7‐3
感情がこもって思わず零れ落ちた涙に。
(泣いてたらダメだ…。もうすぐ雅耶が来ちゃうかも知れない…)
慌ててランドセルを元の机の上に戻すと、手の甲でゴシゴシと目元の涙を擦った。
どうしても、思い出が一杯のこの部屋にいると泣きそうになってしまうので、冬樹は早々に子ども部屋を後にした。
二階の他の部屋をそっと覗いて、それぞれ特に変わりのない様子を確かめると、冬樹はまた階段を降り始めた。
が、ふと…違和感を感じる。
(あれ…?さっき…向こうのドア…開いてたっけ…?)
階段の途中から見える位置にある、奥の部屋へと続く扉が僅かに開いているのだ。
(向こう側には、まだ行ってない…。さっき上へあがる時はしっかり閉まっていた筈だ…)
冬樹は下まで降りると、足を止めた。目の前の玄関には、自分の脱いだ靴のみが置かれている。
(雅耶でも、ない…)
第一、雅耶なら勝手にあの奥へ入って行く筈がない。
(あの奥は…お父さんの部屋…だ…)
父の仕事関係の物が沢山置いてある部屋で、普段父が不在の場合は鍵が掛けられていた、いわゆる『書斎』のようなものだ。父の許しがない限りは、入室を禁じられていた部屋。
(鍵が…開いている…のか?)
あの事故があった後、伯父の家に引き取られて行く前には確か、鍵が掛かっていたのを覚えている。
(いったい…誰が…)
その部屋の鍵を開けられたのか?
そして、今、まさにその扉を開けたのは…?
冬樹は警戒しながらも、その扉へ吸い寄せられるように近付いて行った。
そっと…扉を押すと。
キィィ…と、小さく音が鳴り、扉は奥へと開いた。
「………」
その部屋には窓がない為、暗闇が広がっていて中の様子は良く見えない。
神経を研ぎ澄ますように、警戒しながら中を伺う。だが、特に何者かの気配を感じることは出来なかった。
瞳を凝らして見てみても様子の分からないその闇の中に、冬樹が一歩…足を踏み入れたその時だった。
「――っ!?」
まるでその一瞬を狙っていたかのように。
突然、闇の中から伸びてきた腕に掴まれ、部屋の中に勢いよく引き込まれた。
咄嗟のことで反応出来ず、よろめいた次の瞬間。
ダンッ!!
両肩を正面から掴まれ、その背を壁に思い切り打ち付けられた。
「ぐっ…は…っ…」
反動で後頭部も強打した冬樹は、息を詰まらせた。
冬樹は一瞬、何が起きたのか分からなかった。
頭がガンガンする…。
痛む背中と後頭部への衝撃で朦朧としているところに、闇の中に潜む相手の腕が伸びて来て、首元を締め上げてきた。
「……くっ!」
反射的に『ヤバイ』…と思いつつも、すぐに反応出来ずにその腕を引き離そうと、もがくだけに終わる。
(くそっ。泥棒か何かかっ?…何でっこんなところに…)
その闇の中の人物は、冬樹の自由を奪う程度の力具合で締め上げながら、低い声で問い掛けてきた。
「…データは何処だ?」
「なっ…に…?」
低い声。声を聞く限りでは、成人男性の声のようだった。
微かに煙草の匂いがする。
「…お前の親父から預かっているデータだ。…何処にある?」
(データ?…仕事の関係者か何かか…?)
「し…知らなっ…」
何のことか分からずに、そう答えると、
「嘘をつくなっ」
男は僅かに声を荒げて、腕に力を込めて来た。
「う…っ…」
その腕を引き剥がそうとするが敵わない。
男の手に爪を立るてようにしても、手袋のようなものがはめられているので大したダメージは与えられない。
「…くっ…」
「…最近になってお前が持ち出したことは全部分かってるんだぜ?以前は見つからなかったこの部屋の隠し扉が開いていたからな。まさか、あんな所に扉が隠されてたとは、流石に驚いたぜ…」
男は、苦しむ冬樹の顔のすぐ真上から見下ろすように話し掛けてくる。男の煙草臭い吐息を目の前に感じて、冬樹は不快感で一杯だった。
それに…。
(隠し扉…?そんなものが、この部屋に?)
男の言っていること、何もかもが分からない。
「そ…んな…のっ…、知らな…」
「強情だなっ。…だが、そろそろこちらも本腰入れて掛からないと、命懸かってるんでな。…殺しはしない。全部吐いてもらうぜ?データの在り処をなっ」
「……っ…」
息が出来なくて、苦しくて…。
暗闇で殆ど何も見えないけれど、涙で視界がにじんだ。
(も…う……)
次第に、意識に霞が掛かり始めたその時。
遠くで、ガチャ…という玄関のドアが開く音と共に。
「冬樹ー?」
雅耶が自分を呼ぶ声が聞こえてきた。
(まさ…や…。来ちゃ…ダメ…だ…)
男は「チッ」…と小さく舌打ちをすると、雅耶の動向を探るように神経を集中させている。
雅耶は、玄関でもう一度「ふゆきー?」と声を上げているようだったが、返事がないのを確認すると、
「上がらせてもらうぞー?…お邪魔しまーすっ」
そう言って、家に上がったようだった。
雅耶の冬樹を呼ぶ声と足音がリビングの方へと移動したのを確認すると男は、
「…今日は引くが、逃げられると思うなよ」
そう、冬樹の耳元で呟くと。
締めていた首から素早く手を離すと、足早に部屋から出て行った。部屋を出た方向と足音から、向かった先は家の裏へと出られるキッチンの勝手口だと理解する。
(良かった…。雅耶に…危害を加えられなくて…)
そんなことを冷静に思いながらも、自身の身体はいうことが利かず、その場に崩れるように倒れ込んでしまう。
途端に咳が出て止まらなかった。
突然聞こえた人の足音と、別の物音に雅耶は反応すると、一瞬どちらへ向かうか迷ったが、すぐに冬樹の苦しげに咳込む声を聞いて書斎の方へと足を運んだ。その真っ暗で何も見えない部屋の中から、声を頼りに手探りで冬樹を探し当てると、雅耶は抱きかかえてとりあえず部屋を出た。
明るい場所へ連れ出してみて、やっとそこで冬樹の状態を目にすることが出来た雅耶は、一瞬我が目を疑った。
「冬樹っ…いったい何があったんだっ?」
ぐったりとした冬樹の、その細くて白い首には力を込められた手の跡のようなものがくっきりと赤く残っていたのだ。
「ま…さや…。ご…め…」
「バカ、何で謝るんだ」
雅耶は冬樹をリビングまで横抱きに抱えて来ると、ソファが汚れていないのを確認して、そこにそっと横たえた。
雅耶自身は床に膝を付き、冬樹の様子を横で見守りながら回復を待つ。
「も…う…大丈夫…だ…」
散々咳込んで呼吸も儘ならなかったのが、だいぶ落ち着きを取り戻してきた頃、冬樹がゆっくりと顔を起こして言った。
「無理するなよ…」
起き上がろうとする冬樹を制して、横にならせながら雅耶は言葉を続けた。
「何があった…?冬樹…。さっきまで、お前の他に誰かいたよな?」
真剣な眼差しで問われ。
何処まで雅耶に話したらいいのか、冬樹は考えていた。
雅耶を危険なことに巻き込みたくはなかった。