二つの部屋
★外
何故人は金に困るのだろう。月毎に人生最大の恐怖が訪れることに僕はもう疲れた。得てもいない金を使うことは簡単だった。今にして思えば実に滑稽なほど明るい店構えに包まれたサラ金窓口に引き込まれ、あっけないほど簡単に僕は金を借りることができた。いや、借りてしまったと言うべきなのだろう。恐ろしい物事というのは、入口は遊園地のようで、入ったら最後、見えぬ出口に向かっていくものだ。
全て自分のだらしなさのせいで起きたことなのは身に染みて理解している。ここまでの人生、全てそういう風に生きていた。大学では、女性率が何%だの、飲み会の頻度がどうだのという枠組みにばかりに目が行き、本質に目を向けずにサークル参加した。蓋を開けてみれば、男からお金をむしり取り、枠組み強化のために女性に投資するだけのサークルだった。映像研究室という本来の活動要件を卒業するまで何もした記憶が無いのは痛恨の極みである。大学を卒業するまでに、働いてもいない僕が返せるわけもない三百万円という借金を残しただけだった。
見事焦げ付きになった僕は、まともに就職活動をこなすこともできなかった。何度も死ぬしかないという概念に捕らわれた。その一方で、そんな勇気すらない自分をも自覚していた。毎月訪れる返済に、借金で返す最悪のサイクルをこなすうち、自分を通過して何が流れているのかも分からなくなった。親に泣きつこうとも考えたが、オンボロ工場を必死で切り盛りする両親が目に浮かび、涙が出た。大学生活を終えるまでに近くにいたようだった友人たちに相談することも出来なかった。携帯電話のアドレス帳には「知り合い」はたくさん載っているが、「友達」や「仲間」は一人もいなかったと自覚した。そして、ここまで追い込まれながら「知り合い」に相談できぬ体面を気にした最悪の僕がいた。
「金貸しの怪人って知ってるか」
サークルに所属していた時に、男からむしったお金で開催された飲み会で、ある噂を耳にした。町はずれにポツンと建てられた、あるマンションの十二号室に、ある不思議な金貸しがいるという。金貸しの通り名は、「金貸しの厳」。
「金貸しの厳」は、金を借りに来た者に無理難題をふっかけ、それを見事クリアーできた者に、無利子・無担保、おまけに返済期限もなく、金を貸してくれるそうだ。女の気を引くためなら、デマだろうがなんだろうが面白おかしく吹聴していた男が噂の出所だけに、信憑性という意味では最悪であった。
でも、月の変わり目にただ追い込められ、行き場もなく自分を呪い続けている僕、そもそもそういう習性を持つ僕が、そんなくだらない噂話に飛びつかない訳が無かった。
噂の場所に、確かにそれらしいマンションはあった。背後に鬱蒼とした林を構えたマンションで、高さ二十階ほどか。探索に時間を要したために、すっかり日も沈んだ中で、周囲に大きな建造物の無い中で聳え立つマンションは、威圧感を与える。コウモリが飛んでいたっておかしくない雰囲気がある。マンションの中は何の変哲もなく、一階のホール正面からすぐのところの十二号室の前に、あっけなく着いた。部屋番号の表記はかすれていて、物々しい雰囲気作りに貢献している。
緊張感が高まる。「金貸しの厳」が実在するかも分かっていない。それでも僕は確信していた。そうでなくては困る。この先に「金貸しの厳」がいる。今この状況以上に恐れることはない、そうふんぎりをつけて、僕はインターホンを押した。
★十二号室
静かに内部から「ピンポーン」という音が聞こえる。ただのインターホンがなぜかとてつもない不気味さを醸し出していた。暫くの無音。「金貸しの厳」が実在するかの前に、常識的に考えればこんな夜更けに突然の訪問客を出迎える正当性はない。そもそも不在である可能性すらある。もう一度インターホンを押そうか逡巡した時、ガチャリと音を立て扉が開いた。
「入れよ」
威嚇するように中から現れた男性は、低く、静かに言った。五十過ぎの紳士な身なりの男性だった。勝手に老人をイメージしていた僕は少し戸惑った。
「失礼します」
そう言って、僕は十二号室に立ち入る。いきなり面喰ってどうする。穏やかな件で来たわけじゃないんだ。自分に喝を入れた。
中に案内されると、こざっぱりした普通の部屋だった。「金貸しの厳」というイメージが持つ重厚感とは、これまたギャップがあった。室内に案内される中で、「噂」で聞いていた「ルール」を復唱する。
一、「金貸しの厳」が出す「お題」に応えられなければ、金は借りられぬ
一、四時間以内に「お題」に応えられなければ、金は借りられぬ
一、「お題」に対して質問は一切できぬ
一、二度目は無い
制限時間が四時間、これが長いのか短いのか、「お題」の具体例を一つも知らない僕には判断できなかった。しかし、再チャレンジは用意されていないのだから、与えられたお題に全力で取り組むしかない。情報の出どころが噂である時点で、こんな都市伝説のようなルールが本当なのかも分からない。しかし他に拠り所は無い。
そして、厳は無利子・無担保という借入者に圧倒的に有利な条件で金を貸すのだ。生半可なお題であるわけがない。そもそも「金貸しの厳」は何の目的で、無利子・無担保などという条件で、金貸しをしているのか。何かで膨大な資産を得た者が、持たざる者や地獄の底まで追い詰められた者を嘲るための道楽なのか。思い返すと、そんな道楽を想像したからこそ、イメージの中の「金貸しの厳」は古典ミステリーに登場しそうな威厳たっぷりの老人だったのだ。
「そこに座れ」
変わらず重い雰囲気を言葉に乗せて厳は言う。指し示された椅子は、客人用というより、家庭的な感じの一人掛けソファーだった。言われた通り、そこにそっと腰掛ける。厳は僕をじっと見据えていた。金貸しが持つ独特の鋭い視線というものなのか。萎縮しかける自分を必死に鼓舞する。
「早速本題よろしいでしょうか」
声が上ずる。僕はもうこの場に飲まれていたのだ。それでも必死で振り絞った結果だった。
「カナコを連れてこい」
一瞬理解が遅れた。あまりにも唐突であったため、変に空白を作ってしまった。
一、金貸しの厳が出すお題に応えられなければ、金は借りられぬ
一、「お題」に対して質問は一切できぬ
出遅れはしたが、僕はルールを反芻した。「カナコ」を連れてくる。それが厳の「お題」であると認識した。
「カナコ」とは誰なのか。どこに行けば会えるのか。
苗字は? 年齢は? 次々と湧く疑問。しかし、質問は一切できないルールだ。厳のお題がこれほど難度の高いものだとは。制限時間は四時間。明らかに短い。今はそれが分かる。このままこの部屋にいても埒があかないのは明白だ。
「わかりました」
僕はじっと僕の顔を見つめる厳を尻目に、十二号室を飛び出た。
★十三号室
妻が家を飛び出してから、俺の心は熱を帯びなくなった。どのような思考しても心を冷却する方向にしか働かない。妻を愛していた。脇目も振らなかった。妻が二十五の時に居酒屋で出会い、「この人だ」と感じたその頃の想いは、今も変わらずに思い出せる。妻を幸せにしたかった。奥様連中の輪の中で、決して負い目を背負わないように、俺は必死で働いた。世間的に見ても、五十歳で部長職を務める俺は充分に出世した部類に入るだろう。
このマンションも妻が一目惚れしたから買った。
「家を出たら、すぐに神秘的なファンタジーを感じるところに住みたかったの」
そう言った妻の笑顔を忘れることはない。
しかし妻は置き手紙を残して、家を出て行った。若い男と暮らすのだという。妻の裏切りには大きくショックを受けた。だがそれよりも、「私はこの家で常に一人だった」と書かれていたことのショックの方が大きかった。
妻を幸せに、そう考えて必死になった行為が妻を孤独にしていた。ほんの少しだけお話ししたいという妻をおざなりに、俺は仕事に夢中になっていたのだろう。
妻が出て行ってすぐ、茫然自失となっていた時に、隣の十二号室に住む厳さんが訪ねてきた。厳さんと我が家は、家族ぐるみの付き合いをしていたと言えるだろう。もっとも、その付き合いの殆どが妻と厳さんなのだが。妻は寂しさを埋めるかのごとく、厳さんに夕飯などを提供していた。
訪ねてきた厳さんの手には、大きな金属製の箱があった。
「やあ。突然すまないね。突然ついでに、この金庫を受け取ってはくれないか」
厳さんはそう言った。厳さんが妙な生業をやっていることは知っていた。理由は教えてくれていないが、厳さんの人柄を考えると悪意から来ていないことは容易に理解できる。その厳さんが「金庫」を持ってきた。
「どうして私が厳さんの金庫を預からないといけないんです?」
俺は問いかけた。
「奥さんに理由は言ってある。そしてこの金庫の鍵は奥さんが持っている」
理由も不明なまま、金品と思しき物を一方的に押し付けられるのは不気味極まりないため、俺は最初断るつもりでいた。しかし、妻に鍵を渡してあると聞いて、正直悩んだ。妻の行方が皆目見当もつかない現状を打破するのは、この「金庫」かもしれない。
まっとうな判断ではないだろう。俺は厳さんから「金庫」を受け取った。
程なくして、妻の愛人を名乗る男から電話があった。話をさせてくれ、そいつはそう言った。こちらとしても望むところである。俺は我が家で待つと言った。
妻の愛人が来る、その事象は思ったよりも俺の神経を逆なでしていたようだ。擦り減らされ、尖っていく意識を自覚する。事実、今日我が家を訪れる人間を全て「妻の愛人」だと決めつけて、ドア越しに一方的な応対をした。「妻の愛人」の顔を知らぬのだから仕方が無いと自分に言い聞かせた。訳のわからぬ怒りをぶつけられた人たちには気の毒なことをした。
ピンポーン
こんな時に響くインターホンのその音は、なんとも間抜けで湿っており、俺は平常心を保てなくなる。ドアに向かう。開けようとするその手に緊張が走る。
俺は「妻の愛人」になんと言えばいいのか、何を言いたいのか、妻とどうなりたいのか、俺の頭の中では形の不揃いな雲がふわふわと浮かんでいるようだった。
「誰だ」
自然と声が重たくなる。
「お電話しました、今奥さんと良き関係をしている者です」
その言い方にカチンとした。ドアを一気に開けて、胸ぐらを掴んで殴ってしまおうかという衝動に駆られる。だめだ。それこそこいつの思う壺だ。しかしようやく対決の時が来た。静かにドアを開ける。
「入れ。ここで話すことでもないだろう」
妻が出て行ってから、失っていた熱が戻ってきていた。こんな奴でその熱を取り戻すとはなんということだ。俺はこの熱の正体を知っている。怒りだ。
椅子に「妻の愛人」を座らせた。せいぜいその段階の応対までは客人として扱えても、さすがに飲み物を出す、というわけには行かない。これは対決なのだ。
「妻はどこにいる」
色々考えていた割には、端的な言葉が出た。いや、しかしそうなのだ。俺にとってはその興味しかない。「できるビジネスマン」という面をしたこいつは、きっちりとスーツを身にまとっている。「奥さんを僕にください」とでも言うつもりか。許せぬ。
「奥さんは私の家におりますよ」
妻の愛人は、当たり前でしょうと言わんばかりだった。最初から分かっていたことだが、こいつとまともな会話なんてできるわけがないのだ。
「連れてこい。このまま俺と会わないで済むわけはないだろう。別れたいのであれば、お互い決めなければならないことはいくつもある。何故妻は顔も出さず、お前が来る。お前らの関係を前にして言うのも何だが、非常識だろう」
ようやくスルスルと言葉が出た。妻に対して思っていたことでもあったからだ。
「ええ。おっしゃりたいことはよく分かりますよ。でもですね、奥さんはあなたを前にすると言いたいことをあまり言えなくなってしまうそうですから。ご結婚されてしばらくして、あなたとどう会話を紡いでいけばいいか分からなくなったと言っていましたよ」
ズキン、と強烈に胸が痛んだ。「私はこの家で常に一人だった」という妻の言葉が頭の内側を強く、強く、打ち鳴らした。
「分かっている。すまないとも思っている。俺はこれ以上妻を苦しめたくはない。だからこそ、妻を連れてきてくれ」
敗北、だった。妻の愛人に痛いところ突かれるというのは、悔しさで胸が引きちぎれるようであったが、妻をこれ以上苦しめたくないのは本音だった。
「そうした方が良いでしょうね。でも一つ奥さんに頼まれていることがありましてね」
早々に俺の心を打ち砕いたこいつは、ペースを掴んだことを理解しているようだ。
「なんだ? 俺にか?」
俺は妻の愛人を睨めあげた。しかし、その目に力を宿せたとは到底思えない。
「ええ。ここに『金庫』が預けられているでしょう? それを持って帰ってきて欲しいと言われてましてね」
……金庫だと? ああ、厳さんの置いていったあの金庫か。悲しいものだ。お金になんて興味はなかった。欲しければくれてやる。ただ妻が、この場においてそのような明け透けな要求をしてきたことがただ悲しかった。厳さんも、鍵を渡したのなら、そのまま金庫も渡せば良かったではないか。俺の中で先ほどまで熱く燃えていた何かが、みるみるうちにしぼんでいくのが分かった。
「好きにしろ。ただし、条件がある」
「何でしょう?」
まるで幼稚園児を諭すような素振りで、妻の愛人は首を傾けてしゃべる。
「妻が直接取りに来ることだ」
どうしても妻に伝えたいことがある。
「そうですか……。実は困ったことがありましてね」
「何だ?」
これ以上に困った状況は俺にはない。
「奥さんと連絡がつかなくなりまして」
★外
「カナコ」を探さねばならない。僕が人並みの生活に戻れるかどうかの全ては「カナコ」にかかっている。顔も年齢も知らない「カナコ」に。
実際、勢いよく十二号室を飛び出したものの、すぐにマンションの前で途方にくれた。
「カナコ……。どこをどう探せば良いんだろう……」
独り言を呟いた後で、これではまるで「カナコ」に恋焦がれるやつだな、と思い自笑した。軽くでも笑ったおかげで、少しリラックスした。頭を整理する。
「金貸しの厳」から出されたお題、「カナコ」を連れてくること。厳と河南子は知り合いだろうか?順当に考えてそうだろう。制限時間四時間ということを踏まえても、例えば芸能人などで知っている人物を指定して連れてこい、というのは無理難題すぎる。いやしかし、厳のお題はそれほどの難度なのかもしれない。どちらにせよ、やれることは限られているのだから、厳とカナコは知り合いだと考えて行動する選択肢しかない。
厳はまさにこの夜に聳え立つマンションに住んでいる。となれば、カナコもこの近辺に所縁のある人物であると考えられる。となれば、この近辺でカナコに関する情報を聞き込みするのが最も適切なアプローチと思えた。マンションの住人に聞くか、マンション周辺で誰かに聞くか、考えるまでもない。マンションの住人への聞き込みがベストだ。こんな辺鄙な場所で通りかかる人を探すだけで、制限時間を使い果たす可能性がある。
僕にとって最も好ましいのは、カナコがこのマンションの住人であるケースだ。カナコという苗字も分からぬ人探しでも、マンションの住人同士であったなら、その情報だけでたどり着くこともあり得ると思えた。
その思考に納得し、マンションに戻ろうと振り返った刹那、視界の端で何かをとらえた。ゆっくりとそちらを向く。マンションの前は、一本のか細い街路灯で照らされていた。その街路灯の前に、ベンチがポツンと置かれている。視界に引っかかった何かがそこにある。
その街路灯の示す光の中に目を凝らす。
人だ。人が座っている。
どうする。この近辺に、この時間に歩いている人はいないと決めてかかった分だけ、反応と思考が遅れた。悩んでいる暇はない。僕は今日何度目かの自分への鼓舞を行った。ベンチに座る人物に近づくにつれ、その人物が女性、しかも二十代の女性のように見えた。何かに落胆しているのか、俯いている。本来の「カナコ探し」を一瞬忘れ、こんな時間に何をしているのだろうと思った。声をかけられるまでに近づいたところで、その女性が顔を上げた。僕を見て明らかに女性の顔に警戒の色が浮かぶ。痴漢と思われると面倒だ。手早く行く。
「すみません。お伺いしたいことがあるのですが、『カナコさん』という方をご存知ないでしょうか」
女性の顔に驚きの表情が浮かぶ。女性の回答は僕の想像の上を行った。
「私もカナコと言いますが」
★十三号室
「妻と連絡がつかなくなっただと?」
ふざけるな。何を言っているのだ、この男は。先ほどは我が物顔で自分の家にいると言っていたではないか。
「はい。でもですね、おそらく携帯電話の電池が切れているのに、外出してしまっただけとかだと思います。私の家で待てばそのうち帰ってきます。ですので、できればこのまま『金庫』を持ち帰らせていただきたい」
何を一方的なことばかりを言っている。こいつの言っていることは支離滅裂だ。
……しかし、もう疲れた。元々中身に興味がない金庫など持っていけ。それよりも純粋に妻がどこで何をしているのか、漠然とした不安がよぎる。何かトラブルに巻き込まれていなければいいが。そう思いながら、キッチンへと向かった。蛇口下の、普段あまり使用しない食器類が入っている物入れを開ける。厳さんから預かった金庫はそこにあった。リビングに戻って、それを男に突き出した。
「これでいいだろ。早く家に帰って妻を待て。こんな時間に何かあったらどうする」
もうそんな権利が俺にはないのかもしれないが、妻への心配を口にした。
「ありがとうございます。ではこれで、お暇させてもらいます。確かに僕は彼女の話をたくさん聞いてあげたいですから」
妻の愛人は特に表情を変えることなくそう言った。また胸がズキンと痛む。逃げるようで情けなかったが、もう帰って欲しかった。
「妻を、よろしく頼む」
悔しくて、涙が滲んだ。
「では」
一礼しながらそう言って、妻の愛人は玄関に向かった。
ガチャ
妻の愛人が開けるよりも早く、ドアがひとりでに勢いよく開いた。
そこには、家出少女が帰宅した時のような、むず痒い顔をした妻が立っていた。俺の顔を見て、一拍おいて口を開いた。
「ただいま」
涙がついに溢れた。
「おかえり」
★外
僕とカナコと名乗る女性は、その女性の案内のもと、マンションより歩いて十分ほど離れた喫茶店で、向かい合って座っていた。
こんな辺鄙なところでも喫茶店はあるのだと感心した。古びた喫茶店だが、清潔感のある店構えだ。こんな店を知っているということは、この「カナコさん」はやはりこの辺の住民なのだろうか。
「えっと…。先ほど軽く事情は言いましたが、厳さんという方から『カナコさん』を探すように言われまして」
僕は説明のしにくさを感じながら、言葉を選んで言った。「カナコ」が見つかったのであれば、即座に厳の元に戻ることもできたが、あくまで彼女は「カナコ」の候補である。再チャレンジできないのであれば、厳の言う「カナコ」であるか慎重に見極める必要がある。
「本当に厳さんが私を探してこいと言ったのですか?」
カナコは問い詰めるように尋ねてきた。無理もないが、表情は固い。しかし、その口ぶりからして、やはり厳のことを知っているのだ。これは当たりだという確信が生まれつつある。
「本当です。ただ一言『カナコを連れてこい』と仰っておりました」
僕は真実を告げた。信用の獲得は大切である。仮にこの人が厳の言う「カナコ」であっても、共に厳のところに向かってくれるのかは別問題だからだ。カナコは視線を落とし、何やら考えているようだった。
「なぜ……ですか? なぜ……厳さんが私を?」
それは僕には分からない。「金貸しの厳」に関しては分からないことばかりだ。ただ何も説明しないのも、彼女からの信用獲得には不利益と判断した。自身の借金のことから説明するのはいささか抵抗があったが、仕方がなかった。彼女は初見の印象通り、おそらく二十代で、美しかった。品の良さも感じる。そんな人の手前で、今更ながらに格好つけようとする自分が恥ずかしくなった。
一通り説明し終わると、カナコは何やらわけ知り顔で僕を見ていた。
「分かりました。多分私は……えっと失礼。お名前なんでしたっけ? ああ吉田さん。吉田さんの探している『カナコ』です。それに私は吉田さんが持たれている殆どの疑問にもお答えすることができます」
やった。僕は「カナコ」に辿り着いた。思いの外難しくはなかったが、厳のお題とはそもそもそういう物なのかもしれない。ただ、僕の持っている疑問への回答、というのは少し引っかかった。お題さえクリアーできれば、疑問への回答はどうでも良い。
「では、大変恐縮ですが、僕と一緒に厳さんのところに行ってもらってもよろしいですか?」
制限時間までは十分間に合うが、僕ははやる気持ちを抑えられずにそう言った。
「ええもちろんです。では行きましょうか」
カナコはそう言って、伝票を掴んだ。情けないことに、借金苦の僕は、その行為を甘んじて受け入れていた。
★十二号室
マンションにカナコと戻り、「金貸しの厳」の住む十二号室の扉の前に立った。先ほど感じた独特の重い空気がドア越しにも感じる。カナコの前に立ち、覚悟を決めなおす。ではいよいよ、と思い、インターホンを押そうとした時、カナコが驚きの行動を取った。
ガチャ
勢いよく、十二号室の扉を開けた。すぐに、ああそういうレベルの知り合いなのだと結論づける。しかしその直後、またも僕の考えはバラバラに打ち砕かれた。
「ただいま」
カナコは確かにそう言った。
カナコ越しに中を覗くと、知らぬ男と厳がいた。よく見えないが、厳は涙しているようにも見える。
「おかえり」
厳は確かにそう言った。
慌てて部屋番号の表示を見る。ここは確かに十二号室である……いや……「二」が何かおかしい。掠れている部分をよく見ると、「二」の上に一本線が引かれているように……まさか。
掠れて一部の文字が見えにくくなっているだけで、一度気づくと間違いなく、ここの部屋番号は、『十三号室』であった。
★×十二号室 → ○十三号室
僕は混乱した。何なのだこれは一体。噂では「金貸しの厳」十二号室にいるということだった。何故、ここは十三号室で、いや、そもそもこの人たちは誰なのだ。僕はこの数時間一体何をしていたのだ。
「混乱させてごめんなさいね。あがって」
カナコはそう言って、僕を「十三号室」の中に案内した。僕は混乱している中で、厳以外のもう一人の男に目が行った。「できるビジネスマン」風のその男は、カナコを見て怯えているように見えた。何がどうなっているのか。
厳が僕を確認して、言った。
「君はさっきうちに来た人だね。さっきは済まないね。人違いをしていたようだ。しかし妻と返ってくるとは、妻の知り合いだったのかな?」
厳が訳のわからぬことを言う。僕はあなたのお題に応えて、金を借りに来たに決まっているじゃないか。
「全員混乱しているわね。とりあえずリビングで話しましょう。お茶入れるわ。ところで、久坂君、どうしてここに? まあいいわ。久坂君もリビングへ」
カナコに、できるビジネスマンは久坂君と呼ばれ、何かを問われている。僕はパニックになりながら、「お邪魔します」と言って靴を脱いでいた。習慣づいていることは、パニックになっても出来るものだなと、意味もないことを自分で感心していた。
「何から話せばいいかしら」
カナコは言う。一から話してくれ、切にそう思った。
「一から話してくれ」
僕が思ったことを厳が言う。カナコは頷いた。そして僕に向き合った。今、厳、カナコ、久坂、僕という順で小さなテーブルを囲んで座っている。
「吉田さん。はじめに言っておかなければならないのは、この人は私の主人で、『金貸しの厳』ではないわ」
ガーンという衝撃が頭に加わる。カナコの夫が、訝しい顔で僕を見る。
「なんだ君、厳さんに用があったのか。でも厳さんは先週亡くなったぞ。そもそも何故うちに来たんだ?」
ガーンという衝撃再び。な、な、亡くなっているだって?
「そうなの。だから厳さんの依頼で私を探していると言われた時、驚いたわ。でも吉田さんのお話をよく聞いたら分かった。私の主人と厳さんを取り違えたんだなって。
ああ、あなた。私も知らなかったけど、厳さんって大学生の間で怪人扱いされているそうよ。『金貸しの厳』なんていう名が付いているみたい。面白いわよね。確かに厳さん、お金持ちで、募金マニアだったけど、まさか金貸しと思われているなんてね」
もう僕はどんな情報にも衝撃を受けなくなっていた。完全に麻痺したのだ。
「確かに厳さん、『見込みのある若造にしか募金しない』とか言って、試すために若い子に無理難題ふっかけたりしているって言っていたな。そこから噂に尾ひれがついたか」
カナコの夫は、納得がいくという風に頷く。
「そうそれで、あなたがよく相手も見極めずに『カナコを連れてこい』って言ったものだから、吉田さん厳さんに無理難題を言われたと思って、私を探していたの」
カナコは説明を続けた。僕はカナコの綺麗な顔をぼーっと見ていた。
「そうだったのか……。でも何で厳さんの家とうちを間違えたんだ?」
カナコの夫は僕に尋ねた。そこにカナコが割って入る。
「それはあなたのせいよ。表の部屋番号表示が汚れているのに、放っておいたでしょう。それで『三』が『二』に見えたのよ」
「それは済まないことをした」
カナコの夫はソファーに座ったまま、両膝に手を置いて頭を下げた。僕は言葉を発せずに置かれたお茶を見つめる。
「状況が掴めない吉田さんにも分かるように、今度はこちらの話をしますね。今、私はこの家から出てっているの。離婚も考えているわ」
カナコは僕に説明を始めた。正直どうでも良かった。
「おい、何も人様の前で言うことじゃないだろう」
カナコの夫が慌てて制止する。カナコは止まらない。
「いいのよ。あなたは何も分かっていないから。ただその話をする前に、久坂君、あなたは何故ここにいるの?」
カナコは訝しい顔で久坂を見た。久坂の額には汗が浮かんでいる。最初の「できる」印象はかなり薄れていた。
「いや、私は、その」
「さっき、何で『金庫』を手に持っていたの?」
続けざまにカナコは問い詰める。そこにカナコの夫が声をあげた。
「なに? 貴様、カナコが金庫を持ってきて欲しいと言ったではないか! これはどういうことだ!」
カナコはそれを見て何かを察知したようだった。
「もしかして、久坂君、あなた私が預けた鍵を使って中身をかすめ取ろうとした?」
核心に近づき、久坂はもう何も喋らない。カナコの夫は憤っていた。
「貴様、こそ泥か。カナコ、なぜこんな奴と付き合っているんだ」
カナコの夫が悲しそうな顔を見せる。その言葉にカナコが慌てた。
「ちょ、ちょっと待って。私が久坂君と付き合っているって? 冗談じゃないわ。久坂君は大学時代の後輩よ。私が勢いで、この家を出た時に、たまたま駅で会ったの。その時にあなたとの事情を話して厳さんからもらった鍵を預けたわ」
「そうなのか? でも置き手紙には愛人ができたと書いてあったじゃないか。そもそもなぜ厳さんの鍵をこんな男に預けたりなんかした」
「本当にもうどうでも良くなったから。あなたとの未来が感じられなくなったのよ。厳さんは、プレゼントだって言って鍵をくれたの。あなたには金庫を。あなたとの未来が見えたら二人で開けて欲しいって言われたわ。今思えば、出て行くタイミングを間違えたなって思う。私が出て行った後に厳さん死んじゃうなんて……。ただとにかく、あなたとの未来が見えなくなったから、衝動的にそう書いてしまったの」
カナコは俯向く。
「そんなに俺との未来は見えないか?」
ため息と共に、カナコの夫は振り絞って言った。
「ええ。ただこの話は後で。とにかく久坂君、あなた厳さんがお金持ちで、しかもこれが金庫の鍵だというのを私が言ったから、今回の計画を立てたんでしょう。私の愛人のふりをして主人に近づいて、金庫をかすめ取る気だった」
強い口調と顔つきで、カナコは久坂を見つめる。
肝心の久坂はまるで魂の宿っていない、人形のように固まっていた。カナコの夫が憮然とした態度でカナコの言葉に続ける。
「出て行け。失う前だったから、警察には通報せん。だけどな、これだけは言っておくぞ。人から奪ったりした金なんてものは一円たりとも自分の手元には残らない。手にとったお金を通して色々な苦労が見えた時、はじめて活きたお金となる」
その言葉に打ちひしがれた久坂は、鍵を静かにテーブルに置いて、おずおずと舞台から退場した。
僕もその言葉に胸の痛くなる思いだった。久坂は僕だ。僕の未来だ。なんて無様なのだろう。先ほどまで僕は久坂と変わらないことをしていた。楽をしてお金を得ることにばかり必死で頭を働かせ、結局見た目だけのスーツを身にまとう。これで良いわけがない。カナコの夫の言う通り、仮に楽をする計画が上手くいったとして、一体誰に胸を張れるのだろう。どうせ必死になるのなら、生きて活きたお金を得ることに必死になりたい。
いい加減目を覚ませよ。愚かな僕にこの日最後の喝を入れた。
「ねえ、厳さんの金庫を開けましょう」
久坂がいなくなって多少緩和した空気の中、突然カナコはそう言った。カナコの夫は戸惑う。僕がいないように振る舞う二人に僕も戸惑った。
「いいのか。俺との未来は見えないんだろ」
申し訳なさそうにカナコの夫は言った。
「見えないわ。今は。でもね、私はこの金庫の中身に思い当たることがあるの。厳さんはやっぱりボランティア精神の塊なの。時々厳さん相手に色々こぼしていたから、また気を回したのよ。でもね、私はこの金庫を開けたら言いたいことが言えそうな気がするの」
カナコは鍵を金庫に差し込む。カチリ、という音を立て、いとも簡単に金庫は開いた。
中には、「安産祈願」のお守りがちょこんと入っていた。
「そういうことか」
カナコの夫が納得する。
「そういうこと。私が本当に欲しかったもの。でもあなたが望まなかったもの」
そう言って、カナコは静かに泣いた。
「俺が、ずっと『二人きりでいいだろ』って言ってきたから」
木の皮を噛み潰したような苦い顔だった。
「私が、ずっとあなたとの子供が欲しかったから。そして、今も」
カナコは顔を上げようとしない。
「済まな……かった。俺は……お前を愛しているから……俺が子供だったから……お前とだけとの時間を……望んでしまった……」
カナコは僕がいるのも関係なく、大声で泣いた。泣きながら夫の胸に収まった。僕に説明する、という状況はもうどこかに飛んで行ってしまったのだろう。彼らの目にはもう僕なんて映っていない。僕はカナコの心を想像する。夢に描く未来があって、でもそこに近づこうとするほど、夫は別次元に走っていく。その目には自分を幸せにするという気概が溢れている。愛しているのに、お互い愛しているのに、離れていく距離。しかし、夫を傷つけたくないからこそ自分だけが認識する遠ざかる距離。明日を、数年後を想像するからこそ、そのお互いの幸せの形が残酷に想像出来る。愛しているから二人きりでいたい男と、愛しているからその人との子供が欲しい女。
愛は確かにそこにあったのに、それでも時に男と女はすれ違う。
そうやって僕のひとりよがりで想像したが、きっとそんなにずれてもいないと思う。そもそも僕は彼らと無関係だ。無関係なら無責任な想像をせめて頭の中だけに思い描いても問題はないだろう。
「どうしてもこれだけはお前に言っておきたい」
カナコを抱きしめながらカナコの夫は言った。
「なに?」
泣いてグシャグシャになった顔を上げるカナコ。
「君に出会えただけで、俺の人生は幸せに色づいている。……もしまだ間に合うなら、君との子供が欲しい。本当の意味で家族になろう。家族になってください」
具体的な回答は何もしないまま、カナコは泣いた。
これ以上ここにいるべきでないことはとうに分かっていた。
僕も帰ろう。もっと早くに去るべきだった。言葉を使わずに互いの何かを埋め合う二人にそっと礼だけして、僕はその場をあとにした。
そして、少しずつでいい。働いて借金を返そう。失望されたっていい。親に頭を下げよう。
僕がやるべきことは、どうやってお金を借りるか考えることじゃない。
見栄えだけのいい枠組みを作ることじゃない。
お金の向こう側に苦労が見えるほど、必死で頑張ることだ。
僕は久坂にはならない。
グッと拳を握りしめた。
五年後、僕は再び十三号室の前にいた。
借金をすべて返済した時、どうしてもここに来たくなった。
インターホンに手を伸ばす。中から元気な子供の声が聞こえた気がした。




