18‐1
その日。
帰りも力は当然のことながら電車で、例のごとく途中まで冬樹は一緒に帰ることになってしまった。だが、特に一緒に帰ろうと約束した訳ではなく、ただ方向が一緒なのでそのまま自然と傍に居た…と言った方が正しい感じだ。
力は冬樹の降りる駅よりも、もっと先の駅で乗り換えるのだという。
話し掛けられれば答えはするが、冬樹は特に力を意識することなく普通にいたので、会話は途切れがちだった。
だが、昼休みの件以降、心なしか力は静かで少し元気がないように見えた。
いつも程、自己主張をして来ないのだ。
それはそれで、冬樹にとっては都合が良かったのだが。
(…昼休みのアレで毒が抜けたのか?)
などと、気楽に受け止めていた。
冬樹が降りる駅の一つ手前の駅を電車が出発した時、ずっと黙っていた力が、ふと思いついたように口を開いた。
「なぁ…冬樹」
「………?」
ドア横に立って車窓から外の景色を眺めていた冬樹は、声を掛けられて視線をチラリと力の方へと向ける。
「お前さ、あの別荘で親父達が何をしていたか、知ってるか?」
「え…?」
突然の思いもよらぬ話題に、冬樹は目を丸くした。
「何を…って…」
冬樹は瞬時に過去の記憶を振り返ってみたが、よく分からなかった。
と、言うよりも、そもそもそんなこと考えたこともない。
子どもの目線としては、難しい『仕事の話』をしている程度の認識でしかなかったのだ。
冬樹が小さく首を横に振ると、力は静かに「…そうか」と、頷いた。
「あの別荘に沢山の温室があったのは覚えているか?」
「あ…ああ…」
広い敷地内にガラス張りのしっかりした温室が幾つか建っていたのは記憶にある。
「あれは、全て薬草園なんだ」
「やく…そうえん…?」
「そう。一つだけ母が育てているハーブの温室もあったが、殆どは薬草だ。野崎のおじさんと親父は、ずっとあの別荘で新薬の開発をしていたんだ」
「新薬…」
冬樹は驚きの眼差しで力を見た。
(そう、だったのか。知らなかった…)
初めて聞く話しに冬樹が呆然としていると、もうすぐ駅に到着するアナウンスが車内に流れ始めた。
冬樹は減速していく電車を気に掛けながらも、訝し気に疑問を口にした。
「でも、何で今…突然そんな話をするんだ?」
すると、力が思いのほか真面目な顔で言った。
「その薬を完成させたのは、お前の親父さんだった。お前を狙っている奴等が探しているのは、そのデータなんだ」
父さんの開発した新薬のデータ。
それを大倉達が狙っていた…?
別れ際に力から聞いたその言葉が、ずっと頭から離れずにいた。
冬樹は、バイトを終えると『ROCO』を後にする。
だが、その足取りはどこか重い。
(今日は、何だか最悪だった…)
気付けば仕事中だというのに、ついつい考え事をしてしまい作業の手が止まっている、声が掛かっているのにお客様への反応が遅れてしまう…等、多くの失態をおかしてしまった。直純先生は『何かあったのか?大丈夫か?』…なんて心配してくれていたけど。
(お店に迷惑掛けてちゃダメだ…。仕事なんだから、もっと気を引き締めないと…)
自らの行動に反省しつつ、若干肩を落としながら賑わう夜の街を一人ゆっくりと歩いていた。
すると、突然背後から肩をポンッと叩かれる。
一瞬警戒をして、思わず飛び退くように振り返ると、そこには…。
「まさやっ?」
「おうっ。お疲れさんっ」
雅耶が立っていた。
「…今日も…本屋に?」
一緒に歩きながら冬樹が尋ねると、雅耶は曖昧に笑って誤魔化すだけだった。
よく見てみれば、雅耶は今日は手ぶらだ。
(もしかして、わざわざ来てくれた…?とか…?)
そんなことが頭を過ぎったが、それ以上は何も言えず、冬樹も曖昧なままスルーした。
「今日の昼休み…力と何かあったのか?」
「え…?」
「5時限目の授業…お前達少し遅れて来たろ?気になってたんだけど、何だかんだ入って話聞けなかったからさ…」
「あ…ああ。それが、さ…」
冬樹は、屋上でのことを一通り雅耶に説明した。
「………」
雅耶は、まじまじと冬樹を見下ろした。
『複数の上級生に絡まれて…』
そんなことを、何でもないことのように話す冬樹に、雅耶は心配を通り越して呆れてしまう。
それを簡単に『のしてきた』…とか言うのだから参る。
いくら『冬樹』を装っていても、実際のお前は女の子なんだから、もっと自分を大切にしろよっ!…と、言ってやりたかった。
(まったく…。下手に腕が立つから困るんだよな…)
それでもその『腕』で、今まで自らを守って来たのだから、仕方がないか。
そんなことを考えていたら、冬樹が不思議そうに見上げて来た。
(…可愛い顔…)
それも、トラブルに巻き込まれやすい所以なのだろうけれど…。
冬樹のアパートへと向かって二人、ゆっくり歩いて行く。
駅前から離れ、静かな住宅街へと入ると、ひらけた夜空には満月に近い大きな月が現れた。
(…そう言えば、もうすぐ中秋の名月だって新聞に出てたな…。まだまだ暑いけど、もう秋なんだな…)
月を見上げながら雅耶がふと…そんなことを考えていると、暫く無言で何かを考えている風だった冬樹が静かに口を開いた。
「今日の帰り…さ、力が…突然変なことを言い出したんだ…」
考えながら話すようにぽつりぽつり…と言葉を続ける冬樹に、雅耶は視線を空から冬樹へと移した。
「…変なこと?」
「ああ…」
冬樹は、帰りの電車内での力の話を雅耶に説明した。
「…新薬…か」
「うん…。突然、そんなことを言い出すなんておかしいだろ?新薬の開発のことを知ってるのは分かる。でも、何でそれが狙われてることまで、あいつが知ってるんだ?…って…」
(確かにそうだ…)
雅耶は疑問に思ったことを、冬樹に尋ねた。
「大倉達にお前が狙われたことまで、あいつは知っていたのか?」
「いや…言い回しは『オレを狙ってる奴等が探していたのは…』みたいな感じで、大倉の名前とかは…。でも、オレがデータを理由に狙われていることは知ってるみたいだった」
冬樹は記憶を手繰るように口元に手を添えて、下を向いた。
「それ以外には、何か言ってたか?」
「それが…。その後すぐ駅に着いてしまって聞けなかったんだ…」
「何で、そんな話になったんだ?」
「…分からない。急に…あいつが話を振って来て…」
「……そうか…」
思わず、知らず知らずの内に足を止めていた二人は、お互い少しの間を置いて顔を見合わせると、どちらからともなく再びゆっくりと歩き出した。
「ずっと考えていたんだ。その話が本当なら…そんな薬のデータを何故、暴力団関係者なんかが欲しがるのか。わざわざ誘拐を企てまで手に入れようとするって、余程の物でないと有り得ないと思うんだ。それだけの何か秘密があるのか…。その理由が何なのかなって…」
「…そうだな…。例えば、すごく画期的な薬で儲かるから…という金目的か。あるいは…」
雅耶の言わんとしていることを理解して、冬樹は頷いた。
「…何か、危険なもの…とかでなければ良いんだけど…」
(もしかして、それがお父さんの『罪』…なのか?)
冬樹は、少しへこんでいるようだった。
(確かにそう考えると、おじさんが作ったというその薬も…何かヤバイ臭いがしないでもないけど。でも、力の話もどこまで信用していいものか、微妙なとこだよな…)
今は何とも言えない気がした。
雅耶は、思いに沈んでいる冬樹の頭の上に掌をポンッ…と乗せると、気持ちを切り替えるように明るく言った。
「今、分からないことを悪い方に考えてても仕方ない。とりあえず、明日アイツに詳しい話を聞こうぜ?まずは、それからだ」
「…まさや…」
不安げな瞳を向けてくる冬樹に。
雅耶は「なっ?」…と、安心させるように笑顔を向けた。
「……ああ。そう、だな…」
冬樹は頷きながら、自分に言い聞かせるように呟くと。
照れたように微笑みを浮かべた。
「でも、よくよく考えたら、詳しい話を聞くならやっぱり力の親父さんに聞くのが一番早いと思うんだよな。一緒に開発していたのなら薬のことも全て理解している筈だろうし…」
雅耶が何気なく言った。
「そう、だな…」
「あれ?でも、それなら…力の親父さんの所にそのデータもあると考えるのが普通なんじゃないのか?」
「………」
そんな雅耶の言葉に、冬樹は瞳を大きく見開いた。
(…確かにそうだ。本当なら神岡のおじさんが、その薬のデータの在処を知っていてもいいはずだ。もし、実際は知らなかったとしても、まずおじさんの所から大倉達は何らかの接触を試みるに違いない。でも、何だろう…。何か…)
冬樹は何だか嫌な予感が頭を過ぎっていた。
以前、あの崖で力が言っていた言葉が突然思い浮かぶ。
『野崎のおじさんの転落事故。…あれは、ただの事故なんかじゃない。あれは仕組まれたものだ…』
あの事故は、あの別荘の帰り道で起きた。
力と…恐らく神岡のおじさんの乗った車の目の前で…。
だからと言って、それが直接どうこうという訳ではないけれど。
(もしかしたら…事故のことも、おじさんは何か知っているのかも知れない…)
今まで思いもよらなかった考えが浮かんで、冬樹は思わず身ぶるいした。
その時。
「ま…やっぱり、まずは明日力に聞いてみて、それからだなっ」
そんな思考を打ち消すような雅耶の声に、冬樹は我に返ると、思わず力んでいた肩の力を抜いた。
(今は、これ以上考えないようにしよう。雅耶の言うとおり、悪い方へ考えが行きがちだ…)
冬樹は気持ちを落ち着けるように小さく息を吐くと、月の浮かぶ夜空を見上げた。