2‐1
暖かい春の日差しが降り注ぐ、駅前の噴水広場。
そこは、沢山の木々や草花が植えられた広い公園になっており、噴水を囲むように置かれた数あるベンチは、殆ど空きが無い状態で、多くの人々の憩いの場となっているようだった。
噴水のふちに座っていた冬樹は、持っていたアルバイトの情報雑誌を横に放ると、ひとつ溜息をついた。
「あーあ…」
(探してみると、無いもんだな…アルバイトなんて。どうしよう…)
良く考えたら、自分はまだ…16にもなっていない。
(考えがちょっと甘チャンだったな…)
自分のあまりにも安易な思考に思わず呆れる。
(でも、生活掛かってるし…)
たかだか高校生の身で、たいした額を稼ぐことなど出来ないことぐらいは十分承知している。生活していく上で、今は仕送りに頼るしかないのが現状だとは思う。でも、せめて小遣いの分ぐらいは、甘えず自分で何とかしたいと冬樹は思っていた。
(やっぱり、ドカタか…?)
正直、カネは良い。
(でも、いくらなんでも体力的に問題あるよな…やっぱ…)
流石に限度があるだろう。
(喧嘩なら男並みなんだけどな…)
心の中で考えを巡らせながら、冬樹は前髪をぐしゃり…とかき上げた。
普段は、自分の心の内を見せないように、人前ではポーカーフェイスを保っている冬樹だったが、今の彼は端から見たらとても表情豊かだった。心の中での自問自答に顔をしかめたり、げんなりしたりしている。勿論、誰もそんな彼を知る者はいなかったが…。
冬樹は一呼吸置くと、ずっと背にしていた噴水を振り返ると、暫く何を思うでもなくボーっと眺めた。
ザアザアと吹き出す水の飛沫が陽に照らされてキラキラと光っている。眩しい位だった。その光の向こう側を、同年代位の女の子達が会話を弾ませながら楽しそうに通り過ぎていった。
その様子を何気なく視界に入れながらふと、思わぬことを考える。
(いっそのこと、夜だけ女に戻る…とか?)
ものすごく、金はいい。勿論、業種にもよるが…。
だが、思わず女の格好をして愛想笑いを浮かべる自分を想像しかけて…やめた。
(だめだ、想像すんのもヤダ…。それこそ自殺行為だって…)
冬樹は、ひとり脱力した。
(少し、歩いてみるか…)
気を取り直して、駅前の繁華街を散策してみることにする。
繁華街は、多くの人で賑わっていた。
子どもの頃は、あまり歩いたことのない裏通りに入ると、最近流行のお洒落なカフェやレストラン、カラオケ店などが数多く建ち並んでいた。
探検も兼ねて、それらの店先に貼ってある求人募集などを何気なくチェックしながら冬樹が歩いていると、ある路地に差し掛かった時、奥から不穏な声が聞こえてきた。
「やめてくれっ」
気弱そうな眼鏡を掛けた男が、壁際で三人の男達に取り囲まれている。見た限りでは、皆高校生ぐらいだろうか。
「頼むから、暴力はやめてよっ」
眼鏡の男は小さなバッグを胸に抱え、逃げ腰で後ずさるが、二人の男がその後ろに回り込む。
「ハハハッ。なーに言ってんだよ、西田くんー。俺らは別に、お前をいじめようってんじゃないんだぜー?」
正面に立っている主犯格らしい男がワザとらしくおどけて言うと、
「そうそう」
後ろの二人も嫌な笑いを浮かべた。
次の瞬間、主犯格の男は、当たり前のように眼鏡の男の腕の中にあるバッグを力ずくで奪うと、その中から慣れたように財布を抜き取った。
「あっ」
「大人しく金さえ渡してくれればいいんだよッ。…いつも通りなッ」
そう言って、その財布を取ったことを誇示するように、財布を持った右手を上げてみせた。それを見た後ろの二人も満足げに、
「へへへ…そういうこった」
そう言って下品な笑いを浮かべた、その時。
男が持っていた右手から、財布は消えていた。後ろから素早い動作で奪われたのだ。
「なっ!?誰だッ!!」
主犯格の男が慌てて振り返ると。
そこには、涼しい顔をした少年が立っていた。
明らかにイジメの現場。
冬樹は、そういったものが大嫌いだった。
冬樹自身が小学校時代、よくいじめられる対象にされていたから…と、いうのもある。家族を失ったこと…それは、冬樹のせいでも何でもなかったが、子供達の間でのからかわれる要素としては、打って付けだった。
からかいがエスカレートしてくるとイジメになっていく。
そして、そういった類の者達は必ずしも一人ではなく、いつだって数人で連れ立ってやってくるのだ。
(3対1…か。卑怯な連中だ…)
思わず足を止めて眺めてしまっていた冬樹だったが、ひとりの男がお金を巻き上げようと財布を奪った時点で行動に出ていた。
「テメェ…やる気か?」
思わぬ隙に逆に財布を取られて、男は悔しそうに身体を震わせた。何より、その相手が自分より小さく線の細い少年だったのが、余計に男の気持ちを逆なでした。だが、主犯格らしい男は腕に自信は無いのか、ただ冬樹を睨みつけるだけだった。
「何だァてめぇはッ!!」
思わぬ邪魔が入って、残りの二人が前に出てくる。その際に、バッグを奪われた眼鏡の男は一人のゴツイ男に押し退けられ、壁にぶつかると地に倒れ込んだ。
「このチビ!俺達にタテつく気かァ?」
「ハハハッやめとけ、やめとけッ。坊ちゃんには百万年はえーぜッ」
無言でその場に立っている冬樹を『強敵』では無いと判断したのか、男達は馬鹿にした様子で冬樹に詰め寄った。
「今なら間に合うぜ。さっさとその金、こっちによこしなッ」
凄んで詰め寄られても、冬樹は冷静だった。
三人の男達の後ろで、解放された眼鏡の男がそろりと立ち上がり、今にも逃げようとしてこちらを伺っている。
「………」
冬樹はその一瞬を狙って、詰め寄ってくる男達の僅かな間を通すように素早くその男に財布を放り投げた。
「あっ…」
咄嗟にそれを受け取った眼鏡の男は、その瞬間…また男達の視線が自分へと戻り、青ざめた様子で固まってしまうが、
(行きなよっ)
冬樹が声に出さず、手振りで合図すると慌てて表通りへと駆け出した。
「あっ!!テメーッ西田!!」
あたふたと逃げていく眼鏡の男は、西田という名だったらしい。
男達は大事な金づるを逃して、一気に殺気立った。
「テメェ…ナメた真似しやがって…」
「俺達をバカにしたらどうなるか、思い知らせてやるぜッ」
「おっと!」
突然、路地から飛び出してきた男にぶつかりそうになって、ある人物は足を止めた。飛び出してきた眼鏡の男は、妙に慌てた様子で、頭だけ下げるとそのまま人混みの中へと駆けて行ってしまった。その様子を呆然と見送っていたが、ふと…その路地裏にまだ数人溜まっている事に気が付く。
雰囲気で察するに、何だか揉めている事だけは分かった。
(何だ?喧嘩…か?それともイジメ…?)
傍観しているうちに、いよいよ殴り合いへと発展する。どうやら一人の少年に対し、三人で取り囲んでいるようだ。
(何にしても3対1とは卑怯な…)
それも、一人で応戦している少年は、三人の男達に比べて随分可愛らしい感じの少年で…。
(いや、でもいい動きしてるな…)
ゴツイ男の重そうなパンチを上手く受け流すその動きはなかなかだ。だが…。
(ん…?あれは…)
その少年の顔がよく見えるようになって、思わず固まった。
(…冬樹…?冬樹じゃないのか?)
冬樹は、思いのほか苦戦していた。
ある意味、喧嘩慣れしている冬樹ではあるが、流石に自分よりひとまわりもふたまわりも大きな奴の力は半端ではなく。それが、三人相手とならば尚更だった。持ち前の瞬発力を発揮しようとも、狭い路地で三人に取り囲まれていてはどうしようもない。
「くっ!!」
一人の男のパンチを掌に受けて、その腕を捻って封じているその隙に。
もう一人の男が、冬樹の背後から叩きつけるように両腕を振り下ろしてきた。
「あぶないッ冬樹!!」
その突然の声に目を見張った瞬間だった。
冬樹の背後にいた男が、ドカッという鈍い音とともに地に倒れ込んだ。
(え…?だ…誰…?)
足元に倒れ込んで気絶しているその男を見て、冬樹は驚愕した。一撃でやっつけたその鮮やかさは勿論のこと。
(今…確か、オレの名前…?)
その時。
「コラーッ!お前達!こんな所で何してるっ!!」
突然、パトロール中の警官が騒ぎを聞きつけたのかやって来た。
「ゲッ!おまわり!?」
「やべっ!!逃げろッ」
慌てて倒れている仲間を揺さぶり起こすと、男達はバタバタと逃げ出した。
そんな中、呆然と立ち尽くしていた冬樹は、
「こっちだっ」
突然、強引に腕を掴まれると、
「…えっ?」
そのまま手を引かれて、走り出した。
警官もいる手前、この場を離れた方が良いに決まっているのだが。
(ちょっ…ちょっと待て!!なんなんだ、この展開は…)
しっかりと握られた大きな手。
その手に引かれるままに全力疾走で、街中を駆け抜けてゆく。
(この人は、いったい…?)
誰なのだろう。
(カオがよく見えない…)
前を駆けるその後ろ姿は、自分の記憶にはないものだ。だが、土地勘のある人物なのだろう。的確に、迷うことなく何処かを目指しているようだった。
「ここまで来れば大丈夫だな」
駅前通りを抜け、静かな小さな公園へと辿り着くと、そこでやっと繋いだ手を解放された。訳の分からぬまま、手を引かれるまま、必死に走って来たものの、冬樹はすっかり息が上がってしまっていた。
(つっ…疲れた…。この人、かなり鍛えてるな…)
はぁはぁ…と、肩で息をしつつも何とか呼吸を整える。
(あれだけ走って、全然呼吸が乱れていない…)
その目の前の人物は、平然とした様子で周囲を見渡している。背が高い分、足の長さの違いもあるとは思うが。
(それにしても、この人…。何でオレのことを…?)
さっき、確かに呼ばれた名前…。
思いのほか緊張する。
(でも、まずは顔を見ないことには…)
そう思っていた矢先。
「冬樹…」
そう言って、目の前の人物は振り返った。
「お前、野崎冬樹だよな?」
(え…?)
振り返った人物は、二十代前半…といったところだろうか。落ち着いた茶色の髪をふんわりと横に流した、柔らかい印象の人物で、冬樹からすれば自分とは違う『大人の男の人』以外の何者でもなかった。
カジュアルなシャツにループタイ。Vネックのニットにスラックス。それらをお洒落に着こなす雰囲気は、社会人というよりはどこか大学生っぽい。
冬樹は、目の前の人物を自分の記憶の中から探そうと試みるが、なかなかそれらしい人物は出てこなかった。
(…だれ…?何処かで会った…?)
内心で混乱する冬樹を知ってか知らずか、目の前の人物は優しく微笑むと言葉を続けた。
「大きくなったなぁ。でも、お前だとすぐに分かったよ。あまり変わってないな…」
そう言って、悪戯っぽく笑った。
(…え?大きくなった…???)
ますます混乱は大きくなる。
「でも、知らなかったよ。お前がこの町に戻ってたなんて…。みんな心配してたんだぞ。お前…道場にも顔出さずに、だまって行ってしまったから…」
(あっ!もしかして…?)
『道場』という言葉にハッとする。
「直純先生…?」
今頃分かったのか?…と、突っ込まれるかな?とも思ったが、直純先生は、気を悪くする風でもなくにっこりと笑うと、
「そう」
と言って、頷いてくれた。
直純先生こと…中山直純は、空手道場の息子だ。
冬樹達が通っていた頃、まだ彼は高校生の身でありながら、既に実力ある有段者で、子ども達にもよく稽古をつけてくれていた。怒らせれば怖いのだが、普段はとても優しい先生で、子ども達の目線になって教えてくれるので人気もあり、直純の周りはいつでも子供たちで溢れていた。
兄の冬樹も…入れ替わって通っていた夏樹も、二人とも大好きな先生だった。
だが、昔は短髪で、思いっきり体育会系な雰囲気だったので、目の前にいる人物とはあまりにも違い過ぎて全然分からなかった。
「元気だったか?」
「あ…はい…」
昔と変わらない優しい瞳を向けてくる直純に、冬樹は思わず素になって応えていた。
「でも、さっきはびっくりしたぞ、冬樹…。お前が喧嘩してるなんてなぁ…」
そう言われて、冬樹はハッとした。
(いけない!!ダメだ、気を抜いてたら…)
素に戻ってしまっている自分に気が付き、内心慌てていつもの無表情の仮面を貼り付ける。意図的に無表情を装っている訳ではないのだが、それは『冬樹』である為の夏樹なりの身の守り方だった。
(知ってる人なら、尚更だ…。油断するな)
他人を深入りさせない為の牽制。
そして、自分自身への戒め。
突然、感情を隠すかのように表情を消した冬樹の様子の変化に、直純はすぐに気が付いた。だが、
「まぁ…そんなことはどうでもいいが…」
そう言って、変わらず笑顔を向けながら話題の切り替えを試みようとした、その時だった。
「あっいたいた!!中山さーんっ!!」
その大きな声に、言葉は遮られてしまった。
二人が声のする方を振り返ると、公園に面した通りから直純に向かって手を振る一人の中年男性がいた。その男は、大げさな程に心底くたびれた顔をして、こちらに近付いて来た。
「もぉーっ!どこ行っちゃったかと思いましたよーっ。いきなりいなくなっちゃうんだからーッ」
「あぁ…ごめんごめんッ。忘れてた…」
直純は、頭を掻きながら苦笑いを浮かべている。どうやら、直純の知り合いだったようだ。
二人が話を始めたので、冬樹は邪魔にならないようにこの場をそっと離れようとした。が…、
「冬樹」
それに気付いた直純が、冬樹の背に声を掛けてきた。
「もっとゆっくり話をしたかったんだが、約束があるんだ」
「………」
冬樹は、何も言わずに直純を振り返る。目が合うと、
「また…今度な」
そう言って、優しい笑顔を向けてくる直純に。冬樹が小さく頭を下げると、それを見て直純は笑みを深くした。
「あと、これ…。お前のだろ?」
さっき拾ってきた…そう言って渡されたのは、先程まで持っていた求人雑誌だった。
(あ…すっかり忘れてた…)
あの路地で落としていたものを、逃げる際に咄嗟に拾ってきたのだろうか?
(さすが直純先生…。すばやい…)
心底、感心してしまう冬樹だった。
「あと、これも…」
そう言って、素早くペンを取り出すとサラサラと何かを書き出した。
「はい」
そう言って雑誌の上に乗せられたのは、小さな名刺だった。
「今度この近くで店をやることになったんだ。これは、俺の名刺…」
直純は軽くウインクすると、
「今度遊びにおいで」
そう言って、「またな」…と笑った。
直純と別れた後、冬樹はそのまま家へ帰ることにした。
再び、賑わっている繁華街を通り抜けていく。
(何だか、疲れたな…)
カツアゲの現場に首を突っ込んだのは自分だから、これは自業自得。仕方はないが…。
(まさか、直純先生に会うなんて…)
本当に驚きだった。
(この町に戻ってきた以上は、今日みたいなこともあるんだな…)
今更ながらに、改めてそれを実感する。嬉しいような、気まずいような…複雑な気持ちだった。
(でも、昔のようには戻れないから…)
冬樹は人混みの中、一人ひっそりと溜息をついた。
ふと、先程渡された名刺が気になって、冬樹は歩きながらそれを手に取った。
どうやらお店の名刺らしい。だが、一般のサラリーマンが持っている名刺のような硬いイメージとは違って、随分とお洒落なつくりになっている。
『Cafe & Bar ROCO』
(へぇ…カフェバー…?)
『master 中山直純』
(直純先生がマスターなんだ…?すごいな…)
心の内で感心しながら、ふと何気なく裏をめくると、裏にも店への簡単な地図などが書いてあった。その余白には直筆で小さく何か文字が書いてある。
(そういえば、先生…さっき何か書いて…)
そう思い出したところで、冬樹は思わず足を止める。
『アルバイト大歓迎!』
そこには、そう書かれていたのだ。
冬樹は、手に丸めて持っていた求人雑誌に視線を移す。
(もしかして、オレがアルバイト探してるって気付いたから…?)
『またな』と笑った、先程の笑顔が浮かぶ。
(これって、社交辞令のようなものだよな…)
本気で雇う気は無いにしても、そんな小さな心配りに。
冬樹は、胸の奥が小さく痛むのだった。