20‐2
一方の雅耶は…。
両手が塞がっている為、何とかインターフォンのボタンだけを押すと、母親が玄関ドアを開けてくれるのを待った。
『あら、雅耶?あんた鍵忘れてったの?』
「いや、今両手が塞がってるんだ。悪いんだけど、ドア…開けて貰えないかな?」
インターフォン越しに短く会話を交わすと、渋々ながらも母親がドアを開けて迎え入れてくれる。
だが、次の瞬間。
「どっ…どうしたのっ?その子…」
両手が塞がっている理由を目の当たりにして、母親は呆然と立ち尽くしていた。
「ただいま…。ちょっ…と、その…こいつ具合が悪くて、今は眠ってるんだ。とりあえず、俺の部屋に連れてって休ませるから…」
詳しく説明するのも面倒で、雅耶は言葉を濁した。
そうして、とりあえず自分の部屋のベッドへと冬樹を寝かせると、母親が控えめに部屋に入って来た。
「ねぇ、雅耶。あんたのベッドなんかで良いの?別にお布団敷いてあげた方が良かったんじゃないの?」
人の布団をまるで汚いもののように言う母親に、雅耶は苦笑すると「少しだからいいよ」と、その提案を押し退けた。
母親は未だ何か言いたそうだったが、とりあえず納得すると、静かに眠るその少年をそっと見詰めた。
「随分と綺麗な子ね。あんたの高校の友達?」
「…え」
それが冬樹であることには、気付いていないらしい。
「この子のご家族には連絡したの?具合悪いんなら、連絡だけでも入れといた方がいいんじゃないの?」
声を落として、心配げにこちらを振り返る母親に。
「母さん、それ…冬樹だよ」
雅耶は制服から普段着に着替えながら、平然と言った。
(本当は、夏樹だけど…)
そこは混乱するだろうから黙っておく。
すると、母親は驚きの眼差しで再び冬樹の眠る姿を凝視していた。
だが、そのうち急に泣き出してしまい、今度は雅耶がぎょっとする。
「…母さん…」
「…すっかり見違えるほど大きくなって…。聡子ちゃんも、さぞかし天国で喜んでいるでしょうね…」
母親は人差し指で涙を拭った。
『聡子』とは、冬樹達の母親の名前だった。
母とは本当に仲が良い友人で、母親同士が頻繁にお互いの家を出入りしていたからこそ、冬樹と夏樹と雅耶はいつだって一緒にいたのだ。
母親は暫くして涙を収め、1人しんみりしてしまったのを小さく謝ると。
「何かあったら呼んでね。目が覚めて具合が良さそうだったら、下にも連れておいでね」
そう言って、静かに雅耶の部屋を後にした。
母親が部屋から出て行った後、雅耶はベッドの側まで寄ると、眠っている冬樹をそっと見下ろした。
冬樹は静かな寝息を立てている。
だが、やはり普段よりも若干顔色が悪い気がした。
「………」
(まったく、何でこう…お前の周囲は物騒なことだらけなんだろうな…)
思わず溜息が出てしまう。
学校へ行けば、上級生や変な先生には絡まれ…。
親父さんのデータに関しては、下手すれば命に係わる程の危険な目に何度も遭っているのだから。
(確か…薬を盛られたって言ってたよな…)
雅耶は、未だ目を覚ましそうもない冬樹をじっ…と見詰めた。
先程ベッドへ寝かせた時に少し確認をしたが、怪我などの外傷がないのは不幸中の幸いだったかも知れない。
こっそり薬を仕込まれたのか、無理やり飲まされたのかは定かではないが、何にしても特に争そうようなことなく、苦しい思いをしていなければ良い、と思った。
(でも、そんな怪しい薬…実際、大丈夫なんだろうか?)
副作用とか、身体への負担とか…。市販の薬でさえ色々あるのだから、何らかの症状が出る可能性もなくはないだろう。
それに、さっきの男がどういう状況で冬樹を助けるに至ったかは分からないが、違った危険に巻き込まれる可能性だって今回は十分にあった筈だ。
あの男が何者かは分からないが、もし彼に助けられていなかったら、今頃冬樹の消息は絶たれていたかも知れない。
考えれば考える程、怖い…と思った。
「気を付けろって…言っただろ?」
雅耶は、目を細めて小さく呟くと。
背を屈めて、目元に掛かっている冬樹の髪にそっと手を伸ばすと、それを優しく除けた。
そのサラサラとした髪の感触と、冬樹の僅かな吐息が手を掠めてゆき、雅耶は思いのほかドキリ…とする。
「………」
そこで唐突に、目の前で『夏樹』が眠っているこの現状を雅耶は改めて意識してしまった。
自分の部屋の、自分のベッドの上で。
今、静かに眠っている、その愛しい存在を。
雅耶は、自分の鼓動が少しずつ早くなっていくのを頭の隅で感じていた。
思わずその吐息に誘われるように、その手を今度は白い頬へとそっと伸ばす。
恐る恐る、指の背で優しく触れると。
その頬は、見た目通り肌理が細かくすべらかで、そして温かかった。
その温かさに夏樹の無事を改めて感じ、ホッとする。
だが、一度触れてしまったら制御が利かなくなっていった。
そっと頬を触れても、目を覚まさない夏樹。
早く目覚めて、その大きな瞳に自分を映して欲しくて、雅耶は自分でも気付かぬ内に触れ方が大胆になっていった。
今度は寝ている夏樹の髪をそっと優しく梳くように撫でる。
それでも、身動き一つしない。
(起きろよ…夏樹…)
額から瞼。頬、そして顎のラインを辿ってそっと触れていく。
ふと、その薄く開いた唇に自然に目が行って、思わず釘付けになった。
「………」
そこだけ特別であるかのように、ゆっくりと…下唇にそって親指を這わせてゆく。
そこは思いのほか柔らかく、辛うじて押さえ込んでいる自分の理性を簡単に突き崩してしまいそうだった。
雅耶は、その薄ピンク色の唇の下にそっと指を添えた。
目が、離せなかった。
心臓の音が耳元で聞こえ、もう…何も考えられなくなる。
その夏樹の唇へと思わず引き寄せられるように。
己の感情のままに、雅耶は自らの唇を寄せていった。
だが…。
はた。…と、我に返る。
それは、唇と唇とが触れる、すれすれの所。
いつだったか、力に対して『冬樹』が言っていた言葉が頭を過ぎった。
あれは…力が夏樹のファーストキスは自分が貰ったとか、得意げに話していた時だった。
あいつは、そんな力に対して珍しく怒りを露わにしていて、力自身は何故冬樹がそんなに怒ってるのか、分からない様子で尋ねたのだ。すると…。
『お前が下らないことを言うからだっ。あんな騙し討ちでそんな風に触れ回られたら誰だって…。夏樹だって…浮かばれない…』
悔しげに話していた冬樹。
最後の『夏樹だって浮かばれない』…というのは、冬樹としての言葉だからだ。
実際、あれは夏樹の叫び…だった。
(俺は、最低だ。もう少しで力と同じ卑怯な奴になる所だった…)
雅耶はすんでの所で何とか思い留まると、屈んでいた体勢を起こして、再び眠る夏樹をそっと見下ろした。
それでも…。
愛しさが胸に込み上げてくるのだ。
本当は奪ってしまいたかった。
力に対抗心がない訳ではなかった。
でも、今はもう…あいつのことなんか関係ない。
ただ、その愛しい唇が欲しかった。
奪って、自分のものにしたかった。
切なさで、胸が苦しい程に…。
雅耶は小さく深呼吸をすると、眠っている夏樹に声を掛けた。
「早く…目を覚ませよな…」
俺の我慢が利かなくなる前に…。
雅耶は、その場から離れると。
部屋の窓を開けて、外の空気を目一杯吸い込んだ。