20‐1
雅耶は駅から家までの道のりを足早に歩いていた。
本日行われた空手大会では、個人戦と団体戦が行われ、成蘭高校は団体戦で三連覇という快挙を成し遂げた。
団体戦に雅耶達一年生は参加していないが、三年生はこの大会が終わると同時に引退となる為、下級生達の応援にも熱が入り、雅耶が冬樹からのメールに気付いたのは、決勝戦が終わった後の皆が興奮に沸いている中でだった。
『父さんの研究データを見せて貰う為、別荘に来てる。』
思ってもみなかったその内容に、雅耶は大きく目を見張った。
(馬鹿かっ!あれ程忠告しておいたのに、無防備すぎるだろっ!)
思わず携帯を持つ手に力が入る。
心配を通り越して憤りさえ感じてしまう雅耶だったが、その後の文面に目を通すや否や、今度は簡単に毒気を抜かれてしまった。
『心配してくれてたのに、事後報告になっちゃってゴメン。』
『試合頑張ってね。応援してる。』
雅耶は一人、携帯を手に脱力すると小さく溜息を吐いた。
(まったく…。敵わないな…)
そんな何気ない言葉が、こんなにも嬉しくて仕方がないなんて、自分は何て単純に出来ているのだろう…と思う。
思わず口元が緩みそうにさえなって、雅耶は自らの拳でそれをさりげなく隠した。
(…こういうのを敢えて狙ってやってるんだとしたら、タチ悪いよな…)
あいつに限って、それはないだろうけれど。
俺がいつもどんな気持ちで傍に居るのか…きっと、考えてもみないのだろうから。
歩きながら、ポケットから携帯を取り出して新しいメールが来ていないかチェックする。
だが、冬樹からその後の連絡は入っていない。
(無事であるなら、別にいいんだ…)
今冬樹は、父親のことが何よりも知りたくて堪らないのだろう。
気持ちは分かる。
亡き父を信じたい気持ち。
そして、その全てを解りたいと思う気持ち…。
(あいつのことだ。きっと、それなりに危険を覚悟で行ったに違いない…)
でも…。
こちらの気持ちも分かって欲しい、と思ってしまうのは傲慢だろうか。
今迄にも、何度か危険な目に遭っているのだから、もう少し自重して欲しいと思うのに。
力を端から疑っている訳ではないが、もしも何かあってからでは遅いのだ。
あんな遠くの別荘では、自分は助けに駆けつけることすら出来ないのだから。
(でもな…。それこそが『夏樹』だとか思えちゃうところが問題だよな…)
雅耶は空を見上げると、心の中で苦笑した。
そうして、今後どうするか、考えながら歩く。
冬樹には、無事なのかどうかとメールを返しておいたが、未だ連絡は入って来ない。
連絡がないのは、特に何事もなく平穏無事な証拠だと思いたい所だが、やはり確認するまでは気になって落ち着かない…というのが、正直な気持ちだった。
(電話してみるか…。心配性だと思われるかな…?いや、でも実際心配なんだから仕方ない、よな…)
自問自答を繰り返しつつ、とりあえず家に着くまで待ってみて、その間に何も連絡がなければ、こちらから一度冬樹に電話をしてみるということに落ち着いた。
ある角を曲がり、自宅まであと直線で数十メートルという所まで来た時、不意に道端に停車している車が目に入った。
(あれは…野崎の家の前、辺り…か?)
この辺りでは、あまり見掛けない車だ。
たまたま近所の家に客が来ているだけなのかも知れないが。
近くまで行くと、エンジンが掛かったまま人が乗っていることに気付く。
(誰かを待ってるのか?それとも、道でも迷ったか…?)
あまりじろじろ見るのも失礼だと思い、さり気なく車の横を通り過ぎた。
そして、自宅の門をくぐろうとした時。
「…ちょっと、すみません」
運転席の男が、車から降りて声を掛けて来た。
「…はい?」
若干警戒の色を見せつつも、雅耶は足を止める。
男は車の横に立ったまま笑顔を見せた。
「キミ、久賀雅耶くん…だよね?」
「そう、ですけど…」
突然、見ず知らずの男の口から自分の名前が出てきて、雅耶は余計に警戒を露わにする。
「そんな怖い顔しないでよ。別に怪しい者じゃないよ。…いや、十分怪しく見えるかな…?とにかく、キミに預けたいものがあるんだ」
男は悪意のなさそうな笑顔を見せて、運転席のすぐ後ろの後部座席のドアを開けた。
(預けたいもの…?)
男は車の中に上半身を乗り入れるようにすると、何か大きなものを抱える素振りを見せた。
「『もの』は『もの』でも、者…なんだけどね」
そう言って笑う男が、車の中から抱えて出してきた『もの』は…。
「…っ!?冬樹っ!?」
眠っているらしい、冬樹だった。
「いったいどうしてっ!?」
目の前の男への不信感はあるものの、そこに居る冬樹のことが気になって、雅耶は咄嗟にその男の傍へと駆け寄っていた。
傍まで行くと、男は自然な動作ですんなりと冬樹を渡してきた。
雅耶は慌てて腕を差し出すと、冬樹を横抱きに受け取る。
「神岡の別荘から連れて来たんだ。この子、薬を盛られたみたいで今は眠ってるんだけど…」
「薬?まさか、力が…?」
腕の中の冬樹の顔を覗き込みながら、雅耶は僅かに険しい表情を浮かべた。
もともと色白な冬樹だが、その静かに眠る顔色は、いつもよりも少し蒼白い気がする。
「いや、神岡の息子についていた運転手が何やら企てていたみたいだな。現に、その息子も一緒に薬を盛られて動けなくなってたし、それは間違いない」
その言葉に雅耶は大きく目を見開いていた。
「あなたは…いったい何者なんですか?何故、冬樹を?」
しっかりと冬樹を抱きかかえながら、雅耶は男の顔をまじまじと見詰めた。
男は20代前半位だろうか。背は雅耶と同じ位ある長身で、だがガッチリとした鍛えられた大人の体格をしていた。その、いかつい体格とは裏腹に、その笑顔は悪意の欠片もないような爽やかな笑顔を浮かべている。
でも、どう考えても冬樹との接点はないような気がした。
「うん…。まぁ簡単に言うと、俺はある奴に頼まれてこの子を助ける手伝いをしたってとこかな」
そこまで言うと、男は身を翻して車に戻って行く。
「…ある奴…?って、あのっ…」
雅耶の言葉を待たずに、男は車に乗り込もうとドアに手を掛けると、今一度こちらを振り返った。
「そいつの話しによると、その子の騎士はキミらしいから。その子のこと、ヨロシク頼むね」
男は、そう言って笑うと運転席に乗り込んだ。
(俺がナイト…?誰がそんなこと…。少なくとも、俺と冬樹の事を知ってる奴ってことだよな?)
頭の中で考えが纏まらない中、男の乗った車は早々に走り出してしまった。
運転席の男が軽く片手を上げて前を通り過ぎていく。
だが、冬樹を両腕に抱えている為、雅耶はただそれを見送ることしか出来なかった。
だが…。
(…あれ?もう一人、誰か乗ってる…?)
後部座席の窓には濃いめのフィルムが貼ってあり、先程前を通った時には気付かなかったのだが、もう一人後ろに誰かが乗っていたようだった。
(謎の二人組…か…。少なくとも、俺の名前も家も知ってて、此処で待ってたってことだよな。冬樹に聞けば今日のことは何か分かるかも知れない、が…)
腕の中で眠る冬樹に視線を落とした。
(…まずは、ゆっくり休ませてやらないと…だな)
雅耶は冬樹を大事そうに抱え直すと、ゆっくりと自宅の門をくぐった。
「並木さん、ありがとね」
ハンドルを握る男の背後から、控えめな声が掛かる。
並木…と呼ばれたその男は、バックミラー越しにその人物に視線を流した。
バックミラーには、一人の少年が名残惜しそうに後ろを振り返っている様子が映っている。
「いや、こんなのはお安い御用さ。でも、彼に任せて本当に大丈夫だったのか?」
車を走らせながらそんなことを言う並木に、後部座席の人物は前に向き直ると首を傾げた。
「…それって、どういう意味?」
その仕草は年相応にどこか幼いもので、並木は思わず口元に笑みを浮かべた。
「だって、あの子は女の子なんだぞ?さっきの少年がいくらナイトの様に彼女を守ってくれる勇敢な子だったとしても、今…あの子は眠ってるんだ。何か間違いがないとも限らないだろ?」
並木は言外に含ませながら、そう言った。
「ああ…そういう意味…」
少年は意外そうな顔をした。
「実際、あり得ることだぞ?男の理性なんて脆いモンなんだからな。あー、でも女の子であることは隠してるんだったっけ?でも、あの子綺麗だし、それこそ正体がバレちゃったりしたら大変なことになるんじゃないのか?」
心配げに語る並木に、少年はクスッ…と笑うと「大丈夫だよ」と微笑みを浮かべた。
「雅耶は、そんな奴じゃないから」
その穏やかな微笑みとは裏腹にキッパリと言い切った。
「うーん…そうか。ま、お前がそう言うんだから、そうなんだろうな。彼には絶大な信頼を寄せているって訳だな」
並木はつられて笑顔を見せると、その後は運転に集中した。
少年は流れていく景色を眺めながら、先程の並木と雅耶のやり取りを思い出していた。
ずっと二人の様子を、車中から眺めていたのだ。
雅耶を近くからしっかり見たのは、本当に久しぶりだった。
(すっかり、立派になっちゃって…)
昔から自分達よりも大きかった幼馴染みではあるが、随分と大きく逞しく成長していて、どこか感慨深いものがある。
夏樹を抱えるのも軽々といった感じだった。
(でも、雅耶は既になっちゃんのことは気付いているみたいだな…)
大事そうに夏樹を抱えていたその様子は、ほんの僅かな動作や視線にさえも愛しさが込められていて、見ているこちらが恥ずかしい位だった。
(でも…それなら尚更、安心だよ。雅耶はなっちゃんを悲しませるようなことは、絶対しないだろうから…)
その少年…冬樹は、微笑みを浮かべると、そっと目を閉じた。