14‐1
子どもの足が付く浅瀬の辺りまで来ていた、母親らしき女性の元へと子どもを抱えて連れて行く。
「ありがとうございますっ!本当にありがとうっ!!」
「ママァーーっ」
母子は抱き合って、泣きながら無事を喜びあっていた。
(…良かった)
雅耶はホッとして、後ろにいるであろう冬樹を振り返った。
だが…。
「…冬樹?」
そこに冬樹の姿はなかった。
「……っ!?」
驚いて、先程いた辺りへと視線を流した雅耶は、水の中へと呑まれていく冬樹の姿を目撃する。
「ふゆきっ!!」
瞬時に水を掻き分けながら、雅耶は冬樹の元へと駆け出した。
(くそっ!何でっ…)
てっきり冬樹は、自分の後をついて来ているものと思っていた。
子どもを抱えて泳いでいたとはいえ、冬樹が苦しんでいるのに気が付かなかった自分に、怒りが込み上げてくる。
(あいつは服を着ていたから、きっと思うように泳げなかったんだ。だから、あの子を俺に託した…。何で俺は、それに気付かなかったんだっ!)
これで、冬樹にもしものことがあったら…。
ざわざわとしたものが背筋を走る。
頭を過ぎった縁起でもない想像に、雅耶は頭を振ると必死に前へと足を運んだ。
先程、子どもを助けに向かった時よりも何故か思うように前へ進めないようなもどかしさを感じる。
「くっ…冬樹っ!」
やっと深くなっている場所まで辿り着くと、雅耶は勢いよく海へと潜った。
海の水は思ったよりも透明度が高く、周囲を見渡す事が出来た。
(…どこだっ、冬樹っ!!)
泳ぎながら目を凝らすと、数メートル先にそれらしい人影が目に入った。
もう息が限界に近いのか、もがくこともせず動かないでいる。
雅耶は見失わないように必死に潜って泳いで行くと、冬樹に手を差し伸べた。
(冬樹っ!!)
冬樹は目を伏せていたが、雅耶の心の呼び掛けが聞こえたかのようにうっすらと瞳を開くと、僅かにだがこちらに手を伸ばしてきた。
雅耶はその手をしっかりと掴むと、その手を引きながら急いで浮上する。
「ぷはっ」
「うっ…げほっごほっ」
冬樹は苦しそうに咳込んでいたが、何とか呼吸をして酸素を取り込もうとしているようだった。
「はぁっ…はぁっ…。ふゆき…、無事で…良かった…っ」
雅耶は冬樹の身体を仰向けにすると、出来るだけ顔に水が掛からないように気を付けながら、すぐさま岸へと向かって泳いで行った。
雅耶は自分の足が届く安全な場所まで来ると、一旦立ち止まって大きく息を吐いた。
「ふぅ…。何とかなった…な…」
ハッキリ言って、生きた心地がしなかった。
(でも、無事に冬樹を助け出せて良かった…)
気を失っているのか、目を閉じたまま波に揺られている冬樹を見下ろす。
雅耶は冬樹の身体をしっかりと抱えながらも、浮力を利用しながらゆっくりと海に浮かべて歩いて行く。
すると、
「――…」
冬樹が何かを呟くのが聞こえた。
「冬樹…?気が付いたのか?…大丈夫か?」
雅耶は、そっと声を掛ける。
「…ちゃ…ん…」
「……え?」
冬樹は意識が朦朧としているのか、うわ言のように何かを呟いているだけのようだった。
だが、次の瞬間。
「…ごめ……。…ふゆ…ちゃ……」
(…え…?)
冬樹の声に耳を傾けていた雅耶は、思わぬ呟きに耳を疑った。
もう一度よく聞き取ろうと耳を近付けるが、冬樹はそれ以上何も言わなかった。
「………」
驚きの表情で腕の中の冬樹の顔を見詰める雅耶。
呆然としている雅耶の耳に、打ち寄せる波の音が妙に大きく感じた。
深い、深い海の中…。
もう、ダメだと思った。
ああ…。このまま、みんなと同じところに行くのかな…?
ふゆちゃんが、待っててくれる…のかな…?
そう思って。
それなら、苦しいけど良いかな…なんて、思っていた。
だけど…。
『…冬樹っ!!』
雅耶の声が、何処からか聞こえてきた…ような気がした。
(まさや…?)
僅かに残った意識の中で薄く目を開けると。
雅耶が真剣な顔をして、こちらに向かって泳いで来るのが見えた。
(…雅耶…)
雅耶は、いつもオレがピンチになると駆けつけてくれるんだね…。
オレは嬉しくて。
重く、だるい腕を必死に…雅耶の方へと伸ばした。
雅耶の大きな手に掴まれて。
腕を引かれながら身体が浮上して行くのを感じて…。
微かに見えた海の底の方に。
ふゆちゃんの幻が見えた気がした。
ごめんね、ふゆちゃん…。
ごめんなさい…。
やっぱり、オレはまた…ふゆちゃんの傍へ行けずに、ひとり助かってしまうんだね。
『…ごめんね。ふゆちゃん…』
(なん…だろ…。あたたか…い…?)
今まで冷たかったのが、急に温かなものに包まれる感覚がして、冬樹の意識は急激に浮上していく。
「……ん…」
目を開けると、雅耶の顔がすぐ傍に見えた。
(あ…れ?オレ、どうして…。…っていうか!この状況ってっ…)
気が付けば、またもや雅耶に横抱きに抱えられていた。それも雅耶は今、水着姿で…。いわゆる上半身は裸の状態だ。自分が服を着てるとはいえ、温かいと感じたのは雅耶の体温を直にそのまま感じていた訳で…。
意識した途端、カーッ…と頬に熱が溜まって行くのが自分でも分かる。
「……あっ…。ごっ…ごめんっ。オレっ…」
途端に慌てて降りようとするが、思いのほかガッシリと抱えられていて、その腕はびくともしなかった。
「…気が付いたのか…。良かった…」
雅耶は冬樹を抱きかかえたまま、幾分ホッとした様子を見せている。
だが…。
(………?)
冬樹は、雅耶の様子が何故だかいつもと少し違うような気がしていた。
いつもの雅耶なら、あの人懐っこい笑顔を見せてくれる所だろう。
だが、今…目の前にいる雅耶はどこか大人びた表情をしていて。
ただ、じっ…と、自分を見下ろしているのだ。
(まさ…や…?)
抱きかかえられたまま、近いところで視線を合わせているこの恥ずかしい状況に。
冬樹は、降ろして欲しい…と思いつつも上手く言葉が出て来なかった。
その腕から強引に飛び降りることは勿論、身動きを取ることさえも出来ずに固まってしまう。
「………」
対応に迷い、瞳を揺らす冬樹に。
雅耶は、やっと僅かに笑顔を見せると冬樹をそっと降ろした。
「あ…あり、がと…」
足元に波が打ち寄せる。
長い間、気を失っていた訳ではないらしく、海から上がって来た二人を待ち構えていた母子が謝罪と礼を口にしながら近寄って来た。
子どもを助けに行って自分が溺れるという…ある意味失態をさらしてしまった冬樹は、どんなに感謝の言葉を伝えられようとも恥ずかしさだけが募っていくのだった。
「…すっかり時間食っちゃったな。長瀬達…もう戻ってるよな?」
冬樹は、僅かに肩を落としながら言った。
「別に気にすることないだろ?あいつらだってまだ遊んでるって」
二人、波打ち際をゆっくりと歩きながら、元いた浜辺の方へと向かって歩いていた。
雅耶は、ずっと考えていた。
冬樹が呟いた、あの言葉を。
『…ごめ……。…ふゆ…ちゃ……』
俺の聞き違いでなければ、『ごめんね、ふゆちゃん』…と、冬樹は言った筈だ…と思う。
そこで思うのは、当然『何故…?』…という疑問だった。
『ふゆちゃん』とは、冬樹のことだった筈だ。
夏樹が昔、冬樹のことをいつも『ふゆちゃん』と呼んでいたのだから。あとは、時々だが冬樹の母親がそう呼んでいるのを聞いたことがある位だろうか。
それを、いくら朦朧としていたとはいえ、冬樹自身が『ふゆちゃん』…と、口にするのは、どうしたって違和感がある。
冬樹は、小さな頃から夏樹に『ふゆちゃん』と呼ばれていても、自分で自分のことを話す時に『ふゆちゃん』…という言葉を使ったことはなかった。
ならば…?
(いったい、どういうことだ…?)
『…ごめ……。…ふゆ…ちゃ……』
冬樹が口にしたあの言葉は、誰に対して言ったものなのだろうか?
あの状況で…。朦朧としながら…?
(分からない…)
いや、解らないというよりは、認めたくない…と言った方が正しいのかも知れない。
本当は、答えは出ているのではないか…?
雅耶は自問自答を繰り返す。
俺が最近、ずっと気になっていたこと。
『お前と夏樹が…、すごくダブって見えるんだ…』
先程、冬樹にも話したことだ。
再会して初めの頃は、冬樹は無口で無愛想で、とにかくいつも無表情で。警戒心が強く、話し掛けても会話にならない状態だった。その変わってしまった部分は、八年間の生活の変化によるものだと思っていた。
だが、打ち解けた後、あいつは少しずつ素を出せるようになっていって。最近では、以前の冬樹を取り戻してきている…そう、思って見ていた。
だが…。
いつからか、俺はそんな冬樹を夏樹と重ねて見ていることに気が付いた。
いつだったか、唯花と冬樹のことについて話していた時のことだ。
『困っている人がいると後先考えず動いちゃうタイプでさ。逆にそれであいつの方が危ない目に遭ったりして、いつも俺達が…』
そこまで言い掛けて、自分の思考に戸惑った。
違う…と。
困っている人を見て後先考えず行動してしまうのは、冬樹ではなく、夏樹の方だったのだ。そんな夏樹をいつだって俺と冬樹とで追い掛けて、フォローしていたのだから…。
よくよく考えてみると、あいつと再会してから何度かそういう場面に出くわしている気がする。
西田という上級生の件も然り。絡まれていた唯花を助けたという件も然り…だ。
(さっきのだって、そうだ…)
自分では、海が怖いと…あんなに辛そうに話していたのに。
実際、流されている子どもを見たら、反射的に走り出していたに違いない。
(でも、それだけでは…)
心の中で、どうしても否定したい自分がいる。
以前もそんな冬樹を見ていて『まるで夏樹のようだ』と思いながらも、冬樹自身のポジションが変わったことで、本来の冬樹の本質が出て来ただけかも知れない…と、思うことにしたのだ。
だが…。
(本当は、自分でも気付いているのかも知れない…)
改めて考えてみれば、俺の中で思うところは沢山ある。
『…ごめ……。…ふゆ…ちゃ……』
あの言葉は…。
どう考えたって『夏樹が口にする言葉』として考える方が自然だ。
ただ、認められないのは…。俺が確信を持てないのは。
もしも、お前が冬樹でなく…本当は夏樹だったというのなら…。
お前は、いつから冬樹でいたんだ?…という疑問だ。
八年という長い月日を、ずっと…?
いったいそれは、何故…?
そこまで考えて、雅耶はハッ…とした。
己の意識に沈んでいたことに気が付いて、後ろを付いて来ているであろう冬樹を慌てて振り返る。
歩幅に差があるからだろうか、冬樹は随分と後方を歩いていた。立ち止まって振り返っている自分にも気付かない様子で、海を眺めながら、ゆっくりと歩いて来る。
冬樹自身も何か、物思いにふけっている様子だった。
雅耶はその場に立ち止まると、そのまま冬樹が追い付いて来るのを待った。
仲間達が待つ場所へも此処からならもうすぐだ。
すると、途中で冬樹も我に返ったのか、待っている雅耶を見るや否や申し訳なさそうに小走りに駆け寄って来た。
「…ごめん…。ぼーっとしてた…」
「いや、俺も同じようなものだから…」
そう言うと、冬樹は微笑んで見せた。
その儚げな表情を見た雅耶は、何とも言えない切なさが込み上げてきた。
気が付いてしまえば、もう…その表情は女の子のそれにしか見えなかった。
(何で、今の今まで気が付かなかったんだろうな…)
でも、お前が夏樹である事実を隠したいと言うのなら。
俺は、いつまでだって気付かないふりを決め込んでやる。