22‐1
高層ビルが建ち並ぶオフィスビル街。
その一角にそびえ立つ、某ビルの高層階に『シンコウ漢方製薬株式会社』の本社はあった。
その本社の中でも一番見晴らしの良い場所にある、広く豪華な社長室には、代表取締役社長である神岡の怒号が響き渡っていた。
「いったい、お前は何をやっているんだっ!!」
怒鳴るや否や、目の前の大きな机をドンッ…と両手で打ち付けた。
神岡はそれでも怒りが収まらないのか、机上に置かれていた書類をわし掴みにすると、それを目の前で跪いて頭を垂れている男に投げつけた。
だが、書類はその男の元へ届くことはなく、ひらひらと宙を舞い周囲にばら撒かれるだけだったが。
「あの子どもを捕まえそびれただけでなく、データも全て持って行かれただとっ!?よくもそんな報告を持って、ノコノコと顔を出せたものだなっ?」
「…申し訳…ありませんっ…」
深々と頭を床へと押し付けて謝罪の言葉を口にしている男。
それは、力の運転手である萩原だった。
顔を上げずに、ずっと床にひれ伏している萩原を横目で見ると、神岡は嫌味たっぷりに「フン」…と鼻で笑った。
「お前に期待した私が馬鹿だったということだなっ。お前は、精々力のお守りを任せられてるのが適任の、その程度の器だったということか」
吐き捨てるようにそう言うと、もう既に興味もないという様子で萩原に背を向けた。
「出て行けっ。お前の辛気臭い顔なんか見たくもない。通常の業務に戻れっ。首を切られたくなかったら、精々精進するんだな」
そう告げられた萩原は、もう一度謝罪の言葉を口にして深々と頭を下げると、その部屋を後にした。
だが、出て行った萩原と入れ違いに、再びドアをノックする音が聞こえてくる。
「…何だ?」
イラついた気持ちを隠さぬままに神岡が返事をすると「失礼します」と、部屋に入室して来た人物は。
「…力か…。どうした?…何の用だ?」
そこには、無表情の力がいた。
力が例の薬による眠りから覚めた時、傍には自らの失敗に顔面蒼白になっている萩原がいた。
萩原は、ドアを出てすぐに何者かに襲われ、暫くの間気を失っていたのだと言う。目が覚めた時には、室内に力が眠っていただけで、既に冬樹をはじめ、他の者の姿はなかったそうだ。
そして調べてみた所、ずっと開くことが出来なかったデータは全てパソコン上から消去された後だったという。
愕然とした様子でパソコンの前に佇み、自らの大失態に気落ちしている萩原に、力は優しい言葉を掛けることはなかった。
その代わり、自分を出し抜いたことも責めはしなかった。
本来なら、寄せていた信頼を踏みにじり、自分を平然と裏切った萩原に罵声を浴びせること位では気が済まない程の怒りが力の内にはあった。
実際、先に気絶から目覚めた萩原は、床に眠る力は放置のままに、まずデータの確認などを優先していたのだから。
酷い扱いに、怒りを通り越して泣けてきそうだった。
だが…それさえも、もうどうでもいい。と、力は思っていた。
怒る価値さえないと…。
今迄の萩原の好意は、全て仕事上の見せ掛けのものだったと気付いたから。
結局は、その好意さえも父の命令に従ってのものだったことを知ったから。
力の中で、萩原のことは既に切り捨てられていた。
冬樹を取り逃がし、データさえ奪われた萩原はもう、父の信用さえ取り戻せないだろう。
「親父…。俺はもう、小さなこどもじゃない。世話係みたいな者を俺につけるのは止めてくれ。俺は自分のことは自分でやれる」
久し振りの父親との対面だった。
だが、目の前の父はそんなことは気にも留めていない様子だった。
「どうした?急に…。萩原と何かあったのか?」
平然とした様子で聞いて来る。
「何かあったのかって…。親父があいつに命令したんだろ?俺を出し抜いてでも冬樹を捕まえて来いって」
「………」
突然の息子からの指摘に、父は何か言葉を探しているようだった。
だが、力は小さく笑うと。
「ま。そんなことは、もうどうでもいいんだ。あいつだって、アンタの命令に従っただけなんだろうし、な。でも、俺にさえ薬を盛るような奴なんかの世話になるのは御免だよ。とにかく、俺は自由にやらせて貰う」
「…力…」
「あ。でも、別に親父の邪魔をするつもりはないから、安心しろよ」
そう言って笑うと、力は身を翻して入って来たドアへと向かった。
だが、ドアノブに手を掛けた所で不意に足を止めると、父を振り返ることなく言葉を口にする。
「例え、親父が人として最低な悪に手を染めていようとも、俺には関係ない…。親父だって、俺には関係ないって…そう思ってるんだよな?」
それだけ言うと「失礼しました」と白々しく一礼をして、その部屋を後にしたのだった。
力が部屋を去った後、神岡は暫くそのドアを見詰めたまま立ち尽くしていた。
社長室を後にした力は、ゆっくりと廊下を歩いていた。
もう、こんな場所には用はない。
一言だけ父に言っておきたくて、放心状態の萩原に『報告に行かなくていいのか?』と、けしかけて、自分も一緒にこの本社へと送らせたのだ。
(…だが、もう用も済んだ…)
帰り道は一人で電車になるが、それも良いと思った。
帰るマンションも萩原がいなくなれば、基本的には一人ということになる。
(でも、アイツだって一人でやってるんだ。俺にだって、出来ないことはないさ…)
力の脳裏には、自分を惹きつけて止まない『冬樹』の姿が浮かんだ。
(でも…。あれが、実は夏樹だった…なんてな…)
未だに信じ難いが、学校で一緒だった冬樹と今日データを奪って行った冬樹とで、どちらが本物かと聞かれたら迷わず後者を選ぶだろう。
よく似ている二人ではあるが、その差は歴然だった。
体格、声…雰囲気等が、前者と後者とでは確実に違っていたのだ。
今まで一緒にいた冬樹は、線が細く繊細で中性的なイメージだったのに対し、今日遭った冬樹は、細身ではあるが背も高く、前者と比べれば、どう見ても男そのものだった。
だが、比べる対象の『本物の冬樹』に遭っていなければ、それはずっと分からないままだったかも知れない。
『…何を言われても、どんなに罵られようとも…オレにはそれを解除することは出来ない』
アイツが言った言葉…。
自分が『冬樹ではない』とは言えなくても、ある意味自分に訴えてくれていたんだな…と、今なら解る。
ずっと、忘れられずにいた、夢にまで見た夏樹が生きていてくれた事実は、素直に嬉しかった。
だが、アイツを苦しめている元凶が自分の父親だと知ってしまった以上は、自分の立ち位置からしてとても複雑な気持ちだった。
現に自分は、自らが仕組んだことではなかったとはいえ、結果的に夏樹を罠にはめた形になってしまったのだから。
「………」
適当に廊下を進んで行くと、広い社内ラウンジへと差し掛かった。
ゆったりした空間のその場所には、広く大きな窓が作られており、現在は目を奪われるような煌びやかな夜景が目下に広がっていた。
力は、その光に吸い寄せられるように、ゆっくり窓辺へと足を運んだ。
(アイツ…無事かな…)
あの場から夏樹を連れ去ったのは、兄の冬樹…ということなのだろうか…?
勿論、他にも仲間がいたのかも知れないが。
薬で身動きの取れない夏樹をあの場から連れ去るには、最低限車が必要だろうから。
だが、きっと…まだ終わりじゃない。
そんな漠然とした嫌な予感が、力の内には存在していた。