21‐3
「…まさや…?」
傍へとゆっくり近付いて来る雅耶を、夏樹はただ呆然と見上げていた。
急にどうしたというのだろう。
自分は何か、雅耶の気分を損ねるようなことを言ってしまったのだろうか。
何故だか雅耶の顔が怖い…気がする。
夏樹が戸惑ってる間に雅耶は目の前まで来ると、夏樹の手の中にあるペットボトルをそっと取り上げ、それを机の上に置いた。そうして、夏樹のその細い手首を掴むと引っ張り上げて椅子から立たせようとする。
それは決して強引な動作ではなく、あくまでも誘導するようなものだった。
だが、無言で見下ろして来る雅耶の、その行動の意図が解らず、夏樹は手を引かれるままに立ち上がりながらも不安げな瞳を雅耶に向けた。
雅耶は夏樹の手を掴んだまま、僅かに表情を和らげると口を開いた。
「今日、お前は力の誘いに乗ってあの別荘へ行ったけど…。それが、どんなに危険なことか判ってるか?もしも力が黒幕の指示で動いている駒だったとして、沢山の人間が向こうでお前を待ち受けていたとしたらどうなったと思う?流石に大勢の大人相手に一人で戦える訳ないだろう?」
「…それは…」
確かにそうだと思う。
そこまで考えていなかった自分は、やっぱり甘かったのかも知れない。
実際、萩原一人を相手にして薬を盛られて何も出来なかった自分は、何を言われても反省と後悔しかない。
だが、そう言っている間も雅耶はずっと自分の手を掴んだままで。
こんな状況になってる意味が分からなくて、正直困惑していた。
「それに。力にお前の正体がばれてしまったとしたら…。もう『騙し討ち』だけでは済まないことになるかも知れないよ」
「…え…?ちから…?『騙し討ち』って…?」
何のことを言っているのか分からず『?』を飛ばしている夏樹を前に、雅耶は一瞬ハッとした表情を見せると。
「いや…ここで力のことを持ち出すのは狡いよな」
そう、自嘲気味に呟いた。
「雅耶…?」
思わず、不安になって名前を呼んだその時だった。
掴まれた腕を、不意にぐいっ…と引かれる。
(えっ…?)
気が付けば、その身体は雅耶と入れ替わるように反転させられ、部屋の壁際を背に立たされていて。
空いていたもう片方の手も取られると、両手を壁に縫い付けられた状態で雅耶が覆いかぶさって来た。
「まさ…や…?」
突然のこんな状況に、夏樹は大きく瞳を見開いた。
頭の中は、パニック状態だった。
(…どうして、こんな状況になってるんだっ…?)
咄嗟に振り払おうとした腕は、思いのほか強い力で押さえつけられていて、びくともしない。
掴まれた両腕が、妙に熱かった。
それに、何よりも真剣な雅耶の顔が近すぎて。
「隙だらけだよ、夏樹…。そういう所が無防備だって言うんだ」
間近で見詰められ、言葉が出て来ない。
自分の心音がどんどん大きく、早くなっていくのが分かる。
雅耶は真剣な瞳のまま、口元だけ僅かに笑みを浮かべると言った。
「お前は知るべきだよ。男を甘く見てるとどうなるか…。それに、自分がどんな目で見られているかを、ね。さっきまで…お前が眠っている間、俺がどんな気持ちで傍に居たか、お前に分かるか?」
(雅耶が、どんな気持ちでいたか…?…どんな…?)
そんなこと、分からない。
それさえも見透かすように、雅耶はじっ…とこちらを見詰めてくる。
「俺はね、夏樹…。眠っているお前に、キスをしようとしたんだよ」
(…え…?)
そんなことを突然、真顔で言う雅耶に。
夏樹は思わず顔を赤らめながらも、真意を窺う様な瞳を雅耶に向けた。
「…残念ながら、それは未遂…だったんだけどね」
雅耶は苦笑を浮かべてそう言うと、今度は耳元に顔を寄せてきた。
「でも、今度は本当に奪うかも知れないよ」
「……っ!」
「こんな状況じゃ得意の背負い投げは無理だろう?力比べでは、流石に男の俺相手に女のお前では勝ち目ないよな?…それとも、この手を振りほどけるか?殴ってでも退けてみろよ」
「…雅耶…」
確かに、こんな状況では自分は何も出来ない。…無力だ。
雅耶は普通の男よりも、もしかしたら腕力はあるし、どんなに暴れても上手くかわせてしまうのだろう。
(でも、そういうことじゃない…)
こういう状況になった今なら解る。
どんなに自分が女であるのか、分かってしまった。
(だって、こんなにも…)
『怖い』と思う自分がいる。
こうして、覆いかぶさるように迫られていると、その体格の差を思い知らされて。
壁に縫い付けるように腕を押さえている、その手の大きさと力強さに、自分との違いを感じて。
いつもの優しい、人懐っこい笑顔の雅耶とは違う、大人びた表情。
それは、自分とは違う…『男』の顔。
「いいのか…?退けなくて。いつもやるみたいに殴って俺をのしてみろよ」
わざと近くで雅耶が囁いている。
「ダメだよ…出来ないよ…」
夏樹は緩く首を横に振った。
「オレには…。雅耶のこと殴るなんて出来ない」
頭をふるふると横に振りながら『殴れない』と訴える夏樹に、雅耶は一瞬驚いたように目を見張った。だが、
「甘いよ、夏樹…。あんまり甘やかすと、本当に奪ってしまうかもよ?」
先程よりは、幾分か柔らかい表情で瞳を合わせてくる。
夏樹は真っ直ぐに瞳を逸らさず、雅耶を見つめ返すと言った。
「…いいよ。雅耶なら…」
本気、だった。
雅耶のことが好きだから、それでも良いと。
流石に緊張していたので、いつもの癖で声が若干低くなってしまったけれど。
だが…。
何故か雅耶は目の前で、脱力していた。
掴んでいた片方の手を離すと、その手で自分の顔を覆って俯いてしまっている。
「…雅耶…?」
その思わぬ反応に、夏樹が不安げに名前を呼ぶと。
雅耶は片手で口元を覆いながらも、ゆっくりと顔を上げた。
「お前…ホント、そういうの…反則…」
そう呟いた雅耶の顔は真っ赤に染まっていた。
さっきまでの大人びた雅耶とは全然違う、いつもの雅耶だった。
「だって…本当にそう、思ったんだ…」
雅耶が普段通りに戻ったことで安心した気持ちと、極度の緊張感。そして、それ以外の様々な感情が入り混じって、思わず泣きそうになった。
鼻の奥がツン…として、涙の膜で視界がにじんでゆく。
今日は泣いてばかりで、すっかり涙腺が緩んでしまっているみたいだった。
そんな夏樹の様子に気付いた雅耶は、穏やかな微笑みを浮かべると。
「…嘘だよ。そんなことしないよ。無理強いしたって、意味がないもんな」
そう言うと、とうとう溢れて零れ落ちてきた夏樹の涙をそっ…と、親指で拭った。
「驚かして、ゴメンな…。…怖かったか…?」
夏樹は、首をふるふると横に振ることしか出来なかった。
そんな夏樹の目線に合わせるように、雅耶は少し屈むと。
「でも、今日みたいに身体が痺れて動けなかったり、眠ってしまっていたら、そういう卑怯な真似をする奴が傍に居たって、お前は抵抗することすら出来ないんだよ。そういう危険性もあるってことをお前はちゃんと覚えておかないと駄目だよ。…実際、俺みたいにアブナイ奴も近くにいることだし、さ…」
そう、おどけるように言うと、優しく笑った。
(雅耶は危ない奴なんかじゃない…)
浮かんだ反論は言葉には出て来なかったが、雅耶が言いたかったことは理解出来たので、夏樹は素直に頷いた。
「ま、何だかんだ偉そうなこと言っててもさ、俺の場合は殆どヤキモチ…みたいなものなんだけどさ」
雅耶は、ため息まじりに笑ってそう言うと、夏樹の頭の上に大きな手をポンッ…と乗せてきた。
「…やき…もち?」
「そう。学校でもお前は何かと目立つからか絡まれやすいし、俺としては、いつでも気が気じゃないんだけど…。力に対しては特に複雑なモノがあるのは確かかな…」
「…力、に…?」
夏樹は不思議そうな表情を浮かべた。
「あいつの夏樹に対する執着心って、結構凄いだろ?お前が夏樹だとは流石に気付いていないみたいだけど、それでも『冬樹』への入れ込みも相当なモノだと思うぜ」
「そう…かな…」
(確かに、よく絡んでくるとは思うけど…)
「無意識に『冬樹』のお前に何かを感じてるのかも知れない。俺が気付いたのと同じようにさ。こんな状態で、もしもお前の正体がアイツにばれたらと思うと、本当に気が気じゃないよ。過去のことは置いといても、絶対負けられないって思う」
「雅耶…」
「それが俺のヤキモチ。お前が力と一緒にいると落ち着かないんだ。実際、例の件での要注意人物だと思っていたのもあるけど、本当は単に面白くないだけだよ。お前をアイツの側に、行かせたくない」
再び大人びた真剣な顔を見せる雅耶に。
最初は、大きく瞳を見開いて聞いていた夏樹だったが、ふっ…と微笑みを浮かべた。
「オレが一緒に居たいって…、傍に居たいって思うのは、雅耶だけだよ」
「…夏樹…」
雅耶は、驚いたように目を見張った。
「オレ…自分が夏樹だってこと、何度かお前に言おうとしたことがあるんだ。でも…言えなかった。今までずっと騙していたことを責められるのが怖くて…。そのことで、雅耶に軽蔑されると思うと怖くて言えなかった。お前に、嫌われたくなかったんだ…」
「そんなことで嫌いになる訳ないだろ?」
「ん…。でも、オレ…入学当時も結構最低な態度だったし。元々、本当はずっと雅耶とも距離を置いておくつもりでいたんだ。雅耶に限らず誰にも近付くつもりはなかった。最初から嫌われていれば、悩んだり傷ついたりしないで済むって思ってたから…」
「でも、心開いてくれたろ?」
「…それは、雅耶のお陰だよ。雅耶がいたから、今のオレがいるんだ…」
壁を背に、寄り掛かりながら夏樹は目の前に立っている雅耶を見上げた。
優しい微笑みが自分を見下ろしている。
夏樹は、想いのままに言葉を紡いだ。
「オレ、雅耶のことが好きだよ」
「夏樹…」
雅耶への気持ちを口にするだけで、自然と笑顔になる。
自分が、こんな気持ちになれるなんて思ってもみなかった。
オレは、ずっと…『夏樹』が嫌いだった。
大好きな兄を身代わりにして生きている、自分が許せなかった。
だから最初は、自分が冬樹になることで、夏樹がこの世界からいなくなっても全然平気だと思っていたんだ。
それが、夏樹に与えられた罰なのだと。
でも、実際は…。
冬樹の殻を被っているだけで、心は夏樹のままで。
ただ、兄の帰りを信じて待っているだけの、見せ掛けの存在だった。
でも、雅耶は夏樹がいなくなっても、夏樹のことを変わらず大切に想っていてくれて、ずっと忘れずにいてくれた。
それに『冬樹』の中の夏樹を見つけて、それでも尚…そのままのオレで良いと言ってくれた。
その言葉がどんなに嬉しかったか。
その言葉に、どれだけ救われたか…。
いつだって、優しい瞳で見守ってくれてた雅耶。
ピンチにはいつだって駆けつけてくれた頼もしい、幼馴染み。
兄への罪悪感は消えないし、時は戻せない。
でも、お前が必要としてくれるなら。
オレは、お前の前だけでも『夏樹』でいたいって…。
本当に…そう思ったんだ。
雅耶は満面の笑みを浮かべた。
「ずっとずっと、しつこく想ってた甲斐があったかな。…すっげー嬉しい…」
その、昔から変わらない人懐っこい笑顔に。
嬉しくて、夏樹もつられて微笑みを浮かべた。
お互いに暫く見詰め合うと…。
「夏樹…」
雅耶の大きな手が頬へと伸びてきた。
驚かさないように、そっ…と。
まるで、大切なものに優しく触れるように。
「…好きだよ。ずっとずっと、夏樹だけが大好きだった…。それは、これからもずっと変わらない」
瞳を覗き込む様に視線を合わせると、雅耶は誓うように囁いた。
「…まさや…」
そうして、顔がゆっくりと近付いてくる。
今度は怖さはなかった。
夏樹は、そっと瞳を閉じると雅耶に身を委ねた。
そうして、二人はそっ…と。触れるだけの優しいキスを交わした。