21‐1
さり気なく発せられた『夏樹』の名前に、冬樹はビクリ…と身体を硬直させた。
それでも、どう反応したら良いのか迷うように見つめてくる大きな瞳は、涙が潤んでキラキラしていて、とても綺麗だと思った。
雅耶は愛おしげに見詰めると、穏やかに言葉を続ける。
「本当は、さ…。お前が隠したいんなら、ずっと気付かない振りして傍にいるのも良いかなって思ってたんだ。『冬樹』の幼馴染みの友人として、隣に居れれば良いかなって…。でも、ごめん…。やっぱり、もう限界だ」
目の前の雅耶は、優しい微笑みを浮かべていた。
けれど、その言葉の意味が冬樹には理解出来ずにいた。
頭の中が混乱していて、雅耶が何のことを言っているのか解らない。
「…それって、もう…愛想が尽きたって…いう、こと…?」
(オレが…本当は冬樹じゃないから?夏樹であることを、ずっと秘密にしていたから…?)
「オレ…が、嘘つきだ…から…?」
冬樹の瞳からは、ボロボロ…と大粒の涙が止めどなく零れ落ちる。
まるで捨てられた子犬のように、腕の中で震えている冬樹に。
雅耶は苦笑いを浮かべた。
「バカ。何でそうなるんだよっ。『放って置けない』んだって、今言ったろ?ちゃんと話聞いとけよ。…俺、前に海で言ったよな?お前は、今のお前のままで良いんだって…。あの頃から、お前が夏樹なんだってことくらい…俺は気付いてた。そんなの今更なんだよ」
真剣な顔で言葉を続ける。
「ただ…俺は…。もう、お前を夏樹としか見れないって言ってるの。好きだから、心配で堪らないんだよっ」
頬を赤らめながらも、ハッキリと言い切った雅耶に。
冬樹は漸く雅耶の言っている意味が解ったのか、驚きの眼差しで見詰めた。
そうして、僅かな沈黙が流れた後。
その大きく見開かれた瞳からは、再び大粒の涙が零れ落ちてきた。
本当は『冬樹』であることを貫き通さないとけないと思うのに。
自分のことを『夏樹』だと認めて貰えることが、こんなにも嬉しいなんて…。
自分は何て身勝手なのだろう。
(…ごめんね、ふゆちゃん…)
兄に対しての罪悪感は、どうやっても消えない。
だけど…。
雅耶の言葉が…嬉しくて堪らなかった。
「雅耶…。ずっと、ずっと…本当のこと、言えなくてごめん…」
両手で涙を拭いながら泣きじゃくる『夏樹』を。
「いいよ。気にしてないから…。だから、もう泣くなよ…」
そう言って、雅耶は優しく抱きしめるのだった。
暫くの間、腕の中で泣き続けている夏樹をなぐさめていた雅耶だったが、落ち着いて来たのを見計らって、そっとベッドに寄り掛かれるように床部分に座らせた。そして、それに向かい合うように自分も膝をついて座ると、未だ瞳を潤ませて下を向いてぐすぐすいっている夏樹に優しく語り掛けた。
「本当は…さ、お前が夏樹だって気付いた時、それをお前に伝えてしまうことで、お前が冬樹として生きて来た八年間を俺が壊しちゃうんじゃないかって不安だったんだ」
その言葉に、夏樹は僅かに顔を上げる。
「お前が何故、冬樹として生きて来なければならなかったのか、俺…ずっと考えてた。実際、俺は八年間、気付きもしなかったし、そんなこと思ってもみなかった。そんな可能性さえ疑ってもいなかったんだ」
穏やかに。だが、まっすぐに夏樹を見詰めて話すと、夏樹も涙に濡れた瞳をこちらに向けた。
「最初は、本当に判らなかったよ。前にも言ったかも知れないけど…俺は、お前と高校で再会して一緒に過ごすようになって、お前の『冬樹』の中に夏樹を見つけてさ…。二人が妙にかぶって見えて戸惑っていたんだ」
「…オレの…中に…」
大きな瞳を揺らしている夏樹に。
雅耶は目を細めると、優しく微笑みを浮かべた。
「それでも、流石に二人が入れ替わっているなんて発想には行き着かなかった。それ位、お前はしっかり『冬樹』だったよ」
「………」
「確信を持った時は…正直驚いた。本当に…。お前がずっと八年もの長い間、ひとりでその秘密を背負ってきたのかと思うと、本当に衝撃だったし…。俺は自分が許せなかった。何でもっと早く気付いてやれなかったんだって…」
「……雅耶…」
辛そうに、僅かに眉根を寄せている雅耶に。
いたたまれなくて、夏樹は再び下を向いた。
それは仕方のないことだ。
実際、自分は必死にひた隠しにしてきたのだから。
(オレは、そんな風に言って貰う資格なんかない…)
最初は、純粋に兄の居場所を守りたかった。
でも、それは名目にすぎなかった。
結局、最終的に自分は、この自分の居場所を守りたくて…。
お前に嫌われるのを恐れて、秘密を打ち明けられなかっただけだ。
「…違うよ…。雅耶は何も悪くなんかない。みんなオレが…。オレのワガママが撒いた種なんだ…。それをオレがずっと、認められなかっただけなんだよ」
「…我がまま?」
夏樹は雅耶の言葉に小さく頷くと、自虐的な笑みを浮かべた。
「オレは、自分のせいで…ふゆちゃんが事故に遭ったという事実をずっと認められなかっただけなんだ…。現実から逃げていただけなんだよ」
そう言うと、あの事故の日に冬樹と入れ替わった経緯を雅耶に全て説明した。
八年前の記憶を手繰りながら静かに耳を傾けていた雅耶は、納得したように頷いた。
「…そうか。そういうことだよな。あの日稽古に一緒に行ったのが夏樹だったってことか。…俺、当時はそんなこと全く気付いてなかったな」
そう、口惜しげに呟いた。
(きっと…直純先生は、その時から夏樹のことに気付いていたんだな…)
『八年も前から…』そう思うだけで、何だかとても悔しい気持ちになる。
その頃の自分は、まだ小さな小学二年生で、直純は既に高校生で空手の先生だったのだから、ある意味その差は仕方のないことなのだが。
そんな雅耶の内心の複雑な想いを知る由もない夏樹は、ただただ申し訳なさそうに膝を抱えて俯いていた。そんな自分を責めている様な夏樹の様子に、雅耶は小さく息を吐くと優しく声を掛ける。
「事故はお前のせいじゃないんだし、せめて話してくれれば良かったのに…。あの頃の俺じゃ頼りにもならないし、何も出来なかったかも知れないけどさ…。誰か大人の人に話せば、少しは何か…」
そこまで言い掛けた時、夏樹が咄嗟に顔を上げた。
「だって、あの頃はっ…オレが夏樹に戻ってしまったら、ふゆちゃんが帰って来れなくなっちゃうと思ってたんだ。オレは、馬鹿だからっ…ふゆちゃんがいつ帰って来ても良いように…って。いつでも入れ替われるように…。オレが…ふゆちゃんの居場所を…作っておくんだって」
そう、若干興奮気味に語る夏樹の目には、再び感情的になったからか涙が浮かんでいた。
「でも、そんなのタテマエでしかなかった。オレは現実から逃げて…結局は自分の罪を先延ばしにしてただけだった…。みんな、ただの言い訳なんだよ…」
とうとう、その大きな瞳からは涙が溢れ、再びぼろぼろと頬を伝って零れだした。
「…全部…自業自得なんだ…」
声には出さず、耐えるように涙を流している夏樹に。
雅耶は夏樹の頭を引き寄せると、自分の胸へと押し当てた。
「分かったよ。分かったから…もう、泣くなって…」
お前は今まで、そうやって独り自分を責めて生きて来たんだな。