1‐4
冬樹は、ある小さなアパートに辿り着くと、ゆっくりとその横に設置されている階段を上りはじめた。
205号室と書かれている扉の前で立ち止まると、ジーンズのポケットから鍵を取り出し、解錠して中へと入る。
独りの空間。
それだけで、肩の力が抜けていく感じがする。
(やっと、ひとりになれた、な…)
でも、ホッとする反面。
今まで閉じ込めていた感情が、一息に溢れ出してしまいそうで不安になる。
ひとつ、大きく溜息をつくと。
冬樹は、肩に掛けていたバッグを床に置き、部屋を見渡した。
六畳一間の1K。
(今日から、ここがオレの家…か…)
部屋には、ベッドと本棚と小さな折り畳み式のテーブルのみ。飾り気も何もない…何より物が少ないので、ある意味スッキリとした部屋になった。狭い造りながらも、キッチン、バス、トイレ完備。当然の事ながら、バス・トイレはユニット式だが、そこはあるだけで十分だと冬樹は思っていた。
(贅沢すぎるよな…)
高校生の身で独り暮らしだなんて生意気だと、自分でも思う。
でも、仕方がない。伯父や伯母に迷惑を掛け続けることよりも、正しいことのような気がしたのだ。
冬樹の生活費は、いわゆる親の『遺産』で賄われているらしい。
ただ、冬樹が未成年のうちは、伯父夫婦がお金の管理をしてくれることになっており、冬樹自身はその存在そのものをあまり詳しくは知らなかった。だが、今後も学費や家賃等は勿論のこと、生活に必要なお金も毎月、伯父の家から送って貰えることになっている。
本当に、贅沢な話だ…と、思う。
本来なら…。せめて、家に戻るのが一番自然な形なのだろう。昔、家族で暮らしていた家は、今でもそのまま残っているという。それならば、わざわざアパートなどを借りず、そこに帰ればいいだけの話だった。
だが…。
(オレは、ワガママだな…)
自分は、あの家に戻る勇気がなかった。
沢山の思い出が詰まった、あの場所に戻るのが怖かったのだ。
ゆっくりと本棚に近付くと、そこに置いてあるフォトスタンドをそっと両手に取った。それは昔、家族で出掛けた際に撮った写真だった。そこには、父、母、兄…そして、『夏樹』だった頃の自分も、皆が楽しそうに微笑みを浮かべている。
(お父さん、お母さん…ふゆちゃん…)
八年前の事故。それは、少し特殊だった。
夏樹の父親が運転していた車が崖下へ転落するという、大きな事故。同乗者は母と夏樹に扮する兄…冬樹だった。
その日は、夏樹も何度か父に連れられて行ったことがある、父の仕事関係の知人が所有する別荘へ用があって、三人は出掛けて行った。その帰り道、山道の下り急カーブを曲がり切れずにガードレールを突き破り、車はそのまま崖下の海へと転落したのだという。
その事故の瞬間を、後続して車を走らせていた知人が目撃していて、すぐに警察と消防へ連絡が入った。その時点で、本来なら早急に救助活動が行われても良い筈だった。だが、その転落現場は事故の多発地帯であり、その切り立った崖下の海は、入り組んだ地形も関係して、潮の流れが速く複雑で、捜索が難航することでよく知られている場所だった。
そして、運の悪いことに丁度台風が接近中で、普段よりも波が高く荒れていたのだ。悪条件が重なる中、すぐに船やヘリコプターを出動させて捜索することは困難を極め。結局、何も出来ぬまま数日が経過してしまう。
その後、捜索は開始されたが、車の破片等が周辺の海で回収されただけで、三人の乗車していた車も含め、両親と兄に関するものは何も見つける事が出来なかったのである。
それでも、事故後の捜索がいつまでも続けられる訳は無く。結局、生死不明のまま捜索は打ち切られ、身内の中でも、生存の可能性はゼロと判断せざるを得なかった。
そして、そのまま数年が経過し…死亡の認定が確定されたのだった。
この事故での夏樹の何よりの不運は、父の知人が事故の前後に関わっていたことだった。
知人は、『夏樹』が実は『冬樹』であった事情を知らない。その為、事故に遭い行方不明になっているのも長女の『夏樹』だと、公開されてしまったのである。勿論、空手の稽古に来ていたのが、冬樹に扮する夏樹だと疑う者もいる筈もなく…。
ある意味、兄妹の入れ替わりは完璧であったのだが、その為『夏樹』はその日から『冬樹』として生きていくことになってしまったのだ。
「いやだっ!!なんでっ!?」
捜索が打ち切られたと知らされた時、夏樹は伯父を含む大人達に詰め寄った。
「何でお父さんたち、さがすのやめちゃうのっ!?」
親戚や父の仕事関係の者達が集まる中、夏樹は誰に言うでもなく、救いを求めるように言った。だが、殆どの者が気まずそうに視線を逸らし、伯父だけが困った様子で夏樹に視線を合わせて言った。
「冬樹くん、お父さん達が助かる見込みは、もう殆ど無いんだよ。車さえ見付けられないんだ…」
宥めるように両肩を掴まれる。だが、夏樹はその腕を振り払って叫んだ。
「そんなのわからないっ!生きてるかも知れないじゃないかっ!!」
興奮して叫ぶ夏樹を、大人達は憐れんだ目で見つめていた。
「冬樹くんっ」
「やだっ!」
(違う!!冬樹じゃない!!夏樹なんだもん!!)
そうだ…、そうなんだ。
ふゆちゃんは…。
ふゆちゃんは、夏樹のせいで。
夏樹の代わりになって、事故にまき込まれたんだ。
だけど、ふゆちゃんが…お父さん達が死んだなんて嘘だ!!
まだ、わからないのに。
(絶対に信じない!!信じないもん!!)
きっと、帰ってくる!!
きっと!!
『死んだなんて嘘だ』
『きっと帰ってくる』
そんなことを思っているうちに、あっという間に年月は過ぎて行った。
オレはずるい。
認めたくなかっただけなんだ。
『夏樹のせいで冬樹が死んだ』という事実を。
手に持っていたフォトフレームの写真の上に一滴の涙がぽたりと落ちた。慌ててシャツの袖でゴシゴシと擦るが、自分の意志とは裏腹に、涙は後を絶たず、ぽろぽろと零れ落ちてくる。
「……っ…」
(油断すると、これだ…)
泣かないって、決めたのに…。
(ふゆちゃん…)
西の空が夕焼けに染まり始める頃、雅耶は自宅の門をくぐった。
「ただいまー」
靴を脱いで家に上がると、母親がリビングから顔を出した。
「あら、おかえり。早かったのねぇ」
「うん、まぁね」
洗面所に行くと、きちんと手を洗ってうがいをする。その間にも、傍までついて来ていたのか後ろから声が掛かる。
「そうそう、雅耶。ちゃんと春休み中にいらない物とか整理しちゃいなさいよっ」
「んー?」
「高校入ったら、また物も増えていくんだからねっ。あんた物持ちがいいんだから…」
いつもの小言が始まって、雅耶は苦笑いを浮かべると、
「はいはい」
とりあえず返事をして、二階の自室へと向かった。
「とは、言っても…」
一応、素直に言われたことを実行しようと、部屋の中をぐるりと見渡した。
「いらないものなんて、殆どないよなー」
うーん…と唸りながら腕組みをする。考えながら何気なく部屋を見回していたその時、ふと…本棚の上に置いてある段ボール箱が目に入った。
(この箱、何入れてたっけ?)
雅耶は背伸びをすると、意外に重いその箱をやっとの事で持ち上げると、床に置いた。
「あれっ?」
そこには、沢山のファイルがぎっしりと箱一杯に詰め込まれていた。
「これ…アルバムかぁ…」
存在そのものさえ忘れかけていた数あるアルバムの中の一冊を手に取ると。雅耶は、懐かしさにパラパラとページをめくった。まだ記憶にもないような小さな頃のものから、懐かしい思い出に残るものまで様々な自分の写真が収められている。
「あっ!これっ冬樹と夏樹じゃん!懐かしいなーッ」
そこには、雅耶と一緒に戯れる幼なじみの冬樹と夏樹が写っていた。三人で撮られている写真は思いのほか沢山あって、まるで三人兄弟であるかのように一緒に遊んでいる姿が写されていた。
その時。
雅耶は、ハッとした。
(えっ…?)
突然脳裏に、昼間駅で見掛けた少年の姿が過ぎったのだ。
雅耶は、信じられないという顔で自分の口元を押さえた。
今、解った。
駅前で見た、あいつ…。
「気のせいなんかじゃー…なかったんだ…」
俺があいつを分からないなんて。
「ふゆ…き…」
写真の中、一緒に笑い合っている冬樹の顔を指で軽く触れた。
(間違いない。…あれは、冬樹だ…)
先程の少年と、思い出の中の冬樹の表情が重なる。
雅耶は、段ボール箱の中身を広げたままで、暫く呆然としていた。
(もしかして、この町に帰ってきたのか?)
雅耶は、思い立ったように立ち上がると自室の窓を開けた。丁度そこは冬樹の家に面している窓で、二階のベランダや庭が良く見えるのだ。
だが…。
(家には、戻ってなさそうだな…)
その様子は、ここ数年ずっと変わらない。
閉め切った雨戸。
伸び放題の草木。
変わらない…。
もう、あれから何年が過ぎたのだろう。
夏樹やおじさんとおばさんが亡くなってから…。
一人残された冬樹は、親戚の家へ行くことになった。
ザアザアと雨が降りしきる日。
玄関を開けると冬樹がずぶ濡れで立っていた。
「ふゆきっ!?どうしたんだよっ、こんなにびしょぬれで!」
慌てて掴んだその細い肩は、ずっと雨に打たれていたのか、びしょびしょに濡れて冷えきっていた。
冬樹と面と向かって会えたのは事故のあった空手の時以来で、十数日が経過していた。ちょこちょこと見掛ける事はあったのだが、事故の件で警察や親戚が出入りしていたり、報道関係の者がうろついていたりで、冬樹の周りは本当にバタバタと落ち着かなかった。
当然のことだが、会いたくても会いに行くことを許されずにいたので、随分と久しぶりに思えた。
久し振りに会った冬樹は、前よりも少し痩せた気がした。雨の中、傘も差さずにただ無言で立ち尽くしている姿は、妙に痛々しくて。
「とにかくウチに入れよっ。カゼひくー…」
そう言って雅耶が冬樹の腕を取り、家へと招き入れようとしたその時、その言葉を遮るように冬樹が口を開いた。
「まさや…」
それは、とても小さな声で。
ただ自分の名前を呼んだだけだったのだが、雅耶はその一言でハッとして、動きを止めてしまった。
(泣いてる…?ふゆき…)
今までずっと、泣かなかった冬樹が。泣いている…。
冬樹の頬を濡らしているものが雨なのか涙なのかは既に区別もつかない。だが、声も上げずただ静かに涙を零しているのだけは分かった。
「ふゆき…」
当たり前だ。
悲しくない筈がないんだ…。
「まさ…や…」
泣きたいのをずっと…我慢していたに違いない。
頼る者もなく。
ひとりで。
冬樹は俯いて、雅耶の肩口に額を預けると、声を殺して泣いた。その小さく震える細い肩を、雅耶はそっと抱きしめてあげることしか出来なかった。
一緒に涙を零しながら。
そして、その次の日。
もう冬樹はいなかった。
その雨の日以来、冬樹には会っていない。
冬樹は、何も言わずに行ってしまった。
「でも、あれは…別れを言いに来たんだろうな…」
雨の中佇んでいたその友人の姿を思い出して、ひとつ溜息をついた。
窓を開けたまま、窓枠に頬杖をついて外を眺めていた雅耶は、既に日が落ちて暗くなってしまった夜空を見上げた。
冬樹…。
また、どこかで会えるだろうか。
アパートの一室。
どれだけ、そうしていたんだろう。
気が付くと、部屋の中はすっかり暗くなっていて、かなりの時間が経過していたことを知る。
(気がゆるんでる証拠だ…)
冬樹は、立ち上がるとゆっくりと洗面台の前へと向かった。
鏡に映る自分の顔を見て、思わず溜息が出る。
「ひどい顔…。最悪だな…」
その瞳は真っ赤で、目元もすっかり腫れ上がっている。
(こんなに泣くなんて…)
もう、ここ何年も泣いていなかった気がする。
今までは、気を張っていたから…?
冬樹は蛇口をひねると、冷たい水で顔を洗った。
(ダメだよな、ここで気を抜いてちゃ…)
気を引き締めるつもりで暫く冷たい水を顔にかけ続けた。
オレは『冬樹』だ。しっかりしろ!!
心の中で自分に喝を入れると、頬をパンっ…と、両手で叩いて気合を入れた。気持ち頭もスッキリして、ひとつ大きく深呼吸をすると、タオルで顔を拭いた。
高校に入ったら…。きっと、今までよりも、もっと大変だろうな。
(出席日数もあるし…)
実は、中学ではかなりサボっていた冬樹だった。それに、これからは家のこともしっかり自分でやらなくてはいけないのだ。
(バイトもしたいな…)
出来るなら、伯父さんからの仕送りを使わないでいたい。でも、今の自分にそれだけの力は無いから…。少しでも…、自分で使う分くらいは、自分で何とかしたい。
そう、思う冬樹だった。
明日から探してみるか…。