出会い-白上 司(3)
びりびりと、鼓膜が脳まで振動させるような感覚が、恐怖感を煽っていた。
「この国では、神魔とともに定めた法を守るのが礼というもの。それを破るのであれば後は私の所管になります」
しかし、司さんは動じない。
冷静でしかない声に、侯爵の方が苛立っているように見える。
歯噛みをしているのか、獣のような唸りが喉の奥を鳴らしていた。
空気が重い。これは、普通の人間には耐えられないだろう。
オレだってもう逃げかえりたい気分だ。
「待ってください」
忍が割って入った。
「白上さんの言うことは理にかなっています。神魔の方々がこの国で過ごすための共存のためのルールです。侯爵にはわかりづらいと思いますが……少し、時間をもらえませんか」
そう、提案した。
『ほぅ? 時間さえやれば条件を飲むと?』
「場合によってはです」
『この欠礼に対する詫びはしてもらうことにするぞ』
どっちが欠礼だよ。
人間舐めてるな。
……という感想は、この部屋から解放されてようやく口に出せるレベルだろう。
忍が声を上げたことで、司さんは退いた。
「侯爵がこの国のルールに慣れていないのと同じように、私たちも侯爵がどういった方か慣れておりません。それにこういう場へ来ることはあまりないことなので、少し休ませていただけませんか」
「……なるほどね」
声が人間用に戻った。
「いいだろう。つまり君は私を理解しようと努めているようだし、利口そうだ」
忍の顔を見ると表情はよく読めなかった。
もともと騒ぐタイプではないから、考えが読みづらい面がある。
「だが、この屋敷内からは出ないでもらおう。一時間もあればいいかな」
「お屋敷内を見せていただいても?」
「どうぞ」
にやりと機嫌を良くしたようなモラクス侯をあとに、三人で退出する。
扉を閉めたその時、一気に空気が緩んだ。
出るのは深い深い安堵のため息だ。
「すっげぇ焦った」
「うん、心臓がすごくバクバクしてる」
全然見えないんだよ。
今ちょっと表情が緩んでるからすごく同意しているのはわかるんだが。
悪魔の悪魔たる側面。一般人にこれは無理だ。
司さんを見る。唯一冷静を保っている。
「司さんは大丈夫ですか」
「あぁ、その為についてきているんだから俺がビビってたら駄目だろう」
すごい、正論だ。
でも今までの護衛官の人たちだったら一緒にビビってるレベルだと思う。
それくらい凶悪……と、今の時点で言ってしまっていいのか。
なんというか、今日の相手は公的な、外交対象とは少し違う。
「秋葉……君、は」
「秋葉でいいです」
なぜか下の名前で呼ばれたのがちょっと意外だったが、ちょっと取ってつけたような君付けにも違和感を覚えたので言った。
素直に司さんは次に秋葉は、と言い直してから続けた。
「ああいう相手に慣れていないだろう」
「……わかりますか」
「ものすごく」
と、割と話しやすいことにも気づいた。
言葉が返ってくるのに、なんというか、テンポがいい。
「大使は言うなら高官だからな。品性や独自のモラルがある。たとえ悪魔でも、だ」
それってあのモラクス侯は品性もモラルもない、という印象だよな。
モラクス侯の屋敷内、しかもまだ部屋の近くなので明言は避ける。
「確かに今回はちょっと……というか、来てみてすごくイレギュラーなのはわかった」
と、これは忍。
「あれは秋葉の手に負えないよ。あのままいたらまずかった」
「本来的には、外交筋ではないし一旦出てしかるべき場所へ報告したほうがいい案件だ、が」
二人がそれぞれ歯切れの悪い言い方をしている。
?となっていると忍がちょっと冷や汗でもかきそうな表情で口元に笑みを浮かべていることに気づいた。
ふたりの声が重なる。
「「通信が外につながらない」」
それってやばいよね!!
外に出るな、外部と連絡取れないって、どんだけホラーなの!?
昔そういうサウンドノベルみたいなのあったよね!
オレにはこの時点で『恐怖』の二文字しか思い浮かばなかった。
取って食われる。
「そもそも私を所望するとかどういう了見なの? 何か面白いことあるの? 男じゃ駄目なの? ……女として所望するなら別の人の方がマシだろうに」
「お前、どういう自己評価下してんの……?」
それ以前に、三択なら女はお前しかいない。
いや、女を要求する理由は確かに不明なわけだが……わけだが、まぁ男の悪魔っぽいし、何か命の危機以上のものが待っていそうではある。
花を添えるとかなんとか言ってたし。
この場合、お花の可憐なイメージではなく、猟奇的な響きに聞こえてやまない。
「本物のモラクス侯爵だったら一泊位泊まって色々話聞きたいわ」
「そういうのやめろよ、ほんと……って」
気付いた。
本物の、ということは。
「やっぱりあれってモラクス侯爵じゃ……」
「ないだろうな。親善というには悪意が漏れすぎているし、そもそも交渉なんてできる立場でないことをわかっていない」
確かに、人間見下してる感はたっぷりあった。
この国で、気のいい(?)神魔にしか会わないから本来のそれがどういうものかはよくわかっていなかった。
その上、今のオレたちからすると2年前の記憶から、天使の方がよほどイメージ的には良くないという現実がある。
かといって
「敵の敵は、味方とは限らない」
同じことを思い出していたのか、司さんが呟く。
悪魔は天使の「同郷」としての対抗勢力でありこの国に滞在する者は、それらを殲滅させるために動くことに積極的だ。
が、ここは本来、彼らの勢力図の圏外であり、当然、天使でなくとも友好的でない者もいる、といったところだろうか。
「でもなんでそんなやつが日本に……」
「本人に聞かなきゃわからないけど、私が悪魔だったら餌食にする人間を天使に殺されてるんだから、たくさん餌のありそうなところに行こうとは思うかもしれない」
すごくわかりやすい。
そうだ、確かにこの国は現在世界で唯一の、人間社会が真っ当に成り立っている国なんだ。
「じゃあどうするんだ。あと一時間……ってもう45分しかないし!」
「屋敷から出るなという以上、出られなそうだし、交渉に有利なものを集めていくしかないだろうね」
「なんだよ、交渉に有利なものって」
「俺も絶対的にあの悪魔が、虚偽だとか脅迫だとかをかけてこないことにはうかつに手が出せない」
「……司くん」
ふいに忍が司さんを呼ぶ。
その呼び方にぎょっとなるオレ。
てか、お前、知らない人のこといきなり君付けする人間じゃないよな。
忍は話しやすいが、他人に対して気安くはない。
しかも司さんはオレから見ても君とか呼べるようなタイプじゃない。
違和感満載のオレの前で会話は続く。
「つまり、致命的なミスを相手が犯せばその場で処分できる?」
「物騒!」
「秋葉、書類も処理処分、って言葉使うよ」
「いや、そこじゃなくて」
しっかり反応してくれた忍の向こうで、とりあえず移動し続けようと長い廊下を歩きながら、司さんは何事か考えている。
「……俺の権限が発動できるくらいのミスならな」
相手は悪魔。
交渉は慎重に行わないと足元をすくわれることになる。
それは相手にとっても同じことなのだと司さんは言う。
そして、オレも言う。きっぱりと。
「もはやオレの分野ではない」
「そうだね、秋葉は次にあの部屋に戻ったら、交渉権を私に譲るように動いてくれないかな」
ちょっと苦手なロジカルな立ち回りになるかもしれないが、善処しよう。
通信がつながらないということはもう逃がさないということで、下手に立ち回れば三人ともここから生きて帰れないのではということはわかるから。
「これじゃ本部の情報も引き出せないな。だから公爵に連絡取りたかったのに」
「ダンタリオンか?」
「公爵ならここにある欺瞞は全部見抜けるはず」
頼るのは悔しいが、その通りだ。
すり合わせる情報だけで、違う、とわかるだろう。
それがわかれば司さんが警察部の権限でなんとか……
できんの? こんな屋敷に閉じ込められて、あんなでかい悪魔相手に。
武装警察、特殊部隊に所属しているとはいえ、対して年齢差もないような司さん。
オレはつい、伺い見た。