君が君らしく、僕が僕らしくあるために
その日、僕は海に落として壊れてしまった携帯を持ってショップへ行き、修理に出した。
さすがに海に水没した本体は一目で修復不能と判断された。
しかし幸いなことに携帯内に記憶されていた電話番号やアドレスデータは読み取ることができ、復旧させることができた。彼女の連絡先を含めて。
しかし彼女のご両親との約束で僕のほうから連絡を取ることはもうできなかった。
彼女はどうしているのだろうか。元気になったのか? そんなことを思う毎日が続いた。
彼女に会いたかった。それはもうできないのも分かっていた。
でも、せめて元気かどうかだけでも知りたい。そう思った。
学校は春休みに入ってしまったので、学校からの情報も何もない。彼女のことを教えてくれる友達もいなかった。
僕は、たとえようもない喪失感に包まれていた。心にぽっかり穴が開いたような感覚。
何をしてもつまらない。いや、つまらないという感覚さえ無くなっていた。
僅かな時間だったが、彼女と一緒に過ごした時間がとても愛おしいく感じられた。
――楽しかった?
うん、確かに楽しかった。でも彼女と一緒に過ごした時はそんな単純な感情ではなかった。
あんなにも自然でいられた自分がとても不思議だった。でも、もう彼女に会うことは許されないんだ。
――彼女のことは忘れよう・・・。
僕に今できることは、そう努力することだけだった。
彼女が倒れて病院に入った日からちょうど一週間たった時のことだった。携帯の鈍い振動音が僕の部屋で響いた。
誰からだろう、と携帯に表示された文字を見て僕は思わず動揺する。そこには登録したばかりの彼女の名前が表示されたからだ。
――え? 彼女から?
僕は喜びと嬉しさで慌てながら受信ボタンを押した。しかし、電話越しの声は彼女のものではなかった。
彼女のお母さんからだった。
僕は約束の時間よりも三十分ほど前に待ち合わせ場所に指定されたカフェに入った。理由は、間違っても遅れてはならないと思ったからだ。
店のドアを開け、店内に入ると迎えのウエイターから人数を訊かれる。
「えっと、今ひとりですが、待ち合わせをしているので、あとからもう一人・・」
たどたどしく答えていると、店の奥で手を挙げてこちらに合図する女性がいた。見覚えのある顔、そう、彼女のお母さんだ。
前に会った時も思ったが、とても綺麗な人だ。彼女はやはりお母さん似だ。まさかこんな早くから待っているとは思わなかった僕は、虚を突かれた感じになり焦っていた。
「すいません。お待たせしてしまって」
「何を言ってるの。まだ待ち合わせ時間の三十分も前よ。読みたい本があったから早めに来て読んでいたの」
お母さんはここに座ってと誘導するように反対側の椅子に手を差し向けた。
「お久しぶりね、名倉君。何飲む? ここのハーブディーはお勧めなの。ケーキもなかなかよ」
程なくウエイトレスがやってきて、僕はお母さんが勧めてくれたハーブティーを頼んだ。勧められておきながら他のものを注文する度胸は僕には無かった。
「ごめんなさい・・・」
僕は謝った・・・と言うより僕ができることは謝る以外になかった。
「僕の身勝手で咲季さんの体を危険な目に遭わせてしまって・・・本当にすいませんでした。もう咲季さんには二度と・・・」
そう言いかけた時、お母さんの声が僕を遮った。
「ごめんなさい」
今度はお母さんが僕に謝った。
「え?」
「謝るのはこっちのほうなの」
――お母さん、何を言ってるんだろ・・・?
今日、呼び出された理由は『ニ度と彼女の前に現れるな』との最終通告しか僕には考えられなかった。
「あの日、学校サボって外に行こうって言い出したのは咲季のほうね」
お母さんは優しい顔で僕に問いかけた。
「あ?・・・い、いえ。ぼくが・・・」
「本当に? 本当は咲季が言い出したんでしょ。本人が言ってたわ」
「咲季・・・さんが?」
お母さんが僕の顔を見つめる。僕はお母さんの目に委縮して思わず視線を逸らした。
「フフッ、あなたって本当に嘘がつけない性格みたいね。最初は咲季があなたを庇って言ったのかとも疑ったけど、あなたを見てたらどっちが本当かすぐに分かったわ」
「いえ。確かに最初は彼女から言い出したことですけど、最終的に行こうって言ったのは僕なんです。本当です。僕が優柔不断なばっかりに彼女を危険な目に・・・」
「本当・・・咲季の言う通り人ね」
「え?」
「あなたは何でも自分のせいにしちゃうのかしら? 咲季もね、嘘をつくのが昔からものすごく下手なの。すぐ顔に出ちゃうタイプなのよね。だからあの子が言ってることが本当か嘘かなんて私はすぐ分かるの。今日はあなたに文句を言いに来たわけじゃないのよ。あの子が入院したのはあなたのせいではないのよ」
「え?」
「学校のクラスメートの人には内緒にしてもらってたんだけど咲季はあの日はもうすでに入院してたの」
――すでに入院してたって・・・どういうこと?
頭の中の整理ができない。
「体の具合があまり良くないからって、その週の月曜日に病院に検査に行ったの。その検査の結果が良くなくて、そのまま入院になってしまったの」
その週の月曜日は彼女と教室で話をした日だった。
――行かなければならない所があるって病院だったんだ。
その日、彼女の様子がおかしかった理由が今、分かった。
「あの子は幼い時から病院の入退院を繰り返してたんだけど、高校に入ってからはわりと調子が良くて入院は無かったから、ちょっと落ち込んじゃってね。春休みになる前に一度だけ学校に行きたいって言うもんだから、病院から一日だけ外出許可をもらったの」
――あの日、一日だけ?・・・。
「今回の入院がどれくらい長くなるか分からないから、その前にきっと遊びに行きたかったのね」
――そんな貴重な時間だったのに僕なんかと・・・。
僕は申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
「今日は来てもらったのは、あなたにお願いをしたかったからなの」
「お願い・・・ですか?」
「あなたにあの子の、咲季のそばにいてあげて欲しいの」
彼女をあんな大変な目に遭わせてしまった僕に何を言い出すのか、母さんの言葉の理解に苦しんだ。
「ああ、そうだ。あなたには報告しないとね。咲季、おかげさまで体のほうはかなり回復して元気になったわ」
「本当ですか。よかった!」
思わず大きな声が出てしまった。何よりも僕はその言葉を待っていたから。
「ただあの子あれ以来、ああ、あの倒れて病院に運ばれた日のことね。体のほうは元気になったんだけど、気持ちが・・・全然元気にならなくて。あの子、聞き分けがいいから、もうあなたに会っちゃダメだって言ったら素直に聞いてくれた。ただその代わり、今回のことであなたを絶対に攻めないでって言ってた」
僕は苦笑いをするしかなかった。
お母さんが僕のカバンを見て何かに気づいた。
「あら、そのペンギンのストラップ・・・」
僕はあの日以来、あのペンギンのストラップをずっとカバンに付けていた。
「これ・・・ですか?」
僕はストラップをカバンから外してお母さんに見せた。
「咲季も同じもの持ってわね。もしかして一緒に買ったの?
あの子すごく大切にしてたわ」
――大事に持っててくれてるんだ。
僕は嬉しかった。
「でも、あの子のはこんがりとお腹が焦げてたわよ」
「ああ、すいません。それは僕がドライヤーで焦がしちゃったんです」
「フフッ、そうだったんだ。私が『あら焦げてるじゃない』って言ったら、
『だから世界にひとつしか無いんだよ』ってそれは嬉しそうに言ってたわ。
そっか、あなたが焦がしたものだったんだ・・・なるほどね」
お母さんは子供がはしゃぐように笑ったあと、今度は急に黙りこんで僕を見つめた。
「あの子に・・・・会ってくれる?」
「でもお父さんが、すごく怒ってたし・・・大丈夫ですかね」
「うん、だからね。私たち親には内緒ってことにして」
「え?」
お母さんの言っていることの意味がまた分からなくなった。
「私たちが病院に行かない時間をあなたに教えるから、その時間以外であの子に会ってあげてくれる?」
「どういう・・・ことですか?」
お母さんはまた少し黙ったあと、決心した感じで話し始めた。
「あなたには・・聞いておいて欲しいことがあるの。あの子の病気のことで」
「病気?・・・」
「あの子はね。咲季は生まれつき心臓がよくないの。心臓の病気でね。けっこう重い・・・」
何の冗談かと僕は思った。お母さんはこのあと彼女の病気について話し始めた。
彼女の病気は生まれつきの先天性のものらしい。
詳しい内容は理解できなかったが、心臓の弁の癒着とかの問題らしく、その手術が非常に困難であることを聞いた。
「でも、命にかかわるなんてことは・・・」
僕は恐る恐る訊いた。
お母さんはまたしばらく黙った。
「高校に入ってからしばらくは安定していたんだけど、最近また発作を起こすことが多くなってきてね。咲季の心臓はいつ発作が起きても不思議じゃない状態なの。生まれた時は中学生になるまで生きられないだろうって言われての。だからあの子は、あとどれくらい生きられるかは分からない。あと五年なのか・・・一年なのか・・・一か月なのか・・・」
――ちょっと待ってよ。そんなこと急に言われても・・・ ありきたりの恋愛映画や漫画じゃあるまいし。
頭の中で叫んだ。気持ちの整理が追いつかない。
悪い冗談だろうと笑いたかった。でも、お母さんの膝の上にあるハンカチに滴り落ちる涙がそれを許してくれなかった。
「咲季・・・さんは自分の病気のことは?」
「全部知ってる。自分の心臓がいつダメになるか分からないってこと。
あの子にはできる限り精一杯生きて欲しい。後悔なんかさせたくなかったからすべてを話したの。主人は反対したけど・・・」
そうか。彼女の笑顔がなぜあんなに眩しかったのか、今理由が分かった。
彼女は自分の持っている時間がとても貴重なものだと分かっていたんだ。
彼女にとって一日一日は非常に大切なものだった。
いつまで生きられるか分からない。だからこそ、彼女の笑顔には常に一生分の笑顔が凝縮されていたんだ。
あの笑顔の裏側にどれだけの心の強さが必要だったのか、僕には計り知れない。
僕は何も分かっていなかった。
『人の寿命は予めDNAにプログラムされてる』だって?
『生物の本能に逆らうから人は死を恐れる』だって?
僕は何を偉そうに彼女に講釈を垂れていたんだ。死の重みもロクに分からない軟弱な奴が。
自分が情けなくて悔しくて、居た堪れなくなった。
「あの、もうひとつお願いがあるの」
お母さんは申し訳なさそうに話を続けた。
「はい?」
「今話をした咲季の病気のことは、あなたは知らないフリをしていて欲しいの」
「え?」
「同情で一緒にいるような誤解をあの子にさせたくないから。今までのように自然なお付き合いをして欲しいの。無理を言っているのは承知なんだけど」
そう、無理だ。僕は嘘が苦手だ。そんなことすぐ顔に出てしまうだろう。僕が嘘をつけない性格なのはさっき理解したばかりだろうに。
「ごめんなさい。お願い・・・」
お母さんの声が泣かないように必死にこらえている。
「わかり・・・ました」
僕は思わず答えてしまったが、すぐに後悔した。
僕はなんて無責任な奴なんだろう。彼女に嘘をつき通す自信なんて全く無いのに。
*****
翌日の午後、僕は彼女の入院している病院にいた。もちろん彼女に会うためだ。
病室は事前に彼女のお母さんからメールで聞いていた。
彼女に会うのは何日ぶりだろうか。でも僕の心の中は嬉しさより不安が大きかった。
怒っていないだろうか・・・僕になんかもう会いたくないのではないか・・・そんなことを思いながら病室に前に着いた。
病室の扉の横にある名札に彼女の名前を確認する。
――ここだ。
病室の中の覗くと、カーテンで仕切られたベッドが部屋の四方に置かれていた。わりと広い四人部屋だ。
奥の窓際のベッドで本を読んでいる彼女すぐに見つけた。僕は胸がきゅっと締め付けられた。
声を掛けようとした。なのに声が出ない。
――あれ? 何で?
僕は振り絞るように声を出した。
「あの・・・こんにちは!」
病室内に僕の声が大きく響く。その声に病室にいたみんなが一斉にこちらを向いた。
――あ、まずい・・・っていうか恥ずかしい。
「あっ、すいません!」
僕はすかさず謝った。彼女がびっくりした顔でこちらを見ていた。
「名倉くん? 来てくれたの」
「あっ、ごめんね。久しぶり・・・」
驚いている彼女の顔が慌てている僕を見て笑顔に変わった。
「相変わらずいいキャラしてるね。君は」
「ごめんね。うるさかったよね」
危険な目に遭わせてしまった僕を怒ってるんじゃないかと不安だったが、僕を明るく迎えてくれたのでホッとした。
「ごめん。君に連絡したかったんだけど、お母さんに携帯使わせてもらえなくて連絡できなかったんだ。よく部屋わかったね」
「ああ、学校で教えてもらったんだ」
「そう・・・」
僕は下手な芝居をしていた。
「あの・・・今日家族の人は?」
「大丈夫。お母さんが来るのは朝と夕方だから。さっき帰ったところだから今日は夕方まで来ないよ。そうだよね。うちの両親とかち合ったらまた何か言われちゃうもんね。ごめんね、いろいろ言われたんでしょ。みんな私が悪いのに。一所懸命説明したんだけど・・」
「僕のほうは全然大丈夫だよ。鈴鹿さんこそ、体は大丈夫なの?」
僕がそう訊くと、彼女はゆっくりと俯いた。
「私の病気のこと・・・聞いた?」
彼女は探るようなトーンで僕に訊いてきた。
「え? お母さんからは昔から体が少し弱いってことは聞いたけど、あとは・・」
僕は精一杯に嘘をついた。
彼女はまたしばらく黙っていた。
「私ね・・・心臓があまりよくないんだ。生まれつき・・・」
「そ・・・そうなんだ」
僕は平然を装った。
「海に行った時は、薬を学校のカバンの中に入れっぱなしで、持っていくの忘れちゃったんだよね。私ってドジだから・・・ごめんね、心配かけて」
そうか。あの日はカバンを持たずにそのまま学校を出てきちゃったから。
「もしかして電車に乗る前に学校に戻ろうとしたのは、薬を忘れたのを思い出したからだったの? 僕、何も知らなくて・・・本当にごめんね」
僕は自分のしてしまったことの重大さを知った。僕は取り返しのつかないことをしてしまうところだったんだ。
「ううん、違うよ。あの時は私のわがままに君を付き合わせたら悪いなって本当に思ったんだ。薬も一日くらいなら平気かなって思ったし・・・。でも君に手を引っ張ってもらった時は本当に嬉しかったよ」
僕は・・・何も言えなかった。
「あー、そういえばさっき私のこと『鈴鹿さん』って言ったでしょ。名前で呼ぶ約束だよね」
彼女は頬を膨らませた。
「あ、ごめんね。でも確か、君もさっき僕のこと『名倉くん』って言ったよ」
「あー、君こそ今、私のこと『君』って言ったよ」
何だかよく分からない押し問答が続いた。
「ごめんね。なんか君のがうつっちゃったよ」
「フフッ、影響されやすいんだね、君」
「うん、そうみたい。でも『君』って呼び方も何か悪くないかも」
「そうでしょ」
拗ねていた彼女はやさしく笑った。
「あのさ・・・大丈夫・・・なの」
「え?」
「その、心臓の病気って・・・命にかかわる・・・とか・・・」
――何を言い出すんだ、僕は。
言葉に出してしまったあと猛烈に後悔した。訊いてはいけないことを訊いてしまった。
でも、それを聞いた彼女は、いつもの眩しい笑顔で答えてくれた。
「えー心配してくれてるの? 嬉しいな。大丈夫だよ。そんな大袈裟なもんじゃないよ、私の病気は。ちゃんと薬を飲んで、運動とか、食事とか、お医者様の言うことを聞いて無理しなければ大丈夫って言われてるから」
そう言ったあと、にこりとまた微笑んだ。
彼女も嘘をついている。二人の間に嘘が交錯していた。
彼女はどんな気持ちでこの嘘をついているんだろうか。それを思うと心が張り裂けそうになった。
「ごめんね」
「また謝ってる。別に君が謝ることないでしょ」
彼女は大きく笑った。
「携帯やスマホが無いと全然連絡できないから不便だよね」
彼女は困ったように言った。
「でも昔はみんなそうだったからね」
「そうだよね」
「僕らの父さんや母さんの時代はどうやって連絡取り合ってたのかな?」
「やっぱり電話か手紙じゃない?・・・あと交換日記とか?」
「今はラインとかあるから交換日記なんかする人はいないんじゃないかな?」
それを聞いた彼女が黙ったまま上目遣いで僕のほうを見た。
「私、雄喜と交換日記したいな」
「僕が日記を書いたら、きっと理屈っぽくて論文みたいになっちゃうよ」
僕は彼女のその言葉は軽い冗談だと思い、軽い答えで返してしまった。
「そうだ。海に落ちた時に私が買ってあげたスエットどうしてる?」
「ああ、今は僕の愛用の部屋着になってるよ」
「ホント? 嬉しいな。私も一緒におそろいの買っておけばよかったな」
「また今度一緒に買いに行こうよ。今度は海に落ちないようにするから」
「うん、そうだね。約束だよ」
彼女は嬉しそうに笑った。僕は彼女のこの笑顔こそ人を幸せにできる、そう思った。
その笑顔は少なくとも僕を何か暖かい気持ちでいっぱいにしてくれた。
*****
今日は四月の最初の登校日、いわゆる始業式の日だ。
僕も今日から三年生になる。これからは大学受験で勉強も忙しくなりそうだ。
でも、そういった緊張感をよそに、もっと緊張することが僕にはあった。
それはクラス替えの編成だ。もちろん彼女と同じクラスになれるかどうかという期待だった。
ドラマや漫画だったら、こういう場合必ずに同じクラスになるものだ。
でも僕は常に悪いほうを考えてしまう。漫画じゃないんだから、そううまい話は無いだろう・・・と。
まずは全員、みんな二年の時の古いクラスの教室へと集まる。
ここで新三年のクラス編成表が張り出され、自分の新しいクラスを確認してからその教室へと向かう仕組みだった。
前の教室に入ると、大勢の二年の時のクラスメートが黒板に張り出されているクラス編成表を見ながら歓喜していた。
喜ぶ生徒、悔しがる生徒、その中に混じりながら僕もクラス編成表を覗き込んだ。
『名倉雄喜』――『D組』
今年からはD組か・・・。自分の新クラスを確認する。
これに対して何か感動があるということはない。問題はことあとだ。
僕はすぐに教室を出て、隣の教室へと入った。隣の教室とは旧2年A組の教室だ。
そこに張り出されている新クラス編成表を他の旧A組の生徒に混じって確認する。
あらためて僕の心に緊張感が走る。そう、気になるのは彼女の新クラスだ。
僕は祈る気持ちで最初にD組から捜し始める。するといきなり僕の心が思わずガッツポーズをした。
『鈴鹿咲季』――『D組』
彼女の名前の横に間違いなく僕と同じD組と記されている。
――やった! やった! やった!
僕は心の中で三回叫んだ。
――彼女と一年間クラスメートになれるんだ!
こんなに喜んだのは高校の合格発表の時以来だろうか。いやそれ以上の喜びかもしれない。
僕は喜び勇んで新しいクラスの教室に向かった。
教室に入ると、すでに多くの生徒が集まっていた。でも顔の知っている生徒は四分の一程度もいないだろうか・・・。
元々人の顔の名前を憶えるのが苦手な僕は、ほとんどが知らない生徒のように見えた。
だがそんなことはどうでもよかった。彼女と同じクラスになれた。それだけで十分だ。
もちろん教室内に彼女の姿はなかった。
教室の奥のほうで彼女のことを話している五、六人のグループがいることに気づいた。恐らく彼女の二年の時のクラスメートだろう。
彼女が春休み中に入院したという話をしている。どうやらみんなで彼女のお見舞いに行こうという話らしい。
僕は二年の時はクラスは別だったので、当然声は掛からないだろうと思っていた。だが、そのグループの中の男子から声を掛けられたのでびっくりした。
見覚えのある顔だった。
「確か名倉君…だったよね? 今、鈴鹿さん病気で入院してるんだ。明日みんなでお見舞いに行くんだけど、よかったら一緒に行かないか?」
声を掛けてきたのは彼女の元彼である武田君だ。まさかの誘いだった。
僕は学校の帰りにそのまま病院へと向かった。彼女と同じクラスになったことを一刻も早く報告したかったから。
お母さんとかち合わない時間はお母さん本人から既にメールで連絡を受けていた。
「こんにちは」
病室に入ると、僕はいつもと変わらない挨拶をする。
「や! 真面目くん。相変わらずタイミングいいね。さっきお母さん帰ったとこだよ」
彼女もいつも通り明るかった。
。
「あ、そうだ。今日三年の始業式だよね。クラス替え・・・どうだった?」
彼女も新しいクラスはやはり気になるようだ。
「ああ、僕はD組だったよ」
僕のその言葉に対し、彼女はもの言いたげな顔でこちらを見つめた。
「僕・・・は? で、私・・・は?」
「あ、ごめんごめん。君のは見てこなかった」
彼女は腹を空かした虎のような目で僕を睨みつける。
「嘘だよ!」
僕は慌てて答えたあと、ニッと笑った。
「え、ウソ? もしかして、もしかした?」
僕はピースサインを出した。
「うん。僕たち今年からクラスメートだよ」
「えー嬉しい! 雄喜も嬉しい?」
「もちろんだよ」
「そっかあ。雄喜と同じクラスかあ。となりの席になれたらいいね」
「はは、それはうるさそうだな」
「ひどーい。あ、そうだ。何か二人で一緒に委員とか係やろうよ。学級委員やろうか?」
「やめてよ。僕、そういう目立つポジションだめなんだ」
「あはは、そーだよね。実は私も苦手だんだ。委員長に立候補する人とか見ると尊敬しちゃう」
「あと、今年は修学旅行もあるよ」
「わあ、同じバスに乗れるね」
「あと、三年生っていうことは将来、同窓会も一緒だよ」
「なあに? 将来は私と同窓会でしか会わないつもり?」
「どういう意味?」
「君、今度は海じゃなくて病室の窓から落ちてみる?」
彼女はなぜか横目で僕を睨んだ。最近、何か睨まれることが多くなったような気がする。
「あと咲季にもうひとつ報告。僕、今日で十八になったよ」
「あっ、そうか。今日は四月五日だから雄喜の誕生日だ。おめでとう!」
「ありがとう。ようやく咲季に追いついたよ」
「ようやくって、たった二週間じゃん。でもよかった。これで君よりおばさんじゃなくなったよ」
彼女は嬉しそうに笑った。
「あっ、そうだ。ごめん、私、誕生日プレゼント・・・」
「ああ、それならもう貰ってるよ」
「え?」
「これ!」
僕は海で一緒に買って、交換したペンギンのストラップを見せた。
「え? それで・・・いいの?」
彼女は申し訳なさそうに言った。
「これがいいんだ!」
僕がそう言うと、それを聞いた彼女はくすっと笑った。
「え? 何?」
「いや、今の、なんか、ちょっとだけカッコよかったよ」
「ちょっとだけ、なの?」
僕は皮肉っぽく訊いた。
「うん。ちょっとだけかな」
彼女は当たり前だと言わんばかりに答えた。
僕は思わず吹き出して笑った。彼女もまた笑い出した。
「ああ、それから、クラスの有志で明日、咲季のお見舞いに行こうって話が出たんだけど聞いてる?」
「あ、聞いてるよ。お母さんのところに今日連絡が来たみたい。もしかして雄喜も一緒なの?」
「うん。僕は二年の時はクラスが違うから誘われないと思ってたんだけど、あのサッカー部の彼・・武田君だっけ。彼が僕を誘ってくれたんだ」
「へー克也がね。よかったね。早速新しいクラスで友達ができて。私のおかげだよ」
「別に、まだ友達になったわけじゃないけど・・・」
「そうなの? まあいいか。じゃあ明日待ってるね。久しぶりだなあ、みんなと会うの」
彼女はとても嬉しそうな顔で窓の外に目を向けた。
*****
翌日、放課後にクラスメートのみんなで待ち合わせ、彼女の病院へと向かった。
僕が知らない生徒も数人いた。三年では別のクラスになったクラスメートもいるようだ。
みんなの話を聞いていると、彼女の入院については『ちょっと風邪をこじらせたが大事を取って入院した』程度とのことで、それほど大きい病気とは伝わっていないようだった。
もちろん僕は余計なことは言わなかった。
病院へ着くと、まずは病院の一階にある売店でお見舞い品を買うことにした。
「今はお見舞いにお花ってダメなんだよね?」
「そうだよね。何がいいのかな?」
――え? 花ってダメなんだ。知らなかった。
病院のお見舞いというと映画でよく見る“花”が定番なのかと思っていたが、最近の病院は感染症の問題とかで花のお見舞い品は禁止のところが多いそうだ。
「そうするとやっぱりお菓子? 食事制限とかあるのかな?」
「だったらゼリーあたりが無難じゃない?」
女子生徒のこの一言でお見舞い品は決まった。
大きなロビー内は診察を待つ患者さんとお見舞いの人で込み合っていた。総合案内でクラスの女子生徒が部屋番号を言って病室の場所を尋ねた。
僕は彼女の病室の場所を知っていたが、もちろんこれも黙っていた。
エレベーターに乗り、病室のあるフロアで降りる。
「あった。あそこだよ」
女子生徒の一人が彼女の病室番号を見つけた。
病室に入ると彼女はベッドで本を読んでいた。お母さんが横でゆっくり会釈をした。
彼女の目が僕の目と一瞬合ったが、言葉は交わさなかった。
「きゃー咲季! 久しぶりぃ、元気?」
彼女の姿を見るなり女子たちが両手を上げながら叫んだ。
「元気なわけないじゃん! 私いちおう病気で入院中だよ」
「あはは、そうだったねー」
病室内にみんなの笑い声が響いた。
そういえば僕はクラスメートと喋る普段の彼女をほとんど見たことが無かった。
とても楽しそうに笑いながら話をしていて、まさに天真爛漫な女の子といった感じだ。
でもなぜだろう? 美術の授業の時にも感じていたが、彼女のその笑顔に妙な違和感を感じていた。
僕といる時とは何かが違う、別の彼女がいるような、そんな感じがした。
僕自身はとりわけ喋ることは無く、ずっと後ろにいてみんなの会話を聞いていた。彼女も特に僕のほうを見たり、話し掛けてくることもなかった。
少し寂しい気もしたが、とても楽しそうに笑っている彼女を見ているだけで、僕も楽しい気分になれた。
――早く元気にしてあげたい。
僕は心底そう思った
「あんまり長居しても迷惑になるから、そろそろ行こうか」
女子生徒の一人が切り出した。
「えー、もう帰っちゃうの?」
名残惜しそうに彼女が言う。
「退院したらまたみんなで遊びに行こうね」
「あの・・また、来てもいいかな?」
そう言い出したのはあの武田君だ。
彼女はちょっと戸惑った顔をしたあと、しばらく黙っていた。
「ありがとう。でもそんな長い入院になるわけじゃないし、大丈夫だよ。みんなも受験で忙しくなるし、私の病気もそんな大袈裟なもんじゃないから」
彼女がそう言うと、武田君は少し寂しそうな顔をしていた。でもすぐに笑顔で顔を上げた。
「そうか。そうだね。退院したらまたみんなで遊びに行こう」
――なんだろう。この複雑な、なんとも言えない気分は。
今、彼女が言ったこの言葉に、とても安堵している自分に気づいた。
僕はみんなを先に送るようにしながら一番後ろで病室を出る。歩きながら最後に彼女ほうを見た。
すると彼女は僕のほうを見てクスッと笑い、みんなから見えないように小さく手を振ってくれた。
何か二人だけの特別なサインのようで、ちょっといい気分になった。
病室を出る直前に武田君が突然、足を止めた。彼は何か思いつめたような顔をしている。
「ごめん、みんな。俺、鈴鹿さんに話があるから、ちょっと先に行っててくれる?」
そう言うと武田君は彼女のほうへ引き返した。
――え? 何?
「おいおい、こんなとこで告白かあ?」
他の男子が冷やかし始める。
「いいから、頼むよ!」
「分かったよ。じゃあ行こうみんな。外で待ってるぜ」
病室を出る間際、また彼女と目が合った。今度はちょっと不安そうな顔をしてこちらを見ていた。
こういうことを後ろ髪を引かれる、というのだろうか。そう思いながら僕はみんなと一緒に病室を出た。
「克也のやつ、鈴鹿とヨリを戻したがってたからな」
――え?
一人の男子生徒の思いがけない言葉は僕を焦らせた。
「でもさ、普通、病院で告る?」
もう一人の女子生徒が言った。
――ヨリを戻すって・・・?
例えようもない不安な気持ちが僕の心を襲った。
僕たちは病室の近くの談話コーナーで武田君を待つことにした。
武田君はなかなか病室から出て来なかった。実際は五、六分しかたっていなかったかもしれないが、僕には異常に長い時間に感じられた。
僕は徐々に増幅してくる不安な気持ちを抑えられなくなっていた。
――いったい何を話してるんだろう? 二人で。
「克也遅くね?」
クラスメートの男子が痺れを切らしたように言った。
「おいおい、二人で抱き合ってキスでもしてんじゃねえの」
――ちょっ、ちょっと待ってよ・・・。
津波のような猛烈な不安感が僕を襲った。
「オレこっそり覗いてこようかな」
もう一人の男子生徒が言った。
「止めなよ」
女子生徒が止めに入ったが、その男子生徒は病室のほうへと向かっていった。
男子生徒がこっそり病室のドアを開けようとしたその時、ガラリとドアが突然開いた。
「おう! なんだ?」
武田君は何事も無かったように出てきた。
「おう! どうだった?」
男子生徒は興味津々に訊いた。
「ふっ・・・」
武田君は不敵な笑いを浮かべた。
「何だよ、その笑い?」
――何? どういうこと?
「みんな、ハンバーガー食いに行こうぜ! おごったる!」
武田君が明るくみんなを誘った。
「おいおい。ホントかよ。おごってくれんのか?」
そして武田君は僕のほうを見てニイッと笑った。
「名倉君も来るだろ?」
突然の誘いに僕は戸惑った。
「あ、ごめんね。今日はこれから用事があって・・・」
「そうか・・分かった。じゃあ、またな」
僕は思わず断ってしまった。用事なんかないのに。
でも彼の誘いに乗ったら、何か負けたというような気分になる気がしたのだ。
武田君は複雑な表情をしていた。その表情を見て、僕はさらに複雑な気持ちになった。
――彼女と何を話したんだろう? まさか、また彼女と・・・。
何なんだ、このモヤモヤした気持ちは。女々しく考え込む自分にイライラした。
だったら自分も武田君みたいに積極的になればいいじゃないか、そう自分を叱咤した。
でも、なれるわけがないと心の中で呟き、失笑した。
そうやってすぐに諦めてしまうのが僕だった。そんな僕が嫌だった。
僕はその日、とても落ち込んだ気持ちを引きずったまま病院をあとにした。
*****
僕は彼女のお母さんからのメールを待つのが日課になっていた。彼女に会える時間を知らせてくれるメールだ。
携帯のメール着信音が響く。
『今日、私はお昼くらいに病院へ行きます。三時以降であれば大丈夫なので、よかったら病院に来てください』
――よかった。今日も彼女と逢える。
そのメールはいつにも増して嬉しかった。今日は絶対に逢いたかったから。
僕は学校が終わったあと、すぐに病院へ向かった。
病室の入口から中を覗くと、すぐに彼女の姿を見つけた。
「こんにちは」
いつも通りの挨拶をする。
「あ、来てくれたんだ」
彼女はベッドの上でオレンジゼリーを美味しそうに食べていた。昨日僕らがお見舞いで買ったやつだ。
こうして見ると重い病人とは思えなかった。
「雄喜はいつもタイミングいいね。さっきお母さん帰ったとこだよ」
――知ってる・・・とは言えなかった。
「そうだ! なんで昨日帰っちゃたの? あの後、一人で戻ってきてくれるのかと思って待ってたのに。もう退屈で死にそうだったよ」
彼女は口を尖らせて膨れっ面をした。
「ええ? だって鈴鹿さん、みんなにはもう来なくていいって言ってたじゃない」
「ああ、みんなにはね。だって友達には病気の姿とかあんまり見せたくないしさ・・・」
――友達?・・・。
「あ、ちなみに君は私の友達リストから除名されてるから」
流すようにさらっと彼女は言った。
「除名されてるの? 僕」
「うん」
驚いている僕をよそに、彼女はゼリーを口いっぱいに頬張っていた。
「あのさ・・・それ、どういう意味?」
「別に。分かんないならいいよ。あ、これ食べる? 美味しいよ」
彼女は呆れたような顔をしながらお見舞いのゼリーをひとつ僕に差し出した。
「まさか・・・昨日帰っちゃったから絶交ってこと?」
「ああ、そうかなあ?・・・フフッ」
彼女は首を捻りながら悪戯っぽく笑った。
僕は昨日の武田君のことがずっと気になっていた。このままじゃだめだと思い、僕は思い切って訊くことを決意した。
「あの・・・きのう武田君がさ・・・」
「あ! 気になる?」
彼女は待ってましたと言わんばかりに顔を乗り出して反応した。
「いや、別に・・・」
僕はその彼女の反応に何も言えなくなる。そんな素直になれない自分の性格にイラついた。
「なーんだ。気になんないの?」
彼女は少し寂しい顔をして、黙ったまま窓の外へ目を向けた。
しばらく沈黙が続いた。
「あのね・・またやり直さないかって言われたんだ」
――やっぱり!
彼女の言葉にショックを受ける。僕は動揺しまくっていたが、覚悟をしていた答えだっただけに目いっぱい平然を装った。
「あれ?全然動揺してくれないんだね」
僕は彼女の顔を見ることができず、悟られないよう窓の外に目をやった。
「断ったよ」
「え?」
思わず彼女を見ると、こちらを見つめながら笑っていた。
「な・・・何で?」
「何でって君が言ったんだよ! 好きでもない人と簡単に付き合っちゃダメだって。勉強し過ぎで脳みそ沸騰しちゃったんじゃないの?」
「彼のこと・・好き・・じゃないの?」
「うーん。もちろん嫌いじゃないよ。でも、前は好きになるって気持ちがどういうことなのかよく分からなかったんだ。今は、人を好きになるってことがどういうことか分かったから・・・」
僕は彼女の言葉に何も言うことができなかった。
「あの・・・ごめん。昨日はさ、あの後ちょっと急に用事思い出して・・・」
「ちょっと何? 私のお見舞いより大事な用事ってこと?」
「うん。ちょっと買い物に。咲季にお見舞い持ってきたんだ」
「え、なあに? 今、食事制限に苦しんでる私にチーズケーキとかいうオチじゃないよね」
「ケーキじゃなくて・・・焼き鳥かな」
「焼き鳥?」
彼女は怪訝そうにに訊き返す。
僕はカバンの中からペンギンのストラップを取り出して見せた。
「あの・・・これ」
彼女の目が幼い少女のように煌めいた。
「前のペンギン、ドライヤーで焦がしちゃったからさ、新しいやつ・・・・」
「もしかして、わざわざあそこまで行って買ってきてくれたの?
僕は静かに頷いた。
「アハ、ありがとう。でもこの焼き鳥にしちゃったペンギンさんも気に入ってるんだよね。よし、合わせてカップルにちゃおっと」
彼女は子供のようにはしゃぎながら、ふたつのストラップを合わせて纏めていた。
「あれ? そういえば海って誰と行ったの? まさか私以外の女の子と? 酷い、また海に落ちちゃえばよかったのに!」
「あのさ、君以外に僕に海まで付き合ってくれる女の子がいると思う?」
「分かんないよ。他にもモノ好きな女の子いるかもしれないし・・・ 」
――モノ好きって、誰のこと?・・・。
「やっぱり君といると楽しいな・・」
「なに、急にらしくないこと言ってんの?」
僕は何か言いようもない不安に襲われた。
「フフッ、ごめん」
「何か・・・あった?」
「え? なんもないよ。何で?」
驚いた顔で彼女は逆に訊いてきた。
「いや、何でもない。ごめんね」
これ以上何も訊けなかった。
「ね、雄喜。運命って信じる?」
「運命?」
「いいことも悪いことも偶然に起きたと思うことも、実はすべては運命なの。運命というのは、そこには必ず何か意味があるってこと。前にも言ったことあったかな? 人と人との偶然の出会いもみんな運命なの。やっぱりそこには必ず意味がある。意味の無い偶然なんてない。私そう思ってるんだ」
彼女はそう言いながら黙って外を見つめた。僕も何か言ってあげたかった。でも今の僕には言える言葉は見つからなかった。
「じゃあ、そろそろ行くね。また明日来るから」
「・・・」
僕の別れの挨拶の言葉に彼女は何も言わず、ただ下を向いたまま黙っていた。
「どうしたの?」
「雄喜。これから受験だし、大変だから雄喜も無理して毎日来なくてもいいよ」
「え?」
何を突然言い出すのか。しかも彼女らしくない弱気な声だった。
――やっぱり彼女、今日は何かおかしい?・・・。
「本当に来なくても・・・いいの?」
僕は少し怒った口調で言った。いや、自分でも分からないが僕は明らかに怒っていた。
めずらしく感情的になった僕に彼女はびっくりしたようで、しばらく黙ってしまった。
「・・・やっぱり来てくれる?」
俯いたまま、彼女にしてはめずらしく甘えた声で呟いた。
「じゃあ、また明日」
僕は何かホッとした感じで笑って答えた。
「うん、また明日。じゃあね」
彼女はこちらを向いて笑顔で答えた。でも、いつもとは明らかに違う彼女を僕は感じていた。
その日の夜、僕はいつものように自分の部屋でベッドに横たわりながら本を読んでいた。
静まり返った部屋の中で携帯の振動音が鈍く響いた。
僕はベッドの上から手を伸して画面を見る。彼女のお母さんからだっだ。僕はベッドから飛び起きた。
――こんな時間に何だろう?
時計を見ると時刻は八時をまわっている。僕は嫌な予感がした。
夜に来る連絡なんて、いいことなんてあまりない。メールを恐る恐る開く。
その内容は、今から病院に来て欲しいというものだった。
こんな時間に・・・まさか彼女の身に何かあったのだろうか。
僕は着替えもろくにせずに、すぐに病院へと向かった。
病院に着くと、昼間は患者さんや見舞の人で賑わっているフロントロビーは照明が半分以上消えていて、暗く閑散としていた。
一般の面会時間はとうに終わっているようだったが、彼女のお母さんが受付に話を通してくれていたようで、彼女の名前を言うとすんなりと通してくれた。
僕はそのままメールに指定された病室へ向かう。
前に来た時と部屋番号が違っていた。どうも病室が変わったようだ。
夜の病院の廊下は薄暗かった。長い廊下の向こうに入口から明かりが漏れる病室が見えた。
その奥の病室の前の椅子に彼女のお母さんが座っている。暗くて見難かったが、泣いているようにも見えた。
いったい何があったのだろうか。僕の心の中は不安な気持ちでいっぱいになっていた。
彼女のお母さんがこちらを向いた。僕の姿に気づいたようだ。
「ごめんなさい、急に呼び出したりして。実はあの子、今日発作を起こしてね。あまり状態が良くないみたいで・・・手術することになったの」
嫌な予感は当たってしまった。
「手術って、いつですか?」
「明日の・・・午後」
「あした?」
僕は驚きのあまり思わず叫んだ。まさか、そこまで病状が悪化してるだなんて、昼間の彼女の様子からは考えもしなかった。
「それで、あの子急に不安になっちゃったみたいで・・・ちょっと精神的に不安定になって」
「・・・・・」
「あの子、さっきまでずっと泣いていたの。大きな声で叫んだりもして。今までこんなこと一度も無かったのに・・・」
お母さんは涙に言葉を詰まらせた。
嘘だ。あの太陽のように明るい彼女が・・・そう思った。そんな彼女の姿は僕には想像ができなかった。
「咲季に会ってあげてくれる? もしかして、あなただったらあの子も落ち着くんじゃないかと思って。こんな夜にご迷惑かとは思ったんだけど。ごめんない」
「いえ。僕は全然大丈夫です。だけど彼女、そんなに・・・・」
僕は病室の前で大きく深呼吸をした。そして静かにドアを開けた。
まだ消灯時間になっていないと思うが、部屋のメイン照明は消えていて、オレンジ色の常夜灯だけが寂しく灯っていた。
暗がりで見難かったが、ベッドで毛布を被っている彼女が見えた。
今度の病室は個室のようだ。彼女の他には誰もいない。
ベッドがひとつしか置いていないその部屋はやたらに大きく感じた。
「何? もう大丈夫だから帰ってよ!」
ドアの音で人が来たことに気づいたのだろう。どうやら僕をお母さんと勘違いしているようだ。
でも、こんなに荒れた彼女の声は聞いたことがない。
「あの・・・こんばんは・・・」
僕は恐る恐る声を掛けた。
「え! 雄喜?」
「うん・・・」
彼女はこんな時間に僕が尋ねてきたことに非常に驚いていたが、笑顔で迎えてくれた。
「どうして・・・?」
「あの・・・君のお母さんに呼ばれて来たんだ」
僕が正直にそう言うと、彼女の顔から笑顔がスッと消えた。
「どういうこと?・・・」
彼女は問いただすような口調で言った。
――あ!
そうだった。お母さんに頼まれてたというのは秘密だった。
でも、僕は彼女にもうこれ以上嘘はつけなかった。つきたくなかった。
僕は今までの彼女のお母さんとのやりとりを正直に話した。お母さんから僕に『咲季に会ってやってほしい』と頼んできたことや、病気の本当のことは知らないふりをするように言われたこと、全て話した。
「そうか。雄喜、私の病気の本当のこと、知ってたんだね」
「ごめんね。黙ってて」
僕は謝ることしかできなかった。
「謝るのは私だよ。病気のこと嘘ついてたのは私だもん。雄喜にだけは本当のこと言おうと思ってたんだよ、何度も何度も。でもそれを言ったら雄喜との今の関係が壊れちゃう気がして、怖かったんだ」
「そんなこと・・・そんな壊れるなんてことあるわけないよ」
僕は慌てて否定した。すると、彼女はゆっくりと首を横に振った。
「ううん。本当の病気のこと知ったら私のこと『可哀そうな病気の女の子』って目で見ちゃうでしょ」
「それは・・・」
「私ね、生まれた頃はせいぜい十歳か十一歳くらいまでしか生きられないって言われてたらしいの。だから、今まで生きてこられただけでもすごく感謝してるんだ」
彼女は笑っていた。でも、こんな寂しい笑顔は初めてだった。
「お母さんにはとっても感謝してる。私に正直に病気の本当のこと教えてくれて。私よりお母さんの方が辛いかもしれないのにね」
僕は黙って頷いた。
「じゃあ、明日の手術のことも・・・聞いた?」
「うん。さっき君のお母さんから」
「そうなんだ。明日、手術になっちゃった。いきなりだよね・・・」
「それで、君のそばに居てくれって、お母さんが電話をもらった・・・」
彼女は俯いたまま静かに笑った。
「そうか。じゃあ雄喜が今まで来てくれてたのはお母さんから頼まれてたからなんだね」
いつもの彼女らしくなく吐き捨てたような言い方だった。
「いや、そういうわけ・・・」
「ごめんね。無理やり付き合せちゃって」
彼女の声が僕の声を遮る。
「何、言ってるの?」
「雄喜、もう帰っていいよ。私大丈夫だから」
「だから、何言ってるの?」
「病人の女の子と会っててもつまんないしね」
「やめろよ!」
僕は思わず怒鳴ってしまった。
彼女はその声にびっくりして黙り込んだ。
僕はすぐ後悔した。
「ごめん。大きな声出して・・・」
「ううん。私が悪いの。ごめん」
「ごめんね。そんなことないよ。僕が・・・」
「もう・・・いいから!」
さっきより強い口調の彼女の声が僕の声を遮る。
「・・・・・」
「もういいから・・・帰って」
彼女は振り絞ったような声で言った。
「嫌だ!」
僕は叫んだ。
人に“嫌”と言えない性格の僕がこの言葉を使ったのは何年ぶりだろう・・・。
その使い慣れない言葉を使った僕自身が驚いていた。
「帰らない。咲季のそばにいる」
彼女はびっくりした顔で僕を見た。
「雄喜?」
「咲季のそばにいたい」
「ふふ・・・君らしくなくカッコいいね」
彼女は笑って言った。
でも、僕は笑わなかった。その僕の顔を見て、彼女も笑うのを止めた。
「ごめん。本当はすごく嬉しいんだ。素直じゃなくてごめんね」
僕は黙ったまま首を横に振った。
「私、今すごく自己嫌悪なんだ。お母さんにはとっても感謝してるのにさっきも酷いこと言っちゃったし、君にも素直になれないし。雄喜みたいにいつも正直に生きらればいいのにね」
「どうしたの? やっぱり今日の咲季は全然咲季らしくないよ・・・」
彼女は僕の顔をじっと見つめたあと、視線を逃がすように窓のほうに向けた。
「私らしく・・・か。フフッ、私らしいって、何なのかな?」
「え?」
彼女は笑っていた。でも、いつもの眩しい笑顔ではなかった。不安そうな・・・とても寂しい笑顔だった。
「私ね、いろんな人と、みんなと仲良くしたかったんだ。生きている限りね。中学の時はほとんど入院と病院通いで全然学校に行けなくてさ。それでいて引っ込み思案だったから、友達も全然できなくて・・・」
彼女の言葉はとても意外なものだった。
「だから高校入ってからは思い切って自分を変えようと思ってキャラ変えたんだ。こんな風に明るく軽いキャラ続けたの。ちょっとのことで大袈裟に笑ったり、わざと大きくはしゃいだり、それでいて嫌われないように調子よくみんなに合わせたりして。お母さんたちにも心配かけたくなかったから、いつも笑顔を絶やさないようにしてね」
僕は自分が恥ずかしかった。僕は彼女のことを何も分かっていなかったんだ。
「でも本当はね・・・正直言うとけっこう辛かったんだ、別の自分を演じるのって。本当の自分を騙しながら生きてきたのかもしれないね・・・」
――そんなことない。君は本当に魅力的な女の子だ。
そう言いたかった。でも声にならなかった。
「私、ずっと突っ張って生きてきたから、素直さ忘れちゃったのかもしれないな・・」
そうなんだ。彼女はずっと病気のことを隠しながら学校生活を続けてきたんだ。
お父さんやお母さん、友達にはいつも明るい笑顔を見せながら、何事も無いようにいつも平然として。いつ病気が再発して死ぬかも分からないという不安と恐怖と戦いながら。
どんなに不安だったろう・・・。どんなに怖かっただろう・・・。僕になんかにはとても想像がつかない。
彼女の眩しい笑顔はその不安と恐怖の裏返しだったんだ。
「そうやって君は・・・ずっと一人でがんばってきたんだね・・・今まで・・・」
彼女から笑顔がスッと消えた。僕を横眼で見つめている。
僕の知らない、今まで見たことがない、寂しく、悲しい目だった。
彼女の瞳が震えながら潤んでいくのが分かった。
彼女の両手が僕の服の袖をぎゅっと掴んだ。
「どうしたの?」
「雄喜、私ね、覚悟はできてたんだよ・・・」
「え?」
「お母さんから自分の病気のこと聞いた時から、覚悟はできてたんだよ。もうダメかもしれないって・・・。でも、明日だなんていきなりすぎるよ。みんなにお別れも言えないじゃん」
「何、弱気になってるんだよ。ダメって決めつけないでよ! そんなの君らしくないよ!」
彼女は小さく首を横に振った。
「ううん、これが私だよ。本当の私。臆病で、弱虫で、泣き虫で・・・」
彼女の目からひとしずくの涙がこぼれ落ちた。
僕はもう何も言えなくなった。
「雄喜・・・わたし・・・怖い・・・」
とても小さな震えるような声だった。
「わたし・・・・死ぬの・・・怖いよ・・・」
震える手、震える声。いつもの活発で明るい彼女からは想像ができない、初めて見る彼女の弱々しい姿だった。
「発作が起きた時、このまま死んじゃうのかなって・・・思っちゃうの・・・。夜、部屋の電気を消すと、深いに闇に吸い込まれそうで怖くて消せないの・・・。このまま眠って、ずっと目が覚めなかったらどうしようって思っちゃうの・・・」
僕は大きな間違いをしていた。僕は大馬鹿野郎だった。
僕は彼女は強い人間だと思い込んでいた。
死の恐怖へも立ち向かってきた強い人間だと。彼女の眩しい笑顔は彼女の強さの象徴だと。
でもそれは違った。
彼女はいつ襲ってくるのか分からない“死”という運命の恐怖から逃れるため、精一杯の笑顔を貫いていた。
ずっと、ずっとその恐怖と戦っていたんだ。たった一人で。
当たり前のことだ。本当に当たり前なことだったんだ。死ぬのが怖くない人間なんているはずがない。
それが十八歳の女の子ならなおさらのことだ。
僕は何でこんな当たり前のことをずっと分かってあげられなかったんだ。
でもそれが分かったからといって、そんな彼女に僕は・・・何もしてあげられない。
そう分かった時、僕は自分に絶望した。
「雄喜と・・・もう逢えなくなるのかな・・・」
彼女が寂しそうに呟いた。
――そんなこと・・・言わないで・・・。
僕の言葉は声にならなかった。
目に涙が潤んでくる。
僕は黙って激しく首を横に振った。
「死んだら・・・死んじゃったら、君と逢えない寂しさも感じなくなっちゃうのかな・・・」
彼女は笑いながらそう言った。涙をぽろぽろ流しながら。
僕は黙って大きく首を横に振った。
何も言えなかった。彼女はただ震えていた。
彼女がとても愛おしかった。こんなにも人を愛しく思えたことはなかった。
なのに、僕は何もできない。何か言ってあげることすらできない。
――なんで何もできないんだ・・・なんで何も言えないんだ・・・。
僕はこれほど自分が無力で情けないと感じたことはなかった。
自分が一番大切にしたいと思う人が今、目の前でこんなに苦しく、辛く、悲しい思いをしているのに。
涙が溢れそうになる。悲しいからじゃない。
悔しい・・・悔しい・・・。
僕はその時、意識も無く自分の両腕で彼女を引き寄せた。
そしてその小さな体をそのまま強く包み込んだ。
何も考えてなかった。真っ白だった。ただ彼女を包みこんだ。優しく。そして強く。
それしか・・・できなかった。
初めて抱いた彼女の体は思ったより華奢で、今にも壊れそうな感じがした。
彼女の髪が僕の頬に絡む。彼女の頬の温もりが僕の頬に伝わる。
彼女の香りが僕の心までも包み込む。
「雄喜?・・・」
彼女の声が空間ではなく、直接肌を通して僕に伝わった。
僕は何も言わなかった。いや何も言えなかった。
そう、僕にできることは、彼女を抱きしめること、それだけだった。
そんな自分が情けなく、悔しかった。
――死なないで! お願いだ!
僕は思わず心の中で叫んだ。でも声にはならなかった。
――好きだ! 咲季、君が好きだ!
やはり声にはならなかった。僕はそれでも心の中で叫び続けた。
――こんなにも伝えたいのに、なんで声が出ないんだ。
彼女の体を包み込む力が無意識に強くなっていく。
彼女に僕の気持ちが伝わったのだろうか。彼女の腕が僕の体を強く抱きしめてくるのを感じた。
どれくらいの時間が経ったのだろうか。僕らはどちらからともなく、ゆっくりとお互いの体を離した。
「ごめんね・・・」
僕はようやく声が出た。
「フフッ、また謝ってる」
「ごめんね・・・」
抑え込んでいた涙がついに溢れ出した。僕が泣いちゃダメだ、でもそう思えば思うほど涙が溢れ出てきた。
「雄喜・・・泣いてるの?」
「ごめんね・・・」
「雄喜から『ごめんね』を取ったら喋れなくなるね」
「ごめんね・・・」
これ以上何も言えない自分が悔しかった。何もできない自分が悔しかった。
今度は彼女から僕の体を包み込んできた。
「雄喜・・・ありがと・・・」
彼女が耳元で囁いた。涙を堪えた小さな声で・・・。
「ごめんね・・・僕・・・何もしてあげられない」
「いいよ・・・もう何も言わなくて・・・」
彼女の僕の体を掴む力がさらに強くなるのを感じた。
体は苦しくなかった。でも心が苦しかった。彼女がとても愛おしかった。
彼女を失いたくない。このまま時間が止まって欲しい、僕はそう願った。
部屋にノック音が響き、僕はふと我に帰った。
看護師さんの消灯の見回りだった。
その女性の看護師さんは、僕らに消灯時間のことを伝えると、次の病室へと向かった。
もう帰らなきゃいけない、そう思うと胸がぎゅっと思い切り締め付けられた。
「雄喜・・・」
「うん?」
「一緒の修学旅行、楽しみだね」
彼女は顔を見上げて嬉しそうに言った。
「うん。一緒に行こうね」
「そしたらさ、自由時間にまた二人で抜け出さない?」
「いいね。名所やおもしろそうな所、チェックしとくよ」
「あと、美味しいスイーツのお店もね」
「オッケー」
「あとさ、あとさ・・・」
彼女はわざと大袈裟にはしゃいでいるように見えた。まるで不安をかき消すかのように。
そんな彼女を見て、僕はまた何も言えなくなった。
すると、黙っているそんな僕を見て彼女は言った。
「雄喜はさ、今のままの雄喜でいいからね。無理しないで」
「え?」
「君らしい君でいてね。私は今のままの雄喜が・・・」
彼女が言葉がを止めた。
「なに?」
「今の雄喜が・・一番いいと思うから・・」
「あらたまって何言ってるの? 会うの最後ってわけじゃないし」
「ふふ。そうだったね。でも、今日はもう帰らないといけないじゃない?」
彼女はちょっと寂しい顔で言った。
「雄喜はさ、将来きっといい小説家になれると思うよ」
「何? 突然・・・」
「ふふ、急に何かそう思っただけ・・・」
「別に小説家になれなくてもいいよ。なれるとも思わないし。まあずっと小説は書いてはいきたいとは思うど・・・」
「書けたら真っ先に読ませてね」
「分かった。待っててね」
「うん。楽しみだな」
彼女はにこりと笑った。
「あのさ、もしも・・・もしもだよ」
「何?」
「もしもさ、私たちが将来大人になって、二人に子供ができたらどんな子供だと思う?」
――え?
「何? 突然?」
「もしも・・・の話だよ」
以前の僕だったらこんなと唐突な質問、何も答えられなかったと思う。
「そうだな。きっと咲季に似たすっごく可愛い女の子だと思うな」
それを聞いた彼女は噴出すように笑い出した。
「なんだよ、自分から訊いといて・・・」
「ごめんごめん。だって君がさらっとそんなこと言えるなんて、成長したなあって」
「そう?」
僕はそんなに笑わなくてもいいのにと思いながら苦笑いをした。
「私と一緒にいたおかげだよ」
そう言いながらまた明るく微笑んだ。
「もう帰る時間・・・だね」
彼女は淋しそうな声で呟くように言った。
「うん・・・ごめんね。大丈夫?」
「うん、さっき雄喜から元気いっぱいもらったから」
彼女はそう言いながら僕を見つめた。
その視線に僕は咄嗟に下に目を逸らしてしまった。
「手術、明日の午後からだよね。学校が終わったら来るからね」
「うん。待ってる」
「じゃあ・・・帰るね・・・」
「うん」
帰りたくなかった。
でもそれは許されない。
僕はゆっくりと病室のドアに手を掛けた。
「あのさ・・・」
彼女が僕を呼び止めた。
「なに?」
「・・・・・」
彼女は黙ったまま俯いていた。
「どうしたの?」
「あのさ、最後に・・・一回睨めっこ・・・してくれる?」
「何だよ! 最後って!」
僕は思わず強い口調になってしまった。
「今日は最後ってことだよ。そんな恐い顔しなくてもいいじゃん。君の顔をよく見ておきたいなあって・・・」
「変なこと言わないでよ」
「別にいいよ・・・嫌なら・・・」
彼女は拗ねたようにまた俯いた。
「わかったよ」
僕はちょっとムキになって言った。
「いい? じゃあ、いつものように先に目を逸らしたほうが負けだからね。いくよ・・・」
彼女の掛け声で静かに睨めっこは始まった。
彼女は僕の目をじっと見つめてきた。僕も彼女の目を強く見つめた。
彼女とは何回目の睨めっこだろう。
とても不思議な感覚に僕は包まれていた。
何だろう。前に睨めっこした時とは何かが違った。
自分から意識的に目を逸らさないようにしているのではない。
彼女から目を逸らすことができなかった。まるで吸い込まれるように。
彼女の瞳はとても澄んでいて、そして眩く輝いていた。
彼女がとても愛おしい・・・そう感じた。
彼女のその茶色い大きな瞳の中に僕の顔が歪んで映っている。
その瞳に映った僕の顔がどんどん大きくなっていくのが見えた。
――え?
次の瞬間、僕たちの世界の時間が止まった。
*****
翌日、部屋の東の窓から朝日が強く射し込んでいた。空は雲ひとつ無く、とても青く澄んでいる。
僕の心の中は夕べからモヤモヤした気持ちでいっぱいだった。
そのモヤモヤの正体は分かっていた。
結局、僕は自分の気持ちをはっきりと伝えてることができなかった。
何もできず、何も言ってあげられなかった。情けなくて仕方なかった。
僕はいつも通りの時間に家を出た。そして、いつも通りの時間のバスに乗る。
バスが学校の前に停車すると、生徒たちがゾロゾロと降車口から降りていく。
ブザー音とともにバスの扉が閉まる音がした。
でも、僕は動くことなく、そのままバスに乗っていた。病院に向かうためだ。
学校をサボるなんて彼女と海に行った時以来、人生二度目だ。ただ、その時のようなドキドキする高揚感は全く無い。
ただ彼女に会いたい。
手術前に一目だけでいいから会って、自分の気持ちを伝えたい、それだけだった。
病院前でバスを降りた。
朝の病院のエントランスホールは診察待ちの人でいっぱいだった。
彼女の病室に着く。でもそこに彼女の姿は無かった。
お母さんの姿も見えない。
――あれ、どこに行ったのかな?
僕は彼女の姿を捜しに病室を飛び出た。例えようもない不安感が僕を襲った。
待合室を捜したが誰もいない。
すると、長い廊下の向こう側に見覚えのある一人の男性が下を向いて長椅子に座っていた。
この人の顔は忘れない。彼女のお父さんだ。会うのはあの海へ行った日の病院以来だ。
――あ、まずいな。でも挨拶しないと・・・。
そう思い悩んでいるうちに、お父さんが先に僕に気づいてしまった。
「君は確か・・・なぜ君がここにいるんだ? 学校は?」
お父さんはかなり怒ってるようだった。あたり前だが。
「あの・・・すいません。僕、鈴鹿さんのお見舞いに・・・」
「見舞いって、よくもまあ・・・」
かなりイライラしている様子が伺える。
前に会った時も怒ってはいたが、今日はその時とは明らかに違う雰囲気が漂っていた。
お父さんが今にも怒鳴り出しそうな瞬間だった。ちょうど彼女のお母さんが帰ってきた。
「あなた、やめて! 名倉君は私が呼んで来てもらったの!」
お父さんは訳が分からないというような困惑した顔になり、黙ったまま顔を背けた。
そしてそのまま頭をかかえて長椅子に座り込んだ。
僕はその只ならぬ雰囲気に息を飲んだ。
――何か、あったのだろうか?
「名倉君、ごめんなさい。咲季、朝から緊急手術することになったの。実はもう手術室に入ってる」
「え、もう? だって手術は午後からじゃ・・・」
あまりにも突然のことに僕は愕然とした。
どうやら彼女の容態が予想より早く悪化して、予定を急遽早めたらしい。
「そんなに悪いんですか彼女。大丈夫・・なんですか?」
お母さんはしばらく黙ったまま下を向いていた。
その様子から、大丈夫なんてことはないということが容易に想像がついた。
「ごめんさない名倉君。今日は帰ってもらえる。何かあったらすぐに連絡するから」
僕は黙って頷くしかなかった。
――大丈夫。心配ない。心配ないよ。
僕は自分に言い聞かせた。
いつも物事を悪い方向にばかり考えている自分だったが、今回だけは大丈夫と信じていた。
いや、無理やり信じ込んだ。そう思わないと僕自身の感情を保てなかった。
僕は夕べ彼女に何も言ってあげられなかったことを悔やんだ。
――いや、変なことは考えないようにしよう。
僕は慌てて思いを否定した。
僕はこのまま学校へ行かないでサボってしまおうかとも考えたが、学校から家に連絡が行くと面倒なことになるので学校へは行くことにした。
授業は三時限目から出ることができた。でも頭はうわの空の状態で、先生の声なんか全く耳に入らなかった。僕はもう気が気ではなく、何回も携帯の画面を見直した。
四時限目が終わり、昼休みとなる。携帯の画面を見たが、やはり着信は無かった。
――やっぱり病院に戻ろうか。
そう思った時だ。メール着信の振動音が響いた。僕はすぐに携帯の画面を見る。
すると彼女のお母さんの名前が表示されていた。
心臓の鼓動が一気に高まった。僕は祈りながらメールを開いた。
『名倉君、連絡遅くなってごめんなさい。咲季の手術は無事に成功しました。本当にありがとう。明日には面会できると思うから、時間が分かったらまた連絡します』
――よかった!
心の中でめいっぱいに叫んだ。
僕の視界は急激に大きく広がり、まわりのものすべてが明るく輝いて見えた。
――よかった! 本当によかった!
心の中で何度も叫んだ。心なしか風も暖かくなった気がした。
明日、彼女に会ったら真っ先に言葉で伝えよう。言えなかった僕の本当の気持ちを。
家に帰ってからも時間が経つのが異様に長く感じた。
――早く、早く明日になあれ!
*****
翌朝、窓のカーテンの隙間から漏れる光で僕は目覚めた。カーテンを開けて外を見ると、空はどんよりとした厚い雲で灰色に染まっていた。
僕は折りたたみ傘をカバンの中に入れ、いつも通りの時間に家を出た。そして、いつも通りの時間のバスに乗った。
今日は土曜日なので、授業は午前中だけだ。学校が終わったらすぐ病院へ向かおう、そう思いながらお母さんからのメールを待っていた。僕の心の中は、早く彼女に会いたいという気持ちだけでいっぱいで、他には何も見えず、何も聞こえなかった。
午前中の授業が終わる。何の授業だったか、全く記憶に残っていない。僕はすぐに携帯の画面を確認した。しかし、着信はまだ無かった。
僕はお母さんのメールを待った。
帰りのホームルームが終わった時だ、携帯のメール着信音が響いた。彼女のお母さんからだ。
やっと彼女に会える・・・僕は思わず気持ちが弾んだ。しかし、そのメールの内容は僕が待っていたものとは違った。
『ごめんさない。今日の面会は少し待って下さい。また連絡します』
どういうことだろう? 手術は終わったのではなかったのだろうか?
手術後の検査に時間がかかっているのだろうか。それとも何かの手続きか。真っ暗な不安感が僕を襲った。それは理由が分からない分だけ大きかった。
でも、僕はたとえ会えなくても彼女のそばに居たかった。
僕は病院方面行きのバスに飛び乗った。バスは二十分ほどで病院に着いた。けれど僕は病室には向かわなかった。もし検査中だとしたら、まだ彼女と会うことはできない。
それにお母さんから待ってくれと言われているので迷惑になるかもしれない。そう思い、僕は病院内の公園で連絡を待つことにした。連絡が来たらすぐに会えるように。
僕は公園の中にある木製のベンチにゆっくり腰かけた。
頭の上にポツリと何かが落ちた。手に取った。桜の花びらだった。
周りを見ると、公園内にあちらこちらに桜の木が植えられていた。ついちょっと前まで満開だったと思っていたが、気がつくと既にかなりの花が散っている。
――もう桜も終わりかな。
思い返すと、今年は落ち着いて桜を見ることもなかった。
そっと瞼を閉じた。僕の脳裏に彼女と出逢った時のことが映し出される。ほんの一か月前のことなのに、やけに懐かしく感じた。
――また海に行きたいな。それとも彼女はどこか別の所に行きたがるかな・・・。
そんなことをボーっと考えながら時間は過ぎていく。
一時間くらい経っただろうか。
ベンチでずっと動かなかったせいか、腰に痺れを感じた。
公園内に湿った空気が漂っていた。
ポツリと頭の上に何かが落ちた。
――また花びら?
違う。雨だ。そう言えば天気予報は午後から雨だった。
――やばい。どこかで雨宿りしないと。
そう思って立ち上がった時、ジャケットのポケットに入れていた携帯がコトンと音をたてて、ベンチの上に落ちた。
――あれ?
携帯のLEDが青白く点滅していた。メール着信に気がつかなかったようだ。
液晶画面に彼女のお母さんの名前が表示された。やっと検査が終わったみたいだ。
僕は嬉しい気持ちを抑えながらメールを開く。
しかし、そこに表示された、たった一行の文章に僕の意識は凍りついた。
『咲季だめでした。いろいろありがとう』
一瞬で頭の中が真っ白になった。
その言葉の意味を理解できなかった。
――何?
――だめって、何?
それ以上、考えたくなかった。
――まさか、彼女が・・・。
僕の頭の中に最悪の言葉が過る。
――いや、そんなことがあるはずがない。
その言葉を僕は懸命に打ち消した。
――嘘だ・・・嘘だ・・・嘘だ・・・。
僕の頭の中で同じ言葉が反芻される。
――確かめないと。
僕は急いで病棟へと走ったが、僕の足は病棟のエントランスの扉の前で動けなくなった。
自動扉が鈍い音をたててゆっくり開いた。
でも足が竦んで中へと入ることができない。
行けなかった。
行きたくなかった。
僕は認めない。認めたくない。
僕はそのまま病院を背にして駆け出した。
それからどれくらい時が経ったのか、どこをどう走ったのか全く覚えていない。
気がつくと、僕は自分の家の前にいた。
服がぐっしょりと雨で濡れていた。
どうやら雨が降ってたようだ。全く憶えていないが。
今、何時くらいなんだろうか? あたりを見ると真っ暗だった。
――もう夜になってたんだ・・・。
僕はろくな着替えもせず、そのままベッドに倒れ込んだ。
何も聞きたくなかった。何も知りたくたかった。
僕は虚ろなまま眠ってしまった。
時々ぼんやりと意識が戻った。
――夢? 夢だ・・・よね?・・・こんな夢、早く覚めてほしい・・・・。
おふくろの僕を呼ぶ声が聞こえる。何やら慌てた感じで僕の部屋に入ってきた。
「今連絡が来たんだけど、あんたのクラスの鈴鹿咲季さんって子が今日、病院で亡くなったそうよ。あんた、知ってる子?」
「・・・・・」
僕は心の中を無意識に閉ざしていた。
何も聞きたくなかった。
頭の中は真っ白のままだった。
――そうか・・・夢じゃないんだ。やっぱり彼女は・・・。
寝ている間の夢であって欲しかった。
現実を受け入れられないという言葉があるが、実感したのは初めてだった。
――人ってこんな簡単に死んじゃうんだな。
僕は心の中で失笑した。
彼女の手術は一度は成功したとの話だったが、翌日に容態が急変したそうだ。
医療ミスではないかとの疑いもあったようだが、そんなことは、もうどうでもよかった。どのみち、彼女はもういない。
覚悟はできていたはずだった。彼女のお母さんから病気の本当の話を聞いた時から。
いや、そんな覚悟、僕には全然できていなかった。
覚悟することから逃げていた。今になってやっとそれに気づいた。
彼女が死ぬはずないと、どこかで思っていたんだ。
でもなぜだろう? 涙は出なかった。
とても悲しいはずなのに、泣きたいはずなのに泣けなかった。
僕は本当に悲しいのだろうか?
なぜだろう? 不思議と悲しさを感じていないような気がした。
そう、悲しさではない。
それとは何か違うものが心の奥に沈んでいるのに気づいた。
――なんだろう? これは・・・悔しい?
そう、悔しいんだ、僕は悔しいんだ。
でも何が悔しいんだろう?
そうか・・・分かった。僕の心の中にある悔しさの正体が。
僕は彼女に自分の想いを伝えていなかった。
伝えることができなかった。
自分の気持ちを伝えるどころか、彼女に励ましの言葉さえ、かけることができなかったんだ。
――僕は馬鹿だ。なぜ彼女にもっと早く・・。
もう一度、もう一度だけでいい。会いたい。
会って僕の気持ちを言葉で伝えたい。
でも、もう遅かった。
もう僕の声は彼女には届かない。
いつの間にか夜は明けていた。
眠れたのか眠れなかったのか、よく分からない。
体が熱っぽい。雨で濡れて、そのまま寝てしまったせいだろうか。どうやら風邪をひいたようだ。
でもそんなことはどうでもよかった。このまま肺炎にでもかかって死んでもいいと本気で思った。
おふくろが僕を起こしに部屋に入ってくる。彼女の通夜についての連絡が学校から入ったようだ。
――ああ、お通夜・・・・そうか・・・。
僕は体調が悪いのを理由に葬儀には行かないことをおふくろに伝えた。おふくろもそれ以上は何も言わなかった。
彼女の通夜と告別式は地元の葬儀場で行われたようだが、結局どちらへも行かなかった。
体調が悪かっただけではない。行けなかった。
彼女の死を認めたくなかったから。
僕はしばらくベッドに寝込む日が続いた。
彼女の死が原因なのか、風邪が原因なのかは分からない。
あれから何日が過ぎたのだろうか。久しぶりに部屋の窓から外を眺めた。
曇っているせいだろうか。目に映るもの全てが灰色に見えた。
僕は来る日も来る日も何もする気が起きず、昼の間も自分のベッドで、ただ寝ながら過ごす日が続いた。
何も考えたくなかった。
少しでも何かを考えると、彼女を思い出しそうだったから。
だから僕は考えるのを止めた。
そういえば、彼女がいなくなってから、僕は悲しいと感じたことがなかった。
なぜ悲しくないのだろう。
僕の心が彼女は死んだということをまだ認めてないからか・・・。
だから悲しくないのだろうか。
いや、違う。僕の中に感情というものが無くなったんだ。
だから何も感じない。
悲しさも、苦しさも、楽しさも、嬉しさも、何も、何も感じない。
僕の心は真っ白だった。
もう感情なんていらない。
*****
彼女とこの世界で逢えなくなってからどれくらいの時が経ったのだろうか。
カーテンの隙間から横殴りの朝日が突き刺すように僕の顔を照らす。
その眩しい光は、また新しい日がやって来たということを嫌でも僕に知らせた。
――ああ・・・もう朝か・・・。
こんなことをもう何日も繰り返しているような気がする。
僕はベッドに横たわって、こんな風にただ時間が過ぎていくだけの日を重ねていた。
相変わらず何も考えず、何もしなかった。
今日は何曜日だろうか? まあ、どうでもいいことだった。
曜日感覚はとうに無くなっていた。
意識がもうろうとする中、僕は久しぶりにカーテンを開いて窓に手を掛けた。
――ああ・・暑い・・・。
窓の外はいつの間にか初夏の陽気になっていた。
雲ひとつなく、よく晴れていた。
でも、その景色に色を感じることはなかった。
モノクロームの景色・・・そんな歌があったっけ。こんな感じなんだと思った。
この世界に彼女はもういない、という実感はまだ無かった。
「雄喜! 起きてる?」
一階からの怒鳴るようなおふくろの声に僕の意識は現実へと戻り始める。
「ああ、起きてるよ」
僕がめんどくさそうな返事をすると同時に、ガラっと大きな音を立てて部屋のドアが開いた。
おふくろが顔を覗かせた。
「びっくりしたなぁ! 何だよ?」
「お客様よ。あんたに」
――お客様?
「誰?」
「鈴鹿さんのお母様ですって」
「え?」
まだ虚ろだった僕の意識は一瞬で張り詰めた氷のようになった。
――どうしよう。どうして彼女のお母さんがこの家に?
僕は彼女のお通夜にもお葬式にも行っていなかった。それどころか線香の一本すらあげに行っていない。
今の僕にはお母さんに合わせる顔がない。
――きっと怒ってるだろうな。でも会わないわけにはいかない。
とにかく謝ろう。そう思いながらタンスから着替えを取り出した。
僕は顔を洗ったあと、階段を下りて応接間へと向かった。
部屋に入ると、久しぶりに見るお母さんの姿があった。
病院で彼女に会った日以来だが、ちょっと痩せたように見える。
「あの・・」
僕が声を掛けたとたん、お母さんは僕を睨みつけた。
僕はその目を見て、何も言えなくなった。
――やっぱり怒ってる・・・当然だけど。
僕はお母さんの前にゆっくりと正座をした。
言葉が見つからなかった。
しばらくの間、重い沈黙が続いた。
思い立ったようにお母さんが口を開いた。
「突然にごめんなさい名倉君。久しぶりね」
「は・・・はい」
僕は聞こえるかどうかの小さい声しか出せなかった。
「随分冷たいじゃない。あの子のお通夜もお葬式にも来てくれないで。
今日、何の日か知ってる?」
「え?」
「咲季の最初の月命日よ」
――そうか、あれからもうひと月経ってたのか。
「・・・・・・ごめんなさい」
僕はようやく絞り出した声で謝った。
ほとんど声にならなかった。聞こえただろうか。
「ごめんなさい」
僕はもう一回、懸命に声を絞り出した。
自分が情けなかった。彼女に何もしてやれなかった。死んでしまう前も、死んでしまったあとも。
お母さんは下に俯いたまま泣いていた。
「ごめんなさい」
僕はもう一回謝った。
「フフ・・・・」
――え? 泣いているんじゃない。笑ってる?
僕を見ているお母さんは、涙を浮かべてはいるものの、その顔はなぜか笑っていた。
――どういう・・・こと?
「ごめんなさい。怒ってるんじゃないわ。いえ、あまりにもあなた達が羨ましくて、ちょっぴり意地悪したくなっちゃったの」
――あなた達?・・・羨ましい?
僕にはどの言葉も理解できなかった。
「今日はあなたに文句を言いに来たわけじゃないのよ。あなたにお礼をしようと思って来たの」
「お礼?・・・僕に?」
「咲季と一緒にいてくれてありがとう。私のわがままで病院にずっと通わせてしまって」
――違う!
僕は大きく首を横に振った
「いいえ。僕はお礼を言われるようなことは何もしてないです」
「え?」
「僕はお母さんから頼まれたから彼女に逢いに行っていたわけではないですから。僕が彼女に逢いたいから、彼女と一緒にいたかったから・・」
それを聞いたお母さんは優しく微笑んだ。
「そうね、ありがとう。そう言ってもらえるとあの子も・・・」
お母さんは俯いたままハンカチで目を抑えた。
「ごめんなさい。結局僕は彼女に何も・・・何もしてあげられなかった。それどころか励ます言葉すらかけてあげられなかった。本当に情けなくって・・・こんな情けない自分が嫌で嫌で・・・」
息が詰まりそうで声が出なくなった。何もできなかった悔しさがさらに込み上げてきた。
「名倉君、あなたは本当にあの子に何もしてやれなかったと思っているの?」
お母さんは不思議そうな顔で僕を見つめていた。
何が言いたいのだろうか? お母さんのその顔の意味が理解できなかった。
お母さんはゆっくりと手元の紅茶を少し口に含んだ。
「あなた達は本当に心が通じ合ってのね。だからさっき羨ましいって言ったの。あなたのおかげで咲季は幸せだったと思う。ありがとう」
僕はまた黙って首を横に振った。
そう、僕は何もできなかった。
何もしてやれなかった。
「あの子言ってたのよ。『もし私が死んだら彼は・・・』、あ、彼ってあなたのことね。
『もし私が死んだら、彼はショックでしばらく立ち直れなくなると思う。だからお葬式どころか、お線香もあげに来ないかもしれない。だけど許してあげてね。私が許すから』って。
私、何をこの子は自惚れてるのかしら、と思ったけど、本当にその通りなんだもの。フフ、びっくりしちゃった」
僕はただ苦笑いをするしかなかった。
そう、彼女は僕のことを誰よりも分かってくれていた。
「手術の前日の夜、あなたに来てもらって本当によかった。あの時は突然呼び出してしまってごめんなさいね」
「いえ・・・全然、そんなこと・・・」
「あの夜、あなたが咲季とどんな話をしてくれたかは知らないし、訊こうとも思わない。その日記に何が書かれているかということも。それはあなた達二人だけのものだから。でも、これだけは言いたかったの。名倉君、本当にありがとう。咲季と一緒にいてくれて」
僕は何かを言わなければならないと思ったが、何も声が出なかった。
「あなたに来てもらった日の次の日・・・手術の日ね、手術室に入る前に咲季と少しだけ話すことができたの。それがあの子との最期の会話になってしまったけど・・・」
「え?」
「その時の咲季は前の日の夜とは全く違ってたわ。とっても明るくて、毅然としていて、咲季らしい咲季だった」
――咲季らしい咲季か。そう、いつも咲季は明るく、そして毅然としていた。
「あの子、『名倉くんに逢わせてくれてありがとう』って言ったわ。そして最後に『お母さん、行って来ます』って笑顔で一言だけ・・・きっとあの子は本当に・・」
お母さんの言葉が涙で詰まった。
「名倉君、あなたは私たち親では与えてやれなかったものをあの子に与えてくれたんだと思う。本当にありがとう」
「いえ・・・結局僕は彼女には何も・・・何もしてあげられなかった・・・」
――本当にごめんね。咲季・・・。
僕は心の中で呟いた。
「僕、今でも思うんです。彼女はこんな僕といて本当に楽しかったのかなって。僕は彼女に憧れてました。彼女はいつも元気で、明るくて、積極的で、とっても眩しかった。僕は大人しくて、暗くて、つまらない人間だったから、彼女みたいになれたらいいなっていつも思ってました」
お母さんは彼女にそっくりな眩しい笑顔で僕を顔を見ていた。
そしてゆっくり、そして大きく首を横に振った。
「違うわ。あの子があなたのことを好きになったのは、きっと自分に似ていたからだと思う。あなたを見ているとそれがよく分かるわ」
「彼女と・・・僕が?」
僕は大きく首を振った。
「ハハハ、それはないです。全く正反対ですから。彼女はいつも明るくて、とても積極的で。僕は臆病で、暗くて、人見知りで・・・」
今度はお母さんが大きく首を横に振った。そして笑いながら僕を見つめた。
「あの子はね・・・中学の時まではすごい内気で、気が弱くて、引っ込み思案で、それは大変だったのよ」
「え?」
そう。確かにそれは前に彼女本人から聞いたことがある。
冗談かと思っていたけど、本当のことだったんだ。
「あの子は小さい時から病院の入退院を繰り返していたから、学校でもなかなか友達ができなかった。中学に上がった時は少しクラスにお友達ができたんだけど、中学二年の時に大きな手術をしてね。一年の内、ほとんどが入院生活だったからその年は進級できなかったの。だからせっかくできたクラスの友達とも離れ離れになってしまって。それも大きかったかな。ますます引っ込み思案になっちゃってね」
僕は頭を棒で殴られたようなショックを受けた。
――病気が理由だったんだ・・・進級できなかったのは。
彼女がグレていただなんていう噂を信じていた自分を攻めた。そして彼女が言っていた『病気になったから僕に出逢えた』という言葉の意味を理解をした。
――僕はやっぱり大馬鹿野郎だ。何もわかっちゃいなかった。
その後もお母さんから彼女の中学時代の話を聞いた。
退院後は一コ下の学校の友達とはあまり馴染めなかったこと。そしてしばらく学校に行けなくなってしまった時期があったこと。
「でもね、ある日、あの子のクラスのお友達がある高校の学校見学会に誘ってくれたの。そこで見た高校生たちや制服、学校のキャンパスがとても眩しく見えたらしくて、その日に『ここを受験をしたい!』って言い出したのね。それが今の高校。その時のあの子の成績からしたらかなり難しいって言われてたんだけど・・・。受かったのは奇跡的だったのよ。わが娘ながらあの集中力のすごさには驚かされたわ。見学に誘ってくれたあの子の親友も一所懸命に勉強を教えてくれて、本当に感謝してる。咲季の受験番号を合格掲示板で見つけた時はその子と三人で抱き合って泣いたの」
「その話は彼女から聞いたことあります。全然勉強できなかったんだけど奇跡的に受かったって確かに言ってました」
成績が悪かったのは、遊んでいたからだと思っていた。
自分が恥ずかしかった。
病気で入院ばかりしていたというのに、どれだけの努力をしたのだろうか。
「それで高校に入ってからは、あの子全然性格が変わってね。いや変えたのかな。とっても積極的になって、友達もたくさん作って」
「ええ。いつも明るくて、男子にも人気あったみたいです。僕は隣のクラスだったけど、彼女のことは知ってましたから」
「あの子、高校に入ってから何人かの男の子と付き合ったみたいなんだけど・・」
お母さんはハッとしたように慌てて声を止めた。
「あ、ごめんなさい、私ったら。こんな話、嫌だったよね?」
「いえ、知ってますから全然大丈夫です。彼女、男子からもすごく人気あったし・・」
「よかった。でもね、あの子、結局どの男の子とも長続きしなかったのね。みんないい人なんだけど、どうも好きという気持ちになれないって言ってね。
そんな時あの子、私に訊いてきたの。『人を好きになるってどういうことかな?』って。
その時に私言ったの。『一緒にいて自然でいれる人。本当の自分を出せる人。そういう人じゃない』って。
そしてある日、あの子が『隣のクラスに面白い男の子がいるんだ』って話してくれたの。
そんなこと言うのはとってもめずらしいことだったのよ。『どんな人?』って訊いたら『いっつも謝ってばかりいる優しそうな人・・・』って言ってね。
名倉君が最初に家に来てくれた時、あなたがその人だってすぐに分かったわ。思わず笑っちゃったわよ。あの時はごめんなさいね」
そしてお母さんはカバンの中からひとつの包みを取り出した。
「あともうひとつ、あなたに渡さなければならないものがあるの」
――え、なに?
「最期の日に咲季から頼まれたの。もしもの時はこれをあなたに渡して欲しいって」
「僕に・・・?」
僕は驚きながらお母さんから差し出された包みを両手で受け取った。
紙の袋に包まれていたが、形と重さの感触から本のようなものだと分かった。
「ごめんなさい。本当はもっと早くあなたに渡さなければいけなかったのだけれど、私も気持ちの整理がつくまで時間がかかってしまって・・・」
僕はその包みをゆっくりと開いた。
――やっぱり本?・・・。
いや違う。でもどこかで見覚えがある表紙だ。
『D.I.A.R.Y』と書かれている。・・・・日記帳?
そうだ。思い出した。
これはあの時、彼女と初めてデートした日に彼女が買った日記帳だ。
――これを僕に?・・・。
声は出なかった。
驚いているのか、嬉しいのか、悲しいのか、僕自身が分からなかった。
「名倉君?」
お母さんの声で僕は我に返った。
「あの・・・ここで読んでいいですか?」
僕がそう尋ねると、お母さんはゆっくりと首を横に振った。
「あなた一人になってから読んでくれる? 中は私も見てないわ。それは咲季とあなたたち二人だけのものだから」
僕は黙ったまま頷いた。
「名倉君。あなた、さっき咲季に何もしてあげられなかったって言ってたわね」
「は・・・はい」
「その答えは、きっとこの日記に書いてあると思う・・・」
僕はお母さんを帰り道の途中まで送った。
「もうここでいいわ。ありがとう」
「今日は・・・ありがとうございました」
「今度またうちにも来てよね。ハーブティご馳走するから」
「はい」
「名倉君、じゃあね」
小さく手を振るお母さんの笑顔に彼女の面影がダブった。
『じゃあね』・・・。
彼女のいつもの別れの挨拶だった。
僕はお母さんが歩いていく方向から思わず目を逸らした。
これ以上お母さんを見続けると、込み上げてくる感情を抑える自信が無かったから。
お母さんを見送ったあと、僕はそのまま歩き出した。日記帳を抱いたまま。
こんな風に外を歩くのは何日ぶりだろうか。すれ違う人はみんな半袖の服を着ていた。
いつの間にか、あたりはすっかり初夏の陽気になっていた。
どこをどう歩いて来たのか全然憶えていない。
気がつくと、僕は学校の門の前に立っていた。
僕は何でこんなところにいるんだと心の中で苦笑した。
校内は生徒の姿は疎らで閑散としていた。
――そうか。今日は日曜日だった。
ウチの高校は日曜でも部活動は行っているため、校門は開放されていた。
僕はそのまま校門をくぐって中に入った。
野球部員が輪に広がって柔軟体操をしている。
僕は邪魔にならないように、その脇を通り校舎の中へ入った。顔を知っている生徒は誰もいなかった。
静まり返った階段を最上階まで登り、そして屋上への扉を開く。屋上に出ると、妙に懐かしい匂いがした。
僕はそのままペントハウスの脇の階段を昇り、給水塔に上がった。もちろんそこには誰もいない。
すっかり夏の陽気になった暖かい風が僕を迎えてくれた。
僕はいつもの場所に腰を落とした。サッカー部の掛け声が聞こえる。
最後にここに来てからまだひと月も経っていないのに妙に懐かしい。
ここで彼女と初めて話をしたんだ。今にも彼女の声が聞こえてくるような、そんな感じがした。
もうここで彼女と話すことはできない、そんなこと分かっているのに・・・。
一瞬、彼女の笑顔が見えた。もちろん気のせいだ。
僕は袋に入った日記帳を取り出し、そのまま膝の上に置いた。
そしてその日記帳を両手で掴み、ただそれを見つめていた。中を開いて見るのが怖かった。
――彼女は僕に何を残してくれたんだろう。
結局、僕は彼女に何も言えず、何もしてあげることができなかった。
悔しさが再び僕の心の中から込み上げてくる。
僕は大きく深呼吸をしたあと、左手を表紙に掛け、中を開く。悲しみ、期待、後悔・・・いろいろな気持ちが交錯した。
その彼女の筆跡は、丁寧でしっかりとしていたが、時々字が崩れていた。
痛みがあったのだろうか。もしくは力が入らなかったのか。とても懸命に書かれたものであることが嫌でも分かるものだった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
真面目くん・・・
じゃなくて雄喜へ
明日、急に手術をすることになりました
手術は子供の時から何回もやってるんだけど
今回のはかなり難しいらしい
お母さんたちは大丈夫って言ってたけど
お医者さんとの話を聞いちゃったんだ
私の心臓、思ったよりかなり悪いみたい
でも私、がんばるからね
前に好きな男の子と交換日記をしたかったって私言ったよね
だから私の人生初めての交換日記の相手に君を指名します
光栄に思いなさい
(なんか偉そうだね、私)
この交換日記は、まず私から書きます
雄喜には伝えたいことがいっぱいあるんだ
この日記に私の雄喜への想いを託します
本当の私と私の気持ちを雄喜に知って欲しいから
短い間だったけど
雄喜と過ごした一日一日はとっても楽しかった
有難う
(わあ、なんか遺書みたいになっちゃったね。これ交換日記だからね)
そうだ。今年から君とはクラスメートだね
あらためてよろしくね
クラス対抗の体育祭や文化祭、一緒に盛り上がろうね
修学旅行も楽しみだな
あっ、そうだ。二人で抜け出す計画、忘れないでね
そう言えば、私たちってこうして話すようになってから
まだひと月ちょっとだから
まだまだお互いのこと知らないことだらけだよね
だから、まずは私のことから書くね
私はB型の牡羊座です
あっこれはもう知ってたよね
好きな色は青
好きな食べ物はカレーライスとお寿司
苦手な食べ物は梅干しかな
趣味は映画とかよく観るよ
ジャンルはなんでも
特技と言えるものはあまり無いんだけど
強いて言えばピアノかな
四歳の時からやってるよ
これ知らなかったでしょ
いつか雄喜に聴かせたいな
苦手なものは虫
蝶とかでも顔が怖くて駄目かな
スポーツは・・・
心臓が悪かったのであまりやってないです
思いっきり走れたら気持ちいいんだろうな
勉強もあまり得意ではなかったけど
ここ一番での集中力はあったのかな・・
とか思ったりしてる
雄喜のことももっといっぱい知りたいな
私は生まれつき心臓が悪くて
学校にも行けない日が多かったから
子供のころから人見知りがすごかったんだよ
お友達と話すのがとっても怖くて
人の顔はいつもまともに見られなかった
君は私のことを羨ましいって言ってたよね
人見知りをせず、誰とでも友達になれるとか
人の気持ちを読むのがすごいとか
本当の私はすごく内気で気が弱い女の子なんだよ
だから君の気持ちがすごくわかったんだ
雄喜の気持ちだからわかったんだよ
私も同じだったから
だから、あの日もすっごい勇気いったんだよ
あの日っていつだって?
あの日だよ
最初に雄喜と話をした日
(2月29日だよ)
学校の屋上にいた君に私が声を掛けたんだよね
実はね、雄喜のこと、ずっと前から知ってたんだ
顔も名前も
私が君をいつから見ていたか分かる?
分かるわけないよね 教えてあげる
道路沿いのイチョウの葉が綺麗に色づいてたから
秋になったばかりの頃だったと思う
よく晴れてたけど、ちょっと肌寒い日の朝だったかな
学校に行く途中にある大通りで
お婆さんが信号の無い横断歩道を渡れないで困ってたの
学校とは反対方向だったけど
私、渡るのを手伝おうと思って
お婆さんのところに行こうとしたんだ
そしたら、男の子が突然前に出てきて
何も言わず、そのお婆さんの前に立って車を止めたの
そして黙ってそのまま横断歩道を渡り始めたんだよね
その男の子さ
お婆さんには声も掛けず、ずっと文庫本を読みながら
何も言わず、ただ黙々と道路を渡ってるの
でも、ゆっくり、ゆっくり歩いてた
まるでお婆さんの歩調に合わせるように
道路を渡り終わったあと
お婆さんはその男の子にお礼を言おうとしてたけど
その男の子はお婆さんの顔も見ずに
無愛想にそのまま行っちゃったんだ
もう分かったよね?
そう、これ君だよ
愛想の無い男の子だなあって一瞬は思ったんだけど
あれは君の照れ隠しだったんだよね
不器用で目立つことが嫌いな君らしかったよ
ちなみにそのお婆さん、君のほうに向かってずっとお辞儀してたよ
(君、見てなかったと思うから言っとく)
きっとすごく優しい人なんだなあって、その時思ったんだ
それからはそんな君のことが気になってずっと見てたんだよ
ずっとね…
まあ、鈍感な君のことだからどうせ気づいてなかったよね
君は誰にでも、いつも真面目で
いつも一生懸命で、でもとっても不器用で
そしていつも謝ってばかりいたね
屋上で最初に声を掛けた時さ
君のボーっとした顔を見た時に思ったよ
この人、ぜんっぜん私に気づいてなかったなあって(笑)
そんな冷たい君だったけど
お友達になりたいなって私はずっと思ってたんだよ
いつも昼休みに屋上にいて
ひとりで本を読んでるってことも知ってたよ
だけど、さっき書いたように私から声を掛ける勇気が無かったんだ
で、私は決めたの
君との出逢いを運命に委ねてみようって
うるう日というのは昔ヨーロッパで
女性から男性に求婚する日だったというのを前に言ったことあるよね
だから私は2月29日の昼休みに君に声を掛けようって決めたんだ
「人はなぜ死ぬの?」
なあんて変な話題で話し掛けたんだよね
でも雄喜はそんな私の変な質問に真剣に
そしてとっても丁寧に答えてくれたよね
雄喜は私の思った通りの優しい人だったよ
一緒に授業を抜け出して海に行ったよね
あの日、実は私もう入院してたんだ
急に入院が決まっちゃったもんだから君にお別れも言えなかった
でも、どうしても君に逢いたくて一日だけ外出許可もらったんだ
もしかして屋上に行けば雄喜に会えるかなって期待して行ったら
本当に君、いるじゃん?
もう奇跡! やっぱ運命? 漫画?
とか思って涙が出るくらい嬉しかった
そのあと無理やり外に連れ出しちゃったんだよね
でも電車に乗る直前、雄喜に迷惑がかかるなって考えてたら
やっぱりやめようって思ったんだ
だけど雄喜が私の手を引っ張ってくれて
一緒に電車に乗ってくれた時すっごく嬉しかったよ
ルール破りが嫌いな雄喜が私のために一緒に学校をサボってくれた
あの日、二人で海へ行ったことは私の一生の想い出になったよ
君と一緒に過ごすようになってからたったひと月しかたってないのに
ずっと昔から一緒だったような気がする
すごく、すごく、不思議な気持ち
そして今日は私達にとって大切な日になったよね
こんな夜に病院まで来てくれて本当にありがとう
突然で、すごくびっくりしたけど本当に嬉しかったよ
君の前では不安な顔を見せないようにがんばってたんだけどさ
君があんな優しいこと言ってくれるから
懸命に固めてた心が一瞬で崩れちゃって
思いっきり弱音ぶつけちゃったよ
でも、そんな弱気になった私を雄喜は全身で受け止めてくれた
不安と悲しみでいっぱいの私を君はギュっと抱きしめてくれたよね
ちょっと苦しかったけど、とても気持ちよかったな
頭がまーっ白になって、ふかふわと空を飛んでる感じがしたよ
そうだ。雄喜さ、私にハグしてくれてた時、もしかして
「死じゃやだ! 好きだ!」
って心の中で言ってくれてなかった? 何回も何回も
私には聞こえたよ
雄喜の心の声がはっきりと聞こえたよ
その時、私も
「ありがとう」
って心の中で答えたんだけど聞こえたかな?
雄喜がこんなにも私のことを想ってくれてるんだって思ったの
そしたら私、この時から何も怖くなくなったんだ
とっても不思議なんだけど、本当だよ
私思うの。私達が出逢えたのはやっぱり“運命”だったんだよ
私、中学二年生を二回やったって言ったよね
実は病気で長く入院してたからなんだ
でも、そのおかげて雄喜と同級生になれたんだよね。
そして今年からはクラスメートだなんて
これってやっぱり“運命”って思わない?
きっと神様が私を病気にしてしまったお詫びに
君に引き合わせてくれたんだと思う
だから私は病気を持って生まれてきたこと、全然恨んでないよ
でも、そうだな・・・
あとひとつだけお願いを聞いてもらえるとしたら
もう少しだけでいいから雄喜と一緒の時を過ごしたいな
前に言ったことあるけど
私は高校に入ってから自分を変えたんだよね
友達をたくさん作りたくて
友達に嫌われるのが怖くて嘘もついた
一生懸命にずっと別の自分を作ってた
無理して笑ったりもした
私も君と同じでとっても不器用だったから大変だったな
でも雄喜と一緒いる時は違ったんだ
心から笑えた
いつも自然の私でいられた
不思議だったよ
誰といる時よりも本当の私になれたんだ
どうしてだろうね
私と雄喜はとても似ているから・・・かもしれない
私は別の自分を作っていたけど
雄喜はやっぱり今のままの雄喜でいいと私は思う
君は、自分は変わりたいって言ってたけど
無理に変わる必要なんてないんだよ
今のままの雄喜でいいんだよ
そういえば前に命のバトンリレーの話をしてくれたよね
君と一緒に命のバトンリレーできたらよかったのにな
私、病気を持って生まれてきたでしょ
私なんか生まれてきた意味があったのかな、なんて思ってた
でも、君に出逢えて変わった
私、生まれてきてよかった
私、君みたいに頭良くないから、うまく言えないんだけど
君に逢えて本当によかった
雄喜が言ったよね
人は人を好きになるために
生まれてきたんだって
今その言葉の意味がすごく分かるよ
実は今日、君に言おうとしたんだけど
言えなかったことがあるの
今度逢う時に必ず言おうって思ってたんだけど
もしかしたら
もう逢うことができないかもしれないね
だから、やっぱりここに書いちゃうね
雄喜
好きだよ
大好きだよ
ずっと 大好きだよ
これは私の心のバトンです
命のバトンの代わりに
私の気持ち、しっかり受け取ってね
人を好きになるって
すごく気持ちのいいことだったんだね
ありがとう雄喜
私は今、とってもとっても幸せな気持ちなんだ
本当だよ
だから雄喜も本当に幸せになってほしい
これから恋人を作って
結婚して、子供を作って
幸せいっぱいの家庭を作ってね
私の分まで
あ、君もちゃんと返事を書いてよ
でも、もしかしたら雄喜の返事は読めないかもしれない
もしそうなったら、ごめんね
その時はこの日記は君が持っていて下さい
そうだ
いつだったか、雄喜らしい雄喜ってどういうことか
きいてきたことあったよね
それ、教えてあげる
君はとっても内気で気が弱くて
とっても不器用な人見知り
でも いつも一生懸命で 誰にでも優しくて
そんな雄喜が私は好き
そんな私が大好きな
とても優しい雄喜のままでいてね
いつまでも いつまでも
そして、こんな私のことを
君のことを好きだったこんな私のことを
君の心の片隅に・・・
ほんの片隅でいいから
置いといてくれると嬉しいな
じゃあね
咲 季
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
その日記を読み終えた時、僕は、彼女はもういないんだ、ということをようやく心で理解した。
そして、急に目がかすんで何も見えなくなる。
涙が・・・彼女がいなくなってから初めて涙が流れた。
――そうか・・・彼女は、やっぱり死んだんだ・・・。
心の奥に押し固めていた感情が溶け始めた。
一度流れ出した涙は・・・もう止まらなかった。
「何だよ、交換日記って。交換日記だったら君が・・・咲季がもう一回受け取れなかったら意味が無いじゃないか。自分だけ言いたいこと言って・・・」
さらに視界が歪んでかすれていった。
「僕だって・・・僕だって君に伝えたかったこと、いっぱい、いっぱいあったのに。何でいつも勝手なんだよ。本当に君は最期まで・・・」
もう何も抑えらなかった。
僕の中にある想い全てが、涙となり、声となって吐き出された。
そして心の中は空っぽになった。
空を見上げた。
今までモノクロにしか見えなかった空が青く見えた。
とても・・・とても青かった。
色の付いた景色を僕は久しぶりに見たような気がする。雲ひとつ無い真っ青な空だった。
――あれ? この真っ青な空、どこかで・・・。
そうだ、彼女と行った海で見た空だ。
最初で最後になった一度きりの二人での遠出の思い出だ。
彼女の眩しい笑顔が目に浮かんだ。
すると、空っぽになっていた心の奥底に、小さな嬉しさが込み上げてきた。
「届いてた・・・彼女に・・・」
僕の心の中に沈んでいた、ある気持ちがゆっくりと溶かされていくのが分かった。
それは、自分の気持ちを伝えられなかったという悔しい気持ちだった。
「届いてた。僕の気持ちが・・僕の声が・・・届いてた」
彼女はあの日の夜にこれを書いてくれた。もう最期になるかもしれないということを覚悟しながら。
「ありがとう、咲季」
そう呟いて僕はペンを取った。そして、そのまま彼女の書いた最後のページの隣にペンを置いた。
今書けば、今書けば彼女に届く・・・そんな気がした。僕はペンを走らせた。
――届け・・・彼女に。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
咲季、ありがとう
一度も言葉に出して言えなくてごめんね
僕は咲季が好きだ
人を好きになるすばらしさを教えたのは
僕じゃないよ
咲季が僕に教えてくれたんだ
ありがとう
僕は咲季が好きだ
人を好きになるすばらしさを教えたのは僕じゃないよ
咲季が僕に教えてくれたんだ
今度は僕のことを書くよ
そう、これ交換日記だもんね
僕は分析大好きなAB型
これは知ってたね
趣味は読書
これも知ってたか
好きな色は青
これは同じだ
好きな食べ物はカレーライスで
苦手な食べ物は梅干し
笑っちゃうな、これも同じだよ
性格はメチャ内気の人見知り
実はこれも一緒だったんだなんて
びっくりしたよ
今年は咲季とクラスメートだね
もし君が隣の席に来たら、それはうるさそうだ
でも、きっと楽しいだろうな
学校に行くのも、毎日楽しくなるよ
僕も咲季と出逢えてよかった
心からそう思ってる
運命の神様に感謝してる
本当だよ
僕は咲季のどこが好きになったかすぐ言えるよ
僕は君の何よりも眩しい笑顔が大好きだった
でもその笑顔は君の生きていたいという希望だったんだね
命のバトンリレー
僕も君と一緒にしたかった
咲季を好きになって、本当によかった
君にはどんなに感謝してもしきれない
咲季
好きだ
大好きだ
ずっと 大好きだ
・・・・・・・・・・・・・・
もう・・・これ以上書けなかった。
再び視界が大きくかすんで何も見えなくなってしまったから。
*****
「ねえ、どうして人は人を好きになるのかな?」
彼女の声が聞こえた。
とても短い時間だったが、咲季と過ごした日々の思い出がどんどん湧き上がる。
もしかしたら、僕は彼女に最初に出逢った時に、彼女を好きになっていたのかもしれない。
誰よりも輝いていた、あの眩しい笑顔に。
そうだ。僕は彼女に出逢ってから、ずっと彼女のことを想っていたような気がする。
僕の心の中にはいつも咲季がいた。
そして、今でも彼女は僕の心の中にいる。
彼女は僕の中で、生きているんだ。
僕は前を見ながら生きることに決めた。
咲季という女の子を好きになった自分を誇りに思いながら、彼女が好きになってくれた僕を誇りに思えるようになるために。
でも、今すぐ自分を誇りに思うのは、まだ難しそうだ。
だから将来、自分を誇りに思える自分にきっとなるよ。
――ありがとう、咲季。
心の中でそう呟いた時だ。僕の心の中でまた何かが崩れた。
そして、また視界が大きく霞み始めた。
決意とは裏腹に涙が滲む。
もう一度、もう一度だけでいい。君に逢いたい。君の笑顔がもう一度見たい・・。
僕は心の中で叫んだ。
そんな願い叶うはずがなかった。そんなこと、分かっていた。
でも僕は叫んだ。何度も、何度も。
叫ばずにはいられなかった。
携帯のメール受信の振動が響いた。咲季のお母さんからだ。
突然のことに僕は少しびっくりしながらそのメールの開いた。
「ごめんさない。名倉君に渡し忘れたものがもうひとつありました。大切にして下さい」
そのメールには、ひとつの画像ファイルの添付されていた。
――渡し忘れたものって? 画像ファイル?・・写真?
僕はその添付ファイルをクリックした。
それを開いた瞬間、僕の目から涙がこぼれ出した。
そこには澄み切った真っ青な空と大きな青い海が映っていた。
そして見慣れない笑顔の僕、そのすぐ隣に彼女の眩しい笑顔があった。
「咲季・・・」
それは最後に二人で海に行った時、学生のカップルに撮ってもらった写真だった。
最初で最後に一緒に撮った、たった一枚の写真だ。
僕はその画面をそのまま抱きしめた。
――咲季。今日だけ、今日だけ思いっきり泣いてもいいかな? これを最後にするから・・・。
そう心の中で呟き、僕は泣いた。
思いっきり泣いた。
――もう、これが最後だから・・・最後にするから・・・。
もう一度心の中で叫んだ
*****
彼女と逢うことができなくなってから初めての春が訪れた。
今年も、さらに平年より桜の開花が早くなったようだ。
でも、暖かく心地よい風の香りは一年前と変わらない。
だからこそ、この春の風は彼女のことを強く思い出させた。
懐かしく、悲しく、とても短かったけど、とても楽しかった彼女と一緒に過ごした時を。
その変わらない春の香りは、まるで彼女が僕を包み込んでくれている、そんな気持ちにさせてくれた。
君は、僕が僕らしくあればいいと言ってくれた。今のまま、無理に変わらないでもいいと言ってくれた。
でも僕はもう少し変われるようにがんばってみようと思う。
そう。僕は君のようになりたい。
あの日、君は、君らしいってどういうことなのかって訊いてきたよね。
僕は思うんだ。
本当は君はとても内気で人見知り、臆病で気が弱い女の子だった。
でも、君はそんな弱い自分に正面から立ち向かい、明るく、積極的になろうと懸命に頑張っていたんだよね。
病気の恐怖と戦いながら、心は不安でいっぱいだったろうに、まわりの人には決して辛い顔を見せず、いつも明るい笑顔を貫いていた。
その強さが君らしさだ。
その明るさが君らしさだ。
そう。君はいつも明るく、眩しく、そして誰よりも輝いてた。
それは君が懸命に頑張って演じていたもう一人の咲季。
でも、それも咲季なんだ。
いや、それが本当の君らしい君なんだ。
その頑張りこそが君の笑顔を輝かせていた。
僕はそんな君を好きになったんだ。
いつも懸命に頑張っていた咲季が好きだった。
そんな君のように、僕はなりたい。
咲季のように強くなりたい。
そうなれるようがんばってみるよ。
それが僕が生きている証。
そしてそれは、君が生きていた証。
どこまでできるか分からない。だけど、僕が僕らしくできることを精一杯やってみるよ。
それが、君が僕に渡してくれた心のバトンだと思うから。
だから、それを空の上から静かに見守っててね。
今日は大学に入学してからの最初に日、新入生オリエンテーションだ。
この四月から僕もついに大学生になった。
キャンパス内の大きな階段教室には溢れんばかりの新入生が集まって大学の授業の説明会が開かれていた。
ざわついた教室内では、もう何人かのグループがラインの交換など積極的に仲間作りを始めている。
僕はというと消極的性格はなかなか変わっておらず、ちょっと尻込みをしながら、一人で教室の隅のほうに座っていた。
『ほらぁ! 壁は自分から壊せるんだよ!』
ああ、また彼女の恫喝するような声が頭に響く。
――分かったよ。いつもいつもうるさいな。
“自分は変わる”・・・だなんて彼女に決意をしたせいだろうか。
僕が消極的になると必ずと言っていいほど僕の心の中に彼女は現れた。
――たまには空の上から黙って見守っててよ。
『ありのままの君で行けばいいんだよ!』
――だから分かってるって!
僕はそのままひとつのグループの輪の中に入り、ペコリと頭を下げ自己紹介をした。
僕はありのままの自分で喋った。
気取ることなんてしなかった。
ワザと明るく振る舞うこともしなかった。
とてもぎこちない、下手くそな挨拶だったと思う。
「よろしく、名倉君!」
みんなは僕を暖かく迎えてくれた。
今も、彼女は紛れもなく僕の中で生きていた。
『ねえ、どうして人は人を好きになるのかな?』
ああ、また彼女の声が聞こえる。
そして、僕はいつものように空に向かって答えるんだ。
「人を好きになるのに理由なんかないよ。人は人を好きになるために生まれてきたんだから」