いつものように
「やったか」
「やってない、左だ。左」
耳介のうしろにあてた骨伝導スピーカーから、トラの切迫した声が響く。
言われるままに、左に向けて、撃った。
照準を合わせることなどしない。いまどき大抵のことは機械がやってくれるのだ。
発砲音は聞こえないけれど、左腕に感じる振動が、弾丸が飛んでいることを教えてくれる。
触覚と圧感は、トラ以外に数少ない、長い付き合いの友人だった。
「やった」
と言った。
六人。全員のはずだ。
ナリ市の人口は二千をすこし下回っている。
うち六割強にあたる約千二百人が、いわゆる「前世代」だった。
市内に入って少ししたところにあるちゃちなガレージに戦車を置いた。
戦車と呼んでいるのは、乗っている連中だけだ。正直なところ、鉄で出来たダンボールという市民の意見はおおむね正しいと思う。
「おつかれさん」
後部座席から降ろしてやると、トラはそう言った。いつものように、にやっと笑っているに違いない。
肩を貸してやると、遠慮無く体重を預けてくる。
「これで、向こう一月は安泰かな」
「とは思うがね。あんまり言わないでくれ」
二人して宿舎に向かう途中、トラがふと立ち止まるのが分かった。
どうしたと尋ねると、不機嫌そうな声が返ってくる。
「市長の演説だよ。“良質な遺伝子プールが手に入った”んだと。本隊もうまくいったらしいな。連中、今晩はお楽しみだろう」
「聞くんじゃなかった」
「糞野郎どもさ」
トラは舌打ちして、また歩き出した。
ケン市長は、前世代から半ば市民権を剥奪した張本人で、トラはこの男のことを激しく嫌っていた。
党は奪うことしかしない――それ以外の手段を想像もしないのだ。あの哀れな子どもたちは。
宿舎の入り口に立って、トラと一緒にIDカードを差し出した。乱暴な動作で奪われたカードは、ためつすがめつして確認されていることだろう。
やや沈黙があって、トラに促されて中に入った。
「着いたぞ」
通路を歩いてしばらくしたころに、トラが言った。
固めの感触が軽く手に押し付けられる。
「ありがとうな」
「おう、また明日」
カードを受け取って、隣室へ帰るのだろうトラを見送るようにその場に突っ立った。
何秒か数えて、右を向き、少し歩く。3mほど進んだところで、左に向き直った。
いつも慣れた高さにカードを押し当てる。凹凸で分かるから、表裏は間違えない。
部屋の中に入るなり、ベッドに横たわった。
あまりいいものじゃない。固いし、シーツもボロボロだ。見えていないだけまだマシだとトラは言ったが、案外本当かもしれない。
その晩は、疲れているのに夢を見た。
昔の夢だった。今ではどうなっているか知らないが、まだ世界が光に満ちていたころの夢だ。
「結末は知ってるぞ」
マイコを抱き上げてやりながらつぶやいた声は、虚ろにこだました。
幼い娘は満面の笑みでこちらを見つめている。
これは現実じゃない。現実はこうではなかった。全ては、眠っている間に起こったのだ。ほとんどの人は何も分からなかったに違いないのに。
だが見たこともないはずのそれは、異様なリアリティをもって展開した。
マイコの笑顔後ろ、高い空中で、鮮やかな緑と紫の煙がひろがった。まるっきり、子供の頃に見た特撮映画のイメージそのままだ。
安っぽい想像に笑いがこみ上げてきそうになる。実際に笑おうとしたが、うまくいかなかった。
マイコが、娘の笑顔がぐにゃりと歪んだ。顔が溶けているとしか言いようの無い、あきらかに異常な変形だ。
夢のなかで悲鳴を上げて取り落とした。落とすつもりはなかったが、身体が勝手に手をはなした。
娘が落ちていく。変わり果てた姿の、しかしかけがえのない存在が、暗がりのなかを落ちて、落ちて――
そこで目が覚めた。実際にはもう少し夢を見た気がするけれど、覚えているのはそこだけだった。
一晩で、同じ内容を何度も見たのかもしれない。肩にずっしりとした重みを感じた。
「薬を持ってきてやったぞ」
トラと連れ立って行った食堂で、彼はいつもの調子で言った。
薬の入った紙袋を受け取って、うなだれる。
長い間、何も言わなかった。
「いつも見る夢だ。人をその……やっつけた晩に」
「ああ」
「またマイコを見た。顔が、歪んでた。見たこともないのに、あれが見えた」
「そうだな」
夢の内容を話すのは、二人で決めたことだ。
戦闘のあった翌日の朝には、こうして話を聴いてもらうのが当たり前になっていた。
トラに多くを話したが、彼の方はあまり話さない。
「気にしない性質なのさ」と言って、こちらから尋ねても躱されるのだ。
結局いつも、こちらばかりが話す形になってしまっていた。
「いつもすまない」
一通り話し終わって、そう言った。
トラが笑った。
「いつも、だが気にするな。一心同体みたいなもんだ」
「そうは言っても……お前は平気なのか」
「まあ、あまり気にしない性質だからな」
朝食を取ってすぐに、役所に向かった。多少でも遅くなれば、難癖をつけられかねないと知っていた。
受付嬢の声は、スピーカーを通して聞こえた。
「申請資格に問題はないようです」
無機質な声だった。トラはしきりに愛想をふりまいていたが、それが奏効していないことは、彼女の声音からはっきりと分かった。
「サービスは二週間有効です」
彼女は冷たくそう言った。いや、冷たい声音というわけでも、口調というわけでもない。
それは言葉の意味がもつ冷気が、まったく中立の人間を通して放った酷薄さだった。
「二週間というのは、短すぎますよ」
ややあって、トラが言った。声が上ずっている。
「この前は一月ぶんもらえたのですが」
「慈助法が改定されました。二週間は、一度に保証される最長期間です」
「しかし……」
「トラ、よそう」
「いや、でも」
「ほら、帰ろう」
明らかに、トラはまだ何か言い足りない様子だった。だが、彼のその感情には、もはや行き場がない。
さらに促すと、トラは深いため息をつき、肩に身体を押し付けてきた。
「くそったれ!」
宿舎に帰ると、トラは叫んだ。身体が大きく揺れるのを感じた。
おおかた、壁をおもいきり蹴りつけたのだろう。本当に怒った時、トラはそうした。
「あいつこそ悪魔だ。だから俺は言ったんだ、あんなやつを選んじゃダメだって、言ってたんだ」
「……」
「クソっ、二週間か……。そんな間に戦闘なんてありっこないぜ」
党は――いや、次世代は、前世代を必要としていない。
早い話、彼らは、前世代に死んでもらいたいのだ。殺してやりたいとまで思っているかもしれない。
次世代にとって前世代とは、膨大な負債を残したばかりでなく、扶養による負担を強いる、ただのお荷物なのだ。
極端な見方だが、否定はできなかった。世の中を滅茶苦茶にした一端は、たしかに前世代にあったのだから。
あの日。今となっては正体も分からない、人工の悪意が頭上で炸裂した日、世の中の有様はそれまでとまったく変わってしまった。
光と音を失ったもの、四肢を失ったもの、言葉を話せないもの……自分じゃない、別人のことだと思っていた大人たちの誰もが、身をもってその辛苦を味わうことになった。
無事だったのは子どもたちだけだ。多くを失い、不自由を背負った大人たちは、彼らを育てた。
「精一杯やってきたつもりだったんだが」
「ああ、そうだ。俺たちはやれるだけのことはやった」
やれることはやった。そう思っていた。
当然の責務として、次世代を育てたはずだった。
しかし、ならばこの体たらくは何なのだろう。
何も好転しなかった。本当に何一つ。世界はどんどん歪んでいった。
歯車はどこで狂ったのだろう。
子どもたちが、嗄れた声や、先のない手足や、白く濁った瞳を病的に恐れる様になった時?
それとも、彼らが他者との共感をあまり示さなくなった時だろうか?
大人になった彼らが、のしかかる負担に愚痴を言った時か?
彼らが、自分たちの代表としてあの男を選んだ時?
その男が、前世代の利己心を糾弾し、福祉政策のほとんどを廃止した時だろうか?
たぶん、どれも違う。
あれが炸裂したその時から、歯車は狂わず回り続けていた。
全ては自然の流れとして、前世代と次世代の双方が、全力を尽くした結果としてある。
まことしやかに囁かれるように、あの兵器が、前世代に異常をもたらしただけでなく、次世代の共感能力を奪っていたとしても、そこは変わらない。
「戦車を出そう、トラ」
そう言った。
壁に当たり散らしていたのだろうトラは、ぴたりと動きを止めた。
しばらくの間、潜めるような息遣いだけが聞こえていた。
「出してどうするんだ」
とトラは言う。
当然。
「ここを」
出るのだ。
「どこに行くんだ」
と尋ねる。
それは。
「分からん。どこか異常なところがいい」
「異常なところか」
トラはいつものように、にやっと笑ったに違いない。
「俺達が気に入る場所なんだから、違いないな」