14‐3
海へ行った日から数日後。
雅耶は午前中の部活を終えた足で『Cafe & Bar ROCO』へと向かっていた。
今日は午前中からバイトに入ると冬樹から聞いている。午後三時には上がれるというので、その後一緒に宿題をやろうと、昨夜約束を取り付けたのだ。
場所は、そのまま『ROCO』でお茶しながらでも良いし、混んで来て迷惑になるようなら移動すればいいなどと色々と考えていたのだが…。
「えっ?休み…?ですか?」
「ああ。あいつ、朝店には普通に顔出したんだけど何か調子悪そうでさ。昨日も少し様子が変だったから、強引に熱計らせたんだよ。そしたら案の定…微熱があったんだ。だから、店長命令で無理させず帰した」
直純は腕を組みながら言った。
珍しく少し怒っているような感じだった。
「あいつは、無理し過ぎる傾向があるんだよな。責任感が強いのは良いことだけど、無茶は駄目だ、無茶は…」
だが、そう話す直純の表情は、冬樹のことを心底心配していると分かるもので。
雅耶は「そうですね」と相槌を打ちつつも、複雑な心境で聞いていた。
そんな雅耶の胸中を知ってか知らずか、直純は急に表情を切り替えると、雅耶に優しく微笑みかけて言った。
「約束…してたんだろ?冬樹のとこ、行くのか?」
「そう、ですね。様子を見て来ようかな」
雅耶がそう答えるや否や直純はにっこりと頷くと、カウンターの下から何かを取り出した。
「これ、お見舞いのサンドウィッチ。持ってってあげてくれないか?ちゃんと、お前の分も入ってるからさ。一緒に食事して、しっかりあいつに食べさせてやってくれよ」
そう言うと、軽くウインクをした。
店を出て、早速冬樹に連絡を入れてみようと携帯電話を取り出すと、いつの間に届いていたのか冬樹から一通のメールが入っていた。
雅耶がすぐにメールを開いてみると。
『野崎の家にいる』
そう一言だけ書いてあった。
(あいつ…具合が悪いのに、何で野崎の家なんかに行ったんだ…?)
あの家では、ゆっくり横になれる場所さえないだろうに。
雅耶は冬樹の状態が気になって、すぐに携帯をポケットにしまうと、足早に自宅の方へと向かった。
「あ…雅耶…」
「…オッス」
野崎の家のドアを軽くノックするだけで、冬樹がすぐに出迎えてくれた。
こちらへ向かっている途中で、事前に「今そっちに向かってる」…と、電話を入れたから待っていてくれたのかも知れない。
「ごめんな。連絡入れるの遅れて…。店に顔出しちゃったか?」
申し訳なさそうに笑顔を見せる冬樹は、割と普段と変わらない様子だった。
でも、心なしか顔色が悪いか。
「ああ。先生に聞いたよ。熱あるんだって?寝てなくて大丈夫なのか?」
慣れたように普通に二人で家に上がって行く。
「平気だよ。宿題やる分には全然問題ない」
そう答えると「ちょっと待ってて」と言って、冬樹はリビングへと入って行った。
だが、今日は雨戸を開けていないので中は薄暗いままだった。
「いや…無理して今日じゃなくても良かったんだぞ?それに、お前ならあの程度の宿題あっという間に終わるんだろうし…」
(実際…俺はただ、冬樹と共有できる時間が欲しかっただけで『宿題』そのものは口実にすぎなかったんだし…)
そんな事を考えながらリビングを覗くと、テーブルの上に置いてあった手提げを持って冬樹が戻って来た。
「いや…そうでもないよ」
「今日は窓開け放ってないんだな?」
雅耶はリビングを見渡しながら言った。
「ん?ああ。今日は上にいたんだ…。上の方が明るいし、風も通るよ」
そう言うと、冬樹は二階へ向かう階段を上り始めた。
雅耶もその後をついて行く。
この家の二階へ上がるのは、本当に久し振りだった。
冬樹は子ども部屋だった部屋の前に立つと、ドアを開けて俺に先に入るように手振りで促した。
「……っ…」
一瞬、目の前に過去の情景が浮かんで消えた。
いつも俺がこの部屋に遊びに来ると、冬樹と夏樹が笑顔で迎え入れてくれた。…そんな小さな二人の姿が一瞬見えたような気がした。
それ位、あの頃と何も変わっていない。
目の前のベランダに面した大きな窓は開け放たれ、明るい光が差し込んでいて、レースのカーテンが僅かな風に揺れていた。
棒立ちでいる俺に、冬樹は。
「変わってないだろ?…あの頃と…」
寂しげな微笑みを浮かべながら、瞳を伏せめがちに言った。
だが、気持ちを切り替えるように視線を上げると、部屋の真ん中に置いてある折り畳み式テーブルを指差して言った。
「良かったらそこ座って?一応部屋は掃除してあるからさ…」
「そういえば、直純先生からお見舞いを預かって来たんだ」
「…お見舞い?」
首を傾げている冬樹の前に、預かって来た包みを差し出した。
「サンドウィッチだって。俺の分まで入れてくれたらしくて…。一緒に食べてしっかり冬樹にも食わせてやってくれってさ。…食欲あるか?」
目の前に広げられた包みの中には、お店でも出している美味しそうなサンドウィッチが沢山詰められていた。
「…こんなに…」
「ホント…愛されてるよなー」
思わず口から出た俺の呟きに、冬樹が目を丸くした。
「なに?…それ?」
「あ…いや。何ていうか…お前、大事にされてるなーって思ってさっ」
うっかり出てしまったぼやきに思わず動揺を隠せず、雅耶は一人あたふたした。
これは、ただのヤキモチだ。
見苦しいこと、この上ない。
だが、そんな雅耶の胸中を冬樹自身が知る由もなく。
冬樹は暫く不思議そうに雅耶を眺めていたが、視線をテーブルの上のサンドウィッチへと戻すと「本当、ありがたいよな…」と、しみじみ呟いた。
「…食べられそうか?」
「ああ。折角だし…頂くよ」
そうして、二人で遅めの昼食を取ることにした。
食事を終えて少しまったりした後、一応予定していた宿題に取り掛かろうとテーブルにノートを広げた。
「…お前、大丈夫か?無理しないで調子悪かったら休めよな」
冬樹はやはり本調子ではないのか、いつもより食も細かった。
本人は元気を装っているつもりなのだろうが、顔色や表情から調子が悪いのは一目瞭然だった。
「平気だよ。大したことじゃないんだ。原因も…分かってる…」
シャープペンシルをノートに走らせながら冬樹が言った。
「…原因?夏バテか何かか?…それとも風邪?」
「………」
冬樹は無言になると手を止めた。
ノート上に視線を置きながらも、何処か思い詰めたような…そんな表情を浮かべている。
「…冬樹?」
雅耶は心配になって、俯き加減の冬樹の顔を横から覗き込む様に声を掛けた。
すると、冬樹が顔を上げずにゆっくりと口を開いた。
「毎年…さ。この時期はいつも調子を崩しやすいんだ…」
「…この時期…?」
「ああ。それももう、八年越しになる…」
その言葉にやっと意味を理解して。
雅耶は、次の言葉が出て来なかった。
そう…。もうすぐあの日がやって来るのだ。
八度目のあの日が…。
後悔してもしきれない、運命を変えてしまった日。
大切なものを…たくさん失った日。
視線を上げると、哀しげな瞳をしている雅耶と目が合った。
そのあまりの消沈ぶりに、冬樹は思わず微笑みを浮かべると。
「お前までそんな顔するなよ。別に、大したことないんだからさ。それに、何かやってる方が気が紛れて良いんだ…」
「………」
言葉が上手く見つからないでいる雅耶に、冬樹は静かに言葉を続けた。
「これでも今年はすごく楽な方なんだよ。気持ちの面で落ち着いているからなのかも知れない」
「…落ち着いてる?」
聞き返してくる雅耶に、冬樹は小さく頷くと。
「この家にこうして居ること自体、オレにとっては凄い進歩だよ」
そう言って、笑顔を見せた。
ずっと、ずっと…。
一人残されてしまったという現実を思い知らされることに恐怖を抱いていた。
何処かでまだ『過去の幸せ』を引きずっていて、ずっと諦めきれなくて。
そして、自分のせいだと己を責めながら、自分を追い詰めることでしか赦されないような気がしていた。
でも、今は…。
話しを聞いて受け止めてくれて、協力してくれる清香先生がいる。
居場所を提供してくれて、いつでも優しく気遣ってくれる直純先生もいる。
明るくて楽しい、学校の仲間達も。
そして、雅耶…。
お前が偽りのオレさえも認めてくれたから。
今は、ここが自分の居場所だって思えるようになったんだ。
「お前のお陰でオレは…すごく救われてるよ」
「…えっ?」
「これまでの八年間が嘘のように今のオレが心穏やかなのは、全部雅耶のお陰だ…」
そう言って、こちらを真っ直ぐに見詰めてくる冬樹に、雅耶の心臓は高鳴った。
「…冬樹…」
「お前には、甘えてばかりで本当に悪いとは思うんだけど…さ」
今度は伏せ目がちに、何かを考えるように話し出した冬樹に。
「別に悪くなんかないだろ…」…と、言い掛けた雅耶だったが、続けられた冬樹の言葉に目を見開いた。
「甘えついでに…お願いがあるんだ…」
「…お願い…?何だよ?改まって…」
首を傾げる雅耶に冬樹は僅かに微笑みを見せて頷くと、一呼吸置いてから意を決するように口を開いた。
「今度、付き合って欲しい所があるんだ…」