだけの魅力があるんだなとも感じましたし……」

「……雪矢……」

 あれ……。僕、何言って……。

 雪矢は必死に告げた。胸に霧のようにかかる靄を、少しずつ取り払うようにして。

「だからそのっ……」

「……?」

 雪矢の胸に、熱がこもった。

「まだ行くかは分からないですけど、学校の説明だけでもお願いできますか!?」

 真太郎は、頭を下げた雪矢の横顔を数秒見たのち、一緒に頭を下げる。

「……おっ、俺からも、お願いします!」

 二人で力強く言う。すると、剛原と高瀬は一瞬だけ目を大きくさせ、優しく微笑んだ。

「ありがとう!すぐに資料を持ってきますっ!」

 と言い、高瀬がどこかへ走りだす。

「二人とも、本当にありがとうございます。何だか少しだけ、希望が見えた気がします」

 剛原が雪矢と真太郎の手を掴み、笑顔で言う。

「いえ、大したことでは……」

 雪矢は、控えめに言う。剛原と高瀬が喜ぶ様子が、嬉しかった。

「大したことなんです、私たちにとっては。今後も南高校をピーアールしていく上で、力が出る一言でした。今まで、色々な人に無視されたので……」

 剛原は、苦笑した。高瀬の最初の印象は変人だったが、決して悪い人ではなさそうだった。ましてや剛原は、中学生である自分たちにも丁寧な話し方で、好印象を持った。

大切なものをこれほどまでに必死で守ろうとする人たちを、無視なんてできる人間の気がしれない……。話だけでも聞けばいいのに……。

 少し胸が痛んだ。

「良ければ、君たちの名前を聞いてもいいですか?」

 剛原が、二人の目をしっかり見て言う。雪矢は少し迷ったが、真太郎とアイコンタクトをとり、教えることにした。

「辻村雪矢です」

「花宮真太郎です」

 すると、剛原は下唇を舐め、再び口を開いた。

「そうですか。……辻村くん、花宮くん。あともう一つだけいいですか?」

「「……?」」

 雪矢と真太郎は、首をかしげる。剛原はゆっくりと笑った。

「君たちに、謝らなければいけないことがあります」

「「……?」」

 再び首をかしげる。剛原は、両手を大きく広げて言った。

「辻村くん、君には私たちのために尽くしてもらいます。あらかじめ謝っておきますね。……本当に、申し訳ないです。恨むなら自分の『特別さ』にしてください」

 もちろん訳が分からず、二人とも混乱している。

何言ってんだこの人?全く意味が分からない。尽くす?剛原さんたちに?え、待って、どゆこと?あと、特別ってなんだよ。

 おろおろしている雪矢を尻目に、剛原は淡々とした口調で続けた。

「それと、花宮くん。君は本当に運がありませんでしたね。でも、安心してください」

 ごくり。雪矢の耳に、そうはっきりと聞こえた。真太郎が唾を飲み込む音だった。

「君には大した危害を加えるつもりはありませんから」

 不意に、冷や汗が出る。剛原が…………嗤った。

「逃げろ雪矢ああぁぁ!」

 真太郎が叫ぶ。緊迫した冷たい空気が一瞬で広がった。

 ――バチチチチイイイィィィイイィィ!

「……がっ……!」

 雪矢の隣で、真太郎が倒れた。

真太郎……!?

 後ろを振り返る雪矢を凝視していたのは、片手に持ったスタンガンを真太郎へ当て、ふらふらと立っている高瀬。

「ひ……!」

 大きく見開かれた高瀬の目は、雪矢へ恐怖を与えるには十分だった。真正面から睨むように雪矢を見る、全てを見透かしているかのように虚ろな目。

 高瀬は表情を変えないまま、無言でスタンガンを雪矢へ向ける。

やばいっ!

 しかし、雪矢の反応を高瀬が勝った。殴るかのようにスタンガンを首筋に押し込む。

「……ッ!」

 何の抵抗もできないままに、雪矢はコンクリートへ倒れ伏せた。剛原が黒く大きな車を近くにとめ、雪矢と真太郎を乗せていく。そして、何事もなかったかのように住宅街から姿を消した。

「本当にすまないな……」

 そっと剛原が呟く。

 雪矢にとって、「最悪」の幕開けだった――。

 

                    ※


 雪矢が目を覚ますと、薄暗い視界が広がっていた。まぶたを動かし、目の前を少しずつはっきりさせていく。

 まず目に入ったのは、教壇だった。続いて、木でできた床、窓の外の暗闇。そして、真っ暗な黒板。

……教室……?

 と思ったが、この教室らしき場所に見覚えがなかった。

何でこんなところに……。

 次第に、意識がはっきりとしてきた。

……そうだ!あの高校の先生たちに急に襲われて……。

「……襲われて……?」

 なぜ自分たちは襲われたのか。剛原と高瀬は、高校の教師ではなかったのか。そして、ここは一体どこなのか。

 疑問は、息を吸うたびに浮かび上がってくる。

 不意に、足音が聞こえた。

 とっ、とっ、とっ、とっ、とっ。

「…………!」

 ぎしっ。

 慌てて入口の扉に目を向けると、大きな人影が見えた。肩幅が広くて背の高い、丸い頭部のシルエット。雪矢は、間違いない、そう思った。

「……剛原さん……」

 その声に含まれた感情は、「恐怖」だった。逃げようと必死で手足を動かす。しかし、その場から走り出すことは叶わなかった。

「……!」

 手首と足首がロープで縛られていることに、雪矢は初めて気がついた。剛原は床を軋ませ、歩き出した。

ああっ!クソ!逃げられない!なんなんだよ!

 剛原は雪矢の前に立ち、言う。

「目が覚めたか、辻村」

 剛原は、丁寧な口調ではなかった。雪矢は、何とか恐怖を鎮めようと試みる。自分が狂ってしまわないように。

こういうときに、絶対焦っちゃいけないんだ。とにかく、冷静になろう。

 雪矢は息をついた。

「嘘だったんですね、高校の教師って」

 鼓動が五月蠅い。それを掻き消すようにして、雪矢ははっきりとした口調で言う。疑問は何一つとして消えず、恐怖も濃くなるばかりだが、今は後回しだ。もしかしたら自分は、殺されてしまうかもしれない。

 そんなただの直感でも、雪矢には恐ろしく思えた。

「ここはとある廃校だ。そうそう人は来ない。……もちろん、携帯は没収している」

 言いながら剛原は教室の入口へ向かい、電気を点けた。ジジ……、と耳障りな音を立て、天井で電気が点滅している。

電気は通ってるのか……。

「何で僕を……」

 雪矢は顔を下げ、独り言のように呟いた。目元には影ができていて表情が読めない。

「なぜ……か。まあ、それはそうだよな」

 剛原は言うと、スーツのポケットに手を入れ、棒状の何かを取り出した。雪矢が目を凝らして見るも、やはり影ができて見えない。

 剛原は手を前に出し、光がよく当たるところで止めた。雪矢の目前に映る棒状のそれは透明で、先の方には針のようなものが見えた。その中で、赤黒い液体が揺らめいている。

 雪矢は、瞬時に理解した。

「……注射器……?」

 ピキリと音を立て、背筋が一気に凍結する。瞬間、未だかつてない恐怖を覚えた。もしも、この液体を体に注入されたら……。

「そうだ。何となく察しはつくな?」

 想像もできなかった。この液体が何なのか、いや、分かったところで、それが身体にどんな影響を及ぼすのか。

 死ぬより苦しむことになるんじゃないかとも思った。

 殺風景な教室に、冷えた空気と沈黙が流れる。雪矢は不意に、真太郎との「あの話」を思い出した。

 三年生の先輩が、化け物を見た次の日から行方不明になった。雪矢は当然、「化け物」なんて見たことがない。でも、最近の変死体の事件は、化け物が起こしたのではないかと考えていた。

 行方不明になった先輩はすでに殺されていて、まだ死体が発見されていないだけ。その死体は恐らく、変死体である。

 だが、雪矢は一瞬、こうも思った。

 変死体の事件を起こしたのは、れっきとした人間なのではないかと。なぜなら、剛原と高瀬の二人こそが事件の「犯人」だと思ったからだ。

 事実、こうして自分も誘拐されている。これから自分は無惨に殺され、変死体で見つかるのだと考えた。

 だが、この考えも間違っている。

 剛原と高瀬が犯人だとすれば、先輩が殺された理由が成り立たなくなる。先輩は、「化け物」を見たから殺されたのだ。

 では、なぜ殺す必要があったのか。答えは簡単だ。

「あなたたちの存在が、世間で知られないため……」

 雪矢は、化け物の存在など知らなかった。なぜなら、知ってしまった人間をが全員殺されてきたから。雪矢だけでなく、誰も知らなかったのだ。

 今まで変死体となって見つかった人々はみな、化け物を見たから殺されたと考えられる。

 そうなると、ある「仮説」が生まれる。

 雪矢が今から殺されるのだとすれば、剛原には、雪矢を殺さなければいけない理由があるはずだ。

 つまり、剛原が化け物だということになる。

 ピースがどんどんはまっていく。だがピースは、あと一つ残った。

「剛原さん……あなたが僕を殺す理由なんてないはずです」

「そうだな、俺がお前を殺す理由はない」

「…………?」

 剛原は低く言った。

「お前は確かに、俺の『正体』を知らなかった。だがお前は、勘づいた。……とうに殺していたよ。俺がお前を殺すために誘拐したならな」

 頭が混乱する。剛原が何を言っているのか分からなかった。雪矢を誘拐したのは、殺すためではない……。では、なぜ誘拐した?

 雪矢の頭をよぎったのは、剛原が手に持つものだった。

「……ちなみになんですけど、その注射器……何が入ってるんですか?」

 誘拐した目的は、恐らくその注射器の中にあるのだろう。

「……さあな。お前には、頼みがある」

「…………!」

 雪矢の首元にナイフが向けられる。だが、それがナイフであるかは怪しかった。

なぜなら……。

「……うわあぁっ!」

 剛原の右手には指が見つからず、その代わりに伸びているのはナイフだった。正直、雪矢にも意味が分からなかった。当然だ。剛原の右手は、変形しているのだ。

 剛原の右手……ナイフが、ぐにょぐにょと動き、赤くなっていく。そして、とろみのある液体のようになったのち、ある形を作った。

 棒のような細長いものが五本、放射状に伸びてくる。

指……?

 掌が見え、爪も姿を現し、新たな形が生まれる。それは、ごく普通の右手だった。

「俺たちみたい化け物が、ホントはどこにでもいるんだよ」

 それどころではない。こんな化け物を目の前に、恐怖以外の何を感じればいいのだろうか。驚きか?未知か?興味か?

 ……全部だ。これでも足りないくらいの感情。そして、言葉で言い表せない数々の感覚。それらが全て、雪矢の体に纏わりついた。

「『形状変化』と『生成』。これによって、変形ができる」

 雪矢は、ふと思い出した。行方不明になった三年生が路地裏で見たという、触手のようなもの。今は、簡単に解った。化け物だったんだろう。

「そんな俺たち化け物が、『変類(アヴィラー)』だ」

『アヴィラー』――。

 世界の至るところで隠れて生活をする、見た目は人間でありながら非人間の化け物。身体を形状変化させることができ、ナイフやハンマーなどの凶器を生成可能。また、独自の凶器や武器を生成することもでき、そのバラエティに限りはない。

 雪矢は、あることに気がついた。

「あれ……真太郎はどこですか!?」

 重なる驚愕と混乱、そして恐怖にかすみ、今の今まで意識していなかった。真太郎も一緒に襲われたのだ。雪矢の胸は、不安で満ちていた。

「お前の友達なら、ここだ」

 そう言い、剛原はスマホの画面を雪矢に向け、カバーを使って教壇に立て掛ける。そこに映っていたのは、真太郎だった。

……のだが。

「真太郎っ!」

 手足を縄で縛られ、自分と同じように椅子に座らされていた。がっくりと首を下げ、身動き一つしない。辺りはかなり暗く、場所の特徴は捉えられなかった。

……真太郎……?

 臓器が口から出てくるのではないかと思ってしまうくらい、心臓が大きく跳ねた。

「……まさか……!」

 雪矢は、震える声を絞り出す。怒りで満ちたその声色には、妙な迫力があった。

「いや、安心しろ。気絶しているだけだ。こいつには危害を加えない。約束しよう。……ただし、それはお前次第だ」

「……?」

 つまりは、雪矢の行動が真太郎の生死に直結するということだろう。

「……真太郎の命は、僕にかかっているってことですか……」

 剛原は「そうだ」と返し、右手を上に上げた。その手はみるみるうちに赤くなっていき、溶岩のようにどろどろ溶けだす。指先から徐々に溶け、再びナイフへと変化した、

 そのとき、剛原のスマホから甲高い声が聞こえてきた。

「やあやあ、しんたろーくん。こんばんはー」

 椅子に座る真太郎の元に、一人の男が歩いていく。雪矢は思わず、ぞくりとした。細身で高身長のその体に、既視感を覚える。

高瀬さん……!

 自分たちにスタンガンを当て、気絶させた張本人。恐怖とも言えぬ、さらに深いところの感情が煮えたぎった。

「おーい、起きろよ、おい」

 ぺちぺちと真太郎の顔を平手打ちしながら、ぶっきらぼうに呼びかける。

 そのとき、剛原がスマホの電源を切った。剛原が動きだす。ナイフと化した右手は雪矢へと刃先を向け、一瞬だけ光る。そのまま急降下し、雪矢の座る椅子に深く刺さった。

「……!」

 しゃがみ込んだ態勢のまま、剛原は雪矢を見上げる。雪矢は、背中に冷たいものを感じた。

「お前には、『アヴィラー』になってもらう」

 鋭い視線。雪矢は、生まれて初めて殺気というものを感じた。剛原の目は、脅すかのようだった。――これを拒めば、真太郎の命はない。

 そんな言葉を、間接的に投げかけてきた。

「……『アヴィラー』になるって……。一体どうやって……」

 雪矢は、不安げに呟く。その心情は、ぐちゃぐちゃに乱れていた。鉛筆でぐるぐるに塗り潰されるように、多くの考えと感情が渦巻く。

「これだ」

 そう言い、剛原は左手に持ちかえた注射器を見せた。中には、赤黒い液体が入っている。雪矢は、ふと考えた。

あれ……?もしかしてこれ、血……?

 その勘は、正しかった。

「この液体は、『アヴィラー』の血液だ。俺たちには特殊な血が流れててな、本来、人間の体に入れば死んでしまうんだ」

「……?」

「本来」という言葉が、少し引っかかる。つまり何が言いたいのか。雪矢には分からなかった。

「これをお前の体に注射する」

「……!?」

 剛原の言葉に、頭が追いつかない。

「はっ、はい!?今、死ぬって言ったばっかりじゃないですか!僕が死ねば真太郎が助かるってことですか!?」

 論理性のかけらもない、剛原の言葉。雪矢が困惑するのも無理はない。だが、剛原の言葉には続きがあった。

「話を最後まで聞け。誰も、お前を殺すとは言ってない。お前は特別なんだ」

 妙に胸に響いた、特別というフレーズ。よく思い出すと、雪矢たちが襲われたときにも言われたことだった。

「じゃあどういう……」

「お前の体が、この血液を拒まなければいいんだ」

「……血液を……拒まない……?」

 雪矢は、首をかしげる。

「『アヴィラー』の血液の特殊な成分が人間にはダメみたいなんだが、それは体自体が拒否してるからなんだ。お前の体がこの血液を受け入れれば、実質、害はない」

 言いたいことは何となく分かるが、当然、雪矢にはその方法が分からなかった。

「それって、操れるものなんですか?」

 尤もな疑問だった。剛原の言ったことを要約すると、体に有害な成分を無効化する、といったところだろうか。

 とにかく、それができるとは思えなかった。

「ああ、お前の気持ち次第でな」

「僕の……気持ち?」

 脳裏に真太郎の笑顔が浮かぶ。

「『アヴィラー』になりたいと願う。それだけだ」

 願うことで、体が『アヴィラー』の血液を敵として認識しなくなり、『アヴィラー』になれる。そういうことだろう。だが、それ以前の問題だった。

 化け物になりたいなんて、到底思えるはずがない。人間としての日常を壊す上に、何のメリットもない。いや、そもそも『アヴィラー』とは具体的にどういった存在なのか。

そんな、なりたいって願うなんて……。

 だが、雪矢は一つ思った。

「人の体がそんなに単純なわけ……」

「全ての人間に共通するわけじゃない。お前は特別なんだ。普通の人間だったら何をしようと、この量の『アヴィラー』の血液が入ったら死ぬ」

「……僕が特って別って、どういうことですか?」

 普通に毎日をおくる、ごく普通の中学生。部活や勉強、ゲームや読書、恋愛だってする。特別なんて言葉は、当てはまらないはずだった。

「それはまだ、伝えられない。お前に残された選択肢は二つだ」

 剛原は、真剣な眼差しで雪矢を見る。雪矢の額に、僅かに汗が溜まった。

「友達の死と引き換えに、お前が助かる。もしくは、お前の人間としての死と引き換えに、友達を助ける。このどちらかだ」

「……!」

 鼓動がみるみるうちに速くなる。自分が『アヴィラー』になれば、真太郎は助かるのだ。

「さあ、考えろ」

 真太郎という、自分をどん底から引き上げてくれた親友。雪矢の拳に、ぐっと力が入った。

「そんなのもちろん!」

 雪矢は威勢よく言う。真太郎は雪矢の親友なのだ。

「そんなの……もちろん……」

 そこで言葉が途切れた。

……………………。

 ……え?

 二の句が継げなくなる。心臓が波打った。

あれ……?もしかして僕……。生きたいのか……?真太郎を見捨ててまで……?

 雪矢は自分の感情が分からなくなり、こてん、と首を横に曲げた。

真太郎を売ってまで僕が生きたい理由って、何だっけ……?

「あれ?……ない……理由……ないぞ……?」

 自分のあまりの愚かさに、声が震える。確かに、そこまでして生きたい理由は見つからなかった。今までの自分の楽しかった思い出は、真太郎と築き上げてきたものだったから。真太郎がいないのならば、自分に生きる理由はない。

 しかし、だ。

「……でも、人間じゃなくなるのは、怖い……!」

 頭の中がぐちゃぐちゃで、おかしくなりそうだった。真太郎のことは助けたい。しかし、『アヴィラー』という化け物にもなりたくない。

これは僕のわがままなのか……?

「死にたくない……。失いたくない……!」

 雪矢は、こんなことで迷っている自分を心底嫌った。

「……それじゃあ、友達の意見も聞いてみようか」

 そう言い、剛原は再び雪矢にスマホの画面を見せる。そこに映るのは真太郎だった。やはり手足を拘束され、椅子に座っている。だが、先ほどとは違い、真太郎は目を覚ましていた。力任せに手足を動かし、縄を千切ろうとしている。

「真太郎!?」

 雪矢がそう言うと、真太郎は顔を正面に向けた。はっとした表情になり、慌てて口を開く。

「雪矢!?無事か!?話は聞いたぞ!そんなよく分からん化け物になる必要はねえ!俺のことはいいから、お前は生きろ!」

「……真太郎……」

「いや、真太郎が生きるんだ!」すぐにでも、そう言いたかった。言わなければならなかった。しかし、言えなかった。

「……いや……生きるべきは、真太郎なんだ……」

 無理して絞り出したかのような、弱々しい声。命を捨てる覚悟など、雪矢は持ちあわせてはいなかった。

「僕が生きたって、どうせ何の役にも立たないし……。昔っからめそめそしてて、サッカーが出来るわけでもない、特技なんてゲームだけ……」

「…………」

 何もかもを諦めたような、何の色も含まない声と表情。真太郎は、何かを我慢するかのように口をつぐんだ。

「僕みたいなゴミ人間が生きてるより、スポーツが何でもできて、そこそこ勉強もできる、みんなから人気者の真太郎が生きた方がいいに決まってる。うん、そうだよ!だいたい、僕は人間として死ぬってだけだし、これからは『アヴィラー』として……――」

「雪矢っ!」

 雪矢の言葉を遮り、真太郎が声を張り上げた。

「お前は……!お前は!思いやりのある、すっげーいいやつじゃねえか!」

「……!」

「それなのにゴミ人間だあ?俺の親友を馬鹿にするやつは、お前でも許さねえからな!」

 真太郎の叫びに、雪矢は思わず噴き出した。

「ぷっ、何だよそれ……」

 それから、少し笑ってみせる。だが、その笑顔は徐々に崩れていき、雪矢は重苦しく溜息をついた。

――限界だ。

「はあ……。駄目だ。真太郎のどんな言葉も、不思議なくらい空虚に響く……」

 雪矢の頬を、一滴の涙が伝った。もう一滴、さらにもう一滴と、堰を切ったように止まらなくなる。

「普通の人ならこの場で真太郎を助けるんだろうけど、僕には無理だ……」

「…………」

 剛原は、表情一つ変えないまま雪矢を見ていた。

「やっぱり僕、ゴミなんだよ。真太郎が命を懸けて僕を助けようとしてくれてるのに、何も感じない。最低だ……。ホント、救えないよね。真太郎は思いやりがあるとか言ってくれたけど、そんなの全然違う。ほら、今見てれば分かるでしょ?思いやりのかけらもない。ゴミなのに、友達を見殺しにしてまで人間として生きようとしてる」

「雪……――」

「あーもうホント、クソだよ。クソクソクソクソクソクソ!」

 雪矢がここまで自分を嫌ったのは、初めてかもしれない。だが、真太郎は雪矢を微塵も嫌ってなどいなかった。

「……雪矢、それでいいんだ。誰だって未知の世界は怖い。当たり前だろ?俺には、お前なしで生きる意味がないんだ。今までの楽しかった思い出は、お前と作ってきたものだったから。だから俺は、死ぬのは怖くない!後悔なんて、一ミリもない!」

「……!」

 へへっ、と笑う真太郎に、雪矢は目を丸くした。

 全く同じことを考えていた。真太郎がいたから、楽しかった。雪矢の胸の中に、新たな色の絵具がたらされる。その色はゆっくりと広がっていき、雪矢を内側から染め上げた。

「……ッ!」

 だが雪矢は、それを拒むかのように抗う。腹の奥底が、沸々と煮えたぎるのを感じた。

「うるっせえよ!綺麗ごと並べてさあ!何なんだよ!死ぬのが怖くない!?嘘つけよ!怖いに決まってんだろ!死だって未知だよ。真太郎が言ったんだろ!誰でも未知は怖いって!後悔が全くない?ふざけんな!自分を盾に僕を守ろうってか!そんな正義感溢れる奴が、この世に一人でもいると思うのか!?自分より他人の方が大切なご立派な奴が!ホントのこと言えよ!生きたいって!死にたくないって!」

 雪矢の迷いと恐怖、そして自己嫌悪は、怒りへと変わっていく。

「同じ人間だろうが!」

 雪矢は前かがみになりながら、怒鳴るように言う。

 死が怖くないはずがない。個人差はあれど、生きたいと本能的に願ってしまう。そして、それは決して悪ではなく、しかし善とも言い切れないのもまた事実。

 真太郎の中で溜まっていた何かが破裂した。

「雪矢、覚えてるか?『あの日』のこと」

「……!」

 一瞬、雪矢の胸が圧迫される。過去の記憶が走馬灯のように流れてきた。頭が割れるように痛く、身悶えする。数多の虫が脳内を徘徊するようにぐちゃぐちゃになっていく。

 ガサゴソ、ガサゴソ……。

 頭の中で、ひたすらに虫が蠢く。

「……ぐっ、あっ……!」

雪矢が独りになった日。そして、真太郎と新たな「繫がり」を持った日。

 あれは、雪矢が小学三年生の頃だった。


                    ※


「母さん、カレーってどうやるの?」

「雪矢、カレーはね、まず玉ねぎを炒めるのよ」

 フライパンの上で飴色になった玉ねぎを見て「おぉ……」と目を輝かせるのは、辻村雪矢。初めてのカレー作り。昔からカレーが大好きで、毎日、「カレー作って」と母にねだっていた。

「あっ、こら!つまみ食いしないの!」

「へへっ!」

 雪矢は、なぜか玉ねぎをつまみ食いする。それも、フライパンにそのまま手を突っ込んで玉ねぎを取るという大胆な犯行。なかなかにワイルドな少年である。

「次はね、人参をこんなふうに切って……、ってあっ!危ない!もう、包丁はこう、猫の手だったでしょ?……うん、そう!そうそうそうそう!やればできるじゃない!」

 母はそう言い、雪矢の頭をわしゃわしゃと撫でる。雪矢は、素直に嬉しかった。母の顔を見上げ、歯を見せながらにっこりと笑う。それに応じ、母も笑顔を見せた。

 無事カレーを作り上げた翌日、辻村家に一本の電話がかかる。雪矢が出ると、受話器の向こうから元気な声が聞こえてきた。雪矢の親友、花宮真太郎からだった。

「雪矢、今から俺んちでゲームしないか!?」

「うん!すぐ行く!」

 そう言い、雪矢は家を飛び出した。真太郎が鼻水を垂らしながら電話をかけている様子を何となく想像し、ぷくく、と笑う。

「おらっ!」

「っああああぁぁあぁっぁ!強ええ!雪矢お前、こんなにゲーム上手かったか!?」

「ふふっ!才能さ!生まれた時ときから真太郎とは別の次元にいたってことだな!ふははは!我が勝利に乾杯!貴様の敗北にくす玉!ふはっ!今夜も酒が美味いわ!」

「ひどっ!あと酒飲むな!ったく、ホント強いなあ、雪矢は」

 雪矢は真太郎の狭い部屋の中で、立ちあがり、誇らしげにガッツポーズをきめていた。

 そのとき、部屋のドアが僅かに開く。

「二人とも、ドーナツ食べる?」

「「食べる!」」

 片手にドーナツを持った真太郎の母に、声をそろえて答える。

 それから二時間程経った頃だろうか。雪矢は、まだ明るい帰路を走っていた。

「母さんにもこのドーナツ一個あげよ!」

 母の喜ぶ顔を見たくて、母にドーナツを残しておいたのだ。

 家のドアを勢い良く開き、「ただいまー!」と声を上げる。

「……あれ?」

 しかし、いつもの「おかえり」という優しい声は帰ってこない。不思議に思い、雪矢は母を探した。母の部屋、自分の部屋、トイレ、風呂場。だが、どこを探しても見つからない。

「母さん?母さん……?どこ?」

 そう力なく言いながら、暗い家を歩き回る。

 雪矢は、まだ探していなかった台所へと歩みを向けた。電気が点いていなかったので、いないだろうと思った。しかし、念のため見に行くことにした。

 そのときだった。

「……あ、ああ……。あなた……どうしていなくなったの?あああ……!雪矢に食べさせるにはもう私一人じゃ無理よ……。仕事もいっぱいいっぱいで、もうダメ……。あなた……。どこに行ったのよ……。私たちを置いて……」

 泣きじゃくるような声が聞こえた。

 ――母だ。

 雪矢は不安を胸に抱きながら、すぐに台所へ駆けつける。

「どうしたの?母さ……――」

 そこで、ぷつんと言葉が切れた。全身から汗が噴き出す。雪矢はこれでもかと目を見開き、僅かに肩を震わせた。

 薄暗い台所の中、体育座りした母は包丁を手にしていた。その顔は涙で濡れていて、雪矢に気づき、目を真っ直ぐに見る。

「母……さん……?」

 母は、優しく微笑んだ。

「ごめんね……」

 緊迫した空気が張り詰める。雪矢は全速力で走り、波打つ心臓を服ごと握りしめた。包丁を持つ母の手が勢いよく動き、それは自身の首へ伸びる。

「母さぁんっ!」

 そう叫んだときにはもう、遅かった。何もかもが遅かった。実の母親が自殺する姿は、脳裏に焼きついて離れなかった。

 数年前に急に家を出た父。そして、自分を残して目の前で自殺をした母。怒りなどは特になく、悲しみさえもなかった。

 感情をなくして精神的に病んでいた雪矢を救ったのは、児童保護施設にかかってきた一本の電話だった。真太郎の母が、雪矢を養子にするという内容の電話だった。

「うちの真太郎が何度も何度も頼むものだから……。雪矢くん、真太郎のお友達だし、ここで私が引き取ってあげないでどうするんだ、って思って。……あの、これから、よろしくね」

 雪矢は真太郎とその母、父を思い切り抱きしめた。

「……ううっ、ありがとう!ありがとう!……ひぐっ、うう……」

 涙ながらに、何度もお礼を言い続けた。雪矢に新たな家族ができたのだ。

「雪矢くん、これからも真太郎と仲良くしてやってくれるかい?もちろん、兄弟として、ね」

 真太郎の父が、優しく言う。雪矢は思った。これが自分の本当の父で、本当の母なのだと。そして、真太郎は自分にとって本当に大切な友達であり、兄弟なのだと。

「……真太郎、ありがとう」

「いいってことよ!それよか早く飯食うぞ!」

 そう言い、真太郎は力強く笑った。


                    ※


「あんときお前、すげー悲しそうだった」

 真太郎はうつむいて言う。

「……そんなわけない。僕の目の前で死ぬような親だよ?僕を残して家出するような親だよ?……クズだろ。悲しさなんて、微塵もない」

 雪矢は、落ち着きを取り戻していた。

「真太郎、僕は今迷ってる。もう、どうでもよくなっちゃってさ。人間として終わるとか、別にもう怖くないし。あのクズ二人のこと思い出したら、地獄まで追っかけてブチ殺してやろうかなっていう気になったし。だからさ、やっぱいいや」

 雪矢は、笑顔で言った。

「生きなよ、真太郎」

 他に何の要素も含まない、純粋な笑顔。全てを諦めた。いや、今までの全てを追いかけ、雪矢は死ぬことを決意したのだ。そして、それと同時に真太郎も助ける。真太郎への恩返しは、それで充分だと思った。

「……雪矢、俺の誕生日は五月一日だ。お前、いつだ?」

「は……?……九月二十日」

 真太郎は、そうか、と息をついた。そして、大きく息を吸い、声を大にして続ける。

「調子乗ってんじゃねえぞ!」

「……!」

 雪矢の肩が跳ねる。

「俺を助けようとしてるんなら、余計なお世話だ!言ってんだろ!俺はお前がいないと生きてる意味がないって!お前を失ってまで生きようとは思えねえんだよ!いいからお前が生きろよ雪矢!弟なんだから、言うこと聞けよ!」

「嫌だ!僕はこれ以上、何も失いたくない!真太郎がいなくなったら、また独りに戻ってしまう!真太郎こそ言うこと聞けよ!あっ、そうだ!ハンバーガー食ったとき真太郎言ったよな!何でも言うこと聞くって!」

 得意げに言う雪矢に対し、真太郎は分が悪そうに「ぐっ!」と洩らし、顔をしかめる。

「じゃあ大人しく助かれ!」

 雪矢は、思い切り叫んだ。少しの間があって、真太郎が噴き出す。

「……ったく、何だよそれ。ホント、お前らしいよ。思い出したように言いやがって。……やっぱあるじゃねえか、思いやり」

 雪矢は、はっとした。気がついたら、真太郎を助けようとしていた。人間ではなくなることを恐れ、それを避けるために親友……いや、兄弟までもを見捨てようとした。

 しかし、雪矢は自分の死を選んだ。

「約束は守るけど、一つ条件がある」

 真太郎は、笑顔を見せた。

「いや、真太郎?約束だから条件も何も……」

「いいから」

 雪矢は不思議に思い、眉をひそめる。

「絶対、また会おうな!お前がどうなっていようと約束だ!これが条件!」

 実に真太郎らしい条件。雪矢も笑顔を見せ、答えた。

「当たり前だろ!約束だ!僕がどうなっていようと、文句言うなよ?」

 再会の誓い。見た目が変わっていようと、中身が変わっていようと、何があっても再び会う。そのとき一瞬、真太郎の目元が光った気がした。

「おう!また一緒にゲームしようぜ!それから、ハンバーガーも食って……うぐっ……。え、えっと、それから、サッカーもみんなで、うっ……、また、勉強教えてく……れよ……!お前、がっ!どう変わっていようと、お前は……おっ、お前だからっ!……な!」

 息がつまりそうになった。雪矢の目からも、次々と涙がこぼれ落ちる。

「ああぁ!何回泣かせるつもりだよ!どれだけでも勉強教えてやるよ!サッカーは絶対嫌だけど、ゲームならどれだけでも相手するよ!……うぐっ……母さん……たちに迷惑かけんなよ!?ハンバーガー食い過ぎん……じゃ……ねえぞっ……!」

「分かった!任せろ!母ちゃんたちには……こう……!伝えておく!うぐっ……雪矢は店のトイレに行ったけど、遅すぎるから見に行ったら、いなくなってた。……って!」

「僕が便器に吸い込まれたみたいになってるけど、もうそれでいいや!あとのことは頼んだぞ、真太郎!」

 ――多分、これで最後。雪矢はそう思った。おそらく、真太郎もそう考えているだろう。だが、お互い口に出さなかった。

最後じゃない……!また、会える!

 そう自分に言い聞かせなければ、壊れてしまう。

 最後に、声をそろえて言った。

「「またな!」」

 本当に、これが最後だ。ほとんど直感のようなものだが、もう真太郎には会えない。だが、不思議と嫌な気はしなかった。妙に心が穏やかになり、何かが吹っ切れたような気がする。

「……話は終わったか?」

 剛原の問いに、雪矢は小さく「はい」と答えた。同時に、スマホに映っていた真太郎の笑顔が消える。

 雪矢は、微笑んだ。

「覚悟はできました。真太郎は解放してください。約束でしたよね」

「……ああ。分かった。……すまない」

 これで、雪矢が『アヴィラー』になる準備が整った。心の底から、真太郎を助けたいと願う。そしてそれは、『アヴィラー』になるという意志の表明でもあった。

 自分よりも大切に思える人間。それは、恋人とは限らない。本当に理解し合える家族、腹をわって話せる友達。そして、血の繋がりはなくとも、本当に「大切」だと思える兄弟。

 剛原は、注射器を雪矢の腕に向けた。

「動くなよ?」

 赤黒い液体が揺らめく。やはり多少の恐怖は残ったものの、雪矢は注射を拒もうとは思わなかった。

「……動けませんよ」

 そう小さく言い、苦笑した。


ここまで読んでくださった方、本当にありがとうございます。いかがだったでしょうか。第1章は、文庫本の約60ページ分でした。これからもこの話を紡いでいく予定ですので、よろしければお付き合いください。

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