22‐2
「すっかり長居しちゃったな…」
久賀家を後にして夜空を見上げながら夏樹が言った。
時刻は既に夜の10時を過ぎており、空には幾多の星が瞬いている。
「今日は試合で疲れてるだろうに、ごめんね…」
気遣うように謝ってくる相変わらずの夏樹に、雅耶は空を見上げていた視線を夏樹へと戻しながら苦笑した。
「却下、だよ。すぐ謝るなって」
「あ…うん。『ありがとう』…だよな」
夏樹は肩をすくめると、二人で顔を見合わせて笑った。
「でも、突然お邪魔したのに夕飯までご馳走になっちゃって、本当に申し訳ない気がしてさ」
「いいんだよ。ウチは、普段から家族揃ったって三人しかいないんだし。いつもの食事風景なんて、会話も少なくてホントに寂しいもんなんだぞー?今日は、お前がいてくれて賑やかで良かったんじゃないかな」
そう言って「だから、いつでも大歓迎」…と雅耶は笑った。
その笑顔につられるように、夏樹も微笑みを浮かべる。
「雅耶の家って変わらないよね。おじさんも、おばさんもさ」
「…そうかな?」
「うん。全然変わってないよ。昔のままで…すごく温かい…」
夏樹は、懐かしむように遠くを眺めた。
今日のことは、予想外の…自分の意識がない中でのことではあったが、すっかり雅耶の家には世話になってしまったので、挨拶だけはきちんとして帰ろうと夏樹は思っていた。
だが…その際に、雅耶の母親からの勧めもあって、結局夕食まで一緒にご馳走になることになってしまったのだった。
雅耶の父親も既に仕事から帰宅していたので、すっかり家族団らんの中にお邪魔してしまった感じだ。
久し振りに対面した雅耶のおばさんは、自分を見るなり涙を零しながら喜んでくれた。
『大きくなったねぇ、冬樹くん。さっき、実は寝顔は見ちゃったんだけど…。そうやって起きていると、本当にお母さんにそっくりね』
そう言って。
雅耶のおじさんは、あまり語る方ではないが、いつでも微笑んでいる様な優しい人で、それは八年振りに会った現在でも変わりなかった。
久し振りに味わう、家族団らんの光景。
それは、何処か懐かしさと切なさを生んだ。
でも、雅耶をはじめ、自分を温かく迎えてくれる雅耶のご両親の気持ちがすごく嬉しかった。
帰り際も二人は玄関まで見送ってくれて。
『またいつでも遊びに来てね。ここが自分の家だと思って、またご飯食べに来てちょうだいね』
そんな優しい言葉を掛けてくれたのだ。
遠くの夜空を眺めている夏樹の横顔をそっと覗き見ながらも。
その表情が寂しげなものでないことに、雅耶は安堵していた。
母が夏樹に『夕飯を一緒に』と気遣ってくれたことに、雅耶は密かに感謝していた。
昔は兄弟のように育った仲だ。母が言っていたように、久賀の家を自分の家のように思ってくれたら良いと、自分も本当にそう思っている。
だが、実際夏樹は家族を失って長い。
親戚の家でどうだったかは分からないが、以前聞いた話の感じでは、向こうではあまり心を許していなかったようだし、温かい家族の団らんなどは、もしかしたら無かったのかも知れない。
そう考えると、食事などに誘うことで夏樹が家族を思い出して辛い思いをしないければ良いと、それだけが心配だった。
だが、夏樹は終始穏やかな表情を見せていた。
心の奥底までは分からないが、少なくとも不快な思いはしていなかったようで、少しホッとしていた。
「そういえば…さ…」
「うん?」
「おじさんとおばさんの前で、オレのこと…『冬樹』で通してくれてありがとう」
何故だか申し訳なさそうに、夏樹は下を向いた。
「そんなの、当たり前だろ?お前は今『冬樹』なんだから…。俺、誰にもお前の秘密ばらしたりしないぜ?その辺は信用してくれよ。…確かに、二人でいる時は『夏樹』って呼びたくなっちゃうってのが本音だけど、その辺のことは一応わきまえてるつもりだぜ?」
「うん…。それは分かってるけど…」
「…けど…?」
いまいち納得出来ていない様子の夏樹に、雅耶は首を傾げた。
「雅耶を疑ってなんかいないよ。ただ…」
夏樹は、控えめに視線をこちらに向けると、
「両親にまで嘘つき通すのって、心苦しいだろうなって思って。雅耶まで共犯にしちゃってる感じがして…申し訳ないなって思っただけ…」
そう言って、少し切なげに笑った。
(そんなこと、気にしてたのか…?)
思ってもみなかったその言葉に。
雅耶は小さな溜息を吐くと、出来るだけ夏樹が気にしないで済むように明るい笑顔を浮かべた。
「そんなに重く考えることないんだよ。気にし過ぎ。俺、親に隠し事なんて一杯あるぞ?」
そうおどけて見せた。
「………」
「それにさ…。お前となら共犯でも何でも、どんと来いだよっ。嬉しいことも、辛いことも、秘密でも何でもさ、一緒に共有出来る方が俺は嬉しい」
そう言って笑う雅耶が眩しくて、嬉しくて。
夏樹は雅耶を見上げると「さんきゅ…」と微笑んだ。
暫く二人無言で並んで歩いていたが、あと少しで夏樹のアパートへと辿り着くという所で、不意に雅耶が口を開いた。
「なぁ…。お前はずっと、このまま…冬樹でいるつもりなのか?」
何となく聞き辛そうに視線を外しながらも、投げ掛けられた問いに。
夏樹は一瞬驚いたように目を見開くと、思わず足を止めた。
「そう…だね…」
立ち止まってしまった夏樹に気付いた雅耶は、自らも足を止めると振り返った。
そこには、儚げな表情を浮かべた夏樹が佇んでいた。
「ふゆちゃんが帰ってくるまでは…。オレは『冬樹』であり続けるよ」
そう淋しげに微笑む瞳から、思わず目が離せない。
冬樹が帰ってくるまで?
(それはいったい、いつまでだ…?)
頭の中で自問自答を繰り返すが、答えは結局あっさりと出て来る。
『そんな日は、来ないのではないか?』
この、経過してしまった八年という長い年月を考えれば、これ以上待っていても事故に遭った『冬樹』が見つかる可能性は限りなくゼロに近い…と、きっと誰もが答える筈だろう。
それは、夏樹が一番よく分かっている筈だ。
だが、それでも…。
その瞳を見れば、夏樹が本気で言っているのが分かる。
きっと、それくらいの覚悟は今更なのだろう。
けれど、そんな夏樹の決意を聞いても、自分的には納得がいかずに疑問を口にした。
「本当に、それで…いいのか?」
だが、夏樹は小さく頷くと、
「うん。いいんだ。これだけは、もう…決めてるから」
そう、はっきりと答えた。
そう答えた表情は、少し穏やかなものに変わっていた。
雅耶は、内心では複雑な想いを抱きながらも、それでも夏樹を応援したい気持ちも本当で。
「そう、か…。お前がそう言うなら、俺はそういうお前を見守っていくよ」
強がりながらも、笑ってそう言った。
その言葉に夏樹は。
「ありがと」
と、微笑むと。
二人は自然と再び歩き出した。
「でも…。そうは言ってもさ、今までは殆ど諦めていたんだ」
「…?……冬樹のことか?」
「うん」
微笑みながら見上げてくる夏樹を、雅耶は不思議そうに見詰めた。
「でもね、もしかしたら…。ふゆちゃんは、案外近くに居てくれてるのかもって。最近、そう思うことがすごく多いんだ」
「冬樹が?」
思わぬ言葉に、雅耶は驚きの表情を浮かべる。
「もしかしたら…オレの願望が見せた、ただの幻かも知れないんだけどね」
「幻って…。冬樹を何処かで見掛けたとか?」
驚いている雅耶を前に。
夏樹は、以前野崎の家で眠ってしまった時、冬樹が訪れたことを話そうと思っていた。
「うん。…実は…」
そこまで言い掛けた時、二人は同時に足を止めた。
アパートはすぐ目の前だった。
だが、そのアパートの前に二台の車が停車しているのが見える。
いずれもエンジンは掛かったままで、テールランプが点灯している。
それだけならば、何処にでもある光景なのかも知れない。
だが…。
「………」
夏樹は、警戒心を露にした。
人影は特に見当たらないが、周囲に幾つかの気配を感じる。
何より『危険』を自分の肌が感じ取っていた。
「…怪しいな。もしかしたら、お前の帰りを待っているのかも知れないな…」
雅耶も何かしらの気配を感じ取っているようだ。
さり気なく盾になって、自分の背の後ろに夏樹を隠すようにする。
(…雅耶…)
そんな優しくて頼もしい背中に、夏樹の胸は温かくなった。
二人して電柱の陰に身を隠しながら、向こうの様子を伺う。
やはり、物陰に数人が潜んでいるようだ。
(…面倒だな。家に帰ることも出来ないなんて…)
ここでいくら引き返したとしても、自分を追っている以上は、明日や明後日になろうとも、ずっとあいつらは此処を張っているのだろう。
正直、勘弁して欲しいと思う。でも…。
「…結局、逃げ切ることなんて出来ないんじゃないかな」
ぽつり…と、夏樹は呟いた。
「…えっ?」
そんな、らしからぬ弱音の言葉を耳にした雅耶は、慌てて夏樹を振り返った。
「だって、狙いは決まっているんだ。向こうだって、データを手に入れるまでは、ずっと追い掛けて来るんじゃないのかな?そんなんじゃ、今逃げようと、結局は時間の問題だと思うんだ」
「だからって、話し合って解決するような相手じゃないだろう?」
「そう…かも知れないけど…。何か…あいつらの法的な罪の証拠を掴んで警察にでも動いてもらわない限りは、どうにもならない気がする…」
「警察、か…」
二人見つめ合いながら、どうするべきか思いを巡らせていた。
「そうだ。直純先生は?先生の知り合いの刑事さんに相談するっていう手がある」
「…う、ん…」
確かに、以前誘拐事件でお世話になったあの刑事さんになら説明するにも話は早い。だが…。
(また、直純先生に迷惑掛けちゃうな…)
自分は、皆に迷惑かけてばかりだ。
その時、停車している車の傍まで来ていた一人の男が、こちらに気付いた。