17‐1
ある日の昼休み。
1年A組の5時限目の授業は体育の為、体操服に着替えた生徒達は、昼休みのうちからグランドへ出て来ていた。
「もうすぐ体育祭もあるし、今日はタイムを計ってリレーの選手とか決めるらしいぜ」
向こうでクラスメイト達が話している。
(体育祭…か。正直めんどいな…)
冬樹は、日差しを避けるように日陰でたたずみながら空を眺めていた。
『体育祭』や『運動会』といったイベントは、いままでの冬樹の中ではたいした意味を持たないもので、特に中学時代は一度も参加したことがなかった。小学校の時も、伯父や伯母に観に来て貰うのを嫌い、知らせの手紙を出さずにいたりした。
自分のことで伯父たちの手を煩わせたくなかったから。
だが、逆に運動会の日にも弁当を持ってこない子供として先生を困らせ、後々問題になって伯父夫婦に学校から連絡が行ったりで、結局迷惑を掛けてしまったのを覚えている。だから、ある意味…自業自得ではあるものの、冬樹にとってあまり『体育祭』『運動会』といったものは、良いイメージがないのだった。
(でも、流石に高校でサボる訳にはいかないってね…)
そんなことを考えていた時。
「冬樹っ。こんな所にいたのか…」
冬樹の姿を見つけて、力がやって来た。
「何してるんだ?」
「…別に。涼んでるだけだよ」
冬樹は特に嫌そうな顔はしなかったが、力が隣に来たことも関係ないとでもいうように、そのまま空を見上げている。
「…なるほど、ね」
力は相変わらずな冬樹の様子に、溜息交じりに笑った。
正直、力は行き詰まっていた。
冬樹の警戒心を少しでも解いて上手く自分の手駒にしようと企んでいたのだが、冬樹はなかなか思うように靡なびかない。
…というよりも『取り付く島もない』といった感じだった。
(こいつ…昔は、もっとフレンドリーな奴だったような気がするのに。まぁ環境の変化が人格も変えちまったのかも知れないが…)
横目で冬樹の様子を伺う。
何より、夏樹を失ったことが一番の打撃なのだろう。
二人は見ていて本当に妬ける位、仲の良い兄妹だった。
(俺だって、夏樹を失ってどんなにショックだったか…。そこら辺はこいつと共有出来る筈なんだがな…)
力は、夏樹を思い出してひとり切なくなった。
(これだけあからさまに態度に表してるのに、コイツも懲りないな…)
冬樹は横からの視線を感じながらも、気のないふりをしながら、ずっと空を眺めていた。
力は『お前に会いに来た』と宣言した通り、何故だか自分について回っている。仲間内でワイワイやってても、気付けばいつの間にか隣にいるような感じで。
(…何を企んでるんだか知らないけど…)
ハッキリ言って、下心があるようにしか見えない。
冬樹が力を毛嫌いするのには、実は理由がある。
勿論、昔…冬樹がまだ『夏樹』であった時に、やたらとしつこく迫られていたのが苦手意識を生んだ大きな要因ではあったのだが、ただ単に漠然と嫌だったという訳ではない。
そこには忘れもしない、ある出来事があったのだ。
(今思い出しても、おぞましい。…コイツに騙されて、オレは…っ)
それを思い出すだけでも、怒りで思わず腕に力を込めずにはいられない冬樹だった。
それは、例の別荘で一緒に遊んでいた時のこと。
『なぁなつきー、おれ、お前にプレゼントがあるんだー。ちょっと目ェつぶっててくれよ』
力は両手を後ろにして何かを隠し持っているようだった。
夏樹は、疑いの眼差しで見詰めた。
『そんなこと言って…ヘンな虫とかそういうのじゃないの?』
『バカだなー、なつきにそんないやがらせ…おれがするワケないじゃんっ』
何故だか胸を張って言うから。
『ほんとに…?こわいものとかだったら知らないからねっ』
夏樹はおそるおそる目を瞑った。
『んーじゃあ、手ェだして♪』
そう言われて、小さく両手を差し出した。
すると…。
チュッ。
…と。
唇に不思議な感触があった。
まだ小さな子どもながらにも、流石にそれが何か解ってしまった夏樹は、大きく飛び退いた。
『なっ…なっ…』
(いまのって…もしかして、チュー??)
動揺して真っ赤になりながら、両手で口元を押さえている夏樹に。
力は満足気に飛び上がって喜んだ。
『へへへっ♪なつきのはじめて、もーらいっ♪』
そう言って、逃げていく力の後ろ姿を呆然と見送って…。
夏樹は暫く、その場に立ち尽くしていたのだった。
(…思い出すだけで、虫唾が走る…)
冬樹は小さくこっそり溜息を吐いた。
そう、夏樹のいわゆるファースト・キスは、その時力に奪われてしまったのだ。
「えっ?何?…何で突然そんな怖い顔してるんだ?冬樹っ?」
思わず自分でも気付かない内に恨みがましく力を睨んでしまっていたようだ。
「…別に…何でもない」
冬樹は力から目を逸らすと、何気なく校舎に設置してある時計を見る。
もうそろそろ5時限目の予鈴が鳴る時刻だった。
(今のオレは夏樹じゃないんだ。もう、そんな昔のことは忘れろっ。それこそ、そんなのいつまでも引きずってたら、いつかボロが出て力にバレ兼ねない…)
出来る限り夏樹としての苦手意識を忘れようと、冬樹は自らに言い聞かせていた。
そうしている内に、雅耶が向こうからやって来た。
「おっす、冬樹っ」
「雅耶…」
やっと力と二人きりの状態から解放されるとあって、冬樹は内心でホッと胸を撫で下ろす。
「もう用事は済んだのか?」
「ああ。でも、なかなか顧問の先生が捕まらなくてさー。まいったよ…」
冬樹は雅耶の方に意識を向けると穏やかに話し出した。
力はそんな様子を、その横でジッ…と眺めていた。
(やはり『雅耶』は特別って感じなんだな…)
別段笑顔でいる訳ではないが、目に見えて冬樹の表情が柔らかい。
それに、もう…こちらを見向きもしない。
(…何か、面白くないな。こう、あからさまに態度に違いを出されると、流石に傷付いちゃうぜ…)
昔から冬樹達兄妹はそうだった。
冬樹も夏樹も、一緒に遊んでいても何かと会話の中に『まさや』が出てくるのだ。
『こないだ、まさやがねー』
『そういえば、まさやが…』
『まさやなら、そんなこと言わないのにー』
二人とも口を開けば、『まさや』『まさや』『まさや』。
会ったことのない『まさや』にどれだけ嫉妬していたか。
(…まぁ雅耶だって、実際に会ってみたら別に悪いヤツじゃなかったがな…)
でも、やはりこの差は気にくわない。
そんなことを思いながらも、力はそのまま二人の会話に耳を傾けていた。
そこへ、何故だか興奮気味の長瀬がこちらへ駆けてやって来た。
「大変だよーっ冬樹チャンーッ!!」
「長瀬?どうしたんだよ、慌てて…」
冬樹も雅耶も首を傾げる中、長瀬が息を切らせながら言った。
「今日の体育、森川が休みなんだってっ!」
森川とは、体育担当の教師の名である。
「…それで?何が大変なんだよ?」
雅耶が聞くと、長瀬が得意げに「聞いて驚くなかれっ」と前振りを入れた。
「それがさぁ、何とっ!代理であの溝呂木が入るらしいんだよっ」
「……へっ?」
その名前を聞いた途端、冬樹は大きく目を見開くと僅かに顔を引きつらせた。
「…マジか?」
例の柔道部の勧誘事件を目の当たりにしていた雅耶は、心配げに冬樹を見た。
(超!久々にその名前聞いたんだけど…)
ハッキリ言って嫌な予感しかしない。
「…大丈夫?冬樹チャン」
一瞬固まっていた冬樹だったが、長瀬に顔を覗き込まれて我に返ると笑って答えた。
「へ…平気だよ。授業で問題も何も起こりようがないだろうし」
そう言いつつも、何処か自分に言い聞かせてる感は否めない。
その時、授業開始5分前の予鈴が鳴り始めた。
少しずつ生徒が集まってきている中「整列しといた方が良さそうだな」…と冬樹は呟くと、その日陰から出てグランドの中央へと向かって歩き出した。
「…やっぱ、無理してる感じあるよねェ?」
「まぁ、一度痛い目みてるからな。流石に苦手意識はあるだろうな」
長瀬と雅耶が冬樹の背を見送りながら、しみじみと話している。
自然と冬樹の後を追って歩き出した二人に、力もさり気なくついて行きながら、ずっと聞いていても分からなかった疑問を口にした。
「何なんだ?その溝呂木っていう教師…。冬樹と何かあるのか?」
「んー…?何かあるっていうか、あったっていうか…。そいつ、ちょっと厄介なヤツでさー、美少年好きのドS教師で有名なんだよねぇ」
長瀬から語られたその意外な言葉に、力は思わずキョトンと立ち止まってしまうのだった。