正常な日々
この小説にはホラー・ダークな要素が含まれて居ます。
年齢制限が必要な程のものではありませんが、苦手な方はお気をつけ下さい。
始めは弘一の言う“音”が何を示しているのか残りの三人はさっぱり分からなかった。
それ程にその音は自然で、この世界に馴染んでいるものだった。
「音って、このカサカサっていうの?」
晶が怪訝そうに眉を寄せて弘一に問いかける。
「うん。昨日の夜、見張りをしていたら突然聞こえ始めたんだ。」
そういいながら弘一は壊れた室外機や、倒れてしまっている給水タンクの間を通って音の元を探そうと歩き出す。
瓦礫やひび割れは所々にあるが、音の原因となっているようなものは屋上には見当たらない。
沙耶が大切に育てている植物の葉も、風に揺れたとしてもまだまだ小さ過ぎて音を刻む程ではなかった。
「ホント、弘一って小さい事も気にする奴だよな」
ぼやきながらも和馬は弘一の後を付いていった。
沙耶は不安そうに彼らの後姿を見送っていたが、傍にいた晶が歩き出すとすぐにその後をついて行く。
その気配を察したのか、晶は肩越しに一度振り返り沙耶に言葉を向けた。
「沙耶、さっきここにいたんだろ?音しなかったの?」
「…弘一に言われるまで、全然気が付かなかったから…」
自信がなさそうな沙耶にそれ以上追求の言葉を向けることなく、晶は先を行っていた二人に追いついた。
事故防止の為に屋上をぐるりと囲っている背の高いフェンスは、震災の際に歪んで所々で途切れてしまっている。
その隙間から出ているのは和馬だ。弘一は内側にいるにも関わらず、しっかりとフェンスを掴んで和馬の様子を落ち着かない様子で見ている。
「和馬、落ちないでよ?」
晶が声をかけると、和馬は振り返って笑った。
「弘一みたいに鈍くねーよ。音の正体も判った。」
弘一は少しむっして何かを言いかけたが、和馬が戻ってくるとほっとしたように表情を緩めてフェンスから離れた。
和馬は晶に、下を見てみろというように自分が出入りをしたフェンスの隙間を指差した。
慎重な足取りで晶がフェンスを潜り、下を覗き込むと巨大なビニールのようなものが引っかかっているのが見えた。
恐らく、二階あたりの割れた窓にでも引っかかっているのだろう。
それが少しの風で揺れ、校舎の壁に擦れて例の小さな音を刻んでいるようだった。
「ああ、犯人はあれだね。」
結局はただのゴミと風が作っているだけの音だと分かると、無意識に張っていた緊張の糸が完全に緩んだ。
ずっと黙り込み、真剣な表情をしていた沙耶も晶の声を聞いて漸く体から力を抜く。
「ゴミが引っかかってるだけだよ。たぶん、ビニールハウスかなんかの残骸じゃないかな」
沙耶と弘一に向けて晶が言っている間に、和馬が笑いながら馬鹿にするように弘一の肩を軽く叩いた。
うるさいな。とでも言いたげに眉を寄せた弘一だが、結局は笑ってじゃれあうように和馬の頭を同じく軽く叩き返した。
この二人は性格も育ちも正反対と言えるほどに違うが、周りから妙な噂をされるくらいに昔から仲が良い。
大人しく、医者の息子である弘一は見た目からもお坊ちゃま育ちということが分かるらしく、恐喝をされたことがあった。
血気盛んな和馬が止める弘一本人を振りほどき、犯人を見つけ出して報復した挙句、弘一が盗られた同額を奪い返したというエピソードがある。
その他にも赤点ばかりで進級が危うかった和馬に、弘一が泊り込みで勉強を教えたりと、晶と沙耶も妙な疑いを持つこともあった程の仲の良さだ。
昔と変わりない二人のやり取りを見て、些細な事で喧嘩したり悩んだしていたつまらない、けれど平和だった世界の事を晶と沙耶も思い出した。
「……そろそろ戻ろうか。」
感傷的になる前に、晶が口を開いたのをきっかけに四人は校舎の中へと戻っていった。
昼前に食料調達の為に晶と和馬は校舎を出て行った。
インスタントラーメンや缶詰といった非常食は震災直後にかき集めたが、なるべくそれを使わずにその日その日で食料を見つけているのだ。
だが、ここ暫くはまともな食材を見つけることが出来ず、インスタントラーメンの世話になる日が続いている。
晶と和馬は今日こそは何かを見つけようと、遠出をするつもりでリュックサックを背負い、飲み水と簡素な武器をもって出かけた。
「自然公園の方に行ってみよう」
晶の提案に和馬は頷いて、荒廃しきった街の中を進む。
二人が歩いている、嘗ては車道だった道はアスファルトがひび割れて下の土が露出しているところが多い。
注意を促す交通標識や電柱は倒れていても形を残し、地面に敷かれている中央線や横断歩道の白い線はまだかなりくっきりと残っている。
人間が作っていた物の丈夫さ、そしてその丈夫な物を作っていた人間の脆さを象徴するような景色の中を二人は黙々と進む。
音は二人の足音だけだ。
震災があった直後はまだ人も多かったが、数週間後にはこの地方に居ても助けは来ないと見限って男も女もは別の場所に移っていた。
食料や水の争奪戦で破壊し尽くされたコンビニエンスストアや、スーパーの周りには変色した血の痕が多く残っている。
一時は多く転がっていたはずの亡骸が無いのは、恐らくは野犬か動物園から逃げ出して野生に帰った獣辺りが持っていったのだろう。
その動物達も最近では数が減り、二人の周囲は静寂そのものに包まれていた。
会話も余りせず、二人が二時間ほど歩くと自然公園への道を示す看板が見えてきた。
“四季折々の豊かな自然 美しい花と優しい動物の里”
どこにでもありそうな謳い文句の下に、大きく自然公園の名前と簡単な地図が書かれていた。
色褪せているその看板の脇を過ぎ、無人となったゲートを通り抜けて二人は自然公園の中に入っていった。
秋の穏やかな陽光に照らし出される芝生は手入れがされず、伸び放題で緑から薄い茶色に変わりつつあった。
その中を通っている遊歩道の分かれ道には動植物園と、大きな池への道を示す看板が立っている。
二人は迷わずに池がある左の道を進んでいった。
校舎に残っていた弘一と沙耶は、別々に行動をしていた。
沙耶は今朝収穫したばかりのサツマイモを僅かな水で洗い、茎は丁寧に葉を取って並べてある。
弘一は美術準備室の隣、狭く埃の匂いがいつまでも消えない資料室の中で溜め込んである食料の計算をしていた。
――もってあと三週間。
かき集めた食料だけで過ごした場合に、四人が食べて行ける日数を割り出して弘一は溜息を漏らした。
既に荒らされた後の店舗から、晶と和馬が時々持ってくる食料や彼らが調達してくる新鮮な食材でかなりもたせていたとはいえ、ストックは徐々に減っていた。
何よりも秋になり、天気の良い日が続いているお陰で水の量がかなり心細くなってきている。
図書室にあったサバイバルの本で得た知識で、ペットボトルと小石やタオルを使って即席の浄水器を作ってはみたが、泥水すら最近は得るのが難しい状態だ。
手洗い場に置いてある2リットルのペットボトルが合計であと六本。
資料室の片隅に置いてあるペットボトルや、酒瓶に入っている水の量と合わせても四人で使えば三日もつかどうかといったところだ。
「和馬達に水もお願いするべきだったのかな…」
弘一は小さく呟いた。
水の量が減ってきているとは言え、食料調達だけでも大変な二人に水の事まで頼むのは気が引けて伝えられていなかった。
少しの間、水の入った容器を見つめてぼんやりとしていた弘一だったが、やがて立ち上がって資料室から出て行った。