23‐3
神岡から語られた過去は、夏樹にとっては信じ難いものであった。
(お父さんが、そんな私利私欲に走るとは思えない…)
以前、書斎の隠し部屋で見つけた父の走り書きを思い出す。
『父の罪』…そこには、そう書いてあった。
その薬の開発のことが『罪』だと言うのなら…。
(絶対に、何か理由がある筈だ…)
父の、良しとしない理由が。
「…その薬って、いったい何の薬…なんだ…?」
控えめに投げかけられた問い掛けに、神岡は黒い微笑みを浮かべた。
「それは企業秘密だ…と、言いたい所だが。そうだな…君がデータをこちらに渡してくれるというのなら教えてあげてもいい」
「………」
「あのデータを君が持っていても、何にもならないだろう?君にとっても誰にとっても得はない。だが…私に渡してくれれば、そのデータを元に、もっと沢山の薬を製造することが出来るのだ。皆がその薬を待っているのだよ」
神岡は、両手を広げて興奮気味に言った。
「…それは、貴重な薬…ってこと?」
「そうだ。私にしか作れない薬だ。そして、皆が求めて止まない画期的な代物だ」
半ば陶酔するように語っている神岡を、夏樹は冷静に見詰めた。
(…そうか。今迄はお父さんの作った残りか何かで薬を作っていたけど、それが足りなくなってきて焦ってるって感じなんだな…)
そして、分かったことがある。
その薬の為には手段を選ばない程の『何か』が、その薬にはあるということ。
(…金儲けは勿論だろうけど…それ以外にも…。何か…)
「もしも…オレが『渡さない』…と、言ったら…?」
反応を窺うように、夏樹が尋ねると。
神岡は再び目の色を変えた。
「君にそんな選択肢はないんだよ。今の自分の立場をもっとよく考えた方が良い。こちらが下手に出ていると思って思い上がっていると痛い目を見るぞ。…それとも、君も…。父親のように意地でも私に刃向うとでもいうのかね?」
「父さん、が…?」
「…そうだ。あいつは昔から強情な所があった。でも、あそこまでだとは思わなかった。私が、あの日…どんなに頭を下げて頼んでも、あいつは折れなかった。データを提供してはくれなかったのだ」
過去を思い出しているのか、神岡が遠い目をしながら言った。
「あの日…?もしかして…。だから、父さんを…?」
「あいつは、サンプルを持って警察に届け出ると言ってきた。だが…そんなことをされる訳にはいかなかったんだ。既にあの薬には多くの顧客が付いていたのだからな」
そう平然と言う神岡を、夏樹は信じられないという表情で見詰めた。
「…その目。そうしてると、君はあの日の野崎の眼にそっくりだ」
そう言って、過去の父と夏樹を重ね合わせるように目を細めて見遣ると、口元に笑みを浮かべた。
「そうさ。私があいつを事故に見せかけて殺したのだよ」
「お前が…お父さんを…?」
目の前で笑顔さえ浮かべているその男を、夏樹は驚愕の表情で見詰めた。
お父さん。
お母さん。
ふゆちゃん…。
「ゆる…せない…。お前だけは、絶対!許せないっ!!」
感情が昂って、夏樹は大声を上げると目の前の男、神岡を睨みつけた。
掴みかかりたい衝動に駆られるが、勢いよく前へと出ようとするその夏樹の両腕を男達が力一杯押さえつけている。
目の前に仇がいるというのに、一矢報いることさえ出来ず。
何も出来ない己の無力さに、悔しくて、哀しくて…。その大きな瞳からは、涙がぼろぼろと零れ落ちていた。
自分を憎むように向けられる視線。
かつての友人を思い起こさせる、強い光を放つ、鋭い目。
だが、その大きな瞳は涙でキラキラと光って美しい程だった。
神岡は、眩しいものを見るように夏樹を見詰めると、目を細めた。
だが、気持ちを切り替えるように一度だけ目を閉じると。
次の瞬間には、その目の前で怒りを露わにしている少年に、憐れむような瞳を向けて言った。
「残念だが…。ここまで話してしまった以上は、君も生かしてはおけないな。データの在処を吐いて貰った後で、君も家族の後を追わせてあげよう」
そうして、夏樹の横にいる男達に目と顎で合図を送った。
すると男達は、嫌がる夏樹を引き摺って部屋の外へと連れ出そうとし始めた。
「来いっ!」
「イヤだっ!離せっ!!まだ、話は終わってないっ!!」
抵抗を見せて暴れる夏樹に「くそっ!言うことを聞けっ!」一人の男が手を上げ、力尽くで黙らせようとした、その時だった。
「うっ」
「ぐあっ!」
扉の向こうで男の呻き声と、何かがぶつかるような大きな物音がしたかと思うと。
バーーーーンッ!!
目の前の扉が、勢いよく開かれた。
その扉の入口の中央には、若い長身のいかつい体格の男が立ち塞がっていた。
「誰だっ?!何者だっ?!」
「何だァ?テメェは…」
神岡をはじめ、その部屋にいた男達全てが突然の乱入者に動揺を隠せないでいる。
(…誰…?)
夏樹も同様に、思わぬ展開について行けず、驚きの表情を浮かべて固まっていたが、その男の後ろに見知った顔を見つけて表情を和らげた。
「…雅耶っ!」
「警察だっ!話しは全て記録させて貰った。神岡勝。八年前の殺人容疑、そして毒物及び劇物取締法違反。誘拐容疑で逮捕する。網代組の組員の奴等も共犯容疑だっ」
男の野太い声が広い部屋中に響き渡った。
「警察…?馬鹿な…。警察が私のことを捕まえられる筈がない…」
神岡は、信じられないといった表情で後ずさった。
「…確かにそうだな。『普通の警察』ならな?アンタにしっかり買収されてる輩がいるからな」
出入り口を塞ぐように立っている男、並木は言った。
「何…?じゃあ、お前は…普通の警察じゃ…ないとでも言うのか?」
驚愕した表情で、未だに後ずさっている神岡に、並木は笑顔のみで応えて見せた。
次の瞬間。
「ゴチャゴチャうるせェんだよっ!!」
並木を取り囲むように立っていた網代組の男達が、一斉に並木に殴り掛かった。
そこで、廊下側にいた雅耶達も加勢に入る。
目の前は、既に壮絶なバトルと化していて、夏樹は横の壁際に避難していた。
腕を縛られたままの今の自分は、邪魔にしかならないからだ。
(この人達…強い…)
網代組の男達は、スタンガン、ナイフ等を忍ばせていたのか、それぞれ様々な凶器を振り回しているが、そんなものは全く役に立っていなかった。
雅耶の他に、二名…。
(…さっきの男の人と、もう一人…?)
こちらからは、よく見えない。
だが、かなりの腕利きだ。
(でも、何故だろう…。何だか胸騒ぎがする…?)
そのまま、呆然と佇んでいると。
雅耶が一人の男を倒した後、夏樹の元へとやって来た。
「大丈夫かっ?」
「まさや…」
後ろ手に縛られている夏樹に気付くと、すぐに紐を解きに掛かってくれる。
心底心配した様子の雅耶に、夏樹は申し訳ない気持ちになった。
(…結局、オレはまた雅耶に迷惑掛けてる…)
「…よし、解けた」
雅耶は解いた紐をそのまま床に落とすと、夏樹の身体をクルッと回転させて自分の方に向けた。
「…あ…ありが…」
『ありがとう』と礼を言い終える前に、ふわり…と、雅耶が覆い被さってくる。
そして…そのまま、そっと抱きしめられた。
「……まさ、や…?」
「…ホントに、無事で良かった…。お前に何かあったら、俺…どうしようかと思った」
小さく呟く雅耶に。
「…ごめん、…雅耶…」
夏樹は目を閉じると、そっと呟いた。
「でも、雅耶は何でここに?それに、あの人達は…?」
既に全ての男達が床に倒されて、先程の男が何処からか出した縄で男達をぐるぐるに巻いている。
「うん…。色々あってさ、一緒に連れて来てもらったんだ」
「そう、なんだ…?」
雅耶の言葉に耳を傾けながらも、ふとそちらに視線を向けると。
もう一人の人物がゆっくりと、こちらを振り返った。
(…え…?)
最初は、見間違いかと思った。
自分の目を疑った。
また、自分の願望が見せた幻なのかも、と…。
だけど。
見間違える筈もない。
ずっと、ずっと…会いたいと、求めて止まなかった…自分の半身。
「…ふゆちゃ…」
呼び掛けた名前は、思いのほか掠れて小さなものだった。
だが、それに応えるようにその人物は、ふわりと微笑むと、こちらへ足を向けた。
ゆっくりと近付いて来るその人物を、夏樹は大きな瞳で呆然と見詰めていた。
雅耶は夏樹の横で、そんな二人の様子を静かに見守っている。
(…ほんとに…?ホントの、ふゆちゃん…?)
過去の…自分の知ってる兄とは違う。
昔は殆ど変らなかった背丈も、今は遠目に見ても分かる程、随分自分とは差があるようだった。
180センチを超える雅耶程ではないが、背が高く、その分手足も長い。
男の割に線は細い方ではあるが、それは自分とは全然違う、しっかり男の体格だった。
(でも、笑顔は…変わらないんだね…)
気付かぬうちに、涙が頬を伝っていた。
冬樹は、夏樹の傍まで来ると。
潤んだ大きな瞳で見上げてくるその愛しい存在に、そっと手を伸ばした。
そして、昔よくやったように、頭の上にそっと掌を乗せると優しく撫でた。
「…なっちゃん…。今まで…よく、頑張ったね…」
僅かに背を屈めて覗き込んでくる、その優しい笑顔に。
「ふゆちゃんっ!!」
夏樹は堪らなくなって、その胸に飛び込んだ。
「会いたかった…っ。ずっと、会って…謝りたかったんだっ。ごめんね…ふゆちゃん…。ごめんなさい…。オレのせいで、ふゆちゃんに…辛い思い…っ…」
泣きじゃくる夏樹をしっかりと抱き留めながら、冬樹は目を閉じた。
「なっちゃんは何も悪くないよ。僕こそ…ずっと、なっちゃんを一人にして…。本当にごめんね…」
既に逃げる気力も失くし、部屋の奥まで下がって呆然と佇んでいた神岡は、目の前で再会を喜び合っている兄妹を見詰めると驚きの表情で呟いた。
「どう、なっているんだ…?これは…いったい…。冬樹…くんが、二人…?」
そこに、並木がゆっくりと歩み寄って来る。
「アンタがずっとつけ狙ってたのは、冬樹ではなく妹の夏樹ちゃんの方だったのさ」
「な…に…?どういう…」
それでも、意味が良く理解出来ないでいる神岡に、並木は小さく溜息を吐くと、その無抵抗の身体を男達と同じように縄でぐるぐる巻きにした。
「意味は理解出来なくても、感動の再会なの位は解るだろ?あの子達は、これでやっと…あの忌まわしい事故の呪縛から解放されて、動き出すことが出来るんだ。…アンタが奪ったあの子らの両親は、もう…戻っては来ないけど、な」
その言葉に、神岡は。
自責の念が僅かながらにもあるのか、深く項垂れるのだった。