15‐3
冬樹達が無事に地元の駅へと到着したのは、既に日も暮れかけた夕食時だった。
駅の改札を出て歩きだした所で、丁度雅耶の携帯が鳴った。
「…ごめん、冬樹。今日親戚が来てて、今この近くで皆で食事してるみたいなんだ。これからそっちに向かわなくちゃいけなくなった」
雅耶は申し訳なさそうに、手を合わせてくる。
「何だ、全然。気にするなよ。逆に今日はあんな遠くまで付き合って貰って、ゴメン…じゃなかった、ありがとなっ」
冬樹は笑って礼を言うと「またなっ」…と、その場で雅耶と別れた。
雅耶は別れ際までずっと冬樹を気にしている様子だったが、家族に呼ばれていることもあり、すぐにその場から移動して行ったようだった。
明るく賑やかな駅前通りを抜けて静かな住宅街へと入ると、夜空に星が見えてくる。
(朝早めに出たのに、結構掛かったな…。電車を乗り継いで行くとあんなに遠いもんなんだな…)
車ではそこまでの距離感は感じなかったのだが、往復するだけでしっかり日帰り旅になってしまった。
(まぁ、山道は殆ど歩きだし。時間掛かる筈だよな…)
結局、帰りは麓まで下りてもバスは無く、駅まで約二時間半歩いた。
だが、雅耶と二人たわいもない話をしながら歩く時間は退屈しなかったし、お互い無言になることはあっても特に苦に思うようなことはないので、終始ゆったりとした時間が過ぎていった。
(こんな気持ちで帰って来られたのは、やっぱり雅耶のお陰だよな。今回、初めて花を手向けることが出来たし…。行って良かった…)
今迄は…今日という日を意識はしていても、両親と兄の『命日』と認めることすら出来ずにいたのだ。
今日のように、あの場へ足を運ぶことは勿論、祈ることすらせず…。
(…ある意味、オレは…何て親不孝なんだろうな…)
冬樹は夜空を見上げた。
夜の住宅街は静かで、各家々の庭先から夏の虫たちの声だけが周囲に響いていた。
「………」
冬樹はゆっくりと足を止めると、不意に向きを変えた。
今日は何だか真っ直ぐアパートに帰りたくない気分だった。
冬樹は自宅への道から外れると、野崎の家の方へと向かった。
人の気配のない、真っ暗な家の前に立つ。
今日は、ライトも何も持って来ていない。
だが、冬樹は迷うことなく鍵を取り出すと、その冷たい扉を開けた。
夜の『家』に入るのは初めてだったけれど、特別怖さはなかった。
明かりのない家の中は真っ暗で、最初は手探りで移動していくが、徐々に目が慣れて来ると雨戸のない窓からの僅かな外の明かりを頼りに歩くことが出来るようになった。
冬樹は一階はしっかり戸締りをしたままで、二階の子ども部屋へと上がって行った。
流石に閉め切ったままでは暑いので、その部屋の窓だけは開け放ち、外からの風を入れるようにする。生温かい風ではあるが、レースのカーテンが僅かに揺れて、見た目だけでも涼しげになった。
冬樹は、肩に掛けていたバッグを床に置くと、二つある内の一方の机にゆっくりと腰掛けた。
赤いランドセルが置いてある、以前自分が使っていた机だ。
冬樹は暫くぼーっと窓の外を眺めていたが、小さく息を吐くと、頬杖をついて隣に並んでいる机に視線を移した。
「ふゆちゃん…。今日、あの場所へ行って来たよ。みんなが眠る、あの海の傍まで…」
ポツリ、ポツリ…と、まるでその席に兄がいるかのように、冬樹は語り続ける。
「でも…何でだろ…。不思議なんだ…」
本来なら、兄も同じようにあの海の何処かに両親と共に眠っている筈だ。なのに…。
「何故か…ふゆちゃんは、あそこには居ないって…そう、思ったんだよ」
冬樹は頬杖を解くと、机の上に腕を組んでうずくまるようにした。
(でも、じゃあ…ふゆちゃんは何処にいるとでも言うのだろう…)
心の中で自分に問い掛ける。
「…可笑しい、よね…」
(ただ、自分がそう思いたいだけ…なのかな…)
誰の返事も返る筈がない、一人きりの暗い部屋で。
冬樹は、そっと瞳を閉じると、祈るように呟いた。
「会いたいよ…。ふゆちゃん…」
日付の変わる少し前。
ある一つの影が、暗い家の中をゆっくりと移動していた。
その影は、暗闇の中も慣れたように階段を上ると、ある扉の前で立ち止まる。
そして、そっとその扉を開いた。
だが、一歩足を踏み入れた途端、普段と違う違和感に気付き、息を呑んで動きを止めた。
誰もいない筈の家の窓が、開いていたのだ。
だが次の瞬間、そこに居る筈もないと思っていた人物を見付け、その影は緊張を解いた。
規則正しい寝息が聞こえる。
その人物は、机に伏せて眠ってしまっているようだった。
その影は、ゆっくりとその眠りについている人物の傍へと歩み寄ると、愛おしげにそっと呟いた。
「…なっちゃん…」
名前を…呼ばれた気がした。
久しく呼ばれていない、その名を…。
『…なっちゃん…』
誰の声か、分からない…。
でも…何処かで聞いたような、優しい…声色。
すぐ傍に人の気配を感じて…。
目を開けようとするのに瞼は重く、思うように開かない。
身体も全然言うことを利かなかった。
(夢…?なのかな…。オレ、今…眠ってる…?)
半分朦朧としている中で、傍に居る人物が動く気配がした。
でも、相手からは不穏なものを何も感じることはなくて…。
自然とどこか安心しきっている自分がいた。
そんな中、そっと…頭を撫でられるような感触がする。
(………?)
その手は、眠っている者を起こさないように気遣うような、本当に優しいもので。
何故だか、泣きたくなる程の切なさを生んだ。
顔に掛かる前髪を優しくサラサラと撫でていく。
本来なら…。
誰だか分からない人物にそんな行為を許すこと自体、有り得ない筈なのに。
でも、何故だか気持ちが落ち着いていて、動く気になれなかった。
(この感覚も、もしかしたら夢…なのかも知れない…)
だって…この手を、オレは…きっと知ってる。
手の大きさも、声も…自分が知っているものとは違うけれど。
だけど、解ってしまった。
だって…。
『なっちゃん』
その名で、そんな風にオレを呼ぶのは…。
すると、その人物が小さく言葉を発した。
「不思議だね…。会いたいなって思ってここに来たけど、まさか本当に丁度いるなんて…。気が合うっていうのか…。偶然って…本当にあるんだね…」
静かに響く、優しい声。
でも、何故だか切ない、寂しげな声。
「なっちゃんには、辛い思いばかりさせて…本当にごめん。でも…あと、少しだから…」
(あと…少し…?…どういう、意味…?)
「あと…もう少しだけ…辛抱して待ってて欲しい…」
その言葉と同時に、触れていた手が離れていく。
(待って…。もう、行っちゃうの…?何処へ行くの?置いて…いかないで…)
必死に手を伸ばしたい。
その去ってゆく手を繋ぎとめておきたい。
なのに…。
やはり、身体は思うように動かなくて。
必死に何とか己の身体を奮い立たせ、出来たことは。
「ふゆ…ちゃん…」
その名を、一言口にすることだけだった。
その人影は、机に伏せて眠っている冬樹からそっと名残惜しげに離れると、そのまま部屋を後にしようと扉へと向かった。
その背中は、何処か寂し気だった。
ドアノブに手を掛けた時、不意に眠っている筈の冬樹が小さく声を発して、思わずビクリ…とその身を固くする。
「ふゆ…ちゃん…」
「……っ…」
背を向けたまま、そっと後方の気配を探るが、未だ規則正しい寝息が聞こえてくることで、それが寝言であることを理解する。
その人影は緊張を解くと、今一度冬樹を振り返った。
眠っているその細い背を見詰めると、小さく呟いた。
「…またね、なっちゃん…」
「………」
不意に目が覚めた。
ハッ…として顔を上げるが、周囲は未だに暗いままだった。
(あれ…?オレ…寝ちゃってた…?今、何時…)
携帯で時間を確認しようとして、思わず床に置いてあるバッグに手を伸ばしかけた所で、不意にある声が耳に蘇って来た。
『…なっちゃん…』
(…えっ…?)
ドキリ…と、心臓が波打つ。
バッグを掴んだ手はそのままに、目を見開いたまま思わず硬直する。
(そういえば、さっき…ここに誰か、いなかったか…?)
冬樹は咄嗟に立ち上がると、後方にある扉を振り返った。
だが、そこは閉じられたままで何の形跡もない。
「………」
『誰か』…じゃない。
ふゆちゃん…だった。
知らず、カタカタ…と震える手で口元を押さえると、冬樹は記憶を手繰るように意識を集中させた。
「…ふゆ…ちゃん…?」
本当は、夢だったのかも知れない…とも思う。
自分が会いたいと願ったから、自らが見せた夢だったのかも知れない、と。
今日…雅耶とあそこへ行って『助かる筈がない』と、諦めがついた筈じゃなかったのか…?
だけど…。
ふゆちゃんが、あの海にいないと思ったのも事実だ。
だからといって…?
『不思議だね…。会いたいなって思ってここに来たけど、まさか本当に丁度いるなんて…。気が合うっていうのか…。偶然って…本当にあるんだね…』
はっきりと覚えている、その声。その言葉。
「ふゆちゃん…」
あれが、自分に都合の良い夢でも幻でも幽霊でも…。
もう、何者でも構わなかった。
冬樹の大きく見開いた瞳からは、大粒の涙が零れ落ちた。
窓から朝日が差し込んでくる。
その陽の光の眩しさと照射される熱に、思わず我に返った。
(もう…朝、か…)
結局、朝までこの部屋で過ごしてしまった。
冬樹は椅子から立ち上がると、気持ちを切り替えるように大きく伸びをした。
少し寝不足気味ではあるが、思いのほか気分はスッキリとしている。
泣くだけ泣いた後、ずっと昨夜の出来事を考えていた。
夢と現実の境目。
実際にその声を聞いたという確信は自分の中にあるのに、自分の意志で身体を動かせなかったことから、眠っていたという可能性も否めないでいた。
(でも、もう良いんだ…)
冬樹は、自分の確信の方を信じることにした。
『あと…もう少しだけ…辛抱して待ってて欲しい…』
その言葉の意味は解らない。
でも、兄に会えるまで自分はずっと『冬樹』でいる。そのことに関しては今迄と何も変わりはないのだ。
なら、プラスに考えて待つのも良い。…そう思った。
あれが単なる夢、幻で…永遠に待ち続けることになったとしても…。
冬樹は、もう一度だけ大きく伸びをすると、部屋の戸締りをきちんとして、その家を出ることにした。
まだ、陽が昇り始めたばかりの早い時刻。
小鳥のさえずりは聞こえるが、街の住人達は未だ眠りの中なのか、周囲は静まり返っている。
通りから雅耶の部屋を見上げるが、窓は閉まりカーテンが引いてあった。
(…雅耶もまだ寝てるんだろうな…)
そう言えば、良く考えてみたら昨夜雅耶と別れてから何も口にしていない。
(流石にお腹空いたな…。コンビニでも寄って朝ごはん調達して帰ろ…)
冬樹は朝日を背にすると、一人ゆっくりと歩き出した。
そうして、日々は何事もなく過ぎて行き、長くもあり短くもあった夏休みがあと二日で終わりを迎えるという頃。
その日もバイトに入り、普段と変わらぬ日常を過ごしていた冬樹のもとに、思わぬニュースが舞い込んできた。
それは、冬樹の誘拐事件に関わっていた、拘留中だった製薬会社の社員の男が、取り調べの最中に突然発作を起こし、病院に運ばれたがそのまま亡くなったとのショッキングな知らせだった。
大倉と同様、犯人の突然の死に。
冬樹を筆頭に、事件の全容を知っている直純、そして雅耶も大きな動揺を隠せないでいた。