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2月29日からの交換日記  作者: 香村雪
1/2

どうして人は人を好きになるんだろう

 

「ねえ、どうして人は死ぬのかな?」


 小春日和の暖かい日の昼休み、なんとも物騒な女の子の友達同士の会話が僕の頭の後方から聞こえてきた。


 長い冬が終わる気配を感じ始めた高校二年の二月の末日、僕は学校の屋上にある給水塔の脇でいつものように文庫本を読んでいた。


 女子にしては重いテーマの話題だなと思いながら、僕は心の中で思わず笑ってしまった。


 昼休みの学校の屋上はいつも生徒で賑わっている。

 でも、僕が今いるこの給水塔は屋上にあるペントハウスのさらに上にあるため、ここまで昇ってくる生徒は少ないのでいつも静かだ。


 だからここは僕のお気に入りの場所だった。


 今日はめずらしく女子数人のグループがいて、いつもよりちょっと賑やかだ。まあ僕専用の場所というわけではないので仕方ないことだ。


「どうして人は生まれてきたのかな?」


 女の子同士の奇特な会話はまだは続いているようだ。


 そんなテーマで話が盛り上がるのだろうか? 高校生には少し奥が深すぎるだろう。

 そんなことを心の中で呟きながら、僕は静かに本を読み続けていた。


 まだ二月だというのに暖かい日が多くなった気がする。地球温暖化の影響だろうか。


 


 僕は昼休みはいつもここで一人で本を読みながらのんびり過ごす。


 昼休みの教室というのは、どこかのグループの輪に入っていないと孤立感があからさまになる。


 他のみんなは一緒に弁当を食べたり、スマホゲーム、外ではサッカー、キャッチボールをしたりしているが、僕はその輪には加わらず教室の外へ出ることが多かった。


 僕は決して友達と一緒にいることが嫌いなわけではない。ただ、まわりの人に合わせるということが得意ではなかった。


 


 僕は人と話す時、いつも身構えてしまうのだ。友達のグループの会話の波にうまく乗れない。

 いつ、どのタイミングで自分が会話に入っていいのかが掴めない。ちょうど集団で縄跳びをしていて、その中になかなか飛び込めない、という感じだろうか。

 今だ、今だ・・・と思いながら縄の輪の中に入れない。

 


 僕はみんなから“真面目”な大人しい生徒と言われる。

 でも“真面目”なんて言葉は褒め言葉ではないということは重々承知していた。


 

「あのさあ、聞いてる?」


 ――え?


 さっきよりちょっと大きくなった声のトーンに僕は振り向いた。

 そこにはボブの黒髪を風に靡かせながら、一人の女子生徒がこちらを向いて立っていた。


 ――あれ? ひとり? 一緒の友達は?


 さっきまでいた数人の女子生徒はいつの間にか、いなくなっていた。

 まわりを見渡したところ、少なくとも視界に映る範囲には僕とその女子生徒しかいない。


 ――え、もしかして僕?


 そう言いたげに、僕は指を自分の顔に向けた。その女子生徒はクスッと笑いながら、小さく一回だけ頷いた。


 ――あれ? 誰・・・だっけ?


 飛び抜けた美少女というわけではなかった。けれど、短めの素直な黒髪と笑顔が可愛らしい子だ。知っている顔だった。でも名前が出て来ない。


 元々、僕は人の顔と名前を憶えるのが苦手だ。

 僕の高校は学年によりネクタイとリボンの色が分けられている。今年は一年生が青、二年生は緑、三年生は赤になっていた。

 その女子生徒のリボンは緑色なので、僕と同じ二年生であることはすぐに分かった。


 ――思い出した。確かA組のすずか・・・そう、鈴鹿咲季(すずかさき)だ。


 明るく、快活なイメージが強い女の子で、眩しい笑顔がとても印象的だった。


 彼女とはクラスは別だし、部活も一緒ではない。特に共通の友達もいない。でも名前を知っているのには理由があった。


 僕の学校の芸術の授業は『音楽、書道、美術』の三科目からの選択性になっており、クラス別で選択科目が分かれている。

 クラスの中でも選択科目が異なる生徒がおり、芸術の時間は選択科目別に授業を受けることになっている。

 B組で美術を選択している僕はA組の美術を選択している生徒と合同で授業を受けている。彼女とはその時間だけのクラスメートだった。


 彼女はクラスの中でも賑やかで活発なグループに属していて、その中でもけっこう目立っている存在だった。だから人の顔を覚える僕でも記憶に残っているのだろう。



「人ってさ、必ず死ぬんだよね」


 なんという質問だ。こういうのを突拍子もない、と表現するのだろうか。しかもなんで僕に訊いてくるんだ?


 僕の学校は男女共学だったが、僕はクラスで女の子とまともに会話することがほとんど無かった。いや、できない・・・といったほうが正しいだろう。



 断っておくが、別に女の子が嫌いなわけではない。僕は元々他人との会話能力に乏しい。

 どのように乏しいかと言うと、いわゆる言葉のキャッチボールが酷く下手なのだ。

 僕は人から話しかけられたことについて、“まとも”な言葉でしか返せない。たとえ冗談で話しかけられても“真面目”な答しか返せない融通の利かない人間だった。


 ジョークに対してすぐジョークで返せる人を見ているといつも感心する。頭の回転の鈍い僕にはできない芸当だ。

 女の子に対しては、それがさらに顕著になる。


 案の定、彼女の問いかけに対し、僕は何も答えることができなかった。そもそも質問の意図が理解できていない。



「あのさ、私はいつまでこの独り言みたいの続けなきゃいけないの?」


 彼女は口調が少し怒った感じになった。ちょっと険悪な雰囲気になりかけたのを察し、僕はようやく言葉を返した。


「あの・・・やっぱり僕に訊いてるの?」


「やっと喋ってくれたよ。何? 私ってこんな大きな声で自問自答する変な子に見えた?」


 やっぱり僕なんだ、と思いながら困惑する。何て答えればいいのか言葉が見つからない。


 ――これって、もしかして僕をからかっているのだろうか?


 しかし彼女は笑ってはいたものの、ふざけているようにも見えなかった。


 


「そうだね・・・確かに人間は必ず死ぬよね・・・」


 焦りながら答えてる僕を見て、彼女はなぜかしら上目使いでクスッと小さく笑った。


「君さ、こんな言葉知ってる?『人は生まれた瞬間から死に向かっている』って」


 かなりテーマが重かった。女の子っていつもこんな話をしているのだろうか? 

 でもこの言葉は僕も知っていた。


「うん、知っているよ。だからこそ、その一日一日を大切に生きようってことだよね」


「そうだよ。でもさ、だったら、そもそも何で人は生まれてくるのかな? どうせ死ぬんだったら最初から生まれてこなきゃよかった、とか思わない?」


 


 少なくとも高校生の女の子が好んで考えるテーマではないだろう。僕自身もそんなこと考えたこともなかった。


 僕は自分の考えていることをありのままに話すことにした。どのみち気の利いた答えなんてできないことは分かっていたから。


「人は、『死ぬために生まれてきた』のではなくて、『定められた時間だけ生きるために生まれてきた』ということじゃないかな?」


「定められた・・・時間?」


「そう、人というのは定められた時間だけ生きられるようにDNAにプログラムされて生まれてくるんだ」


「人のDNAにプログラムされているの? その定められた時間が?」


 彼女は不思議そうな顔をして首を傾げた。


「まあ、それを寿命って呼ぶのだろうね。この寿命という時間は人によってみんな違うと思う。だから、『なぜ人は死ぬのか』という疑問の答えとしては、『元々、寿命という定められた時間で死ぬようにプログラムされてるから』ということになるんじゃないかな」


 我ながら、なんとつまらない答えなんだろう。もう少し洒落たことを言える頭が欲しかった、と思いながらそんな自分に呆れた。


 


 そうなんだ。僕が人と会話するといつもこんな感じになる。理屈中心にしか話を組み立てられず、そこにはユーモアの欠片も存在しない。


 考え方によっては合理的な会話と思ったりもするが、人との会話というのは理屈中心で喋ればいいというものではない・・・ということも理屈では分かっていた。


 とにかく、僕は冗談とかユーモアも交えて喋ることが苦手だった。冗談が嫌いなわけじゃない。できなかった。喋りなれていない女子が相手ではなおさらのことだ。

 いつも真面目にしか喋れないから、会話も弾まない。長く続かない。こんな人間と話してもきっとつまらないと思う。いや実際つまらない。

 だから、クラスメートの男子が女子に冗談まじりに洒落た話を言っているのを見ると、とても羨ましかった。あんな風に会話ができたら楽しいだろうな、と。


 僕もそうなりたい。でも、できないことは分かっていた。


 そんなことがコンプレックスとなり、女の子と話をしたり、一緒にいることをさらに遠避けていた。


 


 おそらく彼女も、もっとロマンのある気の利いた話を聞きたかったのだろうけど、僕のボキャブラリーでは無理な注文だった。


 またいつも通り、つまらない話と呆れられて終わりだろう。

 しかし、驚いたことに彼女から返ってきたのは予想外の言葉だった。


 


「えー? 人にそんなプログラムがされてるの? 誰がそんなプログラムをしたの?」


 ――え?


 こんな会話では大抵の女の子は引いてしまうのだけれど、彼女は僕の話をまともに聞いてくれているようだった。この初めての展開に僕は戸惑った。


「うーん。誰って言われると“神様”ってことになるのかな?」


「“神様”が決めたんだ。じゃあ仕方ないね」


 別に宗教じみたことを言うつもりは毛頭なかったのだが、話が変な方向になってきた。


「でもさ、予め決められてることなのに“死ぬ”って怖いよね? どうしてかな?」


「死ぬのが怖い・・・そうだよね・・・」


 話はさらに変な方向に進む。


「人を始めとして、生物というのは生きることが本能だよね。つまり“死ぬ”ということは、その生物の本能に逆らうことになる。だから“死ぬ”ということに対し恐怖を感じるんだと思う」


「ふーん」


 彼女は一言だけそう答えると、そのまま黙って顔を横に向けた。


 理解して貰えたのだろうか? 言っている僕自身がよく理解してないのに。


 


「ねえ、どうしたら・・・死ぬのが怖くなくなるのかな?」


 今度は思いつめたような声になった。


「え?」


 何を言い出すのだろうか。まさか彼女、自殺願望者?

 彼女の明るい顔を見ている限りはそんな雰囲気は全く感じられないのだが、さすがにこの言葉にはちょっと焦った。


 


「あの・・・こんな話もあるんだ。人はその本能を全うできた時、死ぬということが怖くなくなるんだって」


「本能を全うできた時って・・・どういう時?」


「人の本能・・・それは人が生まれてきた本当の理由・・・じゃないかな?」


「それって・・何?」


 彼女は僕の言葉に興味深く食らいつく。


「ごめんね。僕にもそれは分からない。でも、老衰で亡くなる人は恐怖や苦しみが無いとも言われてるよ。あとは自分自身の目的を達成して思い残すことがないとか言う人もいるよね」


「うーん。生まれてきた本当の理由かあ・・・」


 彼女が何を悩んでいるのかが僕には理解できなかった。


「ごめんね。さっきから全然質問の答えになってないね」


「ううん、ありがとう。君って真面目ないい人だね」


「え?」


「だってこんなつまらない私の質問に真面目に答えてくれるんだもん」


 


 つまらないのは僕の話のほうだろう。そもそも僕は人の質問に対して真面目にしか答えることしかできないのだ。

 冗談を交えて答えられたらどんなにいいだえろう。大体“真面目”なんて褒め言葉じゃない。

 僕はそう思いながら落ち込んだように俯いた。


「フフッ、君、“真面目”って言われるの、嫌いなんでしょ」


 ――え?


 その彼女の言葉は僕の心に突き刺さった。


 


 そう。僕は“真面目”と言われるのが嫌いだった。僕の中で“真面目な人間”とは“つまらない人間”ということを意味していた。


 確かに僕はつまらない男なんだ。自分でも分かってはいる。自分で分かっていながらも“真面目”と人に言われることには、やはり抵抗があった。


「私は真面目な人って嫌いじゃないよ」


 ――え?


 僕の心臓がドキリと突き上げられた。。

 思わず彼女のほうを見る。彼女は首を傾けて優しく笑っていた。

 でも、それがどういう意味で言っているのか分からなかった。


 


「でもさ、もし“神様”が人を必ず死ぬようにプログラムしているんだとしたら、なぜ、死なないようにプログラムしなかったのかな? そうすれば、みんな長生きできて幸せになれるんじゃない?」


 彼女のさらに突っ込んだ質問に僕も心が少し後ずさりした。

 なぜ彼女はそこまでは死についてこだわるのか、 不思議だった。


「人を始めとする生物は“寿命”というプログラムによって生と死を繰り返すことに意味があるんじゃないかな」


「何で生と死を繰り返さなきゃいけないの?」


「うーん。じゃあ、もし人に寿命というものが無くて、事故や病気以外では死なない世界があったとしたら、どうなると思う?」


「うーん。みんな永遠に生きられて幸せになるんじゃない?」


「多分そうはならないだろうね」


「え? どうして? 寿命が無かったらみんな永遠に生きられるんでしょ?」


「もし、生物というものに無くて、生と死を繰り返さなかったとしたら、恐らくすぐ絶滅してしまうと思うよ」


「えーなんで? 意味分かんないよ」


「地球は何万年という単位で見ると非常に大きな環境変化をしてるんだ。火山の噴火とか隕石の落下とか、いろいろな要因でね。


 その大きな環境変化に耐えて生き延びるには自身を変化させなければならなかった。そのために生物の生と死の繰り返しは必要なものだったんだと思う」


 ――こんな話、女の子にはおもしろくないだろうな・・・。


 そう思いながら、僕は彼女のほうに目をやった。すると案の定、彼女は何かを思いつめるような感じでボーっとしていた。


 


「ごめんね。やっぱりつまんないよね、こんな話」


「ううん、とってもおもしろいよ。続き聞かせて」


 彼女は慌てたように否定した。

 僕は開き直って、とことん僕らしくつまらない話をすることにした。


 


「生物学的な話をすると、人を始めとする生物は生殖をして子孫を残していくよね。それは環境の変化に対応するDNAを残すためなんだ」


「環境の変化? 地球の?」


「そう。親は子供にDNAという情報のバトンを渡したあとに死んでしまう。その子供もやはりその子供にDNAのバトンをリレーのように渡す。生物はこうして環境の変化に適応するため、生き続けるためにいろんな情報をDNAに刻んで生と死を繰り返していくんだ。その情報量は生と死を繰り返す度に増えていくから、その回数が多いほど変化に対応しやすくなる」


「生き続けるために死ぬの? 何か不思議だね」


「そうだね。DNAという命のバトンでリレーをしながら種は生き続ける」


「命のバトンリレーかあ。おもしろいね。私たちのご先祖様はずうっと子供にバトンを渡し続けてきたんだね。私たちに辿り着くまで」


「うん。そうだね・・・」


「江戸時代の人からも?」


「そうだね・・・」


「平安時代の人からも?」


「そうだね・・・」


「鎌倉時代の人からも?」


「ちょっと順番違うけど・・・」


「ああん、細かいなあ・・・石器時代の人からも?」


「そうだね・・・」


「恐竜時代の人からも?」


「いや、恐竜時代には人はいなかったかな・・・」


「え? じゃあこの時代はだれからバトンを渡されたの?」


「うーん。ダーウィンの進化論が正しくて、人間宇宙人飛来説が誤りであれば、その時代には、人に進化する前の祖先となる動物が存在していたはず。そこからDNAの命のバトンが続いているんだろうね」


「それって、結局いつから続いてるの?」


 彼女はますます興味深い顔になってきた。


「地球史によると生命の起源は四十億年前だから、それからってことになるかな」


「ヨンジュウオクネン?」


「そう」


「・・・ということは、私たちは四十億年も命のバトンを渡し続けて今、ここにいるってこと? その四十億年もの間に、たったひとつの命でも抜けたら君も私もいなかったかもしれないんだね」


「そ、そうだね・・・」


「すごい! すっごい! なんかよく分かんないくらい、すっごい!」


 僕は彼女の驚きにすっごい驚いた。


「あの・・・そんなにすごいかな?」


「だってすっごいじゃん! 四十億年だよ! 四十億年! それって奇跡だよ。四十億年もの間、ずっと命のバトンが続いてるなんてさ!」


 彼女はまるで幼い子供のように目をキラキラ輝かせながら叫んだ。


「これってそんなに凄いことなのかな・・・」


 あまりにも当たり前過ぎて、今まで気にもしなかったことだった。


 でも、彼女の言う通り、今、自分がここに存在しているのは、何十億年もの間、命のバトンリレーを続けてきた結果なんだ。ひとつでも抜けたら、今、僕はここにいない。


 彼女の言葉は、人間を始めとした生物は、全てこの奇跡のおかげでここに存在しているんだということをあらためて自覚させてくれた。


「壮大な話聞いちゃったなあ。君、やっぱり何か、みんなとは違うね」


「いや、僕の話なんて全然・・・理屈っぽくてつまらなかったでしょ」


「全然そんなことないよ。すっごくおもしろかった。ありがとう。私の変な質問に真剣に答えてくれて」


 そう言って彼女は首を傾げながらまたニコリと微笑んだ。


 


 校内にウエストミンスターの鐘が鳴り響く。昼休み終了の予鈴チャイムだ。


「君の話、すっごくおもしろいね。 また聞かせて。じゃあね!」


 彼女は笑いながら小さく手を振ったあと、弾むように外階段を降りていった。


 なんて眩しい笑顔をする子だろう。それにあの圧倒される強い感受性。僕の他愛ない話にあそこまで感動してくれるなんて、僕が感動した。


 そして僕はあることに気づいた。こんな風に自然に女の子と喋れたことは今まで無かった。彼女の気さくな性格のせいだろうか。


 ――あの子は誰にでもこんな感じで話せるのだろうか?


 


 僕は彼女のような社交的で明るい性格にはとても憧れていた。彼女みたいに誰とでも気さくに話ができたら楽しいだろうなといつも思う。


 自他共に認めるとても内気で消極的な僕だが、本当はこんな自分を変えたいと思っていた。もっと積極的になりたいと。

 けれど、積極的になろうとする積極性が僕には無かった。


 積極的になるためには積極性がいる。よって積極性が無い僕は積極的になれない。これが僕の持論だった。まあ、ただの現実逃避だということも分かっている。


 僕のことはさておき、そんな明るく快活な彼女が、なぜあんなに死にこだわるのだろうか。

 そんな疑問を抱きながら、僕の心の中はいつの間にか彼女のことで覆われ始めていた。


 


 *****


 


 彼女に“真面目”と言われた。


 僕は他の人からもよく“真面目”と言われる。


 そう、僕はみんなが言うように“真面目”な人間だ。

 いや、“真面目にしている”人間というのが正しいかもしれない。


 そして、僕は真面目と言われるのが嫌いだ。


 なぜ嫌いなのか? 

 それは、僕自身が好きで真面目にしているわけではないからだ。


 


 真面目に行動するということは、世間に敷かれた社会常識というレールの上にしっかりと乗っていることを意味すると思っている。


 僕はそのレールに乗っている。なぜそうしているかというと、そのレールの上に乗っていると安心できるから。逆に言うと、乗っていないと不安になるのだ。

 そう、僕は進んで真面目に生きているわけではない。


 


 学校の勉強をしたくない時だってある。けれど、勉強をしなければ当然テストの点が悪くなる。授業だって、たまにはサボってみたいと思うことがある。


 でも授業をちゃんと受けないと内申点が悪くなり、成績表に影響する。すると、良い学校に行けなくなり、良い会社へ行けなくなる。そして良い生活ができなくなる。


 そんなつまらない脅迫観念と、刷り込まれた社会通念に捉われているのが僕という人間だった。


 


 僕は結局、いわゆる“社会のレール”から外れるのが怖いだけなんだ。


 そんな社会のレールから外れないように僕はずっと真面目にしてきた。人に“嫌”と言うことができなかった。人に嫌われたくなかったから。


 そんな“真面目”な自分が僕は嫌いだった。

 でも、だからと言ってそこから外れる度胸も無かった。そんな自分の臆病さも嫌いだった。


 真面目だというだけで学級委員をやらされたこともある。

 人をまとめるなんてことは僕の最も苦手なことだった。だからできるだけ目立たないようにも生きてきた。


 


 学校には、僕のような“真面目タイプ”とは対照的に、性格がとても自由で活動的、遊びにも積極的な生徒たちがいる。


 僕はそれを“アクティブタイプ”と呼んでいる。そう、まさしく彼女のようなタイプの生徒だ。


 アクティブタイプの生徒は、教室ではとても賑やかでいつも中心にいる。時には授業をサボったり、男女交際にも積極的で自由奔放だ。制服は規則通り着ることはしない。

 裏では酒やタバコもたしなむ生徒も多く、イメージ的にはいつも騒いで遊んでいる、そんな感じの生徒たちだ。


 誤解があるといけないが、僕の学校にいるアクティブタイプの生徒は、一見不良っぽいのだが、決して“不良”ではなかった。


 僕が考える“不良”と違うところ、それは彼らは暴力や窃盗などの犯罪を犯すことはなく(未成年なので酒とタバコはまずいのかもしれないが)、成績もみんなそこそこ悪くないという点だ。


 授業中は騒がしくて全然勉強なんかしてなさそうなのに、テストはトップクラスの奴もいたりする。


 このようなアクティブタイプの生徒に対して、僕は常に壁のようなものを感じており、それはコンプレックスにもなっていた。


 僕は何より彼らが羨ましかった。そして憧れた。僕もそういう人間になりたい、そう思っていた。


 けれども僕は、彼らと同じようにルールから外れて授業をサボったり、勉強しないで遊びまわるような積極性や度胸を持っていない。


 だから僕は、明るく快活な彼女に対しても見えない壁を感じざるえなかった。


 やっぱり僕とは違う、そう思っていいた。


 


 *****


 


「あれぇ、真面目くんじゃない?」


 聞き覚えのある声の方向に僕は振り向いた。


 鈴鹿咲季と再び会ったのは地元のショッピングモールにある大型書店の中だった。


 


「あ、ごめんね・・・こんにちは」


 突然のことでびっくりした僕は、何と答えていいか分からず、取り敢えず謝った。


 そう、僕は何も言えなくなった時、なぜか謝る癖がある。


「何で謝るの?」


 彼女はクスッと小さく笑った。


「ねえ、何読んでるの?」


 彼女は興味深そうに僕が見ていた本を覗き込んできた。


「ああ、ごめんね。あの・・・小説だけど」


「また謝ってる。やっぱり君っておもしろいね」


 彼女の笑いのツボにはまったのか、小さい笑いが大きくなった。でも、彼女の笑いは決して人を馬鹿にしたような嫌味な感じが無く、とても爽やかだった。


 彼女は何かの本を探しているのか、僕の隣で本棚を見回していた。それからしばらく沈黙が続いた。ちょっと気まずい雰囲気が漂う。


 ――あ、何か喋らべらないとまずいのかな・・。


 僕はこの場を和ませなければならないという脅迫観念に襲われて、焦りながら懸命に話題を考える。


 


「鈴鹿さんは・・・何か買いにきたの?」


 やっとの思いで絞り出した質問セリフがこの程度だ。


「私は絵本を見に来たの。絵本好きなんだ」


「ああ、そう」


 会話が続かない。僕は学校以外で、いや学校でさえ女の子と会話することがほとんどなく、完全に舞い上がっていた。


 これ以上一緒にいると、どんどん退屈な男だと思われそうだ。実際その通り退屈な男なんだけど・・・。


 この雰囲気の重圧に耐えられなくなった僕は、この場を退散することを選択した。


 困ったら取りあえず逃げ出す、こういう情けない性格だった。


「ごめんね。それじゃあ僕はここで・・」


 すると、彼女はそのタイミングを待ち構えていたかのように僕を引き止めた。


「ねえ、まだ時間ある? 何か飲んでいかない? 喉乾いちゃった」


「え?・・・」


 想定外の彼女の言葉に僕の頭の中はこんがらがった。


 


 ――どうしよう? こういうのって断ったら失礼なのかな? でも何を話していいのか分からないし・・・。


 僕は心の中でブツブツ言いながらも実際に声は発することはできず、ただ固まっていた。


「どうしたの? ほらっ、行こ」


 彼女は僕にニコッと微笑むと人ごみの中へ僕の手を引っ張っていく。


 彼女はいつもこんな感じにマイペースなのだろうか?


 僕は彼女に連行されるようにショッピングモール内にあるアメリカンスタイルのカフェに入った。


 こういう店はあまり慣れていないので落ち着かない。女の子が一緒となればなおさらだ。


 そもそも女の子と二人きりで店に入ること自体、初めてだった。


「ねえ。私たち、ついこの前、屋上で会ったばかりなのに、またここで偶然に会うなんて、何か運命みたいなの感じない?」


「ああ、そうだね」


 僕はそっけない返事しかできなかった。そう、こういうところで洒落たことが言えないのが僕だ。


「ふふ。あまり感じてないみたいだね」


「ううん。そんなことないよ」


 僕は慌てて否定するが、全然説得力がないのは分かっていた。


 


「ねえ、真面目くん」


 僕はちょっとムッとなった。


「フフッ、そうだったよね。ごめん、この呼び方嫌いだったんだよね」


 愛想笑いもできないのが僕だ。


 


「そういえばさ、私たちってまだお互い名前、知らなかったよね」


「そう・・・だね」


 君の名前は知ってるけど、と心の中で呟いた。


「私は鈴鹿咲季。A組だよ。よろしくね」


 彼女はにこっと首を傾げて笑った。


「あ、よろしく・・・」


「で、君の名前は?」


「あ、ごめんね。僕は名倉(なぐら)・・・名倉雄喜(なぐらゆうき)・・B組・・・です」


 名前を言うだけなのにコチコチに緊張している自分が恥ずかしかった。


 


「ですって、別に同級生に敬語いならいっしょ。B組だったら美術が一緒だよね」


「うん。そうだね」


「名倉・・・くんは、昼休みはいつも屋上(あそこ)にいるの?」


「うん、いつもというわけではないけど・・晴れた日はけっこういることが多いかな」


「昼休みに他のみんなと遊ばないんだ」


「・・・・・」


 僕は返事に詰まった。


 一人でいるのが好きだからなのだが、そんなこと言って“暗い”って思われるのが嫌だった。


「フフッ、一人でいるのが好きなんだよね。それ、すっごく分かるよ」


 やっぱり不思議な子だ。まるで僕の心を読めてるようだった。でも、その彼女のその言葉のおかげだろうか、僕の硬くなった緊張感は徐々に解けていくようだった。


「僕ってコミュニケーション能力に欠けてるんだ。みんなと話を合わせたりするのが苦手でさ。だから一人が気楽なんだよね。鈴鹿さんは友達多そうだよね。人見知りとかしなさそうだし。人の心を読むのがすごい感じがするし」


「うーん、そうかなあ・・・」


 彼女は唸りながら首を傾けた。


 


「君さ、もしかして、他人との間に壁とか感じてる? 特に自分とタイプの違う人に」


 僕はまた言葉に詰まった。その通りだ。確かに僕は積極的なタイプの人たちとの間に大きな壁を感じていた。


「私すごくわかるよ、その気持。なんかこう・・・見えない高い壁があるって感覚」


 ――え?  そうなの? 


 彼女のような人でも他人に壁を感じてるということなのだろうか? 


 予想外の言葉に僕は驚いた。


「でもね、他人との間に感じる壁って、大体その人自身が作ったものなんだって。だからその壁は自分自身で壊せるらしいよ」


 確かに彼女の言う通りかもしれない。


 でも、僕にはその壁を壊す力も度胸も持ち合わせてなさそうだ。


「あ、ごめん。なんか私、偉そうなこと言っちゃってるかな?」


「あ、いや、こっちこそごめんね」


 彼女みたいな人でも壁を感じることがあることを知って、ちょっと彼女に対する見方が変わったような気がした。


 彼女のような社交的な人には僕のような消極的なタイプの人間の気持ちなんて理解できないと思い込んでいたから。


 確かに他人との間に壁があることはいつも感じていることだった。でも、その壁は自分自身が作っている、なんてことは考えたことがなかった。


 


「あのさ、もしかして、私にも壁って感じてるのかな?」


 彼女は探るような声で訊いてきた。


「ど、どうして?」


「だって君、さっきから私の顔を全然見てくれてないでしょ?」


 その言葉は僕の心にグサリと刺さった。


 そう。僕は子供の時から人と話す時、その人の顔や目を見るのが苦手だった。


 ずっと親からも先生からも言われていた。人と話す時はその人の目を見ろと。


 でも、僕はそれがずっとできなかった。


 同級生からここまでズバリと言われたのは今日が初めてだった。


 


「ごめんね」


 僕はすかさず謝まった。


 そりゃ顔を見るのを避けられたら、いい気分はしないだろう。相手に失礼なことだってことは分かっていた。でも・・・僕はできなかった。


「別にいいよ、謝んなくて。君を責めてるわけじゃないんだよ。いや、私、もしかして嫌われてるのかなって?」


 やっぱり人からはそういう風に見られてしまう。それは仕方がないことだ。


「違うよ。気分を悪くしたらごめんね。実は僕、人の顔とか目を見て話すのがすごい苦手なんだ」


「どうして?」


 何でそんなに突っ込んで訊いてくるのか、正直言って僕は困った。


「あの・・・正直に言うね。人と話す時って相手の人もこっちの顔とか目を見るでしょ?」


「うん。そうだね」


「僕さ、話をする時、相手の人からジッと顔を見られると、途端に恥ずかしくなるんだ。それでつい目を逸らしちゃうんだよね。別に嫌っているわけでもないし、避けtるわけでもないんだよね」


 こんなこと他人に話すのは初めてだった。まして女の子に。


 


「やっぱりそうなんだ!」


 彼女は大きな声で叫んだ。なぜかとても嬉しそうに。


「え?」


 その声の大きさに思わず僕はビクッと顔を引いた。


「ごめんね。あの・・・何が?」


 彼女の嬉しそうに叫んだ意味が僕は全く分からなかった。


「ああ、ごめん、大きい声出して。いいのいいの、気にしないで。こっちの話だから・・・」


 彼女は笑いながら両手を前に出し、ゴメンのポーズをとった。


 気にしないでって言われても気になった。


 


「名倉くんは、本よく読むの?」


「え? 何で?」


「君って質問に対していっつも理由訊いてくるんだね」


 そう言いながら彼女はクスッと笑った。


「ああ、ごめんね」


「だからいいよ、いちいち謝んなくて」


 彼女の笑い声が大きくなった。


「僕さ、女の子から質問されるのに慣れてないんだ」


「ふーん、そっかあ。女の子に慣れてないんだあ」


 彼女はなぜかしら嬉しそうにニヤニヤと僕の顔を見ていた。やっぱり馬鹿にされてんのだろうか?


「いや、さっきの質問はいろいろと本を見てたから訊いただけだよ。どんな本読んでるのかなあって・・・」


 彼女は悪戯っぽい顔をしながら言った。


「うん、そうだね。まあ一人でいることが好きだから。本を読んでいると落ち着くんだ」


「どんな本読むの?」


「んー、やっぱり小説が多いかな」


「へえ、どんな小説?」


「いろんなもの読むよ。SFとかアドベンチャーものとか・・・あとはファンタジー系も好きだな。鈴鹿・・・さんは?」


「私は小説はあまり読まないかな。コミックとかが多いよ。文字ばかりだと私眠くなっ


 ちゃうんだよね」


 うん、そんなイメージがした。確かに彼女は静かに家で読書をしているタイプには見えない。


「あの・・・もしかしてコミックとか、くだらないとかバカにしてる?」


 彼女は何か寂しそうに訊いてきた。


「あ、ごめんね。そんなこと思ってないよ。確かに僕はコミックはあまり読まないんだけど、別にバカになんかしてないよ。読むことが少ないのは、コミックには絵があるからなんだ」


「コミックなんだから絵があるの当たり前じゃない? それに絵があるほうが分かりやすいでしょ」


「そうだね。でもその絵があるせいで物語の世界のイメージが固定されちゃうじゃない?」


「物語のイメージ?」


「うん。コミックだとキャラクターや景色はすべて描いてあるよね。だからそのイメージは当然その作家さんが描いたイメージになるけど、小説だとそれが描かれていないから、その世界を自分で自由にイメージできるんだよね」


「ああ、キャラクターの顔とか背景とか?」


「そう。もちろんコミックも、その描かれたキャラのイメージが自分好みだったらいいんだけろうどね。小説なら自分の好みのイメージでキャラクターを勝手に想像することができるでしょ?」


「なるほどねえ。何かすっごい納得しちゃったあ。私も今度小説、読んでみようかな」


「よかったら今度貸してあげるよ」


「ほんと? 絶対だよ!」


 


 他愛もない流れるような会話が彼女と続く。


 でも、これが僕にはとても新鮮だった。そして何より楽しかった。そう、こういう他愛もない普通の会話が僕はできなかったんだ。


 そのあと、彼女と一緒の電車に乗り、二人で家路についた。


 彼女の家は学校に近いらしく、次の停車駅の学校の最寄駅で降りるようだ。僕が降りる駅はもう少し先だったので、ちょっと寂しい感じがした。


 電車が駅のホームに止まり、ドアが開く。


「じゃあ、私はここで降りるから」


「あ、ごめんね。じゃあまた」


「フフッ、また謝ってる・・・じゃあね」


 電車を降りる彼女はいつもの眩しい笑顔だ。


 


 ドアが閉まる瞬間、彼女は僕に小さく手を振ってくれた。僕も小さく手を振った。これも他愛のないやりとりだが、僕にとっては初めてのことですごく新鮮だった。


 ――なんか・・・いいな、こういうの。


 そう思いながら、僕はちょっと浮かれていた。初めてのこの感覚に。


 


 *****


 


 その日以降、昼休みに彼女は現れなかった。


 ――あれはなんだったのだろうか・・・?


 何かよく分からない気持ちが僕の中にあった。なんだろう、この感覚は。


 もしかして僕は彼女とまたここで会えるのではないかと期待をしているのだろうか?


 でも、その日も彼女は現れなかった。この前は偶然ここに来ただけなんだから来なくて当たり前なのに、いつの間にか落ち込んでいる自分に苦笑する。


 午後に美術の授業があった。彼女のいるA組との合同だ。授業は人数の多いA組の教室で行われるため、僕はいつものように美術用具を持ってA組の教室へと向かった。


 教室に入るなり、僕は自然と彼女の姿を捜していた。すぐに賑やかに話をしている男女数人のグループの輪の中に彼女を見つけた。


 ――いた!


 僕の心臓の鼓動がキュッと高鳴る。


 そんな自分に少しびっくりしながら目が彼女の姿を追う。


 


 彼女はとても楽しそうに笑いながら喋っていた。グループの中でも一番テンションが高いのではないだろうか。きっとクラスの中でもけっこう目立っている存在なんだろう。


 話の深い内容はよく分からないが、他愛ない楽しそうな会話が続いていた。


 その時、彼女の視線が一瞬こちらに向いた。僕の存在に気づいたと思った。


 手を挙げて挨拶をしようと思ったのだが、彼女はすぐに友達のほうに向き直り、何事も無かったように友達と喋り続けていた。


 ――あれ? 僕に気づかなかったのかな?


 


 結局、その日は彼女と話をすることなく美術の時間は終わった。僕の心の中にモヤモヤ感が残っていた。


 放課後になると、僕は部活のため部室へと急いだ。僕はテニス部に属してる。


 体を動かせば少しはこのモヤモヤ感がすっきりするかと、今日はいつもより懸命に体を動かした。けれども、やはり心の中に燻るモヤモヤ感は抜けることはなかった。


 


 練習の終わりに、学校の近くにある中央公園までランニングをすることが日課になっていた。


 テニス部員十数人が大きな掛け声と共に校門を抜け、中央公園へと向かう。学校内では特に気にならないのだが、学校の外で大きな声を上げることにはちょっと抵抗があった。


 公園内の遊歩道に入ると、帰宅途中の生徒が多く歩いていた。


 


 その時だ、見覚えのある女子生徒の後ろ姿が僕の視界に入った。


 まだ遠目であったが、それを彼女だと認識するのに時間はかからなかった。だが、同時に強いショックが僕の心を襲った。


 彼女の横に親しそうに男子生徒が並んでに歩いていたからだ。


 僕は反射的に彼女から見えないように反対側の列に移り、隠れながら走った。


 テニス部員の列は二人を追い抜いていく。その瞬間、僕はちらりと二人のほうに目をやった。二人とも話に夢中で、僕に気づく気配はなかった。


 彼女はとても楽しそうに笑っていた。


 二人の歩いている距離感とその笑顔の様子から、かなり親しげな関係であることが僕でも分かる。


 その男子生徒は見覚えのある顔だった。確かサッカー部だ。


 ――やっぱり彼氏いたんだ・・・。


 僕はあらためてショックを受けている自分にびっくりしていた。


 ――え? 何?


 何で僕はショックを受けているんだ? 


 何を期待していたのだろうか? あんな可愛い子なんだから彼氏がいて当たり前だった。そんなことは分かっていただろう。いや、僕だって彼女に対してどうこう想っているわけではなかったはずだ。


 そうだ。別になんとも思ってない。悪いこともしていない。関係ない・・。


 僕は必死に自分にそう言い聞かせ続けた。


 


 *****


 


「やあ、真面目くん・・じゃなくって名倉くんだったね」


 ――あれ?


 


 びっくりしたのは言うまでもない。昼休みの屋上の給水塔に久しぶりに現れた彼女は、前に逢った時と同じ眩しい笑顔をしていた。


 三月に入ってもまだ寒い日が続いていた。でもこの日は風も弱く、とても暖かく感じられる晴れた日だった。


 


 僕の気持ちは、前より複雑だった。彼女に彼氏がいることが分かったため、もう変な期待を抱かないように忘れようと決めたばかりだった。


 どういうつもりなのかと僕は悩んだ。僕をからかっているのだろうか。もしくは暇つぶしか。それならば、はっきり言って迷惑な話だった。


「あっ、もしかして私がいたら迷惑? 一人でのんびりしていたいのかな?」


「あ、いやごめんね。別に・・・」


 迷惑っぽさが顔に出てしまっていたのだろうか。焦った僕は慌てて否定した。


「本当? よかった」


 彼女から笑いがこぼれる。


 僕は本当に優柔不断だ、何に対しても。でも、また会えて嬉しいという気持ちはもちろんあった。


 ただ、彼氏がいる彼女がどういうつもりで僕に話し掛けてくるのかが理解できず、中途半端なモヤモヤ感は拭えなかった。


 


「鈴鹿さんって、なんかいつも笑ってるね」


 僕はめずらしく自分から声を掛けた。


「そう? 何、いつもヘラヘラしてるって意味? それってひどくない」


「あっ、ごめんね。そういう意味じゃないよ」


「ふふっ、そんなに慌てて謝んなくていいよ。別に怒ってないし」


 彼女はくすっと小さく笑った。僕は女の子とこういう会話のやりとりが苦手だった。洒落た言葉が出てこない。


「君はいつも笑ってない・・・っていうよりいつも無表情だよね。もっと笑ったら?」


「意味も無く笑えないよ・・・」


「笑うとね、病気が逃げていくんだって」


「じゃあ、僕はあまり先が長くなさそうだ・・・」


「何それ? 笑うところ?」


 彼女はまた笑い出した。


 今のっておもしろかったのだろうか。それとも、あまりにもつまらないので笑ってるのだろうか。僕にはそれすら理解できなかった。笑いの感覚が人とズレているのだろう。


 でも、彼女もそんな無邪気な笑顔は僕の心を不思議に心地よい気持ちにしてくれた。


 


「この前も話したけどさ、永遠に生きられたらいいって思ったことない?」


 また彼女の突拍子もない質問攻勢が始まった。


「さあ。でも永遠に生きられないって分かってるから、みんな懸命に生きるんじゃないかな?」


 僕は何を偉そうなことを言っているのだろうか。僕自身が懸命に生きているって言える人間とは程遠いのに。そう思いながら心の中で失笑した。


 


「ごめん。つまんないこと言ったね」


 彼女は黙ったままゆっくり横に首を振った。


「そんなことないよ。名倉くんってさ、本当に真面目・・・っていうかすごい正直だよね。お世辞やおべっかも使わないし」


「使わないんじゃなくて使えないんだ。人を持ち上げたり、合わせるのが得意じゃない。人付き合いが上手い人って、基本的に頭の回転が速いんだと思うんだ。その場その場の会話の中で、臨機応変に的確な言葉を選んで交わすことができる。これってすごいことだと思う。僕はそういうところの頭の回転の速さが無いんだ。そんなふうにできればいいなとは昔から思ってるんだけどね」


 


「いいんじゃない、今のままの君で」


「え?」


 彼女はさらりと言った。どうしてだろう。彼女から出てくる言葉は、なぜか僕の心に深く染みてきた。


 


「ねえ、名倉くんはさ、彼女とかいるの?」


 ――え?


 突然の質問も僕は戸惑った。どういう意味で言っているのか。でも答えは決まってる。


「いないよ。いるわけないよ」


 僕は素っ気なく答えた。実際にいなかったのは事実だし、気の利いた答えも思い浮かばなかったから。


「作らないの?」


 彼女は気やすい感じで僕の隣にチョコンと腰かけた。


「いればいいとは思うよ。でも彼女って、作りたいと思って作れるもんでもないでしょ」


「でもデートくらいしたことあるでしょ?」


「・・・ないよ」


 僕の言い方がちょっとつっけんどんになった。


「したいとか、思わないの?」


「そりゃあ、できれば楽しいと思うけど・・・」


 本当にどういうつもりで言ってるんだうか。やっぱり僕をからかってるんだろうか。彼女のペースの質問に僕は戸惑っていた。


 


「女の子を誘う勇気なんて僕には無いんだよ。誘って断られたらどうしよう、とかすぐ考えちゃうし。大体、僕とデートしたい子なんていないしね。仮に僕なんかとデートしてもつまんないと思うよ。おもしろい話とか全然できないし」


「君、自己否定すごいね。それじゃ、できるものもできないよ」


「別にいいよ。僕に彼女なんかできないよ。かっこよくないし、おもしろいことは言えない」


「自分で決めつけなくていいんじゃない?」


「自分のことは自分が一番分かってるよ。それに僕は女の子の前だと全然喋れなくなっちゃうんだ」


「自分のことを一番分かるのって、本当に自分なのかな? その人のいいところって、他人のほうが分かるってこともあると思うよ。それに今だってほら、喋ってんじゃん。私としっかり」


 ―――あれ? 本当だ。


 僕は女の子と普通に喋っている自分に今更ながらびっくりしていた。


 


「でもさ、クラスに好きな女の子くらい、いるんでしょ?」


 彼女はストレートにグイグイ攻めてきたが、僕は答えに困った。


「まあ・・・気になってる子くらいは・・・」


 僕は嘘をついた。半分だけだが。


 確かに気になっている女の子はいた。でもその子はクラスメートではなかったから。


 


「なんだあ、いるんじゃん! その子に告白とかした?」


「いや、僕にはそんな度胸は無いよ。何を話したらいいかも分からない」


「分かった! 君に足りないのは経験と自信だよ。よし、じゃあ練習してみようよ」


「練習?・・・」


「うん。まずはデートしよう」


「何? デートって?」


「デート知らないの? 男の子と女の子が一緒に映画行ったり、買い物したりするの」


 やっぱり僕をからかっているようだ。


「ごめん。ひょっとして僕のことバカにしてる?」


 僕はちょっとムッとした顔になる。しかし、彼女は全く悪気が無さそうにきょとんとしていた。


 からかっているわけではない。これらはどうも本気で言っているようだ。


 


「あのデートって・・・いつ? 誰と?」


「今度の日曜日に・・・」


 そう言いながら彼女は自分の顔を指さした。


「はあ?」


「だからあ、女の子と付き合う練習だって! きっと役にたつよ。じゃあ・・どこにしよっか?」


「あの・・・ごめんね、ちょっと待って。何が?」


「もう! 何がじゃないよお。待ち合わせの場所だよ! マルチ前でいいね」


 彼女はだんだんとイライラした口ぶりになってくる。いつの間にか僕が悪いような雰囲気になっていた。


「あの・・・ごめん。突然言われてもさ、僕にもつごう・・・」


「何時にする?」


「あの・・・何の・・・時間?」


「もう!  何のじゃないよお。待ち合わせの時間に決まってるじゃん!」


 僕はもう何も言えない雰囲気になっていた。


「九時じゃちょっと早いか。十時でいいね」


「・・・・・・」


「どこ行こうか? シティパークとかがいいかな?」


「・・・・・・」


「君さあ、ずっと黙ってるけど、私の話、聞いてる?」


 ―――それ僕のセリフ・・・。


 そう言いたかったけど言えなかった。


「日曜日、晴れるといいね!」


 彼女は僕の話を全く聞いていないようだった。


 


 昼休み終了の鐘が鳴った。


「あ。昼休み終わっちゃう。じゃあね。日曜日サボるなよ」


 そう言うと、彼女は足早に階段を降りていった。


 何だったのだろう、今のは。気がつくと、全てが勝手に決められていた。まるで台風が去っていったあとのような感覚で僕は一人でたたずんでいた。


 彼女はいつもあんな感じでマイペースなのだろうか。あの自分勝手さはB型に違いない、そう確信した。


 大体、デートを『サボる』という表現は聞いたことがない。それを言うなら『すっぽかす』だろう。


 いや、正式なデートではなく、デートの練習という概念だからサボるという表現を使ったのか? なるほど・・・


 


 ―――いや違う!


 僕は何を感心しているんだろう。解決すべく問題はそんなことではないということに気づいた。


 ―――デート? 彼女と?


 女の子と付き合った経験がない僕は、頭の中が錯乱していた。


 これってデートに誘われたってことなのだろうか?


 物事に対し、いつも期待しない僕が何かを期待していた。心の中がニヤけている。


 いや違う。彼女には彼氏がいたんだ。でも、そんな彼女が何で僕にデートの練習なんかを?。


 僕の貧弱な恋愛経験から答えを出すことは困難だった。


 そんな疑問と格闘しながら僕は午後の授業に出るため教室へと向かった。


 


 廊下を歩いていると、前方から男子生徒がこちらに向かって歩いてきた。僕と同じライン上を歩いている。


 このまま行くとぶつかってしまいそうだったので僕は右側に避けるように歩いた。すると、その男子も僕と同じ方向に向かってきた。


 そして、その男子は僕の行く手を塞ぐように目の前で立ち止まった。


 


 ――何? 僕、何かした? 別にガン見とかしてないし・・・。


 僕は下に向けていた自分の目線を恐る恐るその男子の顔に向けた。


「あの君さ、鈴鹿のこと、好きなの?」


 ――え?


 あまりにも唐突な質問に僕の頭は固まった。


 


 クラスメートではなかった。けっこうイケメンで、活発そうな・・・そう僕とは真逆のいわゆる『アクティブタイプ』の男子だ。いかにも遊んでそうな感じだ。


 ――あれ? でも、どこかで見たことが・・・。


 そして思い出した。そうだ。この前、中央公園の遊歩道で彼女と一緒に歩いてた男子生徒だ。


 さっきまで浮かれていた僕の体は頭から冷や水を浴びせられたように急激に冷めていった。


 


 僕はショックを受けると同時に『まずいな』と思った。


「君、最近ちょこちょこ屋上で咲季と二人で会ってるよね?」


 今度は予想された内容のセリフだった。しかも彼女の名前を呼び捨てにしている。 


 やっぱり彼氏だったようだ。さっきも見られていたんだろう。僕に文句を言いに来たのだろうか。 


 でも僕は彼女に対し、何をしたわけでもないからやましくはない。しかし、言い訳を考えようにも何も言葉が出てこない。


 僕がビクビクしながら黙っていると、男子生徒のほうから驚きの言葉が出る。


「かわいそうだから教えといてやるよ。あいつには気をつけな」


 ――え?


 想定外の言葉に僕の口はぽっかり開いた。


 


「あいつ、どんな男にもホイホイついていくタイプで、とっかえひっかえ男と遊んでるから。中学の時もかなりグレてて一年留年してるって噂もあるし。お前、純情そうだから本気になって傷付きでもしたらかわいそうだから、教えといてやろうと思ってさ」


 ――男と遊んでる? グレてて留年? 彼女が・・・そんな・・・。


 僕は愕然とした。


 この彼は彼女と付き合ってるんじゃなかったのか・・・。


 


「いや、僕は別に、そういうつもりは・・・」


 僕はそう答えるのが精一杯だった。。


 そうなんだ。僕は彼女と付き合っているというわけではないし。


「そうか。ならいいんだけどさ。ま、そういうことだから気をつけな。じゃあな!」


 そう言い残し、彼は去っていった。彼の言葉は、恋愛に脆弱な僕を落ち込ませるには十分なものだった。


 


 確かに、彼女については男遊びが多いという噂を聞いたことがあった。


 でも、僕はそれをずっと無意識に否定していた。


 そもそも、あんな可愛い子が僕を好きになるはずもなかった。それによく考えたら、彼女から好きと言われたこともないし、当然付き合っているわけでもない。


 僕はさっきまで浮かれていた自分にだんだんと腹が立ってきた。


 


 ―――付き合う? 


 そもそも僕は女の子と付き合ったことが無いので、どこまでが友達で、どこからが付き合うっていうことなのか線引きすら分かっていなかった。


 確かに彼女の近くにはいつも多くの男子がいた。さっきの彼とも遊びのつもりで付き合ってるのか。もしかしたら本命の彼氏が別にいるのかもしれない。


 ―――じゃあ、彼女はどういうつもりで僕を誘ったんだろう?


 本当に僕を応援するためのデートの練習なのか。でも、そもそも何で僕を応援してくれるのかが分からない。


 やっぱり僕がめずらしいタイプなので興味本位の暇つぶしなのだろうか。


 次々といろいろな考えが僕の頭の中を走馬灯のようにぐるぐる回っていた。


 そして胸が苦しくなっていくのが分かった。


 なぜだろう? 


 こうなることが嫌だったから、僕は今まで無意識に女の子を避けていたのかもしれない。


 そうだった。僕は思い出した。そうやって僕は自分が傷付かないようにひっそり生きてきたんだ。


 


 急に日曜日が気重になった。


 でも行かないわけにはいかない。約束は約束だから。


 僕は気持ちがどん底の状態で初めてのデート(練習?だけど)に臨むことになった。


 


 日曜日、僕は待ち合わせ場所である駅前にいた。女の子と生まれての待ち合わせだった。まあ練習だけど。


 彼女は青いワンピース姿でひょこんと僕の目の前に現れた。その姿はいつもの学校の制服とは全く印象が違うもので、一瞬誰だか分からなかったほどだ。


 青がとても似合っていて、率直に可愛いと思ってしまった。


 


「さあ。今日はデートの練習始めようか。どこ行く? なんかリクエストある?」


「あの・・・鈴鹿さんが行きたいところでいいよ」


 男として情けない答えだった。でも僕にデートをエスコートをする技量は無かった。


「んーそうだな。お魚とか見たいかな」


「え? 魚・・・魚市場とか?」


 彼女はきょとんとして僕を見た。


「ごめん、今、笑うところ?」


 彼女はまたケラケラと笑い出した。


「やっぱり君、おもしろいよ」


 


 ここのショッピングセンターには水族館が併設されており、僕たちはそこに行くことになった。水族館なんて小学校の遠足以来だ。


 数年ぶりに入る水族館は、小学校の時に入ったイメージとかなり変わっていた。何よりも、みんなおしゃれに作ってある。


「水族館はデートコースの定番だから。嫌いな女の子はいないよ。憶えといて」


 僕は女の子と二人で歩くだけでも緊張でいっぱいいっぱいだった。歩き方もぎこちないのが自分でも分かった。


 館内には色鮮やかな熱帯魚や珍しい深海魚が多くおり、普段なら落ち着いて楽しめそうなところだが、今の自分にはそんな気持ちの余裕は無かった。


 


「ねえ、見て見て。クラゲだって。綺麗だね!」


 彼女が目を輝かせながら言った。確かに綺麗だった。そもそも水族館にクラゲがいること自体が意外だった。


 クラゲって気持ち悪いイメージがあったのだがこんなに綺麗だったとは驚いた。


「本当、綺麗だね。クラゲってなんかのんびりしていて羨ましいな」


「どういう意味?」


 何も考えずに言ったセリフに突っ込まれた僕は言葉に詰まった。


「いや・・・なんか何も考えずボーっと浮いているだけみたいな感じがするから」


「クラゲはクラゲでいろいろと悩みがあるかもよ、きっと・・・」


 彼女はさらりと笑いながら言った。


 確かにそうだ。そう、見た目で判断するのは僕の嫌いなことだった。彼女のさりげない大人のツッコミは僕の心に突き刺さった。


 


「わー見て見て! ペンギンさんだよ。かっわいー!」


 彼女の目がさらに輝き出した。


「私ね、ペンギンって大好きなんだ」


「へえ、どうして?」


「ペンギンってさ、鳥なのに飛べないでしょ。だけどその分パタパタッと一所懸命に動いて、がんばってるーって感じがして、そこがすっごく可愛いくて好きなの」


「ダチョウや鶏も飛べないし、その分がんばって動いてるよね? やっぱり可愛いかな?」


「なんか君とは話が合わない気がしてきたよ」


 僕の回答が気に食わなかったのか、彼女は僕を横目で睨んだ。


「だから言ったでしょ。僕と話してもつまんないって」


 何を威張っているのか、僕は妙に開き直ったように答えた。やっぱり僕には女の子と洒落た会話は無理のようだ。


 


「わー見て見て可愛い! 何だろう、この小さい魚さん」


「ああ、これはシラスだね」


「え? シラスう? じゃあ、これがちりめんじゃこになるの?」


「鈴鹿さんは発想のポイントがユニークだね・・・」


 僕は褒めたつもりだったのだが、彼女には皮肉に聞こえたのだろうか、横眼で睨まれた。


「あ、本当だ。ここに書いてある。シラスがイワシになるまでって・・・ええ? シラスって大きくなるとイワシになるのお???」


「知らなかったの?」


「知らなかったよ。びっくりだあ。ブリとハマチが一緒くらいは知ってるけどさ。いやあ、長生きするもんだね」


 まだ高校生だろう、と突っ込もうと思ったが、また睨まれそうなので言うのを止めた。


「ちなみにブロッコリーとカリフラワーが同じ植物だって知ってる?」


 彼女の大きい目がさらに大きく開いた。


「うそおー・・・・・知らない・・・かった」


「おたまじゃくしが大きくなるとカエルになるのは知ってる?」


「ひょっとしてバカにしてる、私のこと・・・」


 彼女の顔がちょっと怒った顔になる。


 そうか。これは言ってはいけなかったのか。女の子とのコミュニケーションが極端に少ない僕は、会話の塩梅が掴めない。


 


 僕たちは水族館を出たあと、ショッピングモール内をぶらぶらと歩きながらまわった。


 彼女はある雑貨ショップに興味が湧いたようで、僕の手を引っ張り店の中に入った。


「見て見て! この日記帳可愛いと思わない? これ買っちゃおっかな」 


 彼女が見つけたのは花柄でベルト式の鍵が付いた日記帳だった。


「鈴鹿さん、日記つけてるんだ」


「ううん。私、文章書くの苦手だから」


 彼女は当たり前のように首を横に振った。


「じゃあ、なんで日記帳なんか買うの?」


「なんでって・・・可愛いからだよ」


「そういう・・・もんなの?」


「そういうもんだよ。女の子の買い物なんて」


「ふーん・・・そういうもんなんだ・・・」


 理解し難い女の子の買い物感覚に対し、僕は違和感よりも新鮮さを感じた。


 


 買い物をしたあと、僕たちはまたショッピングモール内をぶらついた。午後になると、家族連れやカップルで徐々に人が増えて賑わってきた。


「なんか喉乾かない? 喋りすぎたせいかな。何か飲んでいこうよ」


 僕はすぐ賛成した。確かに喉がカラカラだった。僕の場合は喋ることより緊張が主な原因だったかもしれないが。


 僕たちはショッピングセンター内にあるアメリカンスタイルのカフェに入った。


 僕は無難にアイスコーヒーを注文する。彼女は小慣れたようにナントカという長いカタカナ文字の飲み物を注文していた。


 詳細は分からないが女子向けの甘い飲み物だということは名前から推測できた。


 


 品物を受け取ると、店の奥に入って席を探した。


 店内は買い物客がちょうど休憩に入るタイミングのようで混み合っていたが、運よく窓際のカウンター席がふたつ空いていたので僕たちはそこに並んで座った。


 女の子と横並びで座ってお茶を飲むなんてことは生まれて初めてのことだったので、僕は舞い上がっていた。


 テーブルに向かい合って座るのとは全く距離感が違った。横を向くと彼女の吐息さえ感じられる。


 彼女に心臓の鼓動が漏れないように精一杯平然を装おうとしたが、多分駄目だったかもしれない。


 


 ――何か話さないと・・・。


 そう思えば思うほど焦って気持ちが空回りする。何を話せばいいのやら、僕の頭の中は全然まとまらない。


 すると彼女のほうから質問をしてきてくれた 。


 


「君さ、交換日記ってしたことある?」


「あの・・・『女の子と』って意味かな?」


「ごめん! 男子とならあるの?」


 元々大きい彼女の目がさらに大きくなり、疑うような顔で僕を見つめた。


「ああ、いや。どっちも無いよ。女の子と付き合ったことも無いのに。あの・・・鈴鹿さんは?」


「よかった。君、そっちの方面の人かと思ったよ。うん。私も交換日記は無いかな。私あんまり文章力無いし。本当は文章を書くより絵を描くほうが好きなんだけど。でもね、好きな男の子と交換日記って昔から憧れてたんだ」


「今時、交換日記なんてする人なんていないんじゃないの? 僕らの両親の時代ならけっこうあったみたいだけど・・・今はラインとかメールがあるし」


「んもう、分かってないなあ。自分の字で心を込めて書くから気持ちが伝わるってもんなの。それに日記帳なら紙に書くから言葉がずっと残るでしょう?」


「気持ちだけが伝われば、わざわざ言葉を字にしなくてもいいんじゃない?」


「女の子はねえ、気持ちだけじゃなく言葉を形にして残したいの」


「そういう・・・もんなの?」


「そういうもんだよ」


 ――そういうもん・・・なんだ。


 僕は心の中で呟いた。女の子とまともに話をしたことのない僕にとって、彼女との会話は新鮮なことばかりだった。


 


「ねえ、交換日記しない?」


「え? 鈴鹿さん・・・と?」


「誰としたかったの?」


「・・・・・」


 どういうつもりで言ってるのか、彼女は僕を睨んだ。


「だってせっかく可愛い日記帳買ったしさ。えー、嫌なの?」


「いや、あの嫌ってわけではないんだけど、実は僕も日記なんてつけたことないんだよね。文章を書くのすごい苦手だし。変に理屈っぽくなっちゃうんだ」


 そう、僕は日記はおろか手紙すらほとんど書いた記憶がない。


「ふーん。そっか。ねえ、君が好きなクラスメートって、誰?」


 いきなり話題変えて振ってくるのも、どうも彼女の癖らしい。しかもグイグイと顔を近づけて迫ってくる。


 


「いや、ごめんね・・・いきなりそんなこと訊かれても・・・」


「いいじゃない、教えてよ。誰にも言わないよ。大体、私クラス違うし」


 僕は考えた。でも本当に答えに困った。気になる子がいるにはいたのだが、その子はクラスメートではなかったからだ。


「じゃあ。誰にも言わないでよ」


 僕は、その子の変わりにクラスの中で一番人気のある女子の名前を挙げた。


 正直、僕はその一番人気の子に対して『好き』という感情は全く持ってなかった。


 しかし、誰の名前も挙げないと彼女の追及がめんどくさくなりそうだったので、つい好きでもない子の名前を挙げてしまったのだ。


 


「あー知ってるよ。長い髪の子だよね。美術クラス一緒だし。そっかー、ああいう子が好みなんだ。確かにあの子美人だし、男子に人気ありそうだね」


「でしょ。僕なんて全然相手にされないよ」


「んーそんなことないと思うよ。女の子ってけっこう積極的な男子に弱いからチャンスあるかも」


「だったら尚更だよ。僕は消極男子のクラス代表だよ」


「フフッ、いつ選挙があったの? 私も投票したかったな」


 彼女はまたケラケラと笑い出した。本当によく笑う。いや、笑い過ぎだ。


 


「鈴鹿さんは? 付き合ってる人いるの?」


 以前の僕ならこんなこと絶対に訊けなかっただろう。よく言った、と自分で思った。


「おお! 反撃にきたね」


 僕の鋭いと思った質問に対し、彼女はなぜか嬉しそうな反応をした。


 でも、そのあと急に困った顔になり、そして唸りだした。


「うーん・・・・」


 とぼけているのだろうか。僕は思い切って核心に迫った。


「あのサッカー部の? 武田君っていったっけ? 彼は?」


「ああ、克也ね!」


 僕の訊き方もわざとらしかったが、彼女の思い出したような答え方もわざとらしかった。どう見ても誤魔化しているように感じた。


「そうだね。彼はけっこうイケメンだし、スポーツマンだし、女子としては一番彼氏にしたいタイプかもしれないね」


 付き合ってるの?・・・とさらに訊きたかったが、そこまで突っ込めなかった。


 


「ねえ、その子に告白してみなよ。私、応援してあげる」


「だから僕にはそんな度胸無いって」


「ああ・・もしかしたらフラれるのを、怖いとか、かっこ悪いとか思ってない?」


「そりゃだれだって・・・そう思うでしょ?」


「そんなことないよ。何も行動しないでそのまま終わるよりも、たとえ駄目だったとしても行動しないと。たった一度の短い人生だよ。もっと積極的に行かなきゃ」


 僕は彼女の言葉に少しイラッときた。結局、彼女は気の弱い僕をからかっているんだ。


「別にいいよ。もともと僕は積極的な性格じゃないし、なろうとも思わない」


 


 僕は嘘をついた。


 彼女のような積極的な性格に本当は憧れてた。そうなりたいと思っていた。でも、どうせそんな風にはなれないと思い込んでいる自分が自分に嘘をつかせた。


「大体さ、鈴鹿さんは何でそんなこと僕に言うの?」


 僕の声のトーンが無意識に大きくなっていた。


「んー。君っていつも一所懸命だから、応援したくなっちゃうから・・・かな?」


 なぜだろう。僕の心の中がイライラ感に覆われてくる。彼女の言動のせいだろうか。


 もしくは昨日の彼の言った言葉のせいだろうか、自分の感情のコントロールが利かなくなっていた。


 こんなこと初めてだった。


 


「もういいよ!」


 僕は吐き捨てたように叫んだ。


「どうしたの? 名倉くん」


 彼女は僕のその声の大きさにびっくりしていた。


「鈴鹿さんはさ、内気で恋愛下手の僕をおもしろがっているだけでしょ?」


「そんなことないよ。名倉くん、何でそんなこと言うの?」


 彼女は僕の感情の高ぶりに戸惑っていた。僕自身、なぜこんなに感情的になってしまっているのか分からなかった。でも一度崩れた僕の感情は抑えられない。


「大体、僕が誰を好きになろうが、告白しようがしまいが、鈴鹿さんには関係ないでしょ! 鈴鹿さんはあちこちの男子と遊んで付き合ってるんだろうけど、僕は鈴鹿さんみたいに軽くないんだよ!」


 


「何? それ・・・」


 彼女の声が急に強張った。


 


 二人の間の空気が一瞬に張り詰める。


 ――今、何を言ったんだ、僕は?


 僕は後悔の念に駆られた。


 ――怒らせた? 彼女を・・・。


 僕は、言ってはいけないことを言ってしまったんだと気づいた。


 こんなことを言うつもりはなかった。僕は彼女の顔を怖くて見ることができなかった。かなり怒っているに違いない。


 ――どうしよう。謝らないと・・・。


 


「あ、あの、ごめ・・・」


「そんなふうに思ってたんだ! 私のこと・・・」


 彼女の強い口調の声が僕の声を遮ぎった。


 そして、彼女はゆっくりと立ち上がった。


 ――怒鳴られる。


 そう思った。でも僕にはもう言葉が無かった。


 


「君だけは・・違うと思ってたのに・・・」


 ――え?


 僕はびっくりした。その呟くようなとても小さく悲しそうな彼女の声に。彼女のこんな声を聞いたのは初めてだった。


 ―─早く、早く謝らないと・・・。


 焦ってそう思った時、彼女はそのまま出口のほうへ早足で向かっていってしまった。彼女の目が赤く潤んで見えた。


 ――涙?・・・。


 それを見た時、僕は彼女を怒らせたのではなく、傷付けてしまったんだということに気がついた。


 


 ――最低なヤツだ・・・僕は。


 今までに記憶に無いような猛烈な自己嫌悪感に僕は襲われた。


 ――僕は彼女に何を言ったんだ?


 何であんなことを言ってしまったのか、僕自身も分からなかった。


 僕は彼女の何を知っているというんだろう。彼女のことなんてまだ何も知らないくせに。他人からの話だけを鵜呑みにして彼女のことを侮辱したんだ。


 


 侮辱・・・それは僕が一番嫌いな行為だった。


 人に侮辱されることよりも、人を侮辱することが何よりも嫌いだった。


 僕は彼女を侮辱して傷付けてしまったんだ。


 


 僕はすぐに彼女のあとを追った。 店の外に出てまわりを見渡した。でも、彼女の姿はすでに見えなくなっていた。


 僕は店の前で一人呆然と立ち尽くした。いつの間にか、あたりはすっかり暗くなっていた。


 上着を店内に置いて出てきたせいだろうか、強い春風がとても冷たく感じた。


 僕は一人で家に帰ってからも、頭の中は自己嫌悪でいっぱいだった。彼女のあんな寂しく悲しい声は初めてだった。


 


 僕はなぜあんなことを言ってしまったのだろうか。


 このまま彼女との関係は終わってしまうのだろうか。いや、関係といっても正式に付き合っていたわけではない。


 このまま彼女に嫌われて、これっきりになるのかもしれない。でもそれも仕方がないことだった。僕が悪いのだから。


 だけど、やはり僕は彼女はきちんと謝りたかった。彼女を傷付けてしまったことを。


 ――そうだ。明日、学校で彼女に謝ろう。


 そう決意し、僕は寝床に入った。


 


 なかなか寝付けなかった。時間が経つのが異様に長く感じられる。


 早く明日にならないだろうか。気ばかりが焦った。彼女に早く謝りたい。そんなモヤモヤした焦る思いで体の中がいっぱいになっていた。


 眠れない。こんなに気分が悪い夜は記憶に無い。


 


 ウトウトしながらもゆっくりと時間が過ぎていく。


 気がつくと窓の外は明るくなっていた。どうやら夜が明けたようだ。


 結局、夕べは眠れたのか眠れなかったのか、自分でもよく分からない。


 朝食は全く喉を通らかった。僕は居ても立ってもいられず、早めに家を出ることにした。


 彼女とはクラスも違うし、教室に入ってしまったあとは話せる機会が無いだろうから、登校前に校舎の前で彼女を待って謝ろう、そう考えた。


 


 いつもより一時間ほど早めに学校に着く。


 時刻は七時半をまわったくらいだろうか。校門の前にある一戸建て住宅の屋根の上から朝日が眩しく差し込んできた。


 登校している生徒はまだ疎らだ。早朝練習の部活の生徒がランニングをしていた。


 今朝はいつもよりちょっと肌寒い。吐き出された息が顔の前の空気を白く濁した。小鳥たちのさえずりが聞こえる。


 


 僕は下駄箱の前で彼女が現れるのを待つことにした。


 そう言えば彼女はいつも何時ころ登校するのだろう? 無計画極まりないが、僕は何時間でも待つ覚悟でいた。


 早い時間は生徒が少ないため人を捜すことは簡単だ。だが時間と共に登校する生徒の数が増えてくると、それがだんだんと難しくなってくる。


 僕は彼女を見過ごさないように門から入ってくる生徒を懸命に目で追った。


 


 ――見逃すな・・・。


 疎らに行きゆく生徒を何人か見送っている時だった。僕は気がついた。


 ――あれ?


 僕の鼓動が全身に響いていた。ただ人を待っているだけなのに。


 ――何だろう・・・この胸が締め付けられる感じ。


 それは今まで経験したことのない感覚だった。


 


 待ち始めてしばらく経った時、遠目だが校門を通り抜ける彼女の姿が目に入った。


 稲妻のような緊張感が僕の心に突き刺さる。


 ――来た!


 彼女が下駄箱の入口に入るタイミングに合わせるように、歩幅の間隔を合わせていく。


 ちょうど下駄箱の入口に入る直前に彼女の横に付いた。


 その瞬間だ。僕に気づいたのだろうか、彼女が一瞬こちらを見た。


 ――よし! 今だ!


「お・・おはよう!」


 僕は目一杯に気持ちを振り絞って声を掛けた。


 しかし、彼女は黙ったまま下を向いていた。


 何か呟いた気がしたが、こちらを向いてはくれなかった。


 廊下の向こう側で彼女のクラスメートが手を振っている。


「咲季ィー、おはよー」


「あ、おはよ!陽菜」


 彼女はクラスメートに元気に返事をして、小走りに行ってしまった。僕はただポツンと一人取り残されたように下駄箱の前で突っ立っていた。


 ――ああ、無視・・・されちゃった。


 覚悟はしてはいたが、こうあからさまに無視されるとやっぱりショックだった。


 でもそれも当然だ。それだけ彼女の怒りが大きいということだろう。


 


 彼女の教室へ行って、そこで謝ろうと機会を伺ったが、今日は合同の美術の授業は無かったし、彼女のまわりはいつも友達でいっぱいで二人で話ができるようなタイミングは全く無かった。


 ――もういいか。やろうとしたことはやったし。


 言い訳がましく諦めようとする自分がいた。


 いや、駄目だ。彼女を侮辱して傷付けた自分を許せない。


 今までの自分であればここで諦めていたかもしれない。


 でも今回は違った。


 彼女が僕を許してくれなくてもいい。ただ謝りたい。その気持ちだけが諦めることなく、僕を動かしていた。


 


 放課後のチャイムが鳴る。今日は部活の日だ。でも僕の心の中は部活どころではなかった。


 同じテニス部の二年生に体調が悪いので休むとの伝言を頼んで、僕は彼女を学校の帰り道で待つことを決めた。


 部活をサボるのは高校へ入ってからは初めてだ。これも別に“真面目”というわけではない。サボる度胸が無かっただけのことだ。


 


 待ち伏せ場所には学校近くの中央公園を選んだ。そう。以前、部活のランニング中に、彼女があの男子生徒と一緒に歩いているのを見た所だ。


 ――でも、またあの彼氏と一緒だったらどうしよう?


 頭の中で余計な考えが走馬灯のようにぐるぐると回り始めた。


 変に先に考えてしまうのは僕の悪い癖だった。


 僕はなるようにしかならないと自分に言い聞かせながら覚悟を決めて待つことにした。


 そういえば、このように女の子を待ち伏せするのは今日が生まれて初めてのことではないだろうか。


 


 公園の中にある管理事務所の角で彼女を待つことにした。ここなら学校方面から来る生徒をきれいに見渡せる。


 行きゆく生徒を何人か見送っている時、僕はまた同じ感覚を覚える


 ――あれ? また?・・・。


 僕の鼓動が再び全身に響いていた。


 ――何か・・・苦しい・・・。


 


 しばらくの時間が過ぎた。でも彼女の姿はまだ見えなかった。


 公園を歩道をランニングする人がたびたび通り過ぎる。だんだんと風が冷たくなってくるのを感じる。


 特に時間の意識をしていたわけではなかったが、一時間くらいは経っただろうか。


 僕はちょっと遅すぎるように思い始めた。もしかして帰り道を勘違いしてた? もしくは別の道で帰ってしまったか? 


 西の空に傾いた大きな夕日が新興住宅街の向こう側へと傾きかけていた。


 まわりの空気が冷え込んでくるのに合わせ、だんだんと僕の気持ちも弱気になってくる。


 ――やっぱり、ここは通らないのかな・・・。


 


 今日はもう会えそうもないと思い、諦めて帰ろうと振り向いた瞬間だった。見覚えのある生徒の集団が掛け声をかけながら走ってきた。


 ――あ、まずい!


 僕は思わず心の中で叫んだ。テニス部の部員がランニングしてこちらに向かってきたのだ。


 そう。ここはテニス部の練習締めのランニングコースだった。そんなことも忘れるほど僕は冷静さを失っていたらしい。


 今日は病院へ行くと言って部活をさぼってるので見られたらまずいのだ。僕はすかさず管理棟の建物の陰に隠れた。


 


 部員の掛け声が管理棟の反対側を通り過ぎていく。


 ――どうかバレませんよに・・・。


 祈りながら部員の掛け声が通り過ぎるのを待つ。徐々に掛け声が小さくなり、遠ざかっていくのが分かった。


 ――いやあ、危なかったな・・・。


 僕は、ほっと一息をついた。そして振り返って顔を上げた時に僕の体は氷のごとく硬直した。


 彼女が目の前にびっくりした顔で立っていた。


 もちろん、僕もびっくりした。


 どうも自分が来た遊歩道とは別のルートで来たようだ。


 


「何してるの? こんなとこで」


 彼女は少し怒ったような口調で言った。僕の頭はパニック状態に陥った。


 ――ああ、ど、どうしよう?・・・。


 昨夜から言おうと、せっかく準備していたセリフはすべて頭から消し飛んでいた。


 ――そうだ、とにかく謝まらなきゃ。


「ご・・・ごめんね。きのう鈴鹿さんに酷いこと言っちゃって。本当に・・ごめんさない」


 僕はひたすら謝った。それしかできなかった。


 まわりから見たらとてもカッコ悪い姿だろう。でも、そんなことどうでもよかった。


 僕自身が許せなかったから・・・。僕自身がとにかく彼女に謝りたかったから・・・。


 


「もしかして私を待ってたの? ここでずっと」


 僕は黙って頷いた。彼女の顔は見られなかった。


「まるでストーカーみたい・・・」


 呆れたような冷たい口調で彼女は言った。そう言われても仕方ない。その通りだ。悪いのは僕なんだから。


 しばらく嫌な沈黙が続いた。


 


 ――確かにこれじゃあストーカーだよな。


 心の中で失笑した。


 僕は、これ以上つきまとわったら彼女に迷惑だと思い、これで帰ることにした。


「本当にごめんね。じゃあ、さよなら」


 僕はもう一回大きく頭を下げたあと、彼女に背を向けて歩き出した。


「ちょっと! どこ行くのよ?」


 彼女が怒ったように叫んだ。


「え?」


 


 腹の虫がまだ収まらないのだろうか。彼女は僕を呼び止めた。


 ――文句が言い足りないのかな? でも、仕方ないよな・・・。


 僕は再び彼女のほうに振り向いた。


「あの、ごめんね・・・何?」


「あのさ、私の家、あっちなんだけど・・・」


 彼女は僕が帰ろうとした道の反対の方向に顔を向けた。


 


「え? あの・・・・」


「ストーカー・・・怖いからさ、送ってくれる?」


「え?」


 僕は彼女の言葉の意味が理解できず、ただ黙って固まった。


 彼女はそんな僕に目を合わせず、反対のほうを向きながら叫ぶように言った。


「だからあ、私を家まで送ってって言ってるの!」


 ――え?


 


 僕は彼女の言葉が何を意味するのか、理解できないでいた。


 僕と彼女は新興住宅街の少し下り気味の坂道を二人並んでゆっくり歩いている。


 すぐ横に僕の歩幅に合わせて歩いている彼女がいた。


 彼女はずっと黙っていた。僕は一緒に歩いてくれている意味がまだ分からずにいる。


 


 これは何だろう? 


 許してもらえたということだろうか? もしくは何かの罰ゲーム?


 でも、言葉に出してそれを確認するのが怖かった。


 


「本当に・・・ごめんね」


 僕はもう一度謝った。


 すると、彼女はやさしく微笑みながら顔を横に振った。


「もういいよ。私こそ朝ごめんね。無視するつもりはなかったんだよ」


 ――え?


「私も君に『おはよう』って言おうと思ったんだけど、君とこんな風にもう話せないのかな、とか考えてたら悲しくなっちゃって声が出なかったんだ」


 ――え?


 思いもしなかった彼女の優しい言葉に僕の頭の中は真っ白になった。


「あ、どれくらい待ったの? 陽菜がハンバーガー食べて行こうって言うからマックに寄ってきちゃったんだ。君が待ってるって分かってたら断ったのに・・」


「いや、僕が勝手に待ってただけだから」


「君はいっつも自分のせいにしちゃうんだよね・・・でも、よかった」


「え?」


「ううん。何でもない」


 


 またしばらく沈黙が続いた。でも、さっきまで感じていた不安な気持ちは消えていた。


 僕は彼女の歩幅に合わせて並んで歩いていく。歩く速さをお互いに合わせているような感覚だった。


 なんだろう、この感じは。足に宙に浮いているような感覚だった。でも、何かとても気持ちがいい。


 昨日も街中で一緒に歩いたが、人ごみの中で歩くのとは全く感覚が違った。


 二人きりでいるという感覚と春の暖かい風と香りが、僕を何とも例えようもない気持ちにさせていた。


 目の前の夕焼け空が茜色に染まっていて、とても綺麗だった。


 


 彼女の足が突然止まった。


「ここ・・・私の家」 


 ずっとボーっとしていた僕はハッとなった。


 ――あ、家に着いたんだ。


 二人で歩いていた時間がすごく短く感じられた。


 ――ここでお別れか。


 せっかくいい感じになったのに残念だがまあいいか。彼女と仲直りできたし。


「あの・・・ありがとう、送ってくれて」


「うん。じゃあ、また明日」


「うん。じゃあね」


 名残惜しい気持ちを抑え、来た道をそのまま戻ろうと反対を向いたその時だった。


「あのさ!」


 彼女の声に僕は振りかえる。


「え?」


「あの、ちょっと・・・寄ってく?」


 彼女は僕に目線を合わせず、空を向きながらさらっと言った。


 予想外の彼女の言葉に僕は戸惑った。


「え? 鈴鹿さんの家に?」


「誰の家に行きたかったの?」


「・・・・・」


 


 気がつくと、僕は彼女に連れられてレンガづくりの門扉をぬけていた。


 玄関までの長いアプローチのまわりに色とりどりの花が綺麗に咲き並んでいた。きっと家族がガーデニング好きなんだろう。


 


 彼女は制服のポケットから鍵を取り出し、玄関のドアに差し込んだ。


「あれ?」


 驚いたように彼女が呟いた。


「お母さん。帰ってるのかな・・・」


 どうやら鍵が開いていたことが意外だったようだ。


「あ、名倉くん、どうぞ」


「あ、うん。おじゃまし・・・ます」


 僕は彼女のあとに続き、恐る恐る玄関のドアをくぐる。とてもいい香りがした。


 女の子の家に入るなんていうのは、僕の記憶の限りでは小学校の学芸会での劇の練習でクラスメートの女の子の家に集まった時以来ではないだろうか。


 


「ただいま!」


  彼女が家の中に声を掛ける。


「おかえり」


 中から上品そうで綺麗な女性が出てきた。彼女のお母さんだろう。どうやら彼女はお母さん似のようだ。


「お母さん、今日は早かったんだね」


「ええ。さっき帰ったばかりだけど。会社の用事で寄るところがあって、そこからそのまま帰ってきちゃったの」


 スーツが綺麗に決まっていた。キャリアウーマンという感じがする。


 


「あら、お友達?」


「うん、学校のお友達なの。名倉くん。ここまで送ってくれたんだ」


 彼女はちょっと戸惑った感じで答えた。


 ――やっぱり、来ちゃマズかったのかな・・・。


 僕は半分後悔しながらも緊張しているのを悟られないよう平然を装おうとした。だが、恐らく顔が強張っていてバレバレだったろう。


 


「あ・・・突然すいません。名倉・・・です・・・おじゃまし・・ます」


  声がひっくり返った。


 ――ああダメだ! 緊張して思うように声が出ない。


「いらっしゃい。どうぞ」


 ガチガチに緊張している僕を見ておかしかったのか、お母さんはクスっと笑った。


 顔から火が出るほど恥ずかしかった。そんなお母さんの様子を見てか、彼女はお母さんを睨んでいた。


 お母さんは彼女に何か謝るような仕草をした。僕は意味が分からなかった。


「咲季の部屋にする? あとでお茶持っていくわね」


 そのまま二階にある彼女の部屋へと案内された。


 


「入って。ちょっとちらかってるけど」


 彼女の部屋は、僕がイメージしていた女の子の部屋とはけっこう違っていた。


 女の子にお決まりのぬいぐるみはあるものの数は少なく、少女漫画チックな飾りもない。必要なものがしっかりと揃っているシンプルなものだった。


「あ、誤解しないでね。この家に男の子入れるのは高校に入ってからは君が初めてだよ」


 僕はその言葉に、意外という気持ちを感じずにはいられなかった。


「男の子なら誰でもホイホイ家に入れるような女の子じゃないよ」


 彼女は頬を膨らませ、意地悪そうに僕を見つめた。


「ごめん。もうかんべんして」


「フフ。あ、座って座って。今お茶入れるから」


 


 ドアのノックの音が鳴る。


 彼女が返事をしたと同時にお母さんがお茶を持って入ってきた。


「あっ、ごめんなさい。ハーブティーだけどよかったかしら?」


「あ、はい。ありがとうございます」


 彼女はお母さんからお茶を乗せたトレイを受け取った。


「あ、咲季。私これから買い物に行ってくるから。夕方まで戻れないけど、あとよろしくね。名倉君・・だっけ。じゃあ、ゆっくりしていってね」


 ――え? お母さん出掛けちゃうの?


 もしかして気を利かせてるのだろうか?


「いってらっしゃい」


 彼女がドアの前でお母さんを見送った。


 ――ていうことは今、家には彼女と二人きり・・・。


 元々緊張しているところに僕の緊張はさらに膨れ上がった。


 ――まずい。もしかして僕、顔赤くなってる?


 


「あー君、今、もしかしてやらしいこと考えてない?」


 彼女の絶妙なタイミングの突っ込みが鋭利な刃物のように僕に突き刺さる。


 彼女はカンがすこぶるいいのか、もしくは気配を読み取るのが得意なのか。いや、違う。ただ僕の態度がバレバレなだけだろう。


「ごめん。いや、女の子の部屋とか、こういうのに全然慣れてなくて・・・」


「フフッ、そんなに緊張しないでよ。もしかして女の子の部屋に入るの初めてとか?」


 僕は顔をひきつりながら頷いた。


「ふーん」


 彼女はなにやら嬉しそうにそう言いながらティーカップを僕の前に静かに置いた。カップの置き方がサマになっていていた。


 


 彼女は僕の前に座った。


 僕はティーカップを口元には運び、お茶一口をすする。彼女もティーカップを持ち、少し口に含んだ。


 張り詰めたような沈黙の時が続いた。


 


 時間としては多分僅かだっただろう。しかしガチガチに緊張した僕の体には拷問のように長く感じられた。


 ――何か喋らなきゃ・・・。


 そう思いながらも、焦って気だけが空回りする。


 


「あの・・・さ・・」


 僕は声を振り絞った。


「うん?」


 彼女が首を傾げる。


「あの・・・ハーブティって・・・ハーブの味がするよね」


 彼女はお茶を口に含んだまま目を大きく広げ、不思議そうに僕の顔を見つめていた。


 ――僕は一体何を言ってるんだ?


 また自分に呆れ果てる。


 人は緊張した時、そこで力を発揮するタイプと萎縮してダメになるタイプがいるというが、僕は圧倒的に後者だ。


 こんなことしか言えない自分が恥ずかしかった。彼女は懸命に笑いを堪えているようだ。


 


「名倉くんってやっぱりおもしろいよね。ちなみに君はハーブって食べたことあるの?」


「あ、そういえば・・・無いかも・・・」


 堪え切れず彼女は大声で笑い出した。


「ごめん。そんなに可笑しかったかな?」


「あ、笑ってごめんね。でも名倉くんって絶対おもしろいよ。言われない?」


「まあ、確かに・・・言われることあるけど・・・」


「だよね!」


 彼女はまた笑い出した。


「でも僕は人を笑わせようとしているわけではないんだよね。自分としては普通にしているだけなんだ。プロの芸人みたいに笑わせようとして笑わせてるわけじゃない。だから僕は人に笑われてるだけなんじゃないかなって思ってる」


 そう。自分としては普通にしてるつもりなんだけど、みんなと普通がズレているのかもしれない。


「ごめん。私は君のこと変な意味で笑ってるわけじゃないよ。君といると、何かとっても楽しいんだ」


「ごめんね」


「だから、何でここで謝るの?」


 彼女はまた笑い出した。


 


 その時、僕は思い出した。彼女に本当に謝らなきゃいけないことがあったんだ。


「あの・・・きのうは本当にごめんね」


 僕は昨日のことをまた謝った。


「フフ、だからもういいって。でも実は昨日、私も帰ってから思ったんだ。


 私もなんかムキになって喋ってたし、何か怒らせること言っちゃったのかなって」


 僕は黙ったまま首を横に振った。そんなことを思わせてしまってたんだ、僕の無神経な一言で。


 僕はデートの日の前日に彼女のクラスメートの男子生徒から言われたことを全て正直に話した。そして、どうしてああいうこと言ってしまったのか、ということも。


 下手な言い訳ができる頭を持っていなかったし、自分にできることはすべて正直に話すことしかないと思ったから。


 


「そうだったんだ。ごめん、私、何も知らなかった・・・」


「いや、僕が悪いんだから謝らないで」


「そっか。男の子から見たらそう感じちゃうんだね。やっぱり私が悪いのかな。私はみんなと仲良くしたかったんだ。みんな大切な友達だし、女の子も男の子も。だからさ、男の子から『友達からでいいから付き合って』って言われたら断れないじゃない?」


「じゃあ、その男子のことを好きじゃなくても『付き合って』って言われたら付き合うの?」


「うん。だってその男の子のこと嫌いじゃなかったし、本当にいいお友達だと思ってたし」


 今になって分かった。彼女は誰とでも簡単に付き合うっていうわけではなかったんだ。少なくとも彼女自身はそう思っていた。彼女はみんなと仲良くなりたかっただけなんだ。


 でも、男はそれを都合良く誤解してしまう。


「告白した男子からすると、交際をOKしてくれたんだから、やっぱり自分のことを好きになってくれたんだって誤解しちゃうと思うよ」


「そっか・・・やっぱりそうなんだね・・」


 彼女は自分自身を納得させるように言った。


 彼女の噂は、彼女の断れない性格、『友達から』という言葉を額面通りに受け止めてしまう素直さ、みんなと仲良くなりたいという積極的な気持ちと行動や言動が合わさってできあがった不幸な産物だったんだ。


 彼女の言ってることはきっと正論なのだろう。しかし男はそこに自分勝手な都合のいい解釈をしてしまう生き物なのだ。でも、男の僕からしたら、それは責められることではない。


 


「あの・・・やっぱり彼・・・武田君とは付き合ってるの?」


 ――何を訊いているんだろう僕は。


 気がついたら口から出てしまっていた。ずっと気になって仕方がなかったからだろう。


 彼女はびっくりしたような顔で僕を見た。


 ――ヤバ・・・唐突すぎたかな?


「どうしてそんなこと訊くの?」


「え? あ、ごめんね」


 まさかの逆質問に僕は戸惑う。


「あ、ごめん。私も逆質問しちゃったね」


 彼女はハッとしたように謝った。


「ごめんね。前に武田君と仲良さそうに一緒に歩いてるの見たことあるから、付き合ってるのかなあって・・・」


 僕は誤魔化したように答えた。こういうところが自分の嫌いなところだった。


「へえー、私のこと少しは見ててくれてたんだあ・・」


 彼女はなぜか嬉しそうに言った。でも、そのあとしばらく黙ってしまった。


「うん。実はね、確かに付き合ってたよ。でもこの間、別れちゃったんだ。


 そうか・・・だから克也、君にそんなこと言ったのかな・・」


「あの・・・どうして別れ・・・」


 僕は慌てて言葉を止めた。


 ――また何を言い出すんだ僕は。


「ごめんね。今の忘れて」


「ふふ。君ってけっこうストレートなんだね。意外だな。大丈夫、気にしないで」


 彼女は嫌な顔をするどころかニコリと微笑んだ。


「そうだね。彼のことは嫌いではなかったんだけど、やっぱり『好き』って気持ちにはなれくてさ。なんかずっとギクシャクしてたんだ。そしたら彼からちょっと酷いこと言われちゃって・・・・でも結局、私が悪かったんだね」


 僕は正直驚いていた。自分から訊いたものの、こんな風に素直に話してくれるとは思わなかったから。


 でも、せっかく話してくれたことに対して、僕は何も言えず、ただ黙って聞いていることしかできなかった。


「やっぱり女の子と男の子の関係って難しいよね。誤解したり、されたり・・・。こういうことって男の子に聞かないと分かんないことが多いんだね。でも私さ、確かに何人かの男の子と付き合ったことあるんだけど、別にいいかげんな気持ちで付き合ったつもりはなかったんだよ。


 だけど、その男の子のことを好きだったかって言われると、確かに自信が無いんだ。今まで付き合った男子って、みんな向こうから告白してくれた人ばっかりで、私から告白した人っていないんだよね」


「好きな男子がいなかったの?」


「ううん、そんなことないんだけど・・・」


 彼女はなぜか照れたような仕草をしながら考え込んだ。


「あのね。女の子って、積極的に見えたとしても、本当はすっごい臆病だったりするんだよ。臆病で恥ずかしがり屋だからこそ、わざと積極的に大袈裟に喋ったりふざけたりして、その恥ずかしさを隠したり誤魔化そうとするの」


 とても意外な言葉だった。彼女に臆病なんて言葉似合わない、そう思っていたから。


 


「あの・・・さ」


 彼女が急にかしこまった声になった。


「なに?」


「あのさ、君には誤解されたくないから言っておきたいんだけど、私は名倉くんのこと・・・」


「分かってるよ!」


 慌てたように僕は彼女の言葉を遮った。


「鈴鹿さんは僕のことを恋愛対象としては全然みていないってことでしょ」


 分かっているんだ。彼女に言いたいことは。僕は彼女から出てくるだろう言葉を自分のほうから切り出した。


 ぼくは彼女の口からその言葉を聞きたくなかった。


 僕は臆病で卑怯な奴なんだ。自分から言うことで自分が傷付くことを少しでも和らげようとしていたのかもしれない。


 


「え?」


 彼女はちょっとびっくりした顔でこちらを見た。


「大丈夫だよ。僕は変な勘違いしないから。そんなに自惚れてないよ。


 それに僕も鈴鹿さんのことは恋愛対象として全然考えてないから安心していいよ」


「あ・・・だよね。うん、よかった・・・」


 何か戸惑ったような彼女の返事だった。僕は彼女と目を合わせることができず、ずっと外を眺めていた。


 


 僕が彼女に対し恋愛感情が無いというのは嘘だった。でも、この嘘は彼女についたのではない。僕自身に嘘をついたのだ。


 彼女はしばらく黙っていた。沈黙の時間が続いた。


 


 ――あれ?


 気まずい空気になったのを感じる。僕はまた何か変なことを言ってしまったのだろうか。


 すると、彼女は僕のほうを一回見たあと、優しく微笑んだ。


「あの、私、名倉くんは・・今のままでいいと思う」


「え?」


 唐突な彼女の言葉に僕は戸惑った。


「ごめんね。私、昨日は君に、変わらなきゃダメだとか、積極的にならなきゃダメだとか言っちゃったけど、名倉くんは、やっぱり今のままでいいと思う」


 どうやら彼女は昨日、僕にいろいろと言ってしまったことを気にしているようだった。


「ううん。いいよ気を使わなくって。鈴鹿さんの言ったことは正しいんだ。


 実は僕自身もそう思ってた。だけど、鈴鹿さんに言われたことがあまりにも的を得ていたからかな。変に反論しちゃったんだ。ごめんね。鈴鹿さんは何も悪くないから気にしないで」


「違うよ!」


 彼女は慌てたように叫んだ。


「え?」


 その声に僕は驚いて顔を見上げた。


「違うよ・・・私、本当にそう思ってる。君は今のままでいい・・・」


「そんなことないよ。僕は今のままじゃダメなんだ。やっぱり自分を変えないといけないと思ってる。鈴鹿さんの言う通りなんだよ」


 彼女は目を下に向けたまま黙って首を横に振った。


「無理に自分を変えてもだめだよ。無理に変えたら君が君でなくなっちゃう。


 君らしい君じゃないとだめなんだよ。だって、私はそんな君が・・・」


 そこで彼女の声が呑み込まれた。


 


「え?」


「ごめん。何か変なこと言ってるね、私」


「あの、僕らしい僕って・・・どんな人間なのかな?」


 その僕の言葉に彼女はふっと笑った。


「そうか・・・君は自分の魅力が分かってないんだね」


「分かるもなにも僕に魅力なんてあるのかな?」


 彼女は今度はふうっと大きくため息をついた。


「あるよ。その君の魅力を分かる人がきっといるよ」


 


「・・・どこに?」 


 僕は一拍おいてから訊いた。


「うーん。この宇宙、きっとどこかにいるよ」


「せめて地球人でいて欲しいな」


「へーえ、君、ストライクゾーンけっこう広いんだね」


 そう言っておちゃらけて笑う彼女を僕は横目で睨んだ。その僕の顔を見て、彼女はさらに目を細めて微笑んだ。


 しばらく笑っていたあと、彼女はふっと静かになってまた僕のほうを向いた。


 


「あの、実を言うとさ・・・」


 また唐突に彼女が呟いた。


「え?」


「同じなんだ・・」


「何が?」


「君、前に言ってたじゃない? 人と話す時に相手の人の目が見られないって」


「うん、言った・・・」


「実は同じなの・・・私も」


「え?」


「私も人と話す時、相手の人の顔や目を見られないの」


 彼女は視線を落としながら恥ずかしそうに言った。


「ほんと・・・に?」


「うん。だから同じ気持ちの人がいるんだなって分かって、私すごく嬉しかったんだ」


 その告白とも言える言葉に僕は当然驚いた。と同時にとても嬉しくなった。僕の知らない彼女がどんどん見えてくるようだった。


 


「よかった。やっぱりいるんだ、同じ人。人と話をする時にその人の目を見ないでいると、『なんで人の目を見ないの?』とか言われちゃうこと無かった?」


「あったあった。でさ、そう言われるから懸命に目を見ようとがんばるんだけど、相手からジッと見つめられるとすごく恥ずかしくなっちゃうんだよね。私なんかすぐ目を逸らしちゃうんだ。なんでみんな恥ずかしくないんだろうね。そう思わない?」


「そう。僕もそう思ってた。頑張って目を見ようとするんだけど、ダメなんだよね。すぐ恥ずかしくなっちゃうんだ。でも鈴鹿さんはちゃんと人の目を見て話をしているように見えたけど」


「ああ、そう見える? 実は無茶苦茶無理してるよ、私」


「ほんとに?」


「うん。実は私、目を逸らすな~逸らすな~って念じながら相手の顔見てるんだ。気分はほとんど“睨めっこ”だよ」


 彼女はそう言いながらケラケラと大きな声で笑った。


 


 “人の目を見る話”で変に盛り上がる。


「そう言えば、“睨めっこ”って、本来は“笑ったら負け”ではなくて“目を逸らしたほうが負け”っていうルールだったらしいよ」


「不良のガンの付け合いみたいだね」


「今じゃそうなっちゃうね。元々は内気な人が多い日本人が他人に慣れるための訓練だったらしいよ」


「へえ・・・君って本当にいろんなこと知ってるね」


 彼女は半ば呆れながら感心したように首を捻った。


 


「ねえねえ、じゃあ私たちも訓練しようか? 人の目を見るのが苦手な者同士で」


「何? 訓練って?」


「だから睨めっこだよ」


「え? 鈴鹿さんと?」


「誰とやりたいのよ?」


 彼女は攻めるような顔で僕を睨んだ。


 もう睨めっこが始まっている気分になる。


「あの? 今?」


「明日のほうがいい?」


「・・・・・」


 よく分からないうちに追い込まれている自分に気づく。


 


「先に目を逸らしたほうが負けだよ。いくよ! せえの、はい!」


 彼女はそう掛け声を掛けると僕に向かって睨み始めた。


 ――そうか。睨めっこというのは睨みあう遊びだったのか。


 そう思い出し、仕方なく僕も彼女の顔を見つめた。


 


 睨めっこなんて何年ぶりだろうか。因みに女の子とは生まれて初めてだ。


 僕は今、生まれて初めて入った女の子の部屋で、その女の子と二人で睨みあっている。


 これは僕にとって事件だった。


 彼女の目をじっと見つめる。彼女も僕の目をじっと見つめていた。


 


 ――うわ! だめだ。やっぱり恥ずかしい・・・。


 そう思いながらも僕はけっこう粘った。彼女も懸命に僕を睨み続けている。


 心臓の鼓動の大きさが一気に膨らむ。過剰な酸素吸入は息を止めているのと同じ感覚になる。


 すると、彼女は急に上目使いに色っぽい目をし始めた。


 ――え? 


 僕はその艶姿に恥ずかしくなり、思わず目を逸らしてしまった。


「やったあ! はい、君の負け!」


「今のは反則じゃないの?」


「女の正当な武器だよ」


 彼女はガッツポーズして喜んだ。


 不思議な気分だった。女の子とこんな風に自然に話せるなんて初めてだった。


「フフッ、なんか不思議だな・・・」


 ――え?


 彼女の発したその声にびっくりする。僕の心の声とダブっていたのだ。


 


「私ね、こんなこと男の子に話したの初めてだよ。どうしてだろう・・・」


 何か意味深な彼女の言葉だった。でも僕は一瞬考えたあと、今の僕なり答えを出した。


「だから、そういうこと言うから男子から誤解されるんだよ。それはね、きっと僕が人畜無害なタイプだからだと思う」


「人畜無害? 君が?」


「自分で言うのもなんだけど、自己分析すると僕って可も不可もないタイプなんだよね。顔だってイイ男ではないけどそんなブ男でもないでしょ」


 何を言い出すんだろう、僕は・・・。


「人畜無害ね・・・やっぱりおもしろいこと言うね、君」


 彼女はクスっと笑った。


 


「ねえ、どうして人は人を好きになるのかな?」


 今度は思いつめたような表情を浮かべて彼女は僕に問いかけてきた。


 恋愛経験が貧困な僕には荷が重い質問だった。


「前に言ったことがあったよね。人は子供にDNAというバトンをリレーするために生と死を繰り返すって」


「うん」


「つまりDNAを一緒にバトンリレーするために男女は結ばれるんだ。そのために男女が惹かれあうんじゃないかな」


「一緒にバトンリレーをするために男女は結ばれるんだ。何かロマンチックだね」


「そうかな。要は人が人を好きになるのは人の本能っていうことになるんだ」


「本能?」


「そう、だから人を好きになるのに理由なんか無いんだよ。人は人を好きになるために生まれてきたんだから」


 


 僕は何言ってんだろう。自分の言った言葉とは思えなかった。言ってしまったあと自分が恥ずかしくなった。


 恐る恐る彼女を見た。黙ったままこちらを見つめていた。


 ――もしかして呆れた?


「あ、ごめんね。今のもしかして無茶苦茶キザっぽかったよね?」


 僕は落ち込んだふうに下を向きながら訊いた。


 彼女はゆっくりと首を横に振った。


「人は人を好きになるために生まれてくるんだ。フフ、なんかいいね」


 いつもの眩しい笑顔で彼女は笑った。


 


「名倉くん、前に言ってたよね。人はその本能を全うすることができたら、死ぬのが怖くなくなるって」


「うん・・・言ったかな」


「そうだったらさ、人が人を好きになるのが本能だったらさ。もし本気である人を好きになれたら・・・死ぬの・・・怖くなくなるかな?」


「え?」


 彼女の唐突な質問がまた始まった。


 何が言いたいのか僕には理解できなかった。ましてや彼女の問いに対する答えなんて僕の中にあるわけがなかった。


「ごめん。僕には分からない・・・」


「君は、本気で人を好きになったこと・・・ある?」


 僕の心臓にどきりと突き刺さった。そして自分自身に問いかけた。


 心の中に答えが見えたような気がしたが、僕はそれを見えないフリをした。


「ごめん・・・分からない」


 そう言葉に出したあと思った。


 ――僕は本当に情けない奴だ。


「ありがとう・・・」


 彼女は静かに呟いた。


 僕はお礼を言われるようなことは何も答えられていない・・・。


 


 窓の外を見ると、空はかなり暗く染まり、道は街路灯の明かりでオレンジ色に染まっていた。僕はそろそろ帰らないとまずいと思い、その旨を彼女に伝えた。


 彼女は、もう少しいいじゃないかと引き止めてくれたが、さすがにこれは社交辞令だろう。


 玄関で靴を履いている時、ちょうどお母さんが買い物から帰ってきた。


 お母さんからも夕飯を一緒にと誘われたが、これも社交辞令だろう。丁重にお断りした。


 


 彼女の家からの帰り道、冷え込んだ空気の中で僕は不思議な感覚に戸惑っていた。寒いはずなのに、寒さを全く感じないのだ。


 僅かな時間であったが、彼女とのひとときがとても楽しかった。でも他の友達を遊んでいる時の楽しさとは明らかに違った。いや、楽しさとは違うものかもしれない。


 僕は他人とここまで自然に話せたことも今まで無かった。本気で話せたことは無かった。


 僕の中にある感情が湧き上がるのを感じた。でも僕はすぐにその感情を抑え、否定した。


 ――そんなんじゃあない。彼女は僕を恋愛対象とは思っていないんだから。


 それに僕だって彼女に対しは何も思っていないんだ。僕は自分にそう言い聞かせた。そうしないと心がどこかに流されてしまいそうだったから。


 


 *****


 


 高校二年、最後の週の月曜日。この日は朝から雨が降り続いていた。


 雨の日の昼休みは屋上に上がることはない。よって、そこで彼女と偶然(?)に会うこともなかった。


 雨は放課後になっても降り続いた。


 今日は部活の日ではあったが、雨で外で練習ができないため、部室でのミーティングとなった。


 結局、簡単な打ち合わせのあと、解散となった。


 僕はラッキー、と思いながらカバンを取りに自分の教室へと向かった。


 


 校内の生徒はすでに帰宅してしまったようで、どの教室も人は疎らだ。


 A組の教室の前を通った時だった。後側の扉が開いていたため、一瞬だが教室の中が目に入った。


 そこに女子生徒が教室の奥の席でぽつりと一人で座っているのが見えた。


 ――あれ、鈴鹿さん?


 後ろ姿ではあったが、僕はすぐ分かった。


 


 扉から教室を覗き込む。どうやら他の生徒はみんな帰っていて、彼女以外誰もいないようだ。


 僕はそおっと教室の中に入る。僕の姿が見えてないのか、彼女は下を俯いたまま気がついていない。


 ちょっと脅かしてやろうか、と悪戯心が湧いた。


 わっと声を出そうと思った瞬間だった。俯いてる彼女のとても寂しそうな顔が目に入り、僕はそのまま動けなくなってしまった。


 何も言えず固まったまま、しばらくの時が過ぎた。


 すると彼女は急に上を向いたと思うと、スッと立ち上がり、振り返ってこちらを向いた。


 


「えっ!」


 彼女はびっくりした顔で僕を見る。


 結局、驚かせてしまった。


「名倉くんじゃん! びっくりしたあ。どうしたの?」


「あっ、ごめんね、驚かせるつもりじゃ。今日は部活が雨で休みになったんで帰ろうと思ったんだけど、鈴鹿さんが見えたから…」


「ふーん」


 彼女はあっけらかんと答えた。


 その彼女の声に僕はちょっと拍子抜けする。


 


「あの・・・何かあった?」


「え? なんで?」


「さっき、何かとっても寂しそうな顔してたから」


「え? いつから見てたの? 恥ずかし・・・」


「あ、ごめんね」


「いいよ謝んなくて。相変わらずだねえ、真面目くんは。別になんもないよ」


 彼女は惚けたように顔を背けた。


「ホントに?」


「まあ私も多感な乙女ですからねえ。実はね・・・君のことを想ってたんだ」


 彼女は上目使いに悪戯っぽく笑って言った。


「やめてよ、そういう怖い冗談」


「ごめんね。私、冗談言うの苦手なんだ」


 彼女はにこっと微笑んだ。


 それはいつもの明るい鈴鹿さんだった。


 


「名倉くんて、何部だっけ?」


「ごめんね、テニス部だよ」


「フフッ、また謝ってる。そっかあ、テニス部かあ。ケイ君目指してるとか?」


「なれるわけないでしょ!」


「だよね」


 彼女はそう言いながらクスッと笑った。いつもの眩しい笑顔だった。


 うん。やっぱりいつもの鈴鹿さんだ。心の奥底で僕はホッとした。


 


「ね、テニスって楽しい?」


「うん、そうだね。練習はちょっと辛い時もあるけど。でも自分の思い通りのショットが打てた時はすごく気持ちいいよ」


「そっかあ、私も今度やってみたいな。テニス」


「鈴鹿さんは何かスポーツやるの?」


「ううん。私、運動苦手だから」


 会話はここで止まった。


 


 彼女は教室の正面にある時計のほうに目を向けると、ちょっと寂しい顔になった。


「あのさ・・・」


 彼女がぽつりと呟く。


「何?」


「睨めっこしよ」


「え? ここで?」


「どこでやりたいの?」


「・・・・・」


 


「じゃあ、いくよ! 先に目を逸らしたほうが負けだよ。せーの、はい!」


 彼女は僕をさっそうと睨み始めた。僕は思わず周りを見渡したあと、慌てて彼女の顔を見つめた。


 それはまさしく“睨めっこ”だった。


 慣れてきたせいだろうか、不思議と彼女から目を逸らさずに見続けることができた。


 すると、彼女の睨むような目が、だんだんと弱々しくなっていく。


 そして、彼女の大きな瞳は急に潤み始め、ひとつの滴がゆっくりと頬を伝った。


 


 ――え? なに?


 彼女はハッとしたように僕に背を向けた。


「どうしたの?」


 思わず僕は叫んだ。


「ずるーい! そんな面白い顔しないでよ。笑いで涙が出ちゃったじゃない!」


 彼女は僕に背を向けたまま窓のほうを見ながら叫んだ。


 ――え? 笑ってたの?


「今日は真面目くんの勝ちだね。参った参った」


「あ・・・あのさ・・・」


「ごめん。私もう行かなきゃ」


 彼女は僕の声を遮るように立ち上がった。


「じゃあね、名倉くん」


 彼女は僕のほうを見ずにそのまま出口へと向かった。


「あ・・・うん、またね・・・」


 僕はただ挨拶を返すしかできなかった。なにかモヤモヤと嫌な感じが残った。


 


 彼女が教室の出口を出る直前、僕は彼女を呼び止めた。


「あの、一緒に帰らない?」


 自分でもびっくりするような大きな声が出た。


「え?」


 彼女はすっと振り向いた。彼女は僕の声にびっくした顔をしていたが、その彼女の目が真っ赤だったことに僕もびっくりした。


 ――何? 


「ごめん、今日はちょっと寄らなきゃいけないところがあるんだ」


 彼女は顔を隠すように俯いた。


「あ・・・そう。ごめんね、じゃあ駄目だね。また・・・明日」


  僕は苦笑いをしながら言った。


「じゃあね・・・」


 彼女はぽつりとそう言うと足早に出口に向かい、一度も僕のほうに振り返らずにそのまま教室を出て行った。


 彼女の後ろ姿を見送ったあと、静まりかえった教室に僕は一人きりになった。


 さっき彼女は本当に笑っていたのだろうか。僕にはそうは見えなかった。


 何か言いようのない不安感に包まれた。一人には慣れているはずなのに、なぜか急に寂しさを感じた。こんな気持ち初めてだ。


 


 *****


 


 翌日の火曜日の昼休み、僕はいつものように屋上の給水塔の脇で本を読んでいた。天気はいいが、少し肌寒い風が吹いていた。


 昨日の彼女の態度が気になって仕方なかった。


 僕は彼女を待った。でも、その日、彼女は現れることはなかった。


 


 次の日の水曜日。曇ってはいたが、気温は昨日より高く、生暖かい南風が吹いていた。


 僕はいつものように屋上で彼女を待った。グレーの空が僕の不安感を写し出しているようだった。


 彼女に逢いたい。素直にそう思った。その気持ちは逢えないことで心の中でどんどん膨らんでいった。


 でも、その日も彼女は現れなかった。


 


 強い不安感に襲われた僕は教室に戻る途中、A組の教室を覗いた。彼女の席には誰も座っていなかった。


 ――どこかに行ってるのかな?


 僕は放課後にもう一度A組の教室を覗いた。やはり、彼女はいなかった。


 ――いない?


 僕は思い切って近くにいたA組の生徒に尋ねた。


「あの、すいません。鈴鹿さん、いますか?」


「ああ・・・鈴鹿さんなら昨日からお休みだけど・・・」


 その生徒はどういう関係だろうかと不思議な顔をしながらも答えてくれた 。


 ――え?


「あの・・・風邪かなにか・・・?」


「いや、詳しいことは・・・でも今学期はもう来れないかもって」


 僕は目の前が真っ暗になったような感じがした。


 どういうことだろう。風邪? この前会った時は、そんな具合が悪いようには見えなかったが。


 僕の不安感はさらに膨れ上がった。


 三学期の授業は今週で終わりだ。実質的にあと二日で高校二年も終わる。


 このまま終業式まで来なければ春休みが終わるまで彼女とは会えない。


 学校の休みが恨めしいなんて思うのは生まれて初めてだ。


 


 翌日の木曜日。久しぶりに真っ青な空と太陽が眩しい快晴になった。僕の心とは正反対の天気だった。


 明日は終業式。正規の授業は今日の午前中で最後になる。昼休みも無い。


 ――鈴鹿さん、どうしてるのかな・・・。


 気がつくと、そんなことを考えていた。


 


 二時限目の授業の時間だった。数学の予定だったが、先生がなかなか来る気配が無い。


 授業開始チャイムから五分ほどたったころ、学年主任の先生が入って来きた。


 担当教師が急用により来れないので自習となるとの説明がされる。


 クラス内は歓声と共にどっと盛り上がる。自習といっても、それはほぼ自由な休み時間のようなものだったからだ。


 教室の生徒みんなが各グループで雑談やゲームを始めた。


 僕はかばんの中から文庫本を取り出した。


 その本の栞が挟まったページを開いたと同時に、すぐ閉じて僕は立ち上がった。


 そして何かに導かれるようにそのまま教室の出口へと向かった。


 


 今までに自習の時に教室を抜け出したという記憶は無い。僕は無心で廊下を歩いていた。


 行く先は屋上だ。そう。僕は彼女が今、そこにいる気がしてならなかった。


 全く根拠は無い。


 でも、不思議と確信を持っていた。その確信は僕を屋上へと向かわせた。


 


 屋上に出ると、そのまま一気にペントハウスの階段を昇る。息が切れた。


 給水塔のまわりを見渡した。でも、そこには誰もいなかった・・・。


 ――ハハ、そりゃそうだよな。いるわけないよな。しかも休み時間でもないのに。


 自分の馬鹿さ加減に僕は思いっきり苦笑した。


 


 給水塔からの学校の外の景色を見渡すと、まわりに植えられている桜並木がの花が薄いピンク色に染り始めていた。


 ――ああ、なんか青春っぽいな・・・。


 そんな自己陶酔している自分に呆れながらまた笑った。


 今からこんなに咲き始めて、来月の入学式まで持つのだろうか・・・なんて、そんないならい心配をしながらぼーっと外を眺め続けた。


 春の風はまだ少し冷たく感じた。


 


 ――鈴鹿さん、どうしてるのかな・・・?


 


「あれ? なに真面目くん、サボりかい?」


「え?」


 給水塔の下から聞こえてきた明るい声が僕の心に突き刺さる。 思わず僕は階段の下に目を向けた。


 そこには彼女が立っていた。


 


   ――え? まさか・・どうして?


「ち、違うよ。僕のクラス、二時限目が急に自習になったんだ」


 僕は動揺しまくりながらようやく答えた。


「ふーん」


「あの、鈴鹿さんは・・・サボり?」


「違うよ! そっちこそ不良扱いしないでよね。うちのクラスもニ時限目が自習になったの。今日天気すごくいいからさー、なんか空が見たくなっちゃってね」


 あとで分かったことだが、この日は二年生の学年担当全員が新学期からのクラス編成の件で一斉に召集がかかり、緊急会議が実施されていた。


 つまり彼女のクラスと僕のクラスが同時に自習となったのは特に偶然ということではなかったようだ。


 


 彼女はゆっくり外階段を昇ってくると、立っていた僕の横にさりげなく並んだ。


 ちょっと強めの春の風が体の脇をすり抜ける。僕たちは黙ったまま、しばらく外を見ていた。


 


「あの・・・」


 僕は彼女を見ずに言った。いや、見ることができなかった。


「うん?」


「学校休んでたよね。おとといから・・・」


「あ、心配してくれてたの?」


「風邪かなにか?」


「うーん。ちょっとね・・・」


 ――ちょっと・・・何?


 彼女に会えたことで一時的に収まっていた僕の不安感がまた膨らんでくる。


 今日の彼女にいつもと違う雰囲気をじた。それにあの時の涙。何がだったのだろう・・・。


 そう思いながら僕は真横にいた彼女の顔を横目でじっと見つめてしまった。彼女はそれに気づき、僕を見て静かに笑った。


 でも、その笑顔はいつもの彼女のものではなかった。


「なあに?」


「え?」


「だって、私の顔じっと見てるから」


「あ、ごめんね」


「また謝ってる。別にいいよ、謝んなくて。こんな私の顔でよければずっと見てて」


 彼女は笑いながらそう言ったあと、僕からすっと目を逸らした。やはりいつもの彼女ではない。


 ――何か、あったの・・・?


 僕はまた彼女を見つめていた。


 僕の視線に彼女がまた気づいた。


「ごめん。やっぱ恥ずかしいからあんまり見ないで」


「あ、ごめんね」


 またしばらく沈黙が続いた。


 


「ね、二人で学校抜け出さない?」


 彼女がぽつりと呟く。


「え?」


 その言葉に僕は固まった。


「あの・・・今から?」


 彼女は黙ってニコリと微笑んだままゆっくりと頷いた 。


 


 気がつくと僕は彼女と一緒に駅の改札口まで来ていた。彼女のいつものペースでここまで来てしまった僕は、ここでふと現実に戻った。


「ねえ、学校サボるのはやっぱりマズいんじゃない? 今からでも学校に戻ろうよ。まだ三時限目間に合うよ」


 僕の中の“真面目”な小心者がひょっこりと顔を出し始めた。“通常のレール”から外れそうになると、僕の体内にあるセンサーがアレルギーのように拒絶反応を起こすのだ。


「ふん、いいよ。もう分かった。真面目くんは学校に戻んなさい。私一人で行くから」


 ウジウジしている僕に彼女は呆れたように言い残し、そのまま一人で改札口を抜けて行った。


 自動改札の電子音の響きが『意気地なし!』と叫んでいるように聞こえた。


 僕はしばらく動けなくなり、改札口の前でぼーっと立っていた。相変わらずの真面目さと臆病さに自己嫌悪に陥っていた。。


 ――ええい!


 僕は慌てて彼女を追って改札口を抜ける。自動改札の電子音の響きが、今度は『がんばれ!』と応援しているように聞こえた。


 この時、僕は何も考えていなかった。いや、考えることを止めたんだと思う。


 プラットホームでようやく彼女に追いつく。ホームの前のほうに立っていた彼女は僕に気づいた。


「来て・・・くれたんだ・・・」


 彼女は驚いた顔をしたあと、優しく微笑んだ。


 


 電車がゆっくりとホームに入ってくる。目の前のドアが開くと、電車に中から数人の乗客が降りてきた。


 降りる乗客がいなくなったあと、ホームで待っていた人が電車に乗り始める。


 しかし、なぜか彼女は動かなかった。


「どうしたの?」


 彼女は下に俯いたまま黙っていた。


「やっぱり・・・戻ろうか?」


 彼女がぽつりと呟いた。


「え?」


 彼女らしくない弱々しいその声に僕は一瞬、息が止まった。


 


 ――どうしたんだろう?


 発車のチャイム音がホーム内に響く。彼女は何かがっかりしたように俯いていた。


 シュッとドアが閉まる音が鳴る。


 その瞬間だった。僕はその音に対し、百メートル走のスタートホイッスルのように反応した。


 僕の右手は彼女の左手をしっかりと掴み、次の瞬間ドアの内側へと飛び込んだ。


 ガッチャっとドアの閉じた音が自分の後ろで響くのが聞こえた。


 


 ――あ? 乗っちゃった!


 電車はガタンという大きな音と同時にゆっくりと動き始める。モーターの回転音が徐々に高くなってスピードが上がっていくのが分かった。


 彼女はびっくりした顔をしていたが、それ以上のびっくりしていたのは僕自身だった。僕の右手は彼女の左手をまだしっかりと握っていた。


 男声のアナウンスが車内に流れる。


『発車間際の駆け込み乗車は、まことに危険ですのでご遠慮願います』


「ダメじゃん。怒られてるよ」


 彼女はそう言いながら僕を横目で見た。僕らはしばらく黙って顔を見合わせた。


 僕は思わずプッとふき出したあと、堪え切れず笑い出してしまった。でも彼女は笑わずに、そんな僕の顔をじっと見つめていた。


「えっ? 何?」


「名倉くん、初めて私の前で笑ってくれたね」


「え? そうだっけ?」


「そうだよ」


 そんなこと僕は全然意識したことはなかった。


「そうだった? ごめんね」


「だから謝んなくていいって」


 彼女もようやく笑い出した。


「どこ行く?」


 僕は笑いながら問いかけた。


「んー、海!」


 彼女は上を向きながら叫んだ。


「え?」


「海、見たいなあ」


「海?」


「そう、海!」


「海か・・・いいね!」


 


 僕は今、学校の授業を抜け出して、女の子と二人で電車に乗っている。ずっとルールを守るのが当たり前だった僕には考えられないシチュエーションだ。


 僕の心は不思議な気分で満ちていた。


 学校をサボっているという罪悪感、不安感。そしてそれを払しょくするような高揚感。それは生まれて初めて感じる感覚だった。


「なにボーっとしてるの? あー、今更後悔してるとか」


「違うよ。いや、なんか自分じゃないような気がしてさ。僕、授業をサボるなんて生まれて初めてだから。鈴鹿さんと違って」


「私だって初めてだよ」


「え? 鈴鹿さんはいつもやってるんだとばかり・・・」


「前から言いたかったんだけど、君は私のこと、どういう風に見てるわけ?」


 怪訝な顔で僕を睨んだ。


 僕は彼女の元彼が言っていた、彼女は中学の時にグレていたという噂話が気になっていた。


 いや、あんなのはただの噂に過ぎない。僕は気にしない。


 僕はそう思うことに僕は決めた。


 


 僕らはターミナル駅で降り、湘南方面行きの電車に乗り換えた。


 平日の午前中のためか家族連れは少なく、買い物客とサラリーマン風の人がパラパラいる程度で、電車はわりと空いていた。


 一時間ほどでその電車は終着駅に着いた。


 駅の改札口を抜けると、すぐ目の前に大きな海が広がっていた。そこから小さな島へと橋で陸続きになっている。


「うわー海だ、海だ! 潮の香りがするぅー! 気持ちいいー。ねえ、あっち行ってみよう」


 彼女は子供のようにはしゃぎながら島に向かって伸びる橋のほうへと僕の手を引っ張る。相変わらずのマイペースだ。


 平日ということもあるのか、思いの他に人は疎らだった。学生のカップルも多かったが、老夫婦の人たちがけっこういるのに驚いた。


 


「あんな歳になるまで仲良くできるなんていいね」


 仲が良さそうに歩いている老夫婦を見て彼女が呟いた。


 ちょっとびっくりした。僕も全く同じことを思っていたからだ。彼女はいつも僕を不思議な気分にさせた。


 海は壮大だ。ありきたりな表現だけど、やっぱりそう思う。


 岸に打ち寄せる波の音が心地いい。小さい悩みなんか全て消し飛んでいってしまいそうだ。


 長い橋を渡ると、島の奥に向かって路地が続いている。そこには多くのお店が連なっていた。


 僕たちはゆったりとした坂道を登っていく。土産店や海の幸の食堂などが細い坂道沿いに所狭しと並んでいた。


 


「わー見て見て! 何あれ?」


 彼女がある店の前に並ぶ人の行列を見つけた。ここの名物なのだろうか。とても大きい下敷きのようなせんべいが売っていた。


「ねえ、おいしそうだよ。これ買っていこ!」


「え? これに並ぶの?」


「これだけ並んでるから美味しいんでしょ!」


 僕は彼女に言うことに逆らっても無駄だということを既に学んでいた。素直に僕は一緒に行列の最後尾に付いた。


 結局、その行列に二十分ほど並んだだろうか。やっとのことで買った下敷きのようなせんべいをかじりながら、僕たちはさらに島を上へと登っていく。


 


 徐々に標高が上がっていくにつれ、だんだんと見晴しが良くなってくる。一面に広がっている春の花がとても綺麗だ。僕はその花の美しさを噛みしめていたが、彼女はせんべいの味を噛みしめているようだ。


「美味しいねこれ。並んで買って正解だね!」


 ――幸せそうだな・・・彼女は。


 思わず心の中で呟いた。


「あ! 神社があるよ。お参りしていこうか」


 僕らは島の中腹にあった神社に立ち寄ることにした。


「見て見て! 絵馬がいっぱい掛かってるよ。『二人が結ばれますように』だってさ! きゃーはずかしー!」


 一緒にいるこっちが恥ずかしかった。


 そこには男女それぞれの想い想い恋の成就の願いが所狭しと並んで描かれていた。


「ここって縁結びの神様みたいだね」


 彼女は何か言いたげそうに僕の顔を見つめた。


「あ、そうみたいだね・・・」


 そう言いながら僕はなぜか恥ずかしくなり、思わず目を背けてしまった。


 


 島の頂上に着くと、そこには展望台があり、正面には一面に青い海が広がっていた。空には雲ひとつ無く、見事に真っ青に染まっていた。


「うーん絶景だね! 来てよかったあ!」


 彼女が叫んだ。


「うん。すごい気持ちいいね!」


 素直に僕はそう答えた。


 春の潮風が本当に気持ちよかった。


「ここね、中学の時に一度家族で来たことがあるんだ。その時に、またいつかここに来たいってずっと思ってたんだ。好きな人と・・・」


「ふーん」


 僕は何て答えればいいのか皆目見当がつかず、無愛想な返事をしてしまった。彼女のほうを見てはいなかったが、何か刺すような視線を感じたのは気のせいだろうか。


「あのさ、人ってどうして春になると恋をしたくなるのかな?」


 また彼女からの質問攻勢が始まった。しかし、こういう類の質問は僕にとっては難関大学の入試より難しい。


「鈴鹿さん、恋がしたいの?」


「君、したくないの?」


 僕はまた答えに詰まってしまった。こういう時、何て言えばいいのだろう?


「したくても恋をするには相手が必要だよね?」


 そう答えると、なぜかしら彼女は僕を横目で睨んだ。そしてその瞬間、僕の足の甲に激痛が走った。


 ――え?


「あいだあ!」


 僕は思わず悲鳴を上げた。


 その激痛の原因が彼女に足を踏まれたことなんだと認識するまでに数秒かかった。


「何するの?」


 僕がそう言うと彼女はさっと僕から離れ、意地悪い顔をしてこちらを向いた。


「どうしたの? 大きな声出さないでよ、恥ずかしい」


 彼女はくすっと笑うと先に歩き出して行ってしまった。


 ――何なんだよ。わけ分かんないな・・・。


 


「わー見て見て! すっごい綺麗!」


 彼女が水平線を見ながら呟いた。


 確かにキラキラと輝く海面は綺麗だった。それを見ながら無邪気にはしゃぐ彼女の笑顔がとても輝いて見えた。


 ――あれ?  彼女ってこんなに可愛かった?


 そう思ってしまった自分に僕はびっくりした。


「あっれー、何? もしかして今、私に見惚れてたあ?」


 ――えっ?


 あまりにもタイミングよく突っ込まれたため、僕は何も言えずに固まった。


「ちょっとお、何か言い返してよ。言ったこっちのほうが恥ずかしいじゃん」


 彼女はめずらしく照れながら反対のほうに顔を背けた。


 


 頂上は学生や外国の観光客で多く賑わっていた。


「すいません。シャッター押してもらっていいですか?」


 突然、大学生らしき女の人から声を掛けられた。


 学生同士のカップルだろう。彼氏はサングラスをかけ、彼女らしき女性はブロンズ色に染めた長い髪を靡かせていた。


 


「はーい、いいですよお」


 彼女が快く引き受ける。


「いきますよお。ハイ、ポーズ!」


 携帯のシャッター音が軽やかに響いた。


「ありがとう。あ、君たちも撮ってあげようか?」


「え?」


 その女性の気遣いに僕と彼女は思わず顔を見合わせた。


「えへっ! せっかくだから二人で撮ってもらおうよ」


「あ・・・うん」


 僕はちょっと戸惑った。というのも、実は僕は写真を撮られるのが苦手だった。


 うん・・・苦手というか、慣れていないというか、要は僕は写真を撮るときに笑えないのだ。


 僕は写真を撮られる時、無茶苦茶構えてしまってロボットのような顔になる。


 ―――どうしよう・・・ちゃんと笑えるかな?


 僕の心配をよそに彼女は僕の手を引っ張った。


 海をバックに二人で並んで立った。


 明るい笑顔のピースサインをする彼女の横で、僕は明かに顔が引きつっているのが自分でも分かった。


 


 ――うわあ、だめだ。やっぱり笑えない・・・。


「行くよー、はい笑って!」


 ・・・って言われるほど僕の顔は引きつっていく。


「んーカレシい、なにその顔? 無茶苦茶暗いじゃん。お腹痛いの?」


 ――うん。痛くなりそう・・・。


 彼女がそんな僕を横目で見てクスッと笑った。


「ほらあ、カレシ笑って! それにもっとくっつかないと映んないよ!」


 彼女さんの口調がだんだんと怖くなってくる。


 ――何で僕が怒られなきゃいけないんろう?


 その時、彼女の手が僕の肘をグイと引っ張るように引き寄せた。


「ほらあ、真面目くん、笑うぞ!」


 彼女が僕に微笑みかける。すぐ真横にあったその笑顔に僕の心臓はドキっと高鳴った。


「え?」


「おっいいね! はーい、いくよ!」


 僕があっけにとられているうちにシャッター音が響いた。


「あは、どうかな?」


 撮ってもらったばかりの写真をスマホの画面で確認する。彼女は相変わらずの眩しい笑顔で映っていた。


 だが、驚いたのはその横にある見覚えのない顔だ。僕が・・・笑ってる。


 ――え? これ、僕?


 とても不思議だった。こんなにも自然に笑えている自分に自分ではないような感じがした。


「きゃー、すっごくいい感じに撮れたね」


 お礼を言ったあと、その大学生とは反対の方向に歩き出した。


「仲良くねー、かわいいカップル君たち!」


 大学生は大きく手を振っていた。


「ありがとー!」


 彼女もお返しに大きく両手を振った。


 ――そうか。僕たちもやっぱりカップルなのか。


 慣れないその言葉の響きはとても心地いい良かった。


 でもカップルと言っても、僕たちは付き合っているわけではないのだ。その事実に、僕はちょっと寂しさを感じている自分に気づいた。


 


 島からの帰りの下りの坂道をブラつきながら歩く。雑貨が並ぶ小さな土産店に立ち寄った。


「わー見て見て。これ可愛い!」


 彼女が手に取ったのは小さなペンギンのストラップだ。


「鈴鹿さん、ペンギン本当に好きなんだね」


「フフ、大好き」


 彼女は嬉しそうにそのペンギンを頬ずりする。


「実はさ、明日、私の誕生日なんだ」


「え! そうなの?」


 僕は素直にびっくりした。


「あの・・・それは、おめでとう・・・」


「んふ、ありがとう。はい!」


 彼女はお礼を言いながら手を伸ばし、そのストラップを僕に手渡しした。


「え? 何?」


「買ってくれる? 誕生日プレゼントに・・・」


「いや、別にいいけど・・・これくらい」


 突然でちょっと戸惑ったが、これくらいのもので喜んでくれるなら、と思った。


「でも、こんなものでいいの?」


「これがいいの」


 そして彼女は、なぜか同じストラップをもうひとつ手に取った。


「じゃあ、こっちのは私が君に買ってあげるね・・・記念に」


 そう言いながらクスっと笑った。


「記念?・・・なんの?」


「んー・・・何でもいいじゃん!」


 そう言うと彼女はそれを持ってレジに並んだ。


 僕も別のレジに並び、同じストラップを別々に買った。そして自分の買った包みを彼女に渡した。


 


「あの・・・誕生日おめでとう」


「フフ、ありがとう。大切にするね。じゃあ、これは私から君に。大切にしてね」


 彼女は自分の買った包みを僕にくれた。


 これって意味があることなのだろうか?・・・。あるんだろうな、きっと。


 


「ねえねえ、下の岩場のほうに行ってみようよ」


 彼女はそう言うと同時に僕の手を引っ張って歩き出した。


 島を下って海岸に出ると、そこにはゴツゴツとした岩場が広がっていた。


 小さいカニや小魚、あとはタニシにような貝がたくさん見えた。


「きゃーカニさんかわいいー!」


 無邪気にはしゃぐ彼女は、悔しいがやはり可愛いかった。僕は彼女を見つめながらそう思った。そして何よりも彼女といると、自然な自分でいられるということに気がついた。


「なあに?」


「いや、ごめんね。別に・・・」


 ボーッとしていた僕は思わず言葉に詰まった。彼女は笑いながらまたカニを追っかけていた。


 


 岩場をちょっと奥に行くと平らな大きい岩が連なっており、僕らはその岩の上に空を見上げながら寝ころんだ。


 快晴の空には小さい雲ひとつ無かった。


 仰向けになった体で空を見上げる。視界に映るのは、一面の真っ青な空。まさしく青一色のみだった。


 こんな光景は生まれて初めてかもしれない。


 ――なんて綺麗なんだろう。空ってこんなに綺麗だったんだ・・・。


「あー、気持ちいい!」


 僕は思わず叫んだ。学校をサボってしまったという罪悪感はどこかへすっ飛んでいた。気持ち良すぎて、気がつくと僕は岩の上でウトウトと眠ってしまった。


 


 しばらくすると、周りに何か嫌な違和感を感じた。


 ――あれ?


 さっきまで周りあった岩が見えない。あたりを見回すと、僕たちがいる岩場は水に囲まれていた。


「やっばい! 満ち潮だ!」


 僕は叫んだ。


 そう。僕たちは岩場に取り残されてしまっていた。


「どうしよう?・・・名倉くん」


 彼女は今にも泣きそうな顔になった。でも落ち着いて海面をよく見ると、まだ水面の奥に岩が透き通って見える。


「大丈夫、まだ浅そうだ。行けるよ」


 僕は制服のズボンをヒザまでまくり、海の中に入って深さを確認する。


 ――うん、オッケー! 水はまだヒザ下までだ。


「大丈夫、靴と靴下を脱いで」


「うん・・・」


 僕は彼女が脱いだ靴と靴下を受け取り、彼女の手を引く。


「ゆっくり下に降りて・・・滑らないように気をつけてね・・・大丈夫」


 ――よし、行ける! 行ける!


 ゆっくり、ゆっくりと足場を確認しながら渡っていく。


 


 ようやく最後の陸続きの岩まで来たところで彼女を先に岩の上に上げた。


 ――よかった。彼女はもう大丈夫だ。


「ありがとう。名倉くんも気をつけて」


 彼女そう言って僕を引き上げようと手を差し伸べたその瞬間だった。


 僕の視界に映る彼女の顔がだんだんと小さくなっていく。


 僕は自分に何が起きているのか、すぐに理解ができなかった。


 


 ――あれ? 僕、どうしたんだ?


 彼女の姿がだんだんと遠くなり、背中が後ろへと吸い込まれていく。


 そして次の瞬間、視界が大きくぼやけたと同時に水のギュルギュルギュルという濁音が激しく耳を襲った。


 


 僕はようやく足が滑って海の中に落ちたんだということを自覚した。


「名倉くん!」


 彼女の悲鳴が響いた。


 幸い満ち潮はまだ浅く、僕はすぐに立ち上がることができた。


「大丈夫? 名倉くん!」


 遠くの向こう岸にいた釣り人は特に驚いた素振りも見せず、呆れた顔でちらっとこちらを見たあと、また釣りに没頭していた。


「バカな奴がいる」と、そんな顔をしていた。確かに客観的に見てもかっこ悪い。


 こんな僕を見て、彼女もさぞ大笑いするだろうと思っていたが、彼女の反応は意外なものだった。


「名倉くん、名倉くん、大丈夫?」


 海に落ちたことにはもちろん驚いたが、それ以上に驚いたのは彼女が泣くような顔で僕を心配して叫んでいたことだ。


 彼女のこんな顔は初めて見た。まあこんなところで溺れ死ぬことはないと思うのだが。


 


「名倉くん、ごめんね、ごめんね」


「いや・・・大丈夫だよ。それに鈴鹿さん、全然悪くないし・・・」


「ごめんね、ごめんね」


 彼女は謝り続けた。


 いつも自分がしていたことなのだが、相手が何も悪くないのに謝られるってことがどんな気分なのかを実感した。


 ――ああ、でも参ったな。どうしよう・・・。


 そう思いながら僕たちは歩き出した。


 


 海水でズブ濡れになった服は予想以上に重く、冷たかった。服を着たままだったら本当に溺れるだろうと実感した。


「どうしよう・・・全然乾かないね・・・」


 一向に乾かない僕の濡れた服を見ながら彼女が心配そうに言った。


「歩いていれば、そのうち乾くよ」


 僕は半ば強がりを言いながら、しばらく道を歩いていたが、それが甘い考えであったことを徐々に痛感し始める。


  三月になったとはいえ、濡れた体にはまだまだ寒さは厳しかった。


 十分ほど歩いただろうか。水は滴らなくなったものの、服はまだまだ濡れていた。海水がぐっしょりと浸み込んだ僕の下着は体にビッタリと張り付き、気持ち悪いという感覚を超えていた。


 そして、それは徐々に僕の体温を奪っていった。


 


「ハックショイ!」


 思わずクシャミが飛び出す。


「大丈夫? 名倉くん。寒いよね?」


「あ、ごめんね。全然大丈夫・・・」


 そう言いながら全身に悪寒が走った時だ。ひとつの洋風の建物の前で彼女が足を止めた。


 これは僕の貧困な社会知識でも分かった。いわゆるファッションホテルというやつだ。ラブホテルとも言ったっけ。


 


「ねえ、ここに入ってシャワーと着替えをさせてもらおうよ」


「ええ??」


 思いもよらない彼女の言葉だった。


「あの・・・鈴鹿さん・・・と?」


「誰と入りたいの?」


「・・・・・」


 


 僕は彼女に手を引っ張られながらホテルへと続く通路を歩いている。外側から見ることはあっても中に入るのは初めてだ。


 何だろう、この感覚は。後ろめたさと言うのだろうか、僕は強い罪悪感に包まれた。


 罪悪感だけではない。不安感、緊張感、いろいろな気持ちが交錯しながら、僕の心臓がバクバクと大きな鼓動を上げ始める。


 


 薄暗い自動扉があり、そこから中に入る。


 迷路のような細い廊下を進むとフロントらしき場所に出た。でも、そこに人はいなかった。


 その横の壁にはドラマとかでしか見たことがなかった部屋の写真が表示されている大きなパネルが掛かっていた。


 ――どうすればいいんだろう?


 勝手が分からない僕はただオロオロとしていた。


「名倉くん、どうやって入ればいいのか分かる?」


 彼女は困った顔をしながら小声で囁いた。僕は情けないかな、黙ったまま首を横に振った。


 その時、フロントの脇にあったドアがガチャリという大きな音をたてて開き、


 そこから中年のがっしりと太ったおばさんが出てきた。そのおばさんは怖い顔で、僕たちをじろっと睨むように見まわした。


 非常にまずい雰囲気が漂う。


 


「あなたたち、高校生でしょ。ダメよ、高校生は入れないわよ!」


 ――そういえば僕たちは制服姿だった。やっぱりダメだよな。


 そう思いながら僕は帰ろうとした。でも、彼女は諦めなかった。


「すいません。この人、海に落っこちちゃって。シャワーと、あと服を着替えるだけでいいんです。入れてもらえませんか? 私たちは何も・・・」


 彼女は今にも泣きそうな顔になりながら懸命に事情を説明した。


「いいよ鈴鹿さん。僕、大丈夫だから、帰ろう」


「大丈夫じゃないよ!」


 それを聞いていたおばさんは、僕の濡れた姿をもう一度じっと見まわした。


 そして彼女の訴えが効いたのか、その怖い顔は呆れたような顔したかと思うとすぐに穏やかな顔に変わった。


「ふふ、なるほどね・・・。しようがないわね。わかったわ。でも今日は週末で混んでいて満室なのよ。一番大きい部屋でよければすぐ準備させるけど、ちょっと部屋のお値段、高いけど大丈夫?」


 


 ――え? 入れてくれるの?


 僕はおばさんの豹変にびっくりする。


「はい、入れていただけたらどこでもいいです」


「じゃあ、清掃を急がせるわね。待合室で少し待っててくれる?」


「ありがとうございます!」


 彼女は深々とお辞儀をした。


 おばさんは制服姿の僕達を親切に待合室まで案内してくれた。


 待合室といっても小さなソファがあるだけの狭いコーナーだった。


 僕たちはそのソファに並んで座った。ソファといってもとても小さく、いやでも体が密着した。


 すぐ横にいる彼女の吐息が聞こえるようだった。僕の鼓動はだんだんと抑えが利かなくなっていく。


 ――まずい! 落ち着け、僕の心臓!


「やさしいおばさんでよかったね」


 彼女が掠れるような小声で呟いた。


「・・・そうだね」


「本当はこういうところって高校生は入っちゃいけないんでしょ?」


 さらに小さな声で彼女は囁いた。


 ――僕に訊かないで欲しい。


「これって、学校にバレたらやっぱりマズいかな?」


 彼女の囁きは続いた。


 ――そりゃマズいでしょ!


 


 しばらくの時間、僕にとって辛い沈黙が続いた。濡れた服が体の密着感をさらに強く感じさせた。だんだんと顔がポカポカと熱くなっていくのを感じる。


 ――あれ? 僕の体もマズいかもしれない・・・。


「寒い? 名倉くん」


「あ、ごめんね。大丈夫だよ」


 彼女が僕の顔を覗き込む。


「名倉くん、顔、真っ赤だよ! もしかして熱、出ちゃった?」


 びっくりした顔で彼女が叫んだ。


 ヤバい。どうやら体のほうが正直に反応してしまっていたようだ。


 


「い、いや・・・これは熱って言うか・・・大丈夫だから・・・」


 僕は慌てて誤魔化した。


 その時、僕の服の濡れによって彼女の服まで水が染みているのに気づいた。


「あ、ごめんね。冷たいよね」


 僕が離れようと立ち上がろうとした時、彼女の手が僕の手を抑えた。


「大丈夫。私は平気だよ」


「だって、鈴鹿さんの服が濡れちゃうよ」


「その分、君の服が早く乾くよ」


 彼女はさらりと答えた。


「でも、それじゃ・・・」


 このままでは彼女も風邪をひいてしまうのではないかと思い、無理やりにでも離れようと思った時だった。フロントのおばさんがニコニコしながらようやくやってきた。


 


「ごめんさないね、お待たせしちゃって。どうぞ、部屋の準備ができたわ」


 おばさんはそっと僕にカード式のキーが渡してくれた。


「いい子じゃないの。がんばりなさい!」


 おばさんはニタリと笑いながら僕にしか聞こえないように小さな声で言うと、僕の背中をバンと叩いた。


 ――がんばれって、何をよ? 


 僕は心の中で呟いた。


「おばさん、何だって?」


「いや、何でもない。カードキー失くさないようにって。それよりあのおばさん、何かやらしい顔してなかった?」


「うーん。今の君の顔ほどじゃないけどね」


 彼女は悪戯っぽい顔で微笑んだ。


 


 部屋に入ると同時に、僕は圧倒された。そこは僕が描いていたファッションホテルのイメージとは全く違った空間が広がっていた。


 大きなシャンデリア、プロジェクター、ビリヤード、ダーツなど普通のホテルでは見られないものが並んでいる。もっと狭くて汚いイメージを持っていた僕は、ぽっかりと口を開けたまま茫然としていた。


 ――いったい何なんだここは?


 中にある部屋は三つに分かれていて、それぞれがみんなムチャ広い。大勢でパーティもできそうだ。一番大きい部屋だと言っていたので、ここだけ特別な部屋なのかもしれない。


「名倉くんは早くお風呂に入って。私は何か着替えを買ってくるから」


 そう言うと彼女は足早に部屋を出て行った。


 


 ――あれ? 行っちゃった。


 部屋に一人残った僕は、ひとまず冷静さを取り戻した。まずはともあれ、この濡れた体を何とかしないと。


 僕は彼女の言葉に甘え、お風呂に入らせてもらうことにした。


 海水でズブ濡れになり、冷えきった体がどっぷりと熱い湯に浸される。


 体の芯の芯まで十分に温まった僕は、覗き込むようにして浴室のドアを開けた。彼女はまだ帰ってきてないようだ。


 僕は取りあえず、何か羽織るものを探した。彼女が着替えを買ってきてくれるまででも、さすがにバスタオル一丁というわけにはいかない。


 おあつらえ向きのバスローブが備えつけてあるのを見つけた。外国の映画ではよく見るものだったが、実際に見るのは初めてだった。


 バスローブを羽織った自分の姿を鏡で見る。そこには違和感満載の変態っぽい男が立っていた。


 ――うーん・・・。


 思わず僕は唸った。映画とかで見る俳優がスマートに着ている姿と何か違う。いや全然違う。


 どちらかというと安っぽいドラマに出てくるスケベおやじを連想させた。バスローブというのは典型的な日本人の体形には合わないようだ。


 


 呼び鈴が部屋の中に響いた。どうやら彼女が帰ってきたようだ。僕はそそくさと入口のドアを開ける。


「ごめんねー、遅くなって。なかなか洋服のお店が見つかんなくてさー」


 息を切らしながそう言って、彼女はこちらを見た。すると、彼女は僕のバスローブ姿を見たとたん、砕け散ったように笑い出した。


「何だよ、急に!」


「いやー、どこのスケベ親父かと思ったよ。部屋、間違えちゃったかなーって」


「ふん。確かにカッコよくはないのは分かってるけど、そこまで笑わなくてもいいんじゃない」


「ごめん、ごめん。あ、スエットでよかったかな? フリーサイズなんだけど大丈夫だよね。ちょっと着てみて。あとあったかい肉まんとスープ買ってきたよ」


 僕は買ってきてもらったスエットを受け取った。風呂場で着替えると、彼女の買ってきてくれたスエットは思いのほかピッタリだった。


「うん、似合うよ!」


「そう?」


「あのバスローブを着続けられたら私、笑い過ぎで呼吸困難で死んじゃうから」


 僕はムスっとしながら彼女の買ってきてくれた肉マンを頬張った。


「ところでさ、私、前から思ってたんだけど、君って分析するの好きだよね。AB型でしょ」


 やはり彼女の人を見る目は鋭いようだ。


「当たりだよ。よく分かったね。AB型は日本人では十分の一の確率なのに」


「やっぱりね。AB型って変人が多いしね」


 あまり褒められてないなと思いながら、僕も彼女の血液型については自信があった。


「じゃあ鈴鹿さんの血液型も当てようか?」


「ううん、私はいい。血液型判断みたいの嫌いだし」


「ごめん。僕の記憶が正しければ血液型の話を振ってきたのそっちだよね」


 彼女は黙ったまま、悪戯っぽく笑っていた。


 


「でもめずらしいね。女の子って血液型占いみたいのけっこう好きじゃない?」


「友達は確かに好きな子多いよね。でも私は嫌いなの。偏見の目で見られるからさ」


 たった今、人を偏見で見てたのは誰だよ、と思いながら、僕は偏見で彼女の血液型を当てにいった。


「鈴鹿さん、ズバリB型でしょ?」


「ほーら、やっぱりだ。私、いつもB型って言われてすごく傷付くんだ。どうせ、わがままで自分勝手な性格だからB型とか言いたいんでしょ? だから嫌なんだよ、血液型当てゲームみたいなの。そういうのを偏見って言うんだよ! 偏見!」


「え、意外だな。ごめんね、B型じゃなかったんだ」


「ううん。B型だけど・・・何?」


「・・・」


 あっさりとそう答えた彼女に対し、僕はリアクションに困った。


 何だろう。この“全く納得いかない感”は・・・。


 


 僕は思ったより帰りが遅くなりそうになったので、家に連絡を入れようと携帯を手に取った。


 その時、新たな問題が発覚した。携帯の電源が入らない。携帯は僕と一緒に海に水没していた。


「あ、僕の携帯、ダメみたい・・・」


「えー大変! ごめんね」


「別に鈴鹿さんが謝ることじゃないよ。僕が勝手に滑って海に落ちたんだから」


 


 携帯以外もポケットに入っていた物はみんなズブ濡れになっていた。


「あーかわいそうー。この子もびしょびしょだ。今乾かしてあげるねー」


 そう、さっき一緒に買ったペンギンのストラップもズブ濡れになっていた。


 まあこのほうがペンギンらしい感じになった気がするけど。


 彼女はその濡れたストラップを丁寧にドライヤーで乾かし始めた。


「君のペンちゃんも貸して。一緒に乾かすから」


「あっ、ごめん。僕がやるよ」


「いいよ、私がやるから」


「ダメだよ。海に落っこちて濡らしたの僕なんだから」


 僕は半ば無理やりにドライヤーと濡れたストラップを受け取り、乾かし始める。


 


 しばらくの間、部屋の中にドライヤーの音だけが響いていた。


 ホテルの部屋に女の子と二人きり。ドライヤーの響き。何か変な感覚だった。


 彼女がこの部屋の番号を見て、何かに気づいたようだ。


「ねえねえ。この部屋229号室だって。なんか運命感じない?」


 いきなりの話の振りに戸惑った。はっきり言って全く意味が分からない。


「229?・・・何だっけ?」


 僕は素直に脱帽した。こういう時は誤魔化さずに正直に言ったほうがいい。


「えー、まさか分かんないの君? 酷いね。私たちが最初に学校の屋上で出逢った日だよ。二月二十九日は」


 見事に微塵にも予想しなかった答えだった。


 


「鈴鹿さん、よく覚えてるね」


「うん。閏日だったからね。だって四年に一度の特別な日だよ。何かいいこと起きないかなって思ったりして」


「へえ・・・でも閏日なんて暦と地球の公転自転ズレのためのただの調整日だよ」


「君って、ほんっとにロマンチック度マイナスにひゃくぱーせんとだね」


 彼女は僕を睨みながら叫んだ。


 僕の会話能力の低さが露呈する。


「ああ、ごめんね。でも何かいい事ってあった?」


 彼女はなぜかしら、さらに僕を睨んだ。


「そういえばさ、二月二十九日に生まれた人って誕生日は四年に一回しか来ないのかな?とすると四年に一回しか歳を取んないってこと?」


 また彼女の突拍子もない疑問が始まった。こういう発想はいったいどこから来るのだろうか・・・。


「あの、そんな訳ないでしょ。二月二十九日生まれの人だってもちろん毎年きちんと歳は取るよ」


「でもさ、その人は誕生日が毎年来ないよね?」


「うん。歳を取るのは誕生日じゃないんだ」


「どういうこと?」


「年齢がひとつ上がるのは誕生日ではなくて、誕生日の前日という決まりなんだよ。だから二月二十九日生まれの人は、その前日の二月二十八日にひとつ歳を取るんだよ。もう少し正確に言うと誕生日の前日が終わる瞬間なんだけどね。そうすることで閏日生まれの人でもちゃんと毎年歳を取れるって仕組みになってるんだ」


「へーそうなんだ。よく知ってるね。さすが真面目くんだ」


「それってあんまり褒めてないよね」


「別に褒めてないもん」


 彼女は悪気も無く、あっからかんと笑った。


 


「私も二月二十九日についてはひとつ知ってることがあるよ。昔ヨーロッパでは一般的に女性から男性に求婚できなかったらしいんだけど、二月二十九日だけは女性から男性に求婚できる特別な日だったんだって」


「それは男にとっては下手な怪談より怖い話だね」


「だよねだよね。やっぱ怖いよね。女の私からみてもそう思うもん!」


 彼女は怖いと言いながら、とても嬉しそうに話した。


「誕生日といえば、明日は鈴鹿さんの誕生日だったよね?」


「へー、よく覚えてたね!」


「さすがに今日聞いたことだからね」


「私、言ったっけ?」


「そのペンギンさんは誰からのプレゼントだっけ?」


 彼女は舌をぺろっと出しておどけたように笑った。


「三月生まれで咲季・・・そうか、花の咲く季節という意味なんだね」


「そうだよ。私、この名前好きなんだ」


「うん。とてもいい名前だね」


「フフッ、ありがと」


 彼女はめずらしく照れた表情をした。


「ねえ、そういえば君の誕生日っていつ?」


「僕? 四月五日だよ」


「なんだあ! 私と二週間しか違わないじゃん!」


「ああ・・・そうだね」


「そっかあ。よかったあ、ほとんど離れてなくて・・・」


 ――離れてない?・・・


 僕は彼女の喜んでいる本当の意味を理解していなかった。


「あの・・・名倉くん」


 彼女は何か思わせぶりの口調になった。


「え、なに?」


「私ね、ずっと君に言いたかったことがあるんだ・・・」


 ――え? まさか・・・。


 僕は否が応にも変な期待をした。


「な・・・何?」


 僕の心臓は一気に高鳴る。


「あのね・・・私・・・」


「う・・・うん」


「私・・・実は、明日で十八なんだ」


「え?・・・・ああ、そう十八」


 ――なんだ、歳のことか。びっくりさせないでよ。


 そう思いながら僕はどっと肩を撫で下ろした。


「そう、もう十八か・・・・・え! じゅうはち?」


 ――あれ? 僕は今、何歳(いくつ)だったっけ? 


 自分の歳をあらためて確認する。


 確か、来月の四月の誕生日で十八だよな、僕・・・。あれ? 


 彼女は恥ずかしそうに上目使いで僕を見ていた。


「え? もしかして鈴鹿さんって?」


「うん。本当だったらもうひとつ上の学年なの・・・私、中学の時にいろいろあって、中学二年生を二回やってるんだ」


 ――やっぱり元彼の言ってた噂は本当のことだったんだ・・・。


「私の中学時代のことの噂って、何か訊いてる?」


 探ってくるような言い方で僕に訊いてきた。


「ううん、別に、何も・・・」


 僕は咄嗟に嘘をついて、そのまま平然を装った。嘘をつくのが苦手な僕にしては上手く誤魔化せたと思う。


 内心はやはりショックだった。でも、僕は彼女の過去のことは気にしないと決めた。


 僕はしばらく黙ったまま下を俯いていた。


「君ってやっぱりいい人だね。何も訊かないんだね」


「別に・・・。だって鈴鹿さんは今の鈴鹿さんだから。それ以上でもそれ以下でもないでしょ」


 彼女はそれを聞くと優しく微笑んだ。


 


「ありがとう。でもよかった。思ったより君よりおばさんじゃなくて。二週間だったら、ほとんど変わらないもんね。四捨五入したら同じになるし」


「それを言うなら十五捨十六入でしょ」


「君、細かいねえ・・・」


 呆れたように彼女が言った。


「鈴鹿さんが大雑把過ぎるんだよ」


 僕の拗ねた仕草に彼女はまた笑った。


 


「あ、あのさ・・・」


 僕にしては唐突な話の出だしだった。


「うん?」


「実は、僕も前から鈴鹿さんに言いたいことがあって・・・」


「え? なになに? もしかして告白?」


 ――それ、言っちゃうかなあ・・。


「ごめんね。違うよ」


「なーんだ。じゃあ、なあに?」


「あの申し訳ないけど・・その『君』って呼び方、実はちょっと苦手なんだ・・」


「え? どうして?」


「僕、『君』って呼ばれると、なんか先生とかに言われてる感じがして、萎縮しちゃうんだ」


「えーそうなの・・・私は親しみがあって好きなんだけど・・・」


 彼女はきょとんとして顔をしかめた。


「まあ君が言うならしょうがないな。よし、じゃあこれからは名前で呼ぶことにしようか。ね、雄喜!」


 ――え、名前って下の方なの? しかも呼び捨てって・・・。


「そうだ。じゃあ雄喜も私を下の名前で呼んでよ。友達もみんなも名前で呼んでるし」


 予想外の話の展開に僕は焦った。


 今まで女の子を名前で呼ぶなんてもちろん無い。


 僕にとって女の子の名前を呼び捨てにするなんて漫画やドラマの世界の中だけだった。


 


「え? な、名前って・・・何て呼べばいいのかな?」


「『名前で呼んで』ってお願いして『何て呼べばいいの』って聞かれたら、何て答えればいいの私・・・」


「さき・・・ちゃん・・・でいいのかな?」


 何か無茶苦茶恥ずかしかった。いや、恥ずかしさを超えた何とも言えない違和感が心の中を走った。


「ああ、ちゃん付けはやめて。同じクラスに『亜紀ちゃん』がいるからさ、紛らわしいの。『さき』でいいよ」


 ――え、呼び捨て?


 ハードルが上げられた。


「ああ・・・さ・き・・・・」


 声が裏返った。


「あのお? 聞こえないよ」


 彼女は悪戯っぽく言った。


「さき・・・」


「フフッ・・・」


 彼女はとても嬉しそうな顔で笑った。


 


 ・・・なんて思っている時だ。何か焦げた臭いがまわりに充満していた。


「うあ! 雄喜ィ! 焦げてるよお!」


 彼女が慌てた顔で叫んだ。


「ゲゲ!」


 ドライヤーを近くで当て過ぎたのだろう。乾かしていたペンギンのお腹が見事にこんがりとした黄金色に焦げ始めていた。


「ああ、ごめんね! どうしよう・・・」


 焦がしてしまったのは僕が彼女に渡したほうのストラップだった。


 彼女はその焦げたペンギンのお腹を痛々しそうにさすっていた。


「ああ、痛そう。君、ペンちゃんを焼き鳥にするつもり? 動物虐待だよ!」


「あの、ごめんね。僕のと交換するよ」


「ううん、こっちのでいいよ」


 彼女は笑いながらあっさりと答えた。


「だって焦がしちゃったし・・・」


「こっちがいいの! このペンちゃんは君が私に買ってくれたものだもん」


「え? だって・・・同じじゃない?」


「同じじゃないよ!  そっちのペンちゃんは私が君にあげたやつだからね。大切にしなきゃ怒るよ」


 ――そんなものなのかな・・・。


 経験不足だからなのだろうか、僕はやはり女の子の気持ちが理解できない。


 


 その時、ベルの音が部屋に鳴り響いた。


 二人とも突然の大きな音にビクっとなる。ベッドの脇にある電話の呼び出し音だ。


 受話器を取ると、さっきのフロントのおばさんの声がした。


「あと十五分でご宿泊料金になりますが、どうなさいますか?」


 ――え? ご宿泊って?


「ど、どうしよう?」


 電話口のおばさんの声がとても大きく、内容は彼女まで聞こえていたようだ。


 ・・・っていうか、あのおばさん、僕達が高校生って知ってて言ってるのだろうか。


 彼女も困ったような複雑な顔をしていたが、何も喋らなかった。


 ――彼女、どうして何も言わないのかな? まさか・・・泊まる?


 そうぐちゃぐちゃと考えている間に、僕は気持ちとは裏腹に反射的に返事をしていた。


「はい、あの・・・もう出ます」


 彼女はホッとしたような、がっかりしたような、どちらでもとれる顔をしていた。


「うん、もう帰らなきゃ・・・ね」


 彼女は下を向いたまま呟いた。僕も黙って頷いた。


 名残惜しいというのが正直な気持ちだったが、高校生がこんなところに泊まるのはもちろん許されるわけがない。


 僕たちはゆっくりと帰り支度を始めた。


 忘れ物が無いかと部屋の中を確認する。すると、彼女が床に這って何かを探していた。


「何か落としたの?」


 僕がそう尋ねたが、彼女の返事は無かった。


「何か捜してるの?」


 また返事が無い。


 ――どうしたのかな?


 僕は探し物を一緒に探そうかと彼女に近づいた。すると、彼女の体が小刻みに震えていた。


「え?」


 ――違う!


 僕は彼女の体に何か異変があることに気づいた。


「どうしたの? 大丈夫?」


「ごめんね。ちょっと・・・・苦しくなっちゃって・・・・」


 明らかに様子が変だった。


「大丈夫・・・すぐ治まると・・・思う」


 彼女は苦しそうな声で呟いた。


 ――どうしよう・・・こんなところで・・・。


 僕はどうしたらいいのか分からず、ただ茫然としていた。


 徐々に彼女の息遣いが荒くなってくる。


 僕は焦った。胸のあたりがかなり苦しそうだった。


「ドジだな私。薬・・・学校のカバンの中だ・・・」


 ――え? 薬って、まさか心臓?


「・・・・・」


 目の前で人が苦しんでいるなんて生まれて初めてのことで、僕は頭の中が真っ白になった。


 ――どうしよう・・・どうしよう・・・。


 頭の中で同じ言葉が反芻される。


 もう彼女は喋ることができないくらい苦しい状態だった。


 ――もうだめだ。何とかしないと。そうだ救急車だ!


 僕は携帯を慌てて掴んだ。


 ――あ、そうだ。携帯は海に落として壊しちゃったんだ、どうしよう。


 僕はさらに頭の中がさらにパニックになる。


 ――そうだ、部屋の電話だ!


 僕はベッドの脇にある電話の受話器を取った。


 ――この電話って直接119番に繋がるのかな?


 焦って気が動転する。正面に『フロント0番』の文字が目に入り、僕はすぐにボタンを押した。


 フロントの人に事情を話し、すぐに救急車のお願いをした。僕はもう何がなんだか分からなくなっていた。


 ――彼女の身にいったい何が起きたのだろう?


 このあとの出来事については、僕は気が動転していて、断片的にしか記憶が無い。


 憶えているのは、救急車が来た時、ホテルの前に人だかりができていたこと。僕は彼女と一緒に救急車に乗ったこと。救命士さんから彼女の家への連絡先を聞かれたが、僕は答えられなかったこと。彼女が苦しみながらも自宅の連絡先を伝えたこと。


 そのあとは・・・よく覚えていない・・・。


 


 気がつくと、僕は病院の集中治療室の前に座っていた。


 ――そうだ。僕と彼女は救急車で病院へ運ばれたんだ。


 僕は彼女の身に何が起きたのか、全く状況が理解できていなかった。横には中年の男性と女性が心配そうな顔で座っている。


 頭の中はまだ混乱していた。


 


 ――思い出した。


 彼女のお父さんとお母さんだ。病院からの連絡でここへ駆けつけたのだ。


 誰も喋ることは無く、静寂が続いていた。


 しばらくすると集中治療室から医師が出てきて、彼女の容態がなんとか落ちついたということを伝えられた。


 僕は安堵の気持ちを抑えられなかった。


 


 ホテル内でのことだったので事件性を懸念したのか、僕はこのあと警察の事情聴取を受けた。恐らくホテルのフロントのおばさんが連絡したのだろう。


 事件性は無いと分かり、警察からの尋問は形式的なものだけで、僕はすぐに解放された。


 ただ、このあとの彼女の両親からの尋問がすごかった。


 学校をサボり、挙句の果てにホテルに一緒に入り、そこで倒れただなんて、何も言い訳ができるわけがなかった。


 誰が学校をサボろうと言い出したのか? どっちがホテルへ誘ったのか?  


 特に彼女のお父さんからの質問の責めがキツかった。


 僕は自分から彼女を誘ったと話した。彼女のお母さんからは本当なのか、と念押しされたが、そのまま頷いた。


 別にカッコをつけた訳ではない。


 彼女がこのことで両親から怒られるのが嫌だったし、何より彼女が僕を誘ったようなウワサがたつのがもっと嫌だったからだ。


 実際に最終的に電車に引っ張ったのは僕だし、ホテルに入らなければならない原因を作ったのも僕だ。


 そう。僕がはっきりと授業をサボるのをやめようと言えばよかったんだ。


 僕の優柔不断さが、彼女をこんな危険な目に遭わせてしまった。それは紛れもない事実だった。僕自身がそれに納得していた。


 彼女の父親は激怒し、もう彼女には絶対に会うなと言われた。父親として当然のことだろう。


 僕もそう言われることは覚悟していた。でも、彼女が倒れた理由については何も教えてくれなかった。


「ごめんね。鈴鹿さん・・・」


 僕はひとりで病院をあとにした。


 このことは当然のこととして僕の両親や学校にも報告が行くことになり、かなりの大事になると覚悟していた。


 学校もサボってしまったし、ただでは済まないだろう。


 しかし、帰ってから親から何も言われることは無かった。その後の学校からの呼び出しや連絡も無かった。


 彼女の両親はどこにも報告や連絡をしなかったようだ。僕に気遣ったのか、彼女を気遣ったのか。


 どちらにしても、僕がもう彼女と会うことが許されないということには変わりないだろう。


 


 



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