脱出できないゲーム
リークエラは走る。
深い森の中を、ただひたすらに走る。
森妖精族特有の軽い身のこなしで、木々を掻き分けながら突き進む。
息が切れると身を隠し、魔王軍の追っ手が来ないかを確認し、そしてまた走り出す。
頭は混乱していた。
立て続けに起こった悲惨な出来事に、未だ軽いパニックを起こしたままだ。
何も考えられない。
唯一つ言えるのは、歴史あるブリューネス王国は、もうお終いだと言う事だ。
それも第三国に滅ぼされたのではない。
ましてや魔王軍に敗れたのではない。
たった一人の男に、その歴史もろとも一瞬で滅ぼされたのだ。
「……」
走り続けるリークエラの目元に涙が浮かぶ。
怖い…
あの男が、怖い。
憎さを通り越して、ただただ恐怖を感じる。
そしてそれ以上に、自分が今まで信じて来た世界が壊れてしまいそうで、怖い。
あの男は、数多の者を殺して来た。
たった一人で、数万のエルフの精鋭部隊を殺しながら、王宮に乗り込んできた。
聞けば南方の大国、オストハム・グネ・バイザール帝国の二十万の兵を虐殺したとも言う。
しかし、審判の剣はあの男を善と判断した。
更にグレッチェの大森林に生きるエルフ達を見守って下さった聖なるリーンブリューの木が、あの男に祝福を与えた。
森の獣達までもがあの男に従う。
まるで大森林の全てが、奴に平伏しているようだ。
自分の遠い先祖、ブリューネス王国を建国した伝説の聖王であるリーフレンバグルですら、大森林とは対等な関係であったと言うのに……
(と、ともかく今は逃げよう)
ネア・ブリュドワンの南東には、姉、リーサイズが治めるドリュサイの街がある。
一先ずそこまで逃げ込めれば、ある程度の時間は稼げる筈だ。
(皆も無事に逃げてくれれば良いのだが……)
リークエラはそう願うが、一抹の不安が残る。
何故あの男は、自分達を逃がしてくれたのか……それが分からない。
あの男……シングと言う名の男は、
『ほれ、怖い怖い魔王軍が来るぞ?掴まれば殺されるぞ?どうした?逃げるのなら今しかないぞ?』
と、まるで急かす様に自分達を王宮から追い立てたのだ。
その理由が、リークエラには分からない。
(そう言えば、リーンワイズ殿には申し訳ない事をした……)
リークエラは下唇を噛み締めた。
自分の従兄弟である長い髪のエルフの事を思い、彼女は自責の念に駆られる。
時間が無かったとは言え、やはり事前に話をしておくべきだった。
あの時の彼の無念そうな顔が、頭の中を過ぎる。
(けど、この件にリーンワイズ殿を巻き込むわけには行かなかった。リーネアにも迷惑が掛ってしまうし……)
種族の代表として勇者のパーティーに属している友人の顔を思い出し、益々リークエラの顔に苦悩が浮かんだ。
誇り高きエルフとして、外交の席における魔王襲撃と言う卑怯極まる醜態は、出来るだけ極少数の身内の不祥事として片付けたい。
だからリーンワイズや、その妹であるリーネアは、全くの無関係でいなくてはならないのだ。
(しかし、まさかこんな結果に……ッ!?)
不意にリークエラはその足を止めた。
そして微かに腰を屈めながら、短剣を取り出す。
その時、目の前の草叢が微かに揺れたと思うと、直ぐ脇の木立から何者かが姿を現した。
黒のフードを被った、おそらくは人間種の男だ。
(魔王軍……ではないな。しかし一般人でもない)
男の立ち振る舞いから、かなりの手錬れと分かる。
その身体には殺気が纏わり付いているが、不思議と敵意は感じられない。
一体、何者だろうか。
その謎の人物はフードを捲り、顔を晒しながら静かな声で言った。
「リークエラ王女殿下……ですね?」
「……そうだ」
「敵ではありませんよ、私は」
言いながら、男は軽く手を広げて武器は持ってないとアピールする。
もちろん、それはあくまでもパフォーマンスであろうと、リークエラは看破していた。
おそらくは、その袖口の所に幾つもの武器を忍ばせているに違いない。
しかし、この男が魔王軍でない事は確かだ。
「分かってる」
リークエラは短剣を仕舞いながら答えた。
「それで?貴様は一体何者で、ここで何をしている?」
「とある組織に属している者です。あのシングを観察していました」
「奴をか……帝国の間者は本当に動きが早いな」
「……どうして私が帝国の者と?」
男の目元に、微かに笑みが広がった。
リークエラも口元に笑みを浮かべ、
「評議国の者より立ち振る舞いが洗練されているからな」
どこか冗談めかしたように言った。
「なるほど。ま、こんな所で立ち話をしている暇は無さそうですし……単刀直入に言います。王女殿下、私と供にこの森を出て、帝国へ行っては下さらないでしょうか?」
「な、なに?」
この申し入れは、リークエラも想定していなかった。
だから思わず、聞き返してしまう。
「て、帝国へか?」
「えぇ、そうです」
男は大きく頷いた。
「……理由は?」
「情報です。王女殿下は、あのシングと会いました。奴と話をし、その力も見ました。我々は、その情報が欲しいのです。奴と直接対峙した者が語る、生きた情報が欲しいのです」
「……正直だな」
リークエラは呆れつつも、この男は信用できる男だと察した。
なまじ人道的な事とか友好国だからとか言えば、怪しんだであろう。
「だが、それは出来ん。私は今からドリュサイへ向かわねば……」
「恐れながら王女殿下。それは自ら死にに行くようなものです」
男は淡々とした口調で言った。
「魔王軍が……いえ、あの男がネア・ブリュドワンを落としただけで満足すると思いますか?近日中には、このグレッチェの大森林は全てあの男の支配するところになるでしょう」
「……」
「このような事を王女殿下に申し上げるのは大変心苦しいのですが、貴方一人がドリュサイへ向かった所で……」
「分かった。それ以上言うな」
この男の言いたいことは、良く分かる。
自分一人がドリュサイへ向かった所で、何がどうなるわけではない。
今、自分に出来ることは、奴の恐ろしさを、正確に、力ある者に伝える事だけだ。
もちろん、伝えた所でどうにかなるとは思えないが。
何しろあの男の力は、全てが規格外なのだ。
それこそ夢物語に出て来る英雄のような……
は?英雄?奴が?
いや、しかしあの力は国祖リーフレンバグルを凌ぐ……
「どうしました王女殿下?」
「ん……何でもない。分かった。貴様の言う通り、帝国へ向かおう」
「おぉ、有難う御座います。では、この先に馬を用意してありますので……」
男は軽く会釈すると、再びローブを被り直し、そのまま駆け出した。
リークエラもその後に続いて行く。
(早いな……それに静かだ。この男、やはり出来るな)
男の身のこなしは、森妖精に勝るとも劣らない。
かなり高レベルのスキルを備えているのがリークエラにも分かる。
と、その男が、「がッ…」と小さく声を発するや、まるで何かぶつかったかのように、いきなり後ろへ吹っ飛び尻餅をついた。
続いてリークエラも体ごと何かに当たり、そのまま後ろへと弾き飛ばされた。
「な…なんだ?」
何かに当たった顔を摩りながら、リークエラは男と顔を見合す。
男も、ワケが分からない、と言うような表情をしていた。
そして立ち上がると、慎重に手を伸ばし、何も無い空間に手を伸ばす。
そして男の手が止まり、リークエラを見つめた。
(な、何かあるのか?)
リークエラも手を伸ばすと……そこに何かある。
見えない、弾力のある何かが確かにある。
まるで透明な巨獣が、自分の目の前に立ち塞がっているようだ。
「お、おい帝国の。これは一体……」
不意に帝国の男は、立てた指を口に当てた。
リークエラは小さく頷き、腰から短剣を抜き身構える。
エルフ族の象徴とも言うべき長い耳が、微かではあるが草地を踏みしめる音を捉えた。
(一つ……二つ……の四匹か)
小さな足音から数を知り、更にその慎重な足運びから、追跡任務中だと悟る。
リークエラに緊張が走った。
追跡者は四匹の魔王軍兵士だ。
それは間違いない。
(どうする……)
帝国の男はかなり強そうだが、相手は此方の倍だ。
奇襲を仕掛ければ何とかなりそうだが……
その時、更に別の足音も察知した。
地を蹴る音……魔獣の蹄の音だ。
しかももその数は二匹……いや、違う。
音が揃い過ぎている。
(八本足……デザトガウルか、スパイダルホーンか……)
どちらも強力な魔獣だ。
野生種と出くわしたら、まず一人では勝てない。
「……どうする、帝国の」
「逃げ場もないですね」
フードを被った帝国の間者は、どこからか刃がカーブを描いている短剣を取り出した。
それと同時に、木々を掻き分け、魔王軍兵士が現れた。
金属製の半鎧を装備した、屈強な魔族だ。
額の中央から、小さな角が飛び出している。
おそらくは鬼人種であろう。
手槍を構え、やや距離を取って此方の様子を窺っている。
それが四匹……
いや、違う。
その背後から蹄の音を響かせ、リークエラの看破した通り、更に八本足のデザトガウルが現れた。
(お、大きい…)
通常のデザトガウルより一回りは大きい。
しかもその顔からは、凶暴性が濃く滲んでいる。
明らかに上位種だ。
おそらく群れのボスクラスであろう。
そして、そんな凶悪な魔獣の背に乗っているのは、恐るべき男……シングであった。
その肩には、謁見の時と同様、黒猫と気味の悪い人形を乗せている。
「……」
リークエラの呼吸が自然に乱れる。
体全体に得体の知れない重圧を感じる。
そんな彼女を、シングは面白そうに見つめていた。
(く…ここまでか……)
「ふふ……リークエラ、だったな。範囲ギリギリまで逃げる事が出来たのは、お前だけだぞ。褒めてやる」
シングは口角を僅かに吊り上げた薄い笑みを溢しながら言った。
そしてリークエラの傍にいるフードの男をちらっと見ると、
「ふむ、またネズミ……いや、蛇も掛ったか」
(蛇?)
リークエラは帝国の男に視線を走らせる。
僅かではあるが、男の表情に動揺と驚きが色が浮かんだのを彼女は見逃さなかった。
「さて……どうするか。このまま拘束するのも些か興が無いし……ふむ、蛇よ。お前に二つ、選択肢を与えてやる」
「……選択肢、ですか」
蛇と呼ばれた男は静かな声で答えた。
「そうだ。一つは、このままその女エルフを連れ、帝国まで戻る。もちろん、我は何しないぞ?無事に帝国まで送り届けるが良い。もう一つは、我と供にこのままエルフどもが使っていた王宮まで戻り、そこで我と会話と言うゲームを愉しむ。さぁ、どちらを選ぶ?」
「……普通は最初の選択を選ぶと思いますが」
「ならばそうしろ」
「……いえ、やはり王宮へ付いて行きましょう」
帝国の男はそう言って、手にしていた短剣をその場に放り捨て、フードを捲り顔を曝した。
リークエラも、自分の持っていた武器を放り捨てる。
「ふむ……我に付いて来るか。まぁ、我と直接語り合う機会だ……ミーブワンの諜報員なら、此方を選んでも不思議ではないな」
「やはり、我等のことを御存知でしたか」
「ふ……」
シングは笑みを強くした。
「……一つ、お聞かせ願いたい。もし仮に、私がリークエラ王女殿下を帝国へ連れ帰っていたら、どうなりましたでしょうか?」
「ん?特に何もしないぞ?ただ当たり前の行動を取るだけだ」
「当たり前と言いますと?」
「……魔王エリウ暗殺未遂犯を匿った罪として、帝国の全住民を始末するだけだな」
「……」
「ふふ、良い選択をしたな、蛇よ。ところで、お前の名前は何だ?我の名は……まぁ、知っているとは思うが、シングだ」
「ディクリス、と申します」
「宜しい、ディクリス。それにリークエラ。自分達の武器を拾い、そこの兵と供に王宮まで進め。我は先に行って待っておるぞ」
シングはそう言い残すと、馬首を翻し、悠然と森の中へと消えて行ったのだった。
★
「いやぁ~……思ったよりもスキルの効果範囲が広くて、見つけるのに手間取っちゃいましたねぇ」
俺はタコ助に跨り、まだ足を踏み入れていない森の景色を眺めながらそう言った。
鞍の前部分に座っている黒兵衛が、
「まぁ、気分転換には最適やけどな。せやけど自分、最近言う事が一々過激やで」
「そうかぁ?」
「いえ、シングはあれで良いのよ」
と、俺の頭上に顎を乗せている酒井さん。
「シングはシングなりに、ちゃんと考えて言ってるのよ」
「そうなんか?」
いや、それは俺が聞きたい。
そうなのか?
いつも適当に喋ってるだけなんだけど……
「分からない黒ちゃん?」
「分からんでぇ」
うむ、俺も分からん。
「シングがいくら酷い事を言っても、最終的に決めるのはエリウよ」
「……あぁ、そう言うことかいな」
え?え?なに?黒兵衛もう分かったの?
どう言う事?
「そうよ。あの甘いエリウがシングの行動をフォローしてくれるのよ」
「つまり、この残念魔王が何かしでかす度に、相対的にエリウの姉ちゃんの株が上がるって事やな」
……そうなのか?
「シングが悪評を高めれば高めるほど、それをフォローするエリウの評判は上がるわ。魔王だけどね。結局、統治するのは彼女なんだし、色々とやり易くなるでしょ」
「はぁ……なんや、そうなんか。やるやないけ自分。そこまで考えて、色々酷い事を言ったりしてるんやな」
黒兵衛がウンウンと頷きながら、俺を見上げてきた。
珍しく、ちょっとだけ尊敬したような目をしている。
「う、うむ。俺は考えているぞ。俺と言うブラックな存在が、エリウちゃんの甘さを引き立たせるのだ。それが即ちマイクログラインド製法なのだ」
何を言ってるのか良く分からないのだ。
「……酒井の姉ちゃん。この馬鹿、あんま考えとらんような気がするんやけど……」
「ふふ、シングはそれで良いのよ」
酒井さんは俺の髪の毛をワシャワシャと撫で付けた。
「それより、これからどうするの?何か大きな行動予定は考えてる?」
「そうですねぇ……前に捕まえた諜報員から、殆ど情報は聞き出しましたからねぇ……今回、今のを含めて何匹捕まえましたっけ?」
「生きてるのは三人よ」
「じゃ、その三人を使って帝国に一騒動起こしてやりましょう。後は……エルフの事はエリウちゃんの判断待ちって事で。あ、その間に兵達を少し休ませましょうか?」
「そうね。ここのところ少し強行軍だったしね。エリウに言っておくわ。もちろん、ちゃんとエリウの口から兵達に言うようにね」




