21‐2
「少しは落ち着いたか?」
雅耶は、一度階下へ降りて取って来たペットボトルを夏樹に差し出しながら言った。
「………。あ…ありがと…」
一瞬雅耶の手の中のペットボトルを凝視した後、夏樹は素直にそれを受け取った。その微妙な間に、雅耶は首を傾げる。
「…?どうかしたか?」
「あ…いや…。ごめん…何でもないんだ…」
未だ泣いた跡の残る潤んだ瞳で、傍に立つ雅耶を見上げながら夏樹は首を横に振った。
若干身体の痺れは残っているものの、夏樹は何とか動けるようになり、今は雅耶の机の椅子を借りて座っていた。
「ただ、ちょっと…これを見たら、今日の失敗を思い出しちゃって…さ」
受け取ったペットボトルに視線を落として、苦笑いを浮かべる。
ある意味、今日の最大の汚点だろう。
いや…力の誘いに乗った時点で、選択を間違えていたんだろうけど。
「…失敗?」
雅耶は夏樹の向かい側にあるベッドに腰掛けた。
「うん…。向こうでさ、力にお茶を貰ったんだ。オレも流石に警戒はしてたから、何か出されても口にする気はなかったんだけど。それがペットボトルで。栓もしっかり閉まっている新しいものだったから、つい…ね」
「もしかして、それに薬が仕込まれてたのか?」
「うん…。流石に注射器で入れたのには気付かなかったかって、後で笑われた」
思い出すだけで、何だか屈辱的だ。
「あの運転手にか?…随分用意周到なんだな。最初から、お前を狙っていたってことなんだろうな」
「うん…。多分…」
その時、不意に力のことが頭に浮かんだ。
(多分、力は…それを知らなかったんだろうな。自分の味方だと思っていたあの萩原という男は、実は力の父親の指示で動いていて…)
そこまで考えて、突然我に返った。
今まで薬のせいか、どこか霞が掛かっていた部分の記憶が鮮明に思い出されてくる。
「そうだ…思い…出した」
夏樹は突然その場に立ち上がった。
「黒幕は、やっぱり神岡のおじさんだったんだ…」
「…えっ?」
突然の言葉に、雅耶は驚きながら夏樹を見上げている。
「薬を飲まされて動けないでいる時、運転手の萩原って男がオレを外に連れ出そうとしたんだ。その途中であの人に助けて貰って、オレは連れて行かれずに済んだんだけど…。その時、萩原が力に言ったんだ。オレを『本社』に連れて行くって…」
「本社ってことは、社長である力の親父さんの所へ連れて行こうとしてたってことか。でも、何か…急ぐ理由でもあるのかな。何だか焦っているような感じがしないか?手段を選んでいられなくなって強行手段に出た…みたいな…」
「うん。そうかも知れない。あいつらは、どうしても父さんのそのデータを開きたくて躍起になってるのかも。今日、オレが薬で動けないでいる間にも、嬉々として萩原がオレの手を認証に掛けてたよ」
「それって、前に言ってた静脈認証ってやつだろう?でもさ、それって、お前じゃ…」
以前聞いた時は、夏樹が冬樹に成りすましているなどとは思いもよらなかった。だが、事実を知った今なら、その解除は容易ではないことが分かる。
「うん…。本当は、ふゆちゃんの手じゃないと開けないんだ」
夏樹は少し困ったような笑顔を見せた。
「でも、向こうはそれを知らないから。今日、無理やり解除させようとオレの手で試していたけど…。開かなくても他にも何か秘密があるとしか思ってないみたいだった」
その右手を握りしめる。
「どんなにオレを狙って試したって、父さんのデータはあいつらの手に渡ることはないけど…。こっちも手に入れられないのは同じだからな…」
途方に暮れたように夏樹は天井を見上げると、小さく溜息を吐いた。
その言葉に、雅耶は大きく反応した。
「馬鹿!同じじゃないだろっ。データを取られることはなくても、お前はそれだけ危険な目に遭うんじゃないかっ。そこんとこ間違えるなよっ」
「…雅耶…?」
急に真剣な顔で怒り出した雅耶に、夏樹は困惑した様子を見せている。
「俺が言いたいこと、ちゃんと分かってるかっ?…確かに、今日みたいなことがあっても、そのおじさんの大事なデータはあいつらの手に渡ることはない。でも、実際お前があいつらの元に連れて行かれてたら、もっと危険な目に遭っていたかも知れないんだぞ」
「…うん…」
頷きながらも、未だ困惑気味な夏樹に。
(やっぱり、お前は解ってないよ…)
雅耶は立ち上がると、気持ちを落ち着けるように窓際へ足を運ぶと、カーテンを開けた。
外はすっかり日が暮れて、夜の闇が広がっている。
「…雅耶…?」
「もしも、今日みたいに身体の利かないままに何処かへ連れ去られたとして、お前が冬樹ではなく夏樹だと気付かれたらどうなると思う?相手は逆上して何をするか分からない…。それに…」
「…それに…?」
こちらに背を向けたまま、言いよどんでいる雅耶に。
夏樹は、ただ不安な気持ちを募らせていた。
「夏樹…お前は、自分が女であることをもっと自覚した方が良い」
「…え…?」
思ってもみなかった雅耶の指摘に、夏樹は目を丸くした。
雅耶は窓際に立ったまま、こちらを振り返ると続けた。
「確かにお前は、そこらの男よりは腕が立つし、強いよ。学校でも…お前がどんなに可愛くて隠れたファンが多かろうが、女と疑って見てる奴は今いないだろう。それ位、お前はしっかり冬樹を演じられてる。でも、それでもお前は、やっぱり女の子なんだ…。それだけで、別の危険が伴うことを忘れちゃ駄目だ」
「別の…危険…」
雅耶の言葉に真面目に耳を傾けながらも。
(『隠れたファン』…?って、何のことだろう…?)
素朴な疑問が頭に浮かぶ。
でも、今それを問う雰囲気でもなく、なんとなくスルーするしかなかった。
「お前の強さは、その身の軽さを生かした瞬発的なものだ。力で押されたら、流石に男には敵わないだろう?押さえ込まれたり、自由を奪われたら到底太刀打ち出来ないんだ」
「うん…。それは、十分解ってる…つもりだけど…」
ここまで聞いても、雅耶の言わんとするところが理解出来ず、夏樹は首を傾げた。
一方の雅耶は内心で、じれったさを感じていた。
(何て言えば、お前に伝わるんだろう…)
小さな小学二年生の頃から、『男』をやってきた夏樹には女としての危機感がないような気がしたのだ。
今日のように、身体の自由を奪われた状態で連れて行かれて、何かをきっかけに女だということがばれたら、どうなるか…。
勿論、ただ『鍵』としての役目を果たせないことに逆上され、命の危険にさらされるかも知れない。
でも、それが女ならではの最悪のパターンがあるということを、夏樹は知らないのではないか。と、見ていて心配になるのだ。
助けてくれたあの男達が、もっと悪い奴等だったとしたら、眠っている夏樹に悪さすることなど容易い。それこそ、何処か違う所に連れ去られる可能性だって無くはない。
つまり、運が良かっただけなのだ。
(現に、俺は寝ている夏樹の唇を奪おうとしていたし…)
自分のことを棚に上げて言うのも何だが、とにかく無防備過ぎるのだ。
それが、傍で見ていて心配で堪らない。
「夏樹は無防備なんだよ。少しは危機感を持った方が良いよ」
そう言っても、やはりキョトンとしてこちらの意図を探っているような夏樹に。
「俺が言ってる意味が解らないなら、どういうことか教えてあげようか…?」
雅耶は、そう言うと。
ゆっくりと夏樹の傍へと近寄って行った。