1‐2
気が付くと布団の中だった。
カーテンの僅かな隙間から光が差し込み、白い壁に光の線を描いている。
(もう、朝か…)
うつ伏せに寝返りを打ち、枕元の目覚まし時計を両手に取る。時計の針は、5時5分を指している。
(5時過ぎ…まだ早いじゃんか…)
ちょっと乱暴気味に目覚まし時計を元の位置に戻すと、もう一度仰向けに寝返りを打った。まだ、頭は半分眠っているカンジだ。
もう一度、寝直そうと思えば簡単に眠りにつくことが出来そうだったが、先程見た夢が妙に頭に残っていて、意識を徐々に現実へと引き戻してゆく。
普段は夢を見ても、目が覚めると忘れてしまっていることが殆どなのに、こういうケースは珍しい。
(こんな日に限って、昔の夢を見るなんて…な)
軽く溜息をつきながら、そんなことを思う。
(今日でこの家ともお別れ…か…)
彼、野崎冬樹は現在15歳。先日、中学校を卒業したばかり。現在、春休み中。この四月からは、私立高等学校への入学が決まっている。
そして、高校入学と同時に彼は、独り暮らしを始めることを決意していた。
高校合格が決まったと同時に、冬樹はこの家を出て行く旨を八年間お世話になった伯父と伯母に伝えた。
伯父は父の兄に当たる人物だ。口数が多い方ではないが、甥である自分を躊躇いもなく家に迎え入れ、いつでも静かに見守っていてくれた温かい心の持ち主だった。伯母も優しい人で、そんな伯父の意志に従ってか、他所の子供である自分にも実子と分け隔てなく普通に接してくれていた。冬樹にとっては、感謝しても感謝しきれない…頭の上がらない人達だ。
「どうしても出て行くというのか…冬樹」
伯父は静かに、もう一度こちらの意志を確認するように言った。それまで俯いていた冬樹は、ゆっくりと顔を上げる。すると、向かい側のソファーに座って、真剣な眼差しで自分を見つめている伯父の目とぶつかった。その後ろには、そんな二人の様子を心配そうに見守っている伯母の姿がある。
そんな二人の様子を交互に見つめ返しながら、冬樹は静かに口を開いた。
「はい。中学を卒業したら…前、居た所へ帰ります」
本当は、少し胸が痛かった。それでも、それを表情には出さず、冬樹は深々と頭を下げると、
「おじさん、おばさん…今までお世話になりました」
そんなありきたりの言葉を口にした。それを言うのが…やっとだった。
その後は、伯父と伯母の顔をまともに見ることが出来ず。軽く一礼して無言で立ち去る冬樹の後ろ姿に、ただ伯父は。
「いつでも戻ってこい」
そう、呟いただけだった。
そして、今日がその…家を出ていく日なのだ。
すっかり陽はのぼり、暖かい春の日差しが満開の桜の花びらを透き通らせる頃。冬樹は、出発の準備を整えていた。
大まかな物は、先日全て引っ越し先へと運んでいる為、荷物は普段持ち歩いているリュックサック一つだけだ。もともと、あまり物を持っていない冬樹にとって引っ越しは、割と楽な作業であった。勿論、伯父達の協力は不可欠だったが。
(これで、忘れ物はないな)
身辺の備品等をリュックに詰め込んだ冬樹は、立ち上がるとほぼ空になったクローゼットの中から、唯一掛かっている自分のジャンパーを取り出すと、長袖のTシャツの上に羽織った。
「本当に出て行くのね」
部屋を出た途端、横から声を掛けられる。そんな突然の声に驚く様子もなく、冬樹は無表情のまま、ゆっくりと相手の方を振り返った。声の主は、この家の一人娘、真智子だった。
冬樹のいとこに当たる彼女は、冬樹より七つ年上の二十二歳。肩にかかる長さの軽やかなパーマ姿に明るめに染めた茶髪が、気の強そうな彼女の雰囲気に妙に似合っている。彼女は、短期大学卒業後、大手商社に就職し、現在は、すっかりOL生活を満喫し遊び歩いているのか、普段は休みの日でもめったに家に居ることはなかった。そんなこともあって、冬樹がこんな風に真智子とゆっくり顔を合わせるのは随分と久し振りのことだった。
二人は、暫くの間無言で向き合っていたが、その沈黙を先に破ったのは冬樹の方だった。
「真智子さん、今までお世話になりました」
軽く頭を下げる。
すると、冬樹のその一声に、一瞬真智子は少しムッとした表情を見せたが、溜息をつくと諦めたように言葉を返した。
「まったく…皮肉よね。あんたが出て行くって時に、初めてあんたに名前呼ばれるなんて」
「………」
表情を変えない冬樹。そんな冬樹の様子を見て、真智子の瞳が僅かに揺らぐ。
「あの事故からもう、八年が経つのね。早いわ…」
冬樹から視線をそらすと、頬に掛かる髪を左手でかき上げた。そして、壁に寄り掛かり目を伏せると、記憶を手繰るように言葉を続けた。
「あの時、あんたはまだ…七歳の小学生だった…」
それは…真智子がまだ、中学生だった頃のこと。
普段通りに朝食を済ませ、そろそろ家を出ようと席を立ったその時、突然父に真剣な顔で呼び止められた。
「真智子…。今日から冬樹くんが、うちに来るんだよ」
「…えっ?ふゆき…?」
突然の話に。最初は意味が分からず、?を飛ばしていた。
「真智子のいとこの冬樹くんだよ。ほら…夏樹ちゃんと双子の…」
双子…と聞いて、初めてその人物が脳裏に浮かんだ。
「ああっ!あのそっくりな双子の…。前に一度だけ遊びに来たよね。『まちこおねぇちゃん』なんて言いながら、二人して私の後をずっとくっついて来たんだよね」
その可愛かった小さな兄妹の様子を思い出す。いとこでありながらも、歳も離れているせいかあまり行き来する機会が無かったのだが、以前…一度だけ家族でこの家に遊びに来たことがあった。でも、二人はあまりにもそっくりで、結局…どちらがどちらなのかまったく区別もつかないまま別れてしまったのだが。
父も、その時の様子を思い出していたのか、少し微笑みを浮かべて話をきいていたのだが、不意に口を引き結ぶと、今度は辛そうな顔になった。
「実はね、真智子…。その冬樹くんのお父さんとお母さん、それから双子の夏樹ちゃんが…」
「?」
「先日、交通事故に遭ってね…。亡くなってしまったんだ」
「え…?う…そ……」
思いもよらなかった言葉に。真智子は、驚きで一杯だった。
「ちいさな冬樹くん、独りぼっちじゃ…かわいそうだろう?」
聞けば、まだ彼は小学二年生だという。そんな小さな身で、家族を失ってしまった彼の気持ちは、到底自分には想像も出来ないものだ。
「だからね、冬樹くんは今日から…うちの子になるんだ。真智子もお姉ちゃんになれるよな?」
父も実の弟を亡くしたのだから、きっとショックに違いなかった。だから、自分も出来る限り協力してあげたい…そう思った。
そして、その日の夜。
冬樹は父に連れられて、うちへやって来た。
「真智子…。冬樹くんだ」
父の背後から、軽く背中を押され、前に出てきた少年は。しっかりと頭を下げると、
「よろしくおねがいします」
そう、挨拶をした。
(…えっ?これが、この前の冬樹くん?)
記憶にあった少年とは随分と印象が違っていることに驚きを隠せなかった。
見掛けは、半ズボンがよく似合っている可愛らしい男の子。体格は、小学二年生の割には少し小さめか、何より線が細い。冬樹と夏樹を見分けられなかった自分が言うのも何だが、女の子にも見える位だ。
けれど、その幼い容姿とは反対に、背筋はしっかりと伸びていて、何より表情に隙がない…真智子には、そう見えたのだ。
以前あった時は、こんなでは無かった。もっと、年相応の無邪気な子供だった筈だ。そして…。
何よりも、もっと泣いているものと思っていた。
突然、大切な家族を全て失い、こんな小さな身で独りぼっちになってしまったのだ。いくら親戚が自分を引き取ってくれると言っても、普通なら…普通の子供なら、その現実をそんなに簡単に割り切れる筈がない。
もしも、自分が冬樹と同じ立場だったなら、きっと耐えられない…そう思っていた。
でも、この八年という長い年月の間…、彼は一度も自分達に涙を見せることは無かった。
その代わりに、笑顔も…怒る素振りさえも、見せはしなかった。
自分からは何も言わない。
どんなに明るく話しかけてみても、大した反応は返ってこない。
もともと大人しい子なのかと思えば、すごい喧嘩をして傷だらけで帰ってきたり…。朝、家を出たのに、実は学校には行ってなかったり…。
中学に入ってからは、結構悪い評判を耳にすることさえあった。
「結局…八年間も一緒に、ひとつ屋根の下暮らしていても、あんたがどんな子で何を考えてるのかぜんっぜん、解らなかったわよっ」
真智子は、吐き捨てるように言った。
本当は、責めている訳ではないのだ。
少しでも、冬樹に心を開いて欲しかっただけ…。
だが、どんなにこちらが感情的になって気持ちをぶつけてみても、この少年からは大した反応は返ってこないのだ。
それを、この八年間でイヤという程学んだのだから。
実際、目の前の冬樹は、先程から無言で自分の話に耳を傾けているだけで、その表情は…。どうせいつもの無表情なのだろうと、真智子は伏せていた顔を上げて、冬樹の方を見た。
だが…。
真智子は、顔を上げたことを後悔した。
大きく感情が現れている訳ではないが、僅かながらにも申し訳なさそうに目を伏せている冬樹が、そこにはいたから。
(本当は、知っていた。この子が無理して感情を押し殺していることぐらい…)
真智子は、その冬樹の表情を見た途端、込み上げてくるものを抑えられなかった。頬を一筋の涙が伝う。
「………」
「ごめん…泣く気なんてなかったのに…」
腕組みしていた手で顔を覆うように俯く。
「もう、行っていいよ。無駄な話に付き合わせてごめん…。元気でね…」
そう言うと、冬樹は少し間を置いた後、真智子に向かってゆっくりと一礼をすると、静かに階下へと下りて行った。
誰にも心を許さずに。
いつだって自分を奥に閉じ込めたまま。
そんなあなたを見ているのは、とても辛かった。
強がって耐えてるような、後ろ姿。
その背中は、あまりにも小さすぎて。
あなたの瞳は、あまりにも淋しすぎて。
お世話になった伯父と伯母にも最後に挨拶をすると、冬樹はその家を後にした。
もう、伯父は特に何も言わなかった。伯母は、最後まで心配げに、
「ちゃんと食事をとって、身体に気を付けるのよ。何かあったら必ず連絡しなさいね」
そう言ってくれた。
「離れていても…あなたが成人するまでは、私達があなたの親なのよ。それを忘れないでね」
そう、付け加えて。
伯父も、その言葉に静かに頷いていた。
そうして、玄関まで二人に見送られて家を出たのだ。
家の外に出ると、冬樹は今一度その伯父の家を振り返り、改めて見上げた。
八年間、お世話になった家…。
本当は、こんな風に温かく見送ってもらえる資格なんか自分にはないのに。
迷惑ばかり掛けてきた自分…。
ただただ、それが心苦しくて仕方が無かった。
その苦しみから逃れたくて。
もう、これ以上伯父夫婦に迷惑を掛けたくなくて…。
それで、家を出ることを決意したようなものだ。
(ごめんなさい…)
オレには、伯父さん達に言えなかったことがある。
ずっとずっと、隠していたことが…あるんだ。
でも、それは…。
これからも、自分の中にしまって生きていく覚悟を決めたから…。
冬樹は、家に向かって一礼すると、ゆっくりとその場を後にした。
もう、ここには二度と戻って来ない。
オレは、これからは独りで生きていくと決めたんだ。