勇者よ、大志を抱け
水上都市、クレアル・ミシュハル。
東方三王国、ダーヤ・ネバルとオストハム・グネ・バイザール帝国の国境にある、大規模な交易都市である。
オーティス達一行は、ここで暫く足止めを喰らっていた。
別に国境が塞がっているのではないし、また帝国への入国が止められているワケではない。
単に混雑しているのだ。
それも通常の比ではないぐらいに。
故に事務手続きなどが滞っている……と言うか既に機能不全に陥っているのだ。
縦貫街道をスムーズに南下して来たので、国境も難無く越えられると思っていたオーティスの予想は大きく外れた。
確かに、ダーヤ・ネバルから帝国へと入る者は少なかったが、その逆が非常に多いのだ。
しかもそれは帝国人ではない。
帝国へと逃げて来た、南の国からの難民だ。
ディクリスやリッテンに話を聞いた所、魔王軍の侵攻により南部諸国はもはや壊滅状態だと言う話だ。
そこに住む人々が帝国へと逃げて来て、今度は帝国が危ないと悟り、更に北へと逃げて来たと言うことだ。
現に国境地帯には、幾つかの難民キャンプが作られている。
その光景を最初に見た時、リッテンが自分の毛の無い頭をピシャリと叩きながら、
「今暫くすれば、このダーヤ・ネバルはもっと難民で溢れ、もっと混乱するでしょうなぁ」
と呟いた。
それはどう言う意味かとオーティスが尋ねると、リッテンは少し難しい顔しながら
「最新の情報だと、魔王軍はダーヤ・タウルの壊滅したマゴスの街近辺に大規模な陣地を構築していると言う話だからね。分かるだろ?オーティス?」
そう言われても、オーティスには今一分からない。
軍人ではないし、戦略的な事柄には疎いのだ。
リッテンはオーティスの嫌いな薄ら笑いを浮かべ、
「あの地はダーヤ・タウルと評議国との国境にある要衝だ。あの地を押さえられたら、評議国は南からも圧力を受け、北から侵攻中の魔王軍により完全に分断されてしまう。ま、既に西からも侵攻が始まったと言う話しだし、評議国は海岸沿いの東部地方にまで追い詰められるだろね。それにダーヤ・タウルにとっても、侵攻の足掛かりを造られたようなものだ。街に住む目敏い連中は、既にこのダーヤ・ネバルへと逃げ込んで来ているよ。その数は日毎に増えるだろうね」
「そ、そうか」
言われてみれば確かに、とオーティスは頷いた。
「ただ問題は、この国の上の方々の考えだね」
リッテンは細い目を更に細めた。
「一応、このダーヤ・ネバルは中立を謳ってはいるけど、評議国にダーヤ・タウル、そして南部諸国からの難民が際限なく入って来ている状態だからね。魔王軍の眼にそれがどう映るか……砂漠のペルシエラや親魔王を掲げているダーヤ・ウシャラクは、完全に難民の受け入れを拒否しているのだからね」
「じ、じゃあ……もしかして、次の標的はこのダーヤ・ネバル……」
「ん~……それはどうだろう?評議国は劣勢とは言えまだ健在だし、その次に侵攻するとすれば、先ずはダーヤ・タウルだ。地理的にもね。この国に攻め寄せるにはまだまだ時間は掛る。……ま、混乱させる為に時間を掛けているのだろうが、時間は時間だ。充分に議論を重ねる余裕があるとも言えるね。それにどちらにしろ、出方次第じゃないかな?受け入れた難民を全て魔王軍に引渡しでもすれば、話は簡単に済むと思うがね」
そう言ってリッテンは笑った。
その彼は今、セリザーワと供にこの交易都市を散策している。
このクレアル・ミシュハルはダーヤ・ネバルで一番の交易都市だ。
故に世界中の珍しい物も集まる。
セリザーワ様、凄くはしゃいでいたなぁ……
まるで好奇心旺盛な少年のようだったな、とオーティスは苦笑を浮かべた。
勇者であるオーティスにはガラクタに見えるモノでも、錬金術師であるセリザーワの目には宝の山に見えるようだ。
ちなみにディクリスはいない。
情報を集めると言って、一足先に帝国へと入っている。
本来ならオーティス達も、足止めを喰う事はなかった。
勇者としての身分を明かせば、煩わしい手続きもなく難無く国境を越える事が出来るのだが、この水上都市とも呼ばれる華麗な交易都市を散策したいと言うセリザーワの意見もあり、暫く逗留する事に決めたのだ。
オーティスとしても、異論はなかった。
もちろん、魔王軍の急襲などによる緊急事態等が起きれば話は別だが、今はそれほど切羽詰った状況ではない。
魔王軍の圧は日毎に高まっているとは言え、その侵攻はリッテンの話にもあったように遅々としており、まだまだ余裕はある。
それに何より、ちゃんと正規の手続きを踏んで出国なり入国した方が、色々と気兼ねしないで済むのだ。
オーティスは混雑する大通りを、人込みを避けるように隅の方を歩いていた。
その後ろにはクバルト。
その巨体の肩に、小柄なシルクが腰掛けるようにして乗っている。
ホビット系種族で成人男性の半分ほどの大きさしかないシルクでは、さすがにこれだけの人込みの中を歩くのは困難だからだ。
人の波に飲まれたら、間違いなくはぐれてしまう。
オーティスは歩きながら、
「あ、そう言えばマーヤ様は……」
ふと思いだしたかのように漏らした。
朝食の後、セリザーワ達と出掛けて行ったのは見たが、それっきりだ。
「あのガキンチョどもを連れて、治癒院を回ってるよ」
頭上からシルクの声が響いた。
「そうか」
オーティスは小さく頷き、そして思う。
さすがマーヤ様だと。
暫く塞ぎこんでいたマーヤは、数日前にようやくに立ち直る事が出来た。
目は落ち込み、頬が少しこけていたが、その美しさは損なわれていなかった。
いやむしろ、神々しさが増したかのようにさえ見えた。
彼女は言った。
『奪いし命は戻す事は出来ません。ならば私は命を救います。倒した敵の十倍以上の命を救いましょうと』と。
さすがマーヤ様……
オーティスは素直に感動した。
あの餓鬼どもも目を輝かせている。
ただ、気になる事が一つあった。
セリザーワだ。
マーヤが立ち直った事は素直に喜んでいたが、この言葉を聞いた時の彼は、呆けに取られたような顔をし、そして大きく肩を落としながら、
『こりゃダメだ。本当に失格になるかも』
そう呟いていた。
失格?
失格とは何だろう?
オーティスには良く分からない。
神の御使いならではの、特殊な事情みたいなものがあるのだろうか。
それにしても……
オーティスは口をへの字に曲げる。
セリザーワ様はマーヤ様に対して厳し過ぎるよなぁ。
それは常日頃から思っていた事だ。
そう言う教育方針なのだろうか、セリザーワはマーヤに対して苦言を呈する事が多い。
感情的になって怒鳴りつけるような事はしなかったが、それでも苦い顔で何か小言を言ったりしている。
マーヤはその度、しょんぼりとした顔をしていた。
その悲しい顔が何となく見ていられなくなり、前に一度セリザーワにそれとなく、少し厳しいんじゃないですか、等と言った事があった。
その時セリザーワは少し疲れたような表情を見せながら、
「充分に優しいよ私は。マーヤの師匠に比べたら、厳しさは十分の一以下だ」
そう言って乾いた笑い声を上げたものだ。
師匠?
マーヤ様にも師匠がいたのか……って、そりゃいるよな。
オーティスは軽く驚き、そして納得した。
幾ら才ある者でも、独学でその道を極める事は出来ない。
例え神の御使いと呼ばれるマーヤでも、それは例外ではないのだろう。
オーティス自身も、師匠がいた。
剣技はヤマダに教わり、その他の事はギルメスから学んだのだ。
セリザーワ様は魔法はサッパリのようだし、マーヤ様に専門の師がいても不思議じゃないな。
セリザーワ様の口調からすると、物凄く厳しい人のようだけど……
マーヤ様の師匠って言うぐらいだから、物凄い大魔法使いなのかな?
異世界の事なので、オーティスにはその辺の事は分からない。
ただ、師匠が厳しいのなら、その父であるセリザーワはむしろ少しぐらい甘やかしたりもすると思うのだが、セリザーワは常に厳しくマーヤに接している。
父娘とは、そう言うものだろうか。
ふと、自分の幼かった頃をオーティスは思い出す。
母は自分が物心付く前に他界しており、殆ど記憶には無い。
そして父であるグロウティスは勇者として世界中を飛び回っており、家にいる事は稀であった。
だから正直、親子の情と言うものが良く分からない。
自分を育ててくれたのは、近所に住むフィオリナおばさんだ。
フィリーナの母親だ。
フィリーナと二人で悪戯をしては、良く一緒に怒られていた。
躾はそれなりに厳しかったと思うが、愛情はそれ以上に注いでくれた。
けど、セリザーワ様とマーヤ様の間には、何か見えない壁みたいな物があるんだよなぁ……ラピス様だけは普通なんだけど。
オーティス自身も、久し振りに父と会う時はちょっとだけ戸惑ったりもしたし、父の方も久し振りに見る我が子にどう接して良いか分からない、と言うような素振りを見せていた。
しかし、確かにそこには親子としての絆があったと思う。
目に見えない糸で結ばれている、そんな気がしたものだ。
だが、セリザーワとマーヤの間には、何かこう常に微妙な緊張感が漂っている。
それが何に起因するかはオーティスには分からない。
いや、止めよう。
オーティスは思考の蓋を閉じる。
余所の親子関係について、部外者があれこれ詮索すべきではない。
ましてや口を出す事ではない。
軽く首を振り、オーティスは歩きながら周りの景色を眺めた。
風に乗り、潮の香りが漂う水上都市クレアル・ミシュハルは、活気に満ちている。
通りの中央に設けられた貨物専用道路では、荷物を満載した馬車が列を成して通っている。
だがそんな通りの脇には、襤褸を纏った物乞いの姿もあった。
路地裏に目をやれば、扉も無い粗末な小屋の中で寝転がる病人の姿も見える。
潮の香りとはまた別の、饐えた匂いすら微かに鼻腔に伝わる。
「……マーヤ様に、あまり近寄らないように言わないと」
オーティスは呟いた。
どの街にも、貧民窟と言うものは存在する。
哀れな者達の吹き溜まりである。
だが同時に、危険な者達が潜んでいる場合も多々ある。
何処かの街で、炊き出しを行っていた老婦人が路地裏で惨殺されたと言う話を聞いた事があった。
傍で遊んでいた子供が攫われたと言う話も。
だから賢い者は、敢えてこのような場所には近付かない。
もちろん、可哀相だしその境遇には同情はする。
だが彼等は傷付いた猛獣と同じだ。
手を出せば噛み付かれる危険性だってあるのだ。
「これも全て魔王が悪いんだな」
「……え?」
と驚いた声が頭上から響く。
オーティスは後ろを見上げ、
「違うのかい、シルク?」
「それは……少し違うと思うよ、オーティス」
クバルトの肩の上で、シルクが困ったような顔をしていた。
オセホビット族の彼は、童顔を顰めながら路地裏を見つめ、
「ここに居る連中は、元からだよ。あまり魔王とかは関係ないよ」
「そうなのか?ギルメス老に、魔王の被害に遭った者達の成れの果てって教わったんだけど……」
ギルメスは事ある毎に、世の悪の元凶は全て魔王だ、魔王が存在するから悪が蔓延るのだと語っていた。
オーティス自身も最もだと思う。
たださすがに、料理屋の定食の値段が上がったのも魔王のせいだ、と言った時は、さすがに違うと思ったが。
「ま、そう言うのも中には居るとは思うけどさぁ……結局は、国の政治的な部分が大半だと思うよ。法律もそうだしさ」
シルクの言葉に、オーティスは少し首を傾げる。
正直、その辺は良く分からない。
いや、知らない。
世界中を旅し、あらゆる国に滞在してきたが、その国の法律に接する事はあまり無かった。
時に法に触れるような事を起こしてしまっても、有耶無耶の内に不問にされていた事があったような気がする。
そう言う意味では、勇者は魔王と同じく特権的な立場の存在でもあるのだ。
「だって、考えてもみろよオ-ティス。魔王の被害を受けたのは、どの国も同じなんだぜ。けど、帝国とかはあまり多くないだろ?」
「そう言えば……そうだね」
帝国の街にも、確かに貧民街のような場所があったが、東方三王国や評議国程ではない。
それに孤児院等の施設も多くあるし、傷病者へのサポートも手厚い。
「何でだろう?」
「王様の出来が違うって事だね。後はまぁ、種族的な問題もあるしね」
そう言ってシルクは目を細めると、
「オイラも……昔は一時期だけど、こう言う生活をしていた事があったからね」
「え?そうなのかい?」
オーティスは驚きの声を上げた。
「あれ?話したことなかったっけ?」
「初耳だよ……」
シルクやクバルトと出会って三年近く経つが、初めて聞く話だ。
「そっかぁ。ま、オイラにも色々とあってさ。あの時は本当に辛かったなぁ……毎日お腹を減らしていたし。けど、まだマシな方さ。オイラよりもっともっと不幸な奴は大勢いたからね。特に子供達。毎日、死んで行くんだぜ。ガリガリに痩せてさ」
「それは……確かに不幸だね」
「……いや、少し違うんだよオーティス」
シルクは首を横に振る。
そして神妙な顔つきで
「あの子達は、自分を不幸だとは思ってないのさ。だって知らないんだから。生まれた時から、ああ言う生活を送ってるんだからね。不幸とか幸せとか思う前に、その生活が当たり前だと思ってるんだよ。それって、凄く不幸な事じゃないかな?」
「……そうだね」
「本当に、国のお偉いさんには何とかして欲しいよね。オイラ達には何も出来ないし」
シルクはフンと鼻を鳴らす。
確かに……
オーティスは思う。
自分達は何も出来ない。
勇者と言っても、所詮は魔王を倒せる者と言うだけだ。
国の政治に口を出せる身分ではないし、全ての民を幸せになんか出来ない。
ただ、希望を与える事は出来る筈だ。
それに魔王の脅威を排除すれば、国内も安定して少しは政治だって……
「あれ?」
シルクが不意に、少し甲高い声を上げた。
何事かと見上げると、シルクは反対側の通りを指差しながら、
「あそこにいるのはセリザーワ様じゃないか?」
「え?」
オーティスは目を細めて行き交う人々の間を見る。
通りを挟んだ向かいの店の軒先に、セリザーワとリッテンが座っていた。
相変わらず成金趣味の派手な衣装を身に纏ったリッテンと、その辺は全くの無頓着なのか、着古して穴の開いた長衣を着ているセリザーワとの対比は、遠目からでも良く分かる。
そこで二人は灰色のフードを被った人物と何か話し込んでいた。
誰だろう?
リッテンさんの部下かな?
あ、もしかして何か新しい情報でも入ったのかな?
そんな事を考えていると、不意にセリザーワと目が合った。
彼は笑みを浮かべながら、こっちへと手招きしている。
「行ってみようか」
オーティスは忙しく行き交う人々の間を掻き分け、通りを横切る。
シルクを肩に乗せた巨体のクバルトがその後に続くが、彼の場合は人の方が勝手に避けて行く。
セリザーワ達がいたのは、ありふれた街のカフェであった。
オープンテラスとなっている席で、お茶らしき物を飲んでいる。
先程見かけたフードの人物は、既にいない。
セリザーワはにこやかな笑みを浮かべ、
「やぁ、オーティス君も散策中かい」
と自分の隣の椅子を進める。
オーティスはそこに腰掛け、更にその隣にシルク。
クバルトは体のサイズに合っていないので、その場に座り込んだ。
それでも腹から上がテーブルより高い位置にある。
そこへ給士がやって来たので、オーティスはティモンキと言う果実系の飲み物を頼み、シルクとクバルトはエールだ。
昼間っからとも思うが、何時もの事なので何も言わない。
「何か面白い物でもあったかね、オーティス君」
セリザーワがカップを傾けながら尋ねてくる。
彼の傍らには、小さな包みが幾つも入ったバッグが置いてあった。
おそらく、また何か特殊なアイテムやら素材を買い込んだのだろう。
「いえ、特には……普通にブラブラと」
「そぞろ歩きか。それもまた、観光の一つだねぇ」
観光じゃないんだけどなぁ……
オーティスは返事の代わりに、少し困ったような笑顔を浮かべた。
「それで、何か面白い場所でも見つけたかい?君も年頃だし、そっち系のお店を発見したとか……」
そっち系って何だろう?
「いえ、思ったよりも人が多くて……どこも混んでますね。あと、物乞いの数もちょっと多くてビックリしました。前に来た時はあまり見掛けなかったのですが」
「……人が多いからね」
セリザーワは街行く人々を眺め、仕方ないさ、と言うように軽く肩を竦めて見せた。
リッテンも肉厚の頬を持ち上げるように、
「彼等の商売も、人がいなくては始まらないからね」
そう言って笑った。
そこへ丁度、給士が飲み物を運んで来た。
オーティスは自分が注文した飲料の入ったグラスを手に取る。
「あと、病人や浮浪児も多かったです。思っていたより政情が不安定なんですね」
「ん、そうだね。色々な街を見てきたけど、ここは確かに多いね。華麗なる水上都市も、裏へ回れば哀れな者達ばかり……と言う事か。やれやれだねぇ」
「ちょうど今、それに近い話をセリザーワ様と話していた所だよ」
リッテンが腕を組みながら、大きく息を吐いた。
そしてチラリと辺りの様子を窺い、少し声を抑えながら、
「部下からの定期報告があってね。ま、特に目新しい情報は無かったんだが、幾つか面白い話が聞けてね」
「面白い、ですか?」
「例えば魔王シングだが、今は北に向かっているそうだ。その途中、リーヴォチャスカで浮浪児の集団を捕らえたと言う話があってね」
「浮浪児の集団?」
オーティスは首を捻る。
エールを呷っていたシルクもグラスから口を離し、どこか困惑したかのような表情でリッテンを見つめていた。
「どう言う経緯でそうなったのかは知らないがね。ただ情報だと、捕まえて駐屯地へと送ったらしい」
「駐屯地へ?え?まさかそれって……魔王軍の兵士にするつもりじゃ……」
行き場の無い哀れな者達を捕らえ、無理矢理に兵にと言う事か?
確かにそう言う者達なら、戦いで死んでも惜しくは無いだろう。
いや、むしろ囮にだって使える。
何たる非道か……
オーティスの心に正義の灯が灯る。
だがリッテンは小さく首を振り、
「いや、そうでもないらしい。何しろ捕らえた子供達は大半が十歳未満と言う話だしね。駐屯地で御飯を食べさせているそうだ」
「はぁ?」
オーティスは思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。
浮浪児を捕まえて御飯を食べさせている?
何だよそれ……意味が分からないよ。
「いや、本当に何て言うのか……世間一般の魔王と言うイメージからは想像できないね、あの御方は。ま、何か思惑があるのかも知れないが……それでも、彼に救われた子供達は一生、忘れる事はないだろうね」
リッテンはどこか遠い目を、まるで昔を思い出しているかのような、そんな目をしながら言った。
言葉の節々に、魔王シングに対する畏敬の念すら感じる。
更に微かではあるが、その瞳が潤んでいるかのようにも見えた。
そんな彼を訝しげに見つめるオーティスの視線に気付いたのか、リッテンは軽く毛の無い頭を撫でながら、
「はは……かく言う私も、元は孤児でね」
「え!?リッテンさんも?」
「だから魔王シングの話を聞いた時、ふと自分の昔を思い出してね」
「リッテン氏は中々に偉いよ」
セリザーワがメガネの奥の目を細める。
「何しろ自分の私財で孤児院を運営しているんだからね」
「え…」
孤児院?
リッテンさんが?
オーティスのリッテンに対するイメージは、あまり良くなかった。
いや、かなり悪かった。
強欲だしいつも人を小馬鹿にしたような薄ら笑みを浮かべているし……
成金趣味の小太りの嫌な親父、と言うのがオーティスの率直な感想だ。
シルクに至っては陰で守銭奴呼ばわりだ。
そんな彼が、実は篤志家で慈善活動を行っていたとは……俄かには信じられない。
「いやいや、セリザーワ様、そんな大した事は……孤児院なんてそんな立派な物じゃないですよ。えぇ、ただ身寄りの無い子供達を何人か引き取っているだけでして……と、どうかしたかね、シルク?何か神妙な顔をしているが……」
シルクはエールの入った杯をテーブルに置き、頭を掻きながら
「……オイラ、少しリッテンさんの事を誤解していたよ」
呟くような声で言った。
「はは、それは仕方ないよ。何しろ情報屋と言う、あまり大っぴらには言えない仕事をしているワケだからね」
「人は見掛けによらないって事だよ」
セリザーワが笑った。
そして不意に真面目な顔になると、
「しかし、そんな身寄りの無い子供達が彼方此方の街にいるとはね。正直、驚きだよ」
「あの国は元からそうです」
リッテンも小難しい顔で唸った。
「種族差別も大きいですし、特に少数種族にとっては……普通に生きる事すら難しいですよ」
「なるほどね。単一種族の国ですら色々と問題を抱えているのに、多くの種族が集まる国なら尚更だね。ふむ……その辺の事も踏まえ、一度魔王シングと会って、色々と話し合ってみたいものだねぇ」
は?
セリザーワの言葉にオーティスは
「はぁぁぁ?」
またもや素っ頓狂な声を上げてしまった。
いやいやいや、魔王シングと会う?
そして話し合う?
神の御使いが?
「せ、セリザーワ様、なにを仰って……」
それは有り得ない事だ。
いや、あってはならない事だ。
魔王とは悪の象徴であり、勇者はそれの対極に位置する存在だ。
水と油、磁石のN極とS極。
互いに反発しあうのが万物の理だ。
そもそも話し合って何とかなる相手なら、勇者など最初から存在しない。
勇者とは、非力な人類系種族を憐れんだ四大精霊が、この地に遣わした希望なのだ。
そんな混乱しているオーティスを、どこか面白がりながら見つめているセリザーワは、諭すような静かな声で、
「勇者と魔王、と言うように人は直ぐに善と悪とを分けたがるものだが、この世に純然たる悪などは存在しないよ。前にも言ったけど、在るのは主張の違う正義だけだ。分かるかね、オーティス君?」
「分かりません。あの男は悪です」
「……おやおや」
セリザーワは困ったような笑みを浮かべた。
「だってセリザーワ様、あの男は帝国や評議国の街を破壊しました。何万もの住民を虐殺したんですよ?……それにギルメスもフィリーナも」
それが悪でなくて何だと言うのだ?
だがセリザーワは「ふむ…」と小さく唸ると、飲料の入ったカップを手に取り、
「それは戦争なのだから仕方あるまい」
「し、仕方ないって……」
「自業自得、と言う言葉は少々不適切かも知れないが……例えば帝国。確か大規模な軍事行動を行っていたと聞いたが、魔王シングにしてみれば、防衛の為に魔法を使っただけなのだろう。なら仕方ない。帝国の被害が大きいとか言うが、単に反撃を食らっただけだ。それをあれこれ言うのは、ちょっと違うんじゃないかな。例えばオーティス君、いきなり見知らぬ男が君に殴り掛って来た。君はそれを躱し、カウンターパンチで相手を倒した。すると倒した相手が『今の攻撃は卑怯だ。強すぎる』とか言って来たらどう思うかね?」
「そ、それは……話の次元が違います」
「評議国も同じような感じだね。私の聞いた話だと、最初に侵攻したのは彼等の方だ。確か……リフレ・ザリアとか言ったかな?魔王軍が統治している旧エルフの街に、評議国の軍が攻め込んだと聞いたよ」
「……」
「そもそも魔王シングが純粋なら悪なら、何も言わずに次々と街を滅ぼしているさ。今頃はこの大陸から全ての国や街が無くなっているだろうね。だが現実はどうかね?」
「そ、それでも……アイツは悪です。あの男は、フィリーナとギルメスを殺しました。ここにいるシルクとクバルトも殺しました」
あの時の光景は、今もオーティスの脳裏に焼き付いている。
「悪云々と言うより、過分に個人的感情が入っているような気がするね。だがまぁ……仇と言うのなら、君が魔王シングを憎むのは分かるし、それもまた正当な理由だ。ただ、それはあくまでも個人的な事で、勇者と言う立場では言うのはちょっとどうかと思うよ。そもそも聞きたいのだが、どうして彼等は死んでしまったのかね?」
「そ、それは……あの男の魔法で……」
「や、そう言う話じゃなくて、何で戦闘になったんだい?魔王シングがいきなり君達に襲い掛って来たのかね?」
セリザーワの疑問に、思わずオーティスはハッと息を飲んだ。
そう言えば、何であんな事になったのだろう?
チラリとシルクとクバルトに視線を送る。
彼等も一様に困惑した顔を浮かべていた。
「思うに、君達の方から仕掛けたのではないかね?」
セリザーワは空になったカップをテーブルの上に置いた。
そして指先で顎を撫でながら、
「彼……魔王シングの行動パターン的に、自ら進んで……と言うことはあまりしないようだ。どちらかと言うと、相手の出方次第で動く傾向が強い。相手が手を差し出してきたらそれを握り返し、剣を構えたら自分も抜く。そんな感じがするのだが……もしかして、最初に仕掛けたのはオーティス君達の方じゃないかね?」
「……」
あの時……そうだ、確かあの時は、ギルメスがいきなり魔法を……
それで何時の間にか戦闘状態になって……
「やれやれ」
オーティス、そしてクバルトとシルクの表情で、何となく事の成り行きが見えたのか、セリザーワは大きく息を吐いた。
「どうしてその時、先ず話を聞いてみようと思わなかったのか……それが私には不思議だよ」
「……」
「彼の立場からすれば、異世界に降り立ち、最初に遭遇した君達にいきなり襲われたのだ。色々と思う所もあるだろう」
「……」
「もし仮に、その時シングと話していたら、今とは全く別の物語が進行していたのかもね」
「で、ですがセリザーワ様。あの時、あの男は世界を支配するとか滅ぼすとか……そんな事を言いました。勇者としては見過ごせません」
「……なるほど。ふむ……魔王シングは一度、この世界を破壊する気かも。国々を滅ぼしてもう一度創り直す……ふふ、有り得るか」
「そ、そんな事はさせません!!」
「何故かね?」
「え?何故って……」
「種族間の軋轢は多く、彼方此方で争っている。少数種族が襲われるのは日常茶飯事。権力者は己の利権を守る為のみ戦い、街には孤児や物乞いが溢れる。そんな国々を守る必要なんてあるのかな?」
「……」
「魔王シングはそんな世を憂いているのかも。現に今までの魔王とは違い、侵攻した都市ではきちんと統治を行っていると聞く。降伏した者には寛大な処置も与えている。それに少数種族を助けたり孤児も保護したりと……数多の種族が共存する、全く新しい国を創ろうとしているのかも。……まぁ、あくまでも私の推論だがね。実の所、なーんにも考えてないと言う事も有り得るしね」
セリザーワはそう言って一頻り笑うと、オーティスをジッと見つめ、
「君は……いや、君ももう少し、経験を積んだ方が良いな。ま、私自身まだまだ未熟だし、あまり偉そうな事は言えないがね。ははは……」
「……」
「とまぁ、この話は置いといて……実はもう一つ、面白い話があってね。ま、与太話の類だと思うが……」
セリザーワはそう前置きすると、軽く咳払いし、
「実は北の方で、勇者が現れたらしい」
「……え?」
勇者?
「評議国北部の小さな村を襲っていた魔王軍が、突如現れたその男に壊滅させられたとか……そんな話がたった今入った所でね。それをリッテン氏と話していたんだよ」
「……」
「まぁ、話の真偽は定かではないけどね。ただ……ふふ、面白いね。偽物か、はたまた本物の勇者か……次の情報が楽しみだよ」