17‐2
本鈴が鳴る前に、その噂の教師はグラウンドに姿を現した。
溝呂木は、冬樹を見るなり傍まで近付いて来ると、
「久しぶりだな…野崎。まさか、お前のクラスだったとはな…」
そう、声を掛けて来た。
「………」
とりあえず、冬樹は波風を立てないように小さく会釈を返す。
そんな冬樹の様子に溝呂木は満足げに微笑むと、去り際に冬樹だけが聞こえる程の小さな声で呟いた。
「…充実した時間になりそうだ…」
(…怖っ!!コイツ…まさか何か企んでるのかっ?)
暑い日差しの下なのに、思わず鳥肌が立ちそうだ。
溝呂木は、そのまま前へと戻ると全体に向かって集合の号令を掛けている。
(…本当に嫌な予感しかしない…)
冬樹は小さく溜息を吐くと、少しだけ肩を落とした。
そんな様子をずっと後ろから見ていた雅耶は、心配げに冬樹のその背を見詰めるのだった。
危惧していたのとは裏腹に、その体育の授業は特別問題はなかった。
とは言っても、体育祭の競技の説明から始まり、リレーメンバーを決める為の100m走タイム録り。そして、その後すぐに暑い中での1500m走タイム録り、及びメンバー決め。そのどちらのメンバーにも入れなかった者には、腕立て伏せ50回&腹筋50回の罰ゲーム付きという、若干その内容はハードなものであったが。
冬樹は両方走り終わった後、乱れた息を整えながらぐったりと座り込んでいた。
(ダメだ…。流石に1500はキツイって…。男子に敵う訳ない…)
はぁはぁ…と苦しげに呼吸を繰り返しながら、男と女の体力の違いをその身に感じていた。それでも、クラス内で中の下辺りの順位には入っていたのだが。
とりあえず、100mの記録は割と早い方だったので、リレーのメンバー入りを果たし、魔の腕立て&腹筋は免れることができた。
腹筋はともかく、腕立ては50回も続けられる自信がない。
(リレー参加とかめんどくさいけど、腕立てよりはマシだったかも…)
横で腕立て&腹筋を汗だくでやらされている十数人の集団を横目で見ながら、冬樹は溜息を吐いた。
最初の方は、ニヤニヤとこちらを眺めている溝呂木の目が気にならない訳ではなかったが、後半は、もうそんなことを気にしている余裕すらなかった。
(特に何もなくてホッとしたけど…。あいつ、やっぱり鬼畜だ。何にしても、無事この授業が終わって良かった…)
出来ればもうこの教師には関わりたくない、としみじみ思う冬樹だった。
「なぁ、アンタ。そこで何してるんだ?」
授業終了後、皆が校舎へと戻っていく中、力はある植え込みの陰へと足を向けた。そこには、突然声を掛けられてギョッとしている生徒が一人。咄嗟に後ろ手に隠したのは、望遠レンズの付いたカメラだった。
「それってカメラだろ?隠し撮りしてたのか?…何を撮ってたんだ?」
力は、他の人には気付かれないように自分も植え込みの傍でしゃがみ込むと、質問に答えるまで逃がさないという態勢で聞いた。
「あ…あれー?良く気付いたねっ。キミ、なかなか鋭いな…」
慌てながらも、周囲に他の人がいないのを確認すると、その生徒は小声で人差し指を口元に当てた。
「でも…悪いんだけど、このことは秘密にして貰えないかな?公にするとマズイんだっ」
よく分からないが、力はとりあえず頷いておいた。
「…実は、僕は写真部の者なんだけど…体育の溝呂木先生の依頼を受けていたんだ」
「え?それって…さっきの先生か?」
「そ。これバレると大問題になっちゃうからホント秘密だよっ」
力はとりあえず、再び頷いた。
「キミって…1年A組のウワサの転入生でしょ?写真部で販売してる写真って買ったことある?」
その生徒は、学年別に色分けされた校章マークを見る限りでは、二年生の生徒らしかった。
「何で俺のこと知ってるんだ?アンタ二年生だろう?」
当然の疑問を口にするが、その生徒は笑って言った。
「写真部は新聞部との連携があるからね。学校のニュースとかは大抵耳に入って来るんだよ。それに、キミ…転入早々野崎くんに告白したんだろ?」
その言葉に。
「はァっ?してねぇしっ!!どういうニュース流してんだよっ」
思い切り動揺しながら答えると、その二年生は笑った。
「ハハハ、冗談冗談。でも、野崎くんに会いに転入してきた奴がいるって噂で持ちきりだったんだぜ?」
「ふ…ふーん…」
とりあえず、自分のことが話題になってるのは悪い気がしない。
「…まぁ、それは置いといてだな、販売してる写真って何だ?」
「ああ、見たこともないかな?写真部では、人気のある生徒のブロマイドとか売ってるんだけど…」
「人気ある生徒って…男のかっ?」
思い切り引いている力の反応に、その生徒は頷くと、
「うん。こういうのは男子校ならではだよね。何て言うか、男ばっかりの学校生活でも潤いが欲しくなるらしくて。特に付き合うどうこうっていうのはあまり聞かないけど、やっぱりアイドル的な存在とかは出てくる訳なんだよ」
「そ…そういうモンなのか?よく、分からないが…」
怪訝そうな顔をしている力に、その生徒は何処からか写真を数枚取り出して見せた。
「これとか今人気のやつだよ」
「って!これ冬樹じゃんかっ!!」
渡された写真は、見たこともない程鮮やかな笑顔の冬樹やら、窓際の席で佇んでいる冬樹などで、力は密かに衝撃を受けていた。
「うん、その野崎くんなんだけど…。話し戻ると、溝呂木先生が彼のファンでね。…これはある意味、成蘭の生徒達の中では既に有名で皆に知られてる話ではあるんだけど、実際にこの写真も誰かを通じて溝呂木先生の手に渡っちゃったらしくて、先日溝呂木先生が写真部に乗り込んで来て、問題になっちゃったんだ。でも、部長と1対1で話し合いの席を持った結果、何と先生が学校側には問題に出さないでやる代わりに依頼を受けて欲しいって言って来たらしくてさ。極秘任務でこれを遂行すれば、今後の写真部の活動には目を瞑るっていう話しだったんだって」
「…教師の風上にも置けない奴だな。もしかして、それで冬樹を撮ってたのか?」
「察しが良いね。その通りだよ」
その生徒は肩をすくめて見せた。
「僕のクラスの授業は、5時限目自習だったんだ。だからこっそり許可が下りてさ。勿論、他の先生達には秘密なんだけど…」
「ふーん…。ところで、その撮った写真って見れるのか?」
どんな写真を撮ったのか興味が湧いて、力は控えめに聞いてみた。
「ああ、うん。デジカメだから見れるよ」
その生徒は横からカメラを差し出して見せてくれた。
先程の体育の授業中のものなのだから、流石に笑顔などの写真はないだろうとは思ってはいたが。
「………」
力は、言葉が出て来なかった。
笑顔とはまた違った、真剣な顔や、妙に苦しげな冬樹の表情など…微妙に惹かれる写真だった。
「…結構マニアックだろ?あの先生はドSで有名なんだ。だから、きっと写真もこういうのが趣味なんじゃないかな。笑顔の写真ばかりじゃ甘いって駄目出ししてったらしいし…」
そう話す生徒の言葉に頷きつつも、カメラの画面から目が離せない。
僅かに頬を染めながら急に静かになってしまった力を見て、その生徒は笑った。
「あれ?もしかして気に入っちゃった?もし欲しいなら写真プリントしたら届けてあげようか?その代わり、今回のことは本当に秘密だよっ。約束守ってくれたら口止め料として、写真で良ければ好きなやつタダであげるよ?」
「ほ…ホントか?」
「勿論だよ。それ位ならお安い御用さっ。やっぱり野崎くんが良いの?今売ってるので良ければ、さっきの4枚ともあげるよ。こっちのカメラの中のは後で持ってくよ」
「お…おぅっ」
力は、先程の冬樹のブロマイドを4枚とも受け取った。
「あ、でも今日の授業のは、くれぐれも門外不出だよっ。基本的に授業中のは皆には売れないからね。溝呂木先生に渡す分と、キミにだけの特別サービスだよ。…それで良いかな?」
その生徒の言葉に、力は思いきり親指を立ててOKサインを出した。
交渉成立すると、お互い軽く挨拶を交わして、満足気にその場を離れた。
だが、もうすぐ6時限目が始まる時刻なのに気付き、力は慌てて校舎へと走って行くのだった。
ある朝、冬樹が学校へ向かう途中。
電車を降りた所で突然後ろから肩をトントン…と、叩かれて振り返った。
だが、そこにいたのは意外な人物で、冬樹は思いのほか驚きの表情を見せた。
「えっ?ちから…?どうしたんだ?お前…」
「おはよ、冬樹っ」
笑顔で挨拶の言葉を口にする力に、冬樹は我に返ると自分も挨拶を返す。
「電車で来るなんて珍しいな。…何かあったのか?」
お互い人の流れに沿いながら改札へと向かって歩き始める。
「ああ、いや。俺もこれから電車通学しようかと思ってな」
平然と笑う力に、以前乗り換えが多くて不便そうなことを言っていたことを思い出して、冬樹は首を傾げた。
「…学校から何か言われたりしたのか?」
「いや?ただ、まぁ…流石に車通学は目立つしな」
そう言ってさり気なく定期をポケットから取り出す力を見遣りながら、
(…そんなの今更だろ…?)
冬樹は思ったが、特に口には出さなかった。
(こういうのも、なかなか新鮮でいいじゃないか)
友人と何気ない話をしながら、学校へと向かう通学路。
そういうものが、初めてだった力は感慨深げに心の中で浸っていた。
(そして、その相手が冬樹ならば尚更乙と言うものだ)
先日、思わぬことがきっかけで冬樹のブロマイド写真なるものの存在を知り、目にして実際手に入れてからというもの、自分の中で何かが変わって行くのを力は感じていた。
手に入れた冬樹の写真を自室の机の上に並べながら見ていて、まさか他人の男の写真をこんな風に自分が眺める日が来るなんて思ってもみなかったのだが。
(全く想定外だ。ある意味、世も末的な感じもするが…それも面白い。何にしても男子校、恐るべし…だ)
そう思いつつも、冬樹は自分にとって特別な位置づけにいるのだと力は考えていた。
その姿は、今は亡き愛する夏樹と生き写しなのだから。
そして、力はそれらの写真を眺めながら、次第にもっと色々な冬樹の表情を見てみたいと思うようになっていった。
あの溝呂木という教師のように、笑顔だけでは物足りないのだ。
困らせるのも良い。少しぐらいなら怒らせるのも良いだろう。
泣き顔なんかもきっと綺麗に違いない。
他の者が聞いたらきっと引くであろう、そんな考えを胸に。
力は、隣を歩く冬樹の横顔をそっと、心の中でほくそ笑みながら眺めるのだった。