15‐1
月も変わり、八月初旬。
毎日のように続いている、真夏日。
ギラギラと照りつける太陽の下、冬樹と雅耶は地元の街から遠く離れた、ある山道を歩いていた。
山道…とは言っても、土が剥き出しの歩道のようなものではなく、しっかり舗装された道路である。
ここに辿り着くまでに幾つかの電車を乗り継ぎ、途中の小さな町までは本数の少ないバスに乗って来た。だが、目指す場所まではバスなど公共の交通機関は皆無だったので、暑い中ではあるが二人は歩いて行くことにした。
都会の街とは違う空気。
暑さは街中に比べれば断然涼しいのだが、何よりアスファルトの照り返しが強く、それだけで無駄な体力を削られていくような気がした。
時折車は通るが、それも稀だ。
ましてや二人のように歩いている者は何処にも見当たらない。
ただ、風に揺れる木々の葉擦れの音と、都会では殆ど聞くことのない珍しい鳥の声。そして、何より暑さを増幅している多くの蝉の声が周囲を包んでいた。
「飲み物、幾つか駅前で補充してきて良かったなっ。店はおろか自動販売機さえ全然見当たらないもんな。これ、水分なしじゃ流石にヤバかったよ」
雅耶が爽やかに笑いながら言った。
「…そうだな」
冬樹は相槌を打ちながらも。
(何で、お前はそんなに元気なんだ…)
明らかな体力の違いを見せつけられて、少し悔しい思いを抱いていた。
僅かに息が上がっている冬樹を見て、雅耶は今度は真面目な顔になった。
「…大丈夫か?冬樹…。少し休憩するか?お前まだ本調子じゃないんだし、あんまり無理するなよ?時間はまだあるんだし…」
こちらの様子を伺い見ながら、そんな気遣いまで見せる余裕。
(でも、ホントに相変わらず心配性…)
冬樹は思わずクスッ…と、笑うと、
「大丈夫だよ。心配してくれてサンキュ…」
そう言って、途端に軽くダッシュした。
「あっ!待てよっ。置いてくなっ」
雅耶も負けじと追い駆けて来る。
暫く歩いて行くうちに、山の景色ばかりだったそこに海が見えてきた。
(もうすぐだ…)
目を細めて遠くを眺める冬樹に、雅耶が控えめに声を掛けて来た。
「なぁ、冬樹…」
「ん?」
「その…お前は、ここまで来るの…初めてなんだろ?その場所って行けば分かるものなのか?」
こちらを気遣いながらも、当然の疑問を口にした。
「ああ。オレ…この道は何度も車で通っているから。あの時、テレビとかで映ってたのを見たし、行けばすぐ判ると思う」
事故が多い場所だと言っていた。
過去に車で通った時に、それらしい警告の看板を見たこともあった。
「そっか…」
「うん。でも変に土地開発とか進んでなければ…だけど」
そう言って冬樹は小さく笑った。
実際、うっかり周囲に建物などが増えていたら分からないかも知れない。
あれから八年もの年月が経過しているのだ。
人の手が掛かれば、景色などいくらでも変わってしまう。
だが、そんな心配とは裏腹に、歩いて行けども山の緑と海と空の青だけが広がっていた。それでも、この道をずっと先まで進んで行けば、両親によく連れられて行った別荘地へと続いているのだ。
その別荘地の手前にある坂道に面した急カーブが、今目指している所だった。
その場所が徐々に近づくにつれ、流石に冬樹から笑顔が消えていった。
言葉少なで緊張気味な冬樹の様子に気付きながらも、雅耶はただ静かに隣を歩いていた。
山の斜面を右手に、左手には海が広がっている。
海側は道路横のガードレールの少し先から切り立った崖になっていて、海面は数十メートルも下にあるようだった。
(凄い絶景…だよな…。ある意味…)
こうして道路脇を歩いているだけで、その高さにクラクラしそうだ。
(…その事故が起きた場所も、こんな感じの所なのかな?)
横を無言で歩いている冬樹の様子をそっと伺いながら雅耶は思った。
(だとしたら…きっと…。怖かっただろうな…)
その事故の恐怖は計り知れない。
冬樹には悪いが、助かる見込みなんて…この高さじゃほぼ絶望的な気がした。
と、その時。
不意に冬樹が足を止めた。
「…冬樹?」
少し後方で立ち止まっている冬樹を振り返ると、冬樹は大きな瞳を開いたまま小さく呟いた。
「…ここだ。父さんの車が事故を起こした場所は…」
下り坂の急カーブ。
ガードレールの外側、崖の少し手前にまだ真新しい花束が一つだけ手向たむけられていた。
「ここが…」
初めて訪れるその場所に。
冬樹は、ガードレールを何気なく跨いで超えると、花が手向けられている場所まで歩いて行った。
「おい、冬樹。あんまりそっち行くなよ。危ないぞっ」
若干慌てながら、心配げに後ろから声を掛けて来る雅耶に。
「大丈夫。飛び降りたりしないから」
振り返って真面目に答えると「当たり前だ!!」というツッコミが返ってきた。
ガードレールを超えると、崖の縁までは数メートル…と言ったところだった。その周辺には草が生い茂っていて一見平らに見えたものの、岩がゴツゴツ剥き出しになっている所もあり、あまり先へ行くとうっかりつまづいて崖下に落ちかねない感じだ。
冬樹は、崖の縁よりはだいぶ手前に置いてある花束の側まで行くと屈んでそれを調べてみる。
それはまだ新しく瑞々しい花束だった。
(誰かが、今日持ってきたんだろうか…)
それが父達の事故に関係あるものなのか、あるいは別の事故の犠牲者に手向けた物であるのかは判別しようもなかったが。
冬樹は、自分が持ってきた花束をその横に添えると、そっと祈るように目を瞑った。
「…すごい高さだな…」
気が付くと、いつの間にかすぐ横に雅耶が来ていて、緊張気味に周囲を見渡していた。
冬樹も立ち上がり、頷くと崖下の海を眺めた。
「この高さから車が落ちたら、ひとたまりもないよな…」
ポツリ…と呟く。
「…冬樹…」
『死んだなんてうそだ。きっと帰ってくる』
ただただ、その事実を認めたくなくて。
八年もの間、一度もこの地に足を運ぶこともせず、現実から目を逸らし自分に言い聞かせていた言葉。
(でも、これじゃ流石に希望も何もない…)
こんな所から車で落ちて、助かる訳ない。
そう、思ってしまった。
ある意味、素直に諦めがついてしまった感じだった。
(…今更…なんだけどな。もっと早い段階でこの地を訪れていれば、気持ちを切り替えられて良かったんだろうか…?そうしたら、少しは何かが変わっていたのか?)
それこそ、今更悔やんでも後の祭りなのだが。
そのまま暫く二人海風に吹かれながら、無言でそこからの景色を眺めていた。
崖下から、岸壁に強く打ち付ける波の音が低く轟いていた。
そんな中。
滅多に車通りのない中、一台の車がカーブから直線に出た辺りで停車した。