1‐3
時を同じくして、また別の町に存在する静かな住宅街のある一軒家。
庭から差し込む穏やかな明かりの中、リビングのソファーに座って新聞を広げている少年がいた。彼の姉に言わせると、そんな姿が中学生のくせにオヤジくさいとのことだったが、本人はあまり気にしている様子はない。新聞を読むことがほぼ日課になっている少年は、慣れた手付きで新聞をめくると、気になった記事を黙々と目で追っていた。
そんな中突然、家の電話が鳴り始める。
廊下に置かれたその電話の音が耳に届いていないのか、着信音には気にも留めず、少年は新聞を読み続けていた。否、本当は聞こえていたのだが、誰かが出るだろうと思って無視していたのだ。
だが、すかさず母親の怒鳴りに近い声が何処からか飛んでくる。
「ちょっとー雅耶!いるんでしょうっ?電話出てよ!」
「……」
名指しで呼ばれてしまい、仕方なく目にしていた新聞をテーブルに置いた。
「まさやーっ!?今手が離せないのよーっ」
「あー…はいはい…はいッと…」
足早に席を立つと、受話器を取る。
「はい、久賀です」
すると、良く知った友人の声が聞こえてくる。
『あー長瀬ですけど…雅耶くんいますかー?』
「いませんけどー」
『あっテメーッまさや!!』
電話の相手、友人長瀬と雅耶は中学入学以来の友人だ。こんなふざけたやり取りはいつものこと。
そして長瀬とは、この春同じ高校への入学が決まっている。
「ははは、冗談だよ。ところで何か用か?」
『ああ、お前ヒマだろッ?これから出てこないか?今駅前にいるんだけどさー…』
最初から人を暇人扱いしている友人に思わず苦笑が漏れるが、そんな長瀬の誘いに雅耶は乗ることにした。待ち合わせ時間と場所を決めると、電話を切って出掛ける準備を始めた。
(…遅い)
雅耶は、行き交う人混みを眺めながら溜息を付いた。
(なんなんだアイツは…。人を呼び出しといて待たせるなってーの!)
もう、待ち合わせの時間から10分を過ぎようとしている。一向に来る気配のない友人の姿を探して、雅耶は周囲を見渡した。
駅周辺にはショッピングモールなども隣接しており、普段から人混みは多い方なのだが、春休み中なのもあってか学生や親子連れの姿も多く、今日はかなり混雑している。
何気なく視線を流していると、ふとした拍子に小さな子どもが転ぶ姿が目に入った。まだ、3~4才くらいの男児だった。
「うっ…」
子どもは、勢いよくうつ伏せに倒れ込むとそのまま顔だけ上げて、
「うわあああぁーーーーんっ」
大声で泣き出した。
(あらら…)
周囲の人々の注目が、瞬時にその子へと向かう。
だが、泣いている子に駆け寄る者はいないようだった。
(誰か…保護者はいないのか…?)
あんな小さな子どもが、一人でこんな場所にいる訳ないだろうに…。
周囲に目を配る。周囲の人々も子どものことを気に留めながらも、みな通り過ぎていく。
(誰か…)
そう、思った時。
傍を通りかかった一人の少年が床に片膝を付くと、その泣いている子どもを抱き上げた。
「大丈夫か?」
そっと立たせると、服の汚れをぱたぱたとはたいてやっている。子どもは、その少年を頬を濡らしながらキョトンと見上げていた。
『誰か…』だなんて。俺は自分が恥ずかしいと思った。自分とそう変わらない年頃の、少年のその行動に。少なからず好感を持って、暫くその様子を眺めていた。
「ほら、男の子だろ?」
少年が頭を優しくなでると、子どもはこくこく頷いて涙を拭くと泣きやんだ。
どれだけ、そちらに気を取られていたのだろう。
「…や……さや…」
「……」
「おいッ雅耶!!」
そこで、ハッとして自分が名を呼ばれていることに気が付いた。
「あ…長瀬…。いつの間に…」
そこには、ずっと待っていた長瀬が遅刻を悪びれる様子もなく笑顔で立っていた。小さく手を上げて「やぁ」なんて言っている。
「なーに見とれちゃってんの?雅耶ちゃんv『いつの間に』じゃないよっ」
「何だよ?見とれてるって…」
「違うの?あの親切な少年♪」
すっかり冷やかしモードな長瀬の態度に思わず脱力する。
「あのなー…そういう言い方やめろって…。感心して観てたんだろー」
こいつは、いつだってこういう軽いノリでからかってくるのだ。
長瀬は、にゃはは…と笑うと、
「わかった、わかった。でも、本当…イマドキ貴重だよな?」
二人して、先程の少年達の方に視線を流す。転んだ男の子の親が気付いて迎えに来たようで、その『親切な少年』に手を振って別れていくのが見えた。
(良かった。親御さん、ちゃんといたんだ…)
他人事ながらも、何となくホッとする。
「まぁ、それはさておき、良かった良かった」
おちゃらけた様子で、長瀬が続ける。
「何がだよ?」
「えー?泣いてるのが雅耶じゃなくて♪」
流石にその言葉にカチンと来た。
「あのな~ッ!」
「待ち合わせ場所に俺がいないんで、寂しがってんじゃないかなーってさ。泣き声聞こえたからいそいできたんだぞー♪…なんてねっ」
冗談にしたって、酷い言いぐさだ。
「お前さぁ、人を呼び出しといて待たせるのって、ホント失礼だぞ?」
あまりにも反省の気持ちがない長瀬に対して、説教を口にした矢先。
自分達の目の前を、先程の少年が通り過ぎて行ったのだが。
(あ…れ?)
ふと、何かが引っ掛かった。
「ごめん。悪かったと思ってるよォ。お詫びになんかおごるからさーっ」
まんまとオレの誘導に引っ掛かった長瀬に、
「よしッ商談成立なッ」
そう言って、俺はニヤリと笑った。両手を目の前で組んで、お願いのポーズで俺を拝んでいた長瀬は、「はめられた」…と、苦笑を浮かべている。
長瀬とふざけあいながらも、先程の少年に感じた違和感が何なのか気になって、自然とその姿を横目で追ってしまう。
あいつ…さっきの…。
何処かで見たことあるような?
少年は、この周辺にあまり詳しくないのか、時々立ち止まっては辺りを見回している。
でも、どこでだっけ…?
思い出せそうで、思い出せない。
「とりあえず行こうぜ」
これから向かう方向に指をさして歩き出す長瀬に、俺は
「おう」
と頷くと。
(まぁ…気のせいかな…?)
そうして、その場を後にした。
賑わう駅前。
そんな風に人に見られていたとは露知らず、冬樹は周囲をゆっくりと見て歩きながら、自分の家へと向かっていた。
(この辺りも、だいぶ変わったな…)
記憶にある限りでは、こんなに駅ビルやショッピングモールなどの施設が充実してはいなかった筈だ。
(もう、八年…だもんな…)
八年という年月は、街の景色は勿論のこと、人の人生を変えるのも容易い程に長い時間だという事を自分は知っている。
八年前。
「せんせーありがとうございましたーっ」
子ども達の元気な声が響き渡る。
住宅街のある一軒家。
その家は、そう古いものでは無いのだが、家の主人の趣向で造られた近辺では珍しい日本家屋だった。立派な門構えのその家の入口には、木で造られた看板が掛けられており『中山空手道場』と書かれている。母屋とは別の離れに小さな道場があり、そこでは子どもから大人まで幅広い年齢層を対象とした空手教室などが開かれており、長く地元に親しまれていた。
「みんな、気を付けて帰れよー」
先生の声と共に、
「はーいっ」
「せんせーさよーならー」
稽古を終えた子ども達が元気にその門をくぐってバラバラと出てくる。道着のままで帰る者もいれば、着替えを済ませて帰る者もいる。元気に走って帰る者、疲れ果てた様子で歩く者、実に様々だ。
そんな中、私服に着替えた二人がゆっくりと後から仲良く話をしながら門を出てきた。
その一人が冬樹だった。一緒にいるのは、幼なじみの『まさや』だ。
冬樹・夏樹と雅耶は、家が隣同士で本当に小さな頃からの友人だった。何より母親達の仲が良く、何かと双方の家を行き来する事も多かったのだ。空手教室も雅耶が始めるというので、一緒に通うことになったようなものだった。
「おわったなー。きょうはけっこうつかれたよなー」
道着が入ったバッグを片手に、大きく伸びをしながら雅耶が言った。
「うん。けっこうハードだったよね」
頭一つ分背の高い雅耶を少し見上げて冬樹は笑う。和気あいあいと、その日やった空手のおさらいなどをしながら、いつも通り家までの道のりを歩いていた。
その時。
雅耶の母親が、家の方から慌てて走ってくる姿が見えた。その様子は、子供心にも普通じゃないと分かるようなものだった。
「冬樹くんっ」
何故か冬樹の名を呼んで、血相を変えて走り寄ってくる母に。
「あれーっ?おかあさん?どーしたの?」
雅耶は、特に気にしてもいないのか、明るい能天気な声を上げた。だが、雅耶の母親は、息を切らしながら驚きの言葉を続けた。
「大変なのよっ。今、連絡があって…。夏樹ちゃんとご両親の乗った…車が…」
冬樹は、我が耳を疑った。
崖から海へ転落!?
「う…そ…」
(おとうさんたちが!?)
冬樹は、走り出していた。
「あッ待って!!冬樹くんっ!!」
雅耶の母の制止の声も耳には入らない。
(うそ!!うそだっ!!)
信じたくない。
(おとうさん!おかあさんっ!)
はあはあ…と、息を切らしながらも必死に家までの道のりを駆けていく。
それに…
それに、その夏樹は!!
信じたくないのに。
信じてなんかいないのに、知らず涙が零れそうになって、冬樹は全速力で走りながら手の甲で涙をぬぐった。
冬樹の頭の中を、過去の出来事がフラッシュバックする。
「え?カラテ?」
家で、冬樹と夏樹二人で遊んでいた時のこと。
『空手を習ってみない?』…という、母からの突然の聞き慣れない言葉に、冬樹は不思議そうに聞き返した。
「そう、空手。お隣の雅耶くんも習いに行くそうよ」
「まさやも?」
仲良しのまさやの名前が出て、冬樹は興味が湧いたようだった。
「じゃあ行きたいなっ」
それを傍で聞いていた夏樹も興味が湧いたのは同じだった。
「えーっ!なつきも行きたいよう、おかあさんっ」
「えーっ?なっちゃんはダメよ、女の子なんだから…。今よりお転婆になったら困るもの」
笑ってかわされてしまう。
「えーっ!行きたいよーっ」
「だーめっ」
「えーっ!」
結局、母は首を縦には振ってくれなかった。
部屋の片隅で泣きべそをかいている夏樹の様子を見兼ねて、冬樹はこっそりと声を掛けた。
「そんなにカラテやりたい?なっちゃん…」
優しく微笑みを浮かべて聞いてくる冬樹に。夏樹は涙を浮かべながら素直に、
「うん…」
と、頷くと。冬樹も「わかった」…と、言うように小さく頷いた。
そして、人差し指を唇に当てて「しーっ」と言いながら、一度後ろを振り返り母親が近くに居ないことを確認すると、小さな声で言葉を続けた。
「じゃあさ、いつもみたいに入れかわって、代わりばんこにいこうかっ」
楽しいイタズラを思いついた時のように冬樹は笑顔を見せると、小さくウインクをひとつする。
「でも…ふゆちゃん…」
「そのかわり…その日やったことは、おたがいに教え合うんだよっ。いっしょに見に行っても良いし。ねっ?」
夏樹の頭を優しく撫でながら、慰めるように言った。
「うん…。ありがとう、ふゆちゃん…」
ふゆちゃんは、いつだってやさしくて
なつきに、たくさんの元気をくれる。
だいすきな…
たいせつな――…
夏樹の頭の中には、そんな冬樹の笑顔ばかりが浮かんでは消えていく。
(ふゆちゃん!!)
必死に走っているのに。
家までのいつもの距離が、随分と長く感じた。