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作者: ちゃぼてん

じじっと、羽虫が電球にぶつかる音がした。古くも新しくもない天井が、八年後に再会した私を見下ろしている。畳張りの和室は画材と本で散らかり、かび臭かった。

「死ぬのに勇気はいらない」

 ぼそっと呟き、私は欠伸をする。歯磨きをしていないせいで、口の中が気持ち悪い。喉が渇いた。

 窓から見る空は暗く、静かな時間が流れている。時計を見ると、深夜一時を指していた。

 廊下の電気をつけて、冷たい板張りの上を進む。台所の灯りは蛍光灯で、無機質に感じた。冷蔵庫から、お気に入りの雪印コーヒーを取り出す。寝る気はさらさら無い。お菓子とコーヒーを楽しみながら、しばらく携帯ゲームをしたり、本を読んで過ごした。


 鳩時計が鳴った。そのまま朝を迎えたが、起きていた時と目覚めた今が連結しない。いつもながら、しばらく自分の名前すら思い出せなかった。

「美空」

 呼ばれて意識が回転し、着地した。夢の中ではそう呼ばれている。そして、私の目には何も映らない。

 薔薇の香りが近づく。夢に出てくる架空の母の香水。夢だというのに、毎回同じ香りだ。衣擦れの音が大きくなり、人の気配が隣に立つ。

「おはよう。母さん」

 返事まで、数秒あった。

「おはよう」

 泣き声を押し殺した返事だ。鬱屈とした空気にうんざりしながら起き上がると、その顔を悲しんだ表情と捉えたのか、母は私の両の頬を挟んだ。夢にしては生々しくて、私はさっさと目覚めたいと眉を寄せる。

 夢は夢を見る人のものではない。どこかで聞いた言葉だ。母が手を離すと、私は足先に注意しながら立ち上がる。和室には物が少ないはずだ。かび臭かったかつての私室は、危険を配慮して片付けられている。畳みも新しくなり、草の甘い香りがする。

 布団から完全に出ると、母が布団を畳みだす音が聞こえ始める。その間、私は少し離れて座って待っていた。

 寝ているのに眠いなんて、変な話だと思いながら、壁を頼りに歩き出す。最近になって始めた、エコーロケーションを練習してみる。舌打ちによるクリック音の反響で、外界を知覚する技術だ。

 引き戸から左へ四歩。右へ二歩で左手にお手洗いがある。エコーロケーションは上達してきたが、水だけはよく分からない。

 流した後、トイレを出て右に三歩行くと、洗面所。洗面台の正面にあるだろう鏡を触ってみる。つるりとした滑らかな触れ心地だ。ノズルを回して流れる水は、暑い夏に気持ち良い。ソープは柑橘系の香りで気分が向上する。

 家の中では白杖はいらない。慣れた動作でリビングへ着いた。喉が渇いて口の臭いが気になる。歯磨きを忘れたのかもしれない。

 台所の方角から、母の炊事の音が届く。今日は味噌汁のようだ。

「何の味噌汁?」

 母はもう泣いていなかった。

「食べてみて」

 明るい声だが、本当に気分が良いのかどうかは分からない。

 一口飲むと、出汁が昨日と変わった事に気づく。

 昨日?

「なめこの味噌汁だね」

 私の好物だった。夢も良いものだ。

「コーヒーある?」

「コーヒーね。ちょっと待ってて」

 スリッパがフローリングを叩き、冷蔵庫からパックを取り出す音がする。

「はい。美空が好きな雪印よ」

 雪印。

 目眩がしてこめかみを痛みが襲う。

「母さん。胡蝶の夢って、どんな話だっけ」

 冷や汗が背筋を流れる。吐き気と緊張でくらくらした。

 母は側にいなかったようだ。私が味噌汁を飲んでいる間に、家事を始めたらしい。送れて返事がくる。

「ごめんね。なぁに?」

 答えを知るのが怖い。

「昨日は歯磨きを忘れたわね。後で手伝おうか?」

「……自分で出来るねぇ、胡蝶の夢の話をして」

 蝶になった夢を見たのか、蝶が夢を見たのか。

 

 私は自分の顔を思い出せない。

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