8‐1
午後6時過ぎ。
(すっかり、遅くなっちゃったな…)
雅耶は、昼間行われた空手大会の打ち上げ祝勝会に出席する為、直純のお店『Cafe & Bar ROCO』を目指して走っていた。混雑している通りに入ると流石に走ることは叶わず、人を避けながら足早に歩いて行く。
店の前に到着すると、雅耶は足を止めて一度だけ深呼吸をした。入口のドアには『本日貸切』の文字が貼られている。
(もう、始まってるよな。遅れることは先生に連絡入れたし大丈夫だろうけど…)
意を決して、そっと店のドアを開けると。
「雅耶っ!遅かったじゃねーかっ!!」
雅耶に気付いた仲間の声に、皆が反応してちょっとした騒ぎになった。
「遅くなりましたー、すみません!お疲れ様ですっ」
雅耶は苦笑を浮かべて入って行くと、
直純がカウンターから「やっと主役のお出ましだな」と声を掛けてきた。
「お前、主役なのに遅いんだよっ!」
「早くこっち座れよっ」
皆に引っ張られながら、空けてあったテーブル席へと座らせられた。
そうして雅耶の優勝を祝い、二度目の乾杯が行われたのだった。
少し落ち着いた頃、雅耶は飲み物を持って直純のいるカウンターへと移動した。
「よっ。お疲れさん」
直純は笑顔で声を掛けてくる。
今日は店が休みで仁志も冬樹も居ない為、直純が一人カウンター内に入って料理を出したりしていた。普段とは違って、自分も飲んだり食べたりしながら…だが。
「…すみません。遅刻してしまって…」
雅耶が座りながら頭を下げると。
「いや、別に問題ないさ。でも…何かあったのか?何だか元気ない感じだな…?」
そう言って直純は雅耶の顔をじっと眺めた。
(直純先生には、ホント…隠し事出来ないな…)
その観察力には、いつも驚かされてしまう。
「冬樹を家に送って来たんです。それで少し遅くなって…」
そこまで口にして、雅耶は内心でハッ…とした。昼間のことは、あまり事を大きくしない方がいいと思ったからだ。
それに…。
冬樹のことで、直純先生を頼りたくはなかった。
変な意地が自分の中にあるのを自覚しながらも…。
(譲れない…。譲りたくない…)
雅耶は言葉を区切ると。
「…ただ、それだけです」
そう言って笑顔を見せるのだった。
一方の冬樹は…。
自宅アパートへ帰宅後、倒れるようにベッドに突っ伏して横になると、そのまま物思いにふけっていた。様々なことが頭の中で渦巻いている感じで、部屋の暑ささえも気にならなかった。
昼間の出来事が頭から離れない。
あの男が言っていた『データ』とは何なのか。
(男は『お前の親父から預かっているデータ』…と言っていた。お父さんの仕事関係の何か…大事なデータがあるんだろうか…?)
でも、今更だと思った。
何で今になって?
それも、家に忍び込んでまで?
(表立って探すことが出来ない、何か理由があるのかも…)
そうでなければ、あんな…。
命の危機さえ感じる程の…脅しを受ける意味が分からない。
(でも、それを別の誰かが家から持ち出した…?)
暗くて分からなかったけれど、あの部屋には隠し扉があったと男は言っていた。
以前も家に入って探したんだろう、その頃は見つからなかったとも。
(でも…いったい誰が…?)
思い当たる人物などいない。
あの部屋の入口は、いつも鍵が掛かっていた。
(あの事故の後も…。オレが伯父さんの家に行く前までは、確かに閉まっていた筈だ…)
今開いてるのは、以前あの男が忍び込んだ時に開けたのだとしても、隠し扉の場所なんて、父の他に知る者がいるのだろうか…?
もしも、別の誰かが偶然その扉を見つけたのだとしても。
それは…あの男以外の誰かが、同じようにあの家に忍び込んで探していた、…ということになるのだ。
怖い…と思った。
故人の家に忍び込んでまで手に入れたいデータとは、どんな重要な代物なのだろう。
(それをオレが持ってると勘違いされてる、なんて…。有り得ない…)
『…今日は引くが、逃げられると思うなよ』
男の低く呟く声が、未だ耳に残っている。
(オレを疑っている以上は、またオレの前に現れることもある…ってことだよな…)
だが、自分は相手の声しか知らないのだ。
顔も分からないその人物が、何時・何処で自分を見ているのかも分からないだなんて。
考えれば考える程、それは恐怖でしかなかった。
思い出すように急にズキズキと痛み出した首元に、冬樹はそっと手を添えた。
(結局…雅耶には本当のことを言えなかったな…)
関係のない雅耶を余計なことに巻き込みたくなかった。
だから、あの男が言っていたことなどは何一つ雅耶には話していない。ただの空き巣らしき人物に偶然出くわしてしまった…ということになっている。
でも…。
心から心配してくれている雅耶に嘘をついてしまったことの罪悪感がどうしても消えないでいた。
(今の『冬樹』という存在そのものが『嘘』の塊なのにな…。今更、そんな小さなことを気にしてるなんて…笑っちゃうよな…)
冬樹は、自嘲気味に頬を緩ませた。
あの後…雅耶は、心配してずっと傍についていてくれた。
帰る時も、祝勝会の時間が近付いていたのに、わざわざ家まで送ってくれた程だ。
(雅耶は過保護なんだよ…)
そして、無条件に優しい。
野崎の家を出ようという時に、オレを家まで送って行くと雅耶が言い出したので、本当はその場で断るつもりだった。
「…もう、オレは大丈夫だから…お前は祝勝会行ってこいよ。主役が遅れたらみんなが困るだろ」
笑顔を見せて、平気さをアピールした。
だが、雅耶は有無を言わさぬ口調で言い放った。
「もう、直純先生には遅れるって連絡を入れてある。それに…。こんな時ぐらい少しは頼ってくれてもいいんじゃないか?冬樹…」
「………」
真っ直ぐに見詰めてくる瞳。
この表情には見覚えがあった。
空手の時見せていたのと同じ…真剣な眼差し…。
「お前が、今まで一人で気を張って生きて来たのは解る。でも、今は違うだろ?今は…俺が隣にいるんだ」
「…雅耶……」
「俺には、あんな目にあったお前をこの場に放って置くことなんて出来ないよ。お前は大したことじゃないから公にしたくないと言ったけど…そうやって拒むなら俺にだって考えがある」
「…考え…?」
「そう。警察に行く」
「…雅耶…」
(…脅しかよっ)
思わず心の中でツッコミを入れてしまう。
「だって、心配で仕方がないんだ…」
徐々に陽が陰り、薄暗くなってきた家の中で。
雅耶は床に座り、目の前のソファに座る冬樹の目を真っ直ぐに見詰めながら言葉を続けた。
「冬樹は何でも一人で頑張り過ぎなんだよ…」
「前にお前…『いつまでも…昔のままじゃない』って俺に言ったの覚えてるか?」
「あ…ああ…。覚えてる…けど…」
突然の話題の切り替えに、戸惑いながらも冬樹は頷いた。
「確かに俺たちは、昔のままじゃない。夏樹と三人で遊んでたあの頃には、もう…戻れないのかも知れない」
「……っ…」
雅耶の口から『夏樹』の名前が出てきて、心の内で思いのほか動揺する。
「あの事故が、お前にとって人生を変えてしまう大きな出来事だったのは分かるよ。あの時、俺達はまだ小さくて…。何も自分で選ぶことすら出来ない子供だった。だから、お前は親戚の家に行くしかなかったし、俺もお前がこの家からいなくなってしまっても、どうすることも出来なかった…」
「………」
冬樹は黙って雅耶の言葉に耳を傾けていた。
「あの時、俺は…。後から親に『冬樹は親戚の家に引き取られたんだ』って聞いて…。何も出来なかった自分の無力さに泣いたんだよ」
思わぬ雅耶の独白に。
冬樹は何も言えなくて、視線を下に落とした。
(オレ、ここに残された雅耶の気持ちとか…考えたことなかった…。結局、いつだってオレは自分のことばっかりだったんだな…)
何だか、涙が出そうだった。
「だから…高校で偶然お前に再会することが出来て、本当に嬉しかったんだ。でも、久しぶりに会ったお前は、何だか拒絶オーラ出しまくりでさ、最初はびっくりしたけどな…」
下を向いてしまっているオレを気使うように、冗談めかして笑って言った。
「…酷い言いぐさ、だな…」
泣きそうなのをこらえて、悪態をつく。
そんな素直になれないオレの部分さえも、分かってくれているように雅耶は笑って受け止めてくれる。
「でもさ…こうしてお前にもう一度会えたことで、俺は心に決めたことがあるんだ…」
顔を上げると、穏やかに微笑む雅耶と目が合った。
「お前が辛いと思う時には、今度こそ俺が力になってやるんだって。もう今は何も出来ずにいた子供の頃の自分とは違うんだって…。まぁ…実際には、大した力はないかも知れないけどさ」
「…雅耶…」
「でも…。だから…もっと、俺のことを頼って欲しい。お前は何でも自分でこなしてて偉いと思うよ。でも…辛い時や疲れた時ぐらいは寄り掛かれよ」
照れながらも、真っ直ぐに伝えてくる雅耶に。
冬樹は想いが込み上げてきて、再び視線を落とすと。
小さく頷いて「…サンキュ…」と、呟いた。
冬樹はベッドに伏せた状態から仰向けに体勢を変えると、目の前にある白い天井をぼんやりと眺めた。
雅耶の優しさは、正直嬉しい…と思う。
でも…その優しさに甘えていると、何だか『冬樹』でいられなくなってしまうような気がするのは何故なんだろう…。
昔から変わらない、人懐っこい笑顔。
自分を真っ直ぐに見詰めてくる優しい瞳。
隣にいると安心する、空気感。
そして…。
ピンチの時には助けに来てくれる、頼もしい幼馴染。
(…今日のは、たまたま運が良かっただけだけど…)
でも、雅耶があのタイミングで来てくれなかったら、自分はどうなっていたか分からなかった。
あの男は『殺しはしない』…とは言っていたけれど、何の情報も持たないと判った時点で、何をされるか分からない。
それ位、あの男からはどこか危険な『臭い』がした。
だから、今日は本当に雅耶に命を救われたと言っても良いだろう。
(前に…西田さんに絡む上級生達に掴まった時も、突然雅耶が助けに入ってくれたんだよな…)
もう駄目だと思った瞬間、突然目の前に現れた広い背中に驚いた。
あのゴツイ上級生にも力負けしていなかった雅耶。
そして、言葉は丁寧なのに相手を怯ませる程の鋭い気迫で…。
妙に雅耶が大きく見えたのを覚えている。
(あの時も…。倒れたオレを、雅耶が保健室まで抱えて運んでくれたんだっけ…)
そんなことをぼんやりと思い返していた時。
突然…昼間雅耶に横抱きに抱え上げられた時の光景が、冬樹の脳裏をかすめていった。
自分とは違う…Tシャツの袖から伸びる逞しい腕に、軽々と抱え上げられた時の、その雅耶の力強さと。抱き留めるその腕には、自分の身体を気遣うような優しさも感じられて。
その時の雅耶と自分との距離の近さを改めて思い起こしてしまった冬樹は、突然ガバッ…と飛び起きた。
「……っ…!」
咄嗟に左手で口元を押さえる。
妙に心臓がドキドキ…と、音を立てていた。
いつもよりも早いリズムを刻む、その自分の胸にそっと右手を押し当てると。
「な…何だって…いうんだよ…。そんな…今更……だろ…?」
冬樹は、思わず行き着いてしまった自分自身の気持ちの答えに驚きを隠せなかった。
暫く呆然としていたが、不意に部屋の中の暑苦しさを感じて、冬樹はベッドから降りると窓を開けた。
「………」
窓を開け放っても外の空気は蒸し暑く、熱を持った頬を冷やす事は出来なかった。
午後8時半過ぎ。
『Cafe & Bar ROCO』で開かれていた打ち上げ祝勝会は、無事お開きになり、店の前にはぞろぞろと人が溢れていた。
そのまま二次会に流れる大人達もいれば帰路に着く者もいて、皆それぞれがバラバラの方向へと散って行く。
この半端な時間にお開きになるのは、沢山いる学生や子ども達の帰る時刻があまり遅くならない為の、直純なりの毎度の気遣いだった。
直純と話し込んでいた雅耶が、最後に店を出て来る。
「それじゃあ…先生、また稽古お願いしますっ」
「おう、またな。今日は本当におめでとうなっ」
見送りに出て来た直純に雅耶は一礼すると。
「おーいっ雅耶っ。こっちこっち。帰るぞー」
「あっ、うん。今行くー…」
待っていてくれた仲間達の元へと足を向けたその時だった。
「あ…あのっ…久賀くんっ」
雅耶は、横から現れた人物に突然呼び止められた。
「…えっ?」
そのまま目の前に飛び出してきた人物に、慌てて雅耶は足を止める。
それは雅耶には見覚えのない、知らない女の子だった。
女の子は真っ赤な顔をしてじっ…と、こちらを見上げている。
「え…っと…?」
雅耶は戸惑いながらも、その子が自分の名を口にしたので、何処かで会っただろうかと頭の中で必死に模索していた。
女の子は暫くモジモジしていたが、意を決したように両手を雅耶の前に掲げると「これっ!」…と、大きな声で言った。
その手には、一枚の封筒が掲げられていた。
「久賀くんのことが好きですっ!その…良かったら、付き合ってくださいっ!!」
女の子は大声で言い切った。
「……っ!?」
驚きのまま固まっている雅耶の後ろで、仲間達が「おおーーーっ!」…と、大きな唸り声を上げていた。未だ店先に立っていた直純も、突然目の前で始まった告白劇に驚き、目を見開いてその様子を眺めていた。
その翌日以降。
成蘭高校の校門前には、放課後になると毎日のように誰かを待ち続ける女の子が目撃されるようになった。
女の子は、成蘭高校の近くにある私立女子高の制服を着ていて、流石に男子校の前では目立つ存在だった為、噂が校内に広がるまでに数日も掛からなかった。
そして、その相手が雅耶であることも、すぐに周囲には知られることとなる。
そして…。
それは冬樹の耳にも当然、自然に入って来るのだった。