7‐2
「ごめんな、冬樹…。何だかんだ言って結構待たせちゃって…」
私服に着替えた雅耶が、申し訳なさそうに靴を履きながら出て来た。
場所を変えて道場の外の木陰で待っていた冬樹は、
「…別に急いでる訳じゃないし、いいよ」
そう言うと、手に持っていたスポーツドリンクをさり気なく差し出した。
「オレからの優勝祝い…」
そう言って悪戯っぽく笑う冬樹に。
「あ…ありがとっ…」
思わぬ人からの思わぬ差し入れに、雅耶は満面の笑みを浮かべた。
トロフィーや賞状を貰った時よりも数倍も嬉しかったなんてことは、誰にも言えない秘密だ。
まだまだ陽の高い時刻。
梅雨の中休みとはいえ、既に真夏の日差しが照りつけていて、ジリジリとした暑さが二人を包んでいた。
道場から家までの懐かしい道のりを、二人並んでゆっくりと歩いていく。
嫌でも蘇るのは、あの日の出来事。
その時の光景は、今でも鮮明に冬樹の頭に残っていて。今にもこの道の向こうから、雅耶の母親が慌てて走ってくる姿が見えてくるようで…。
冬樹は、ズキズキと痛みながら自分の鼓動が早くなるのを感じて、左胸の前にぎゅ…っと握り拳を当てた。
(雅耶が一緒にいてくれて、逆に良かったかも…)
一人だったら、この場から動けなくなっていたかも知れない。
冬樹は、気を紛らわすように努めて明るく口を開いた。
「今日は、雅耶の意外な一面を見せて貰ったって感じだな…。意外にカッコ良かったよ」
「そうか?…って!『意外』じゃないだろ?『いつも』だろーっ?」
雅耶は冬樹の様子には気付いていたが、敢えてそこには触れず、わざと明るく話に乗った。
そんな雅耶の気遣いに冬樹も気付きながら、心の中で感謝すると、二人で声を上げて笑い合った。
「でも、優勝なんてホント…凄いな」
「いや…たまたまだよ。それに小さな大会だしな。高校の方じゃ、こんな風には行かないよ」
「成蘭の空手部って強いらしいね」
「んー…まぁ、実力ある先輩達が集まってるかな。でも、空手部がある高校自体少ないからね…」
「そうなんだ…」
何気ない会話をしながら、歩いて行く。
少し会話が途切れた後、不意に雅耶が足を止めて口を開いた。
「お前は…?今日の試合観て、また空手やってみたいとか思わなかったか?」
思いのほか、真面目な顔して立ち止まっている雅耶を振り返ると、冬樹もゆっくりと足を止めた。
「…駄目だよ。オレのはもう空手なんかじゃない…。今日の雅耶の試合観てて余計にそう思った」
「何で…?」
真っ直ぐに問われて、冬樹はいたたまれずに視線を逸らすと言った。
「オレは『空手』を既に穢しちゃってるからさ…」
「冬樹…」
「今まで散々…喧嘩とかに利用してきたんだ。既にただの暴力なんだよ。それこそ、柔道部の顧問にスカウトされちゃう位、自己流の混ぜこぜでさ…」
そう自嘲気味に笑った。
「………」
「でも、だからこそ…今日お前の試合観てて、オレ感動したのかも。凄く格好いいって…そう思った…」
それが、自然に出てきた自分の本当の気持ちだった。
(そうだ…オレ…。雅耶の試合観てて『格好いい』って思ったんだ…)
雅耶の空手は、形が綺麗で本当に格好良かった。
見ている内に、どんどん引き込まれていって…。
雅耶から目が離せなくなった。
真剣な眼差し。そして気迫。
素早い迫力ある動き。力強い動作。
大きな背。長い手足。
強靭な身体。
その、自分にはない雅耶の『男らしさ』にどきどきし…て…?
(…って…。ちょっと待てっ!)
冬樹は、心の内で声を上げていた。
(それって…何か…男同士の…友人に対して思う『格好いい』とは違うような…?)
自分でツッコミを入れつつ、思わぬ衝撃が頭の中を駆け抜けて行った。
(いや…空手の試合をあんなに間近で見たことがなかったから…。きっと、変に興奮しただけだ。…と、思いたい…)
だが、そんな心の葛藤を表には出さず何とか言葉を続ける。
「と…とにかく。オレにはもう空手をやる資格なんかないんだ。やる気もないし、やれる自信もないよ…」
冬樹は前を向いて、ゆっくり歩き出した。
(何故だろう、頬が…熱い…)
「そっか…。残念だな。お前とまた空手が出来たら良いなって思ったんだけどな」
雅耶は残念そうに後ろで呟いていたが、それ以上は何も言わなかった。
冬樹は自宅の前で足を止めると、その懐かしい家を見上げた。
誰も住んでいないまま放置された家は、年月が経過していることもあり、かなり古びた様子が伺えるが、何より酷いのは庭だった。
(想像以上に荒れてるな…)
草木は伸び放題。門から玄関まで続く通路でさえ、草を掻き分けて行く感じだった。
小さな頃、兄や雅耶と遊んでいた広くて明るい庭の面影は、もうそこにはない。広さに関しては、自分の目線が変わってしまったこともあるのだろうけれど…。
(とりあえず…入ってみるか…)
冬樹は一人、その草に埋もれた庭に一歩足を踏み入れた。
雅耶は、一度家に帰ってシャワーを浴びてくると言うので、先程久賀の家の前で別れた。
後で雅耶も家に顔を出すことになっている。
別れ際、「俺も一緒に行こうか?」…と、心配した様子を見せていたが、大丈夫だと笑顔で別れてきた。
不安はある。
(本当は…怖い…)
でも、懐かしさも大きくて…。
以前とは全然違う位置にある(ように感じる)ドアノブに手を掛けると、持っていた鍵を差し込み、カチャリ…と回した。
二か所ある鍵を開け終わると、冬樹はゆっくりとドアノブを握った。
玄関ドアは、ギィイイイ…と、重く軋んだ音を立てた。
その頃、久賀家では。
「えっ?優勝したのっ?あんたがっ?」
雅耶の母親は信じられないという顔をして、トロフィーと賞状を交互に見た。
「驚きでしょ?俺自身もビックリだもん」
雅耶はそんなことを威張って言いながら、浴室へと向かった。
「だから、祝勝会と打ち上げを直純先生のお店でやるんだって。俺、シャワー浴びて出掛けるから…」
「あら、そうなの?そんなにすぐ始まるの?」
廊下にいる母親と脱衣所から会話をする。
「いや…打ち上げは5時半からなんだけど。今さー冬樹が隣に来てるんだよ」
雅耶はTシャツを脱ぎながら言った。
「冬樹くんが?…ああ、それで何か業者さんが来てたのね」
そんな母親の言葉に。
「は?業者…?何ソレ?」
脱衣所から顔を出すと、母親の顔を見て聞き返す。
「何かね、今朝何処かの業者の人みたいなのが、お隣に来てたのよ。作業着の…」
「…ふーん…?」
(そんな話、冬樹してなかったけどな…)
雅耶は疑問に思いながらも、とりあえずシャワーを浴びることにした。
冬樹はリビングを少し覗いた後、自分達の部屋があった二階へと移動していた。
家の雨戸は全て閉じられていて家の中は薄暗かったが、雨戸のない小窓や隙間からの光で、歩く分には困らなかった。
家の中は、全体が埃っぽい以外はあまり以前と変わりなかった。家具や小物など、殆どそのままの形で残されている。でも、家の管理を任されている伯父が、時々訪れたりすることがあるのだろうか。床にはあまり埃がなく、靴下が黒く汚れるようなことはなかった。
二階の子ども部屋へ入ると、そこも殆どそのままの形で残されていた。
布団が敷かれていない、空の二段ベッド。
対のように配置されている同じタンス、そして机。
だが、一方の机の上にだけ…赤いランドセルが置かれていた。
(これは…『夏樹』の…)
冬樹は、以前自分が使っていたそのランドセルを手に取った。
埃にまみれてしまったそれ。
これも、兄とお揃いのメーカーの色違いだった。
(これ買って貰った時は、この赤いランドセルが嬉しくて仕方なかったのに、ふゆちゃんと雅耶が同じ黒のランドセルで…『お揃いズルい!一人だけ赤なんてヤダ!』…って駄々こねたんだよな…)
溢れてくる思い出に…。
懐かしさに、涙が出そうになる。
思い出に浸っている冬樹は、気が付かなかった。
この家の中に潜む、もう一つの影がいたことに…。
その影は、冬樹の動向を確認しながら。
そっと気配を消して、ある機会を窺っていた。