6‐2
そして、翌日。
晴れていた昨日とは一転して、今日は朝から雨がしとしと降り続き、すっかり梅雨空へと逆戻りしていた。
雅耶は、昨日からの自分でも訳の解らないモヤモヤを何となく引きずっていた。思いのほか憂鬱な気持ちになるのは、どんよりと広がる雨雲と、じめじめと纏わりつく湿気のせいかも知れなかった。
昼休みに入るとすぐ、冬樹はまた保健室へ用があると言って教室を出て行った。最近は、特に何か用がない限りはクラスの仲間達と一緒に流れで食堂へ向かっていて、その中に冬樹も入っていたのだが、今日は「先に行ってて」…と雅耶に声を掛けて出て行ってしまった。
(今日も保健室…か。…やっぱり相談以外に何かあるのかな?)
気になりながらも、雅耶は皆と食堂に向かった。
皆で一緒に行くと言っても、食堂に着いた後は、わりと皆近場で陣取りながらも各自食事を済ませることにしている。
雅耶は空いているテーブルを見つけると、一人で席に着いた。いつも自然と近くに座る長瀬も、食堂の入口で会った部活の先輩との話が長引いているのか未だ来ない。
そのまま一人で食事を始めて間もない頃、長瀬が意味ありげにニヤニヤしながら隣の席にやってきた。
「雅耶ー、思わぬウワサ話を入手しちゃったよっ。…聞きたい?」
「っていうか、話したくてウズウズしてるくせに…」
雅耶はチラリ…と長瀬を横目で見て、そのまま平然と食事を続けた。
長瀬は笑って「まあね♪」と、言いながら箸を取った。
食べ始めて少しすると、長瀬がこっそりと耳打ちしてきた。
「禁断の恋の噂…聞いちゃったんだ」
「…禁断…?」
訝しげに雅耶は、眉を寄せた。
「そ。それも…誰のだと思う…?」
「…誰なんだよ?」
回りくどい言い方に少しイラついて聞き返すと。
長瀬は「聞いて驚くなかれ」…と楽しげに口を開いた。
「冬樹チャン…だよ」
「…え?」
雅耶は耳を疑った。
「だーかーらー。冬樹チャンだってばー」
「……マジで?」
思わず箸が止まってしまう。
「相手…は…?」
『禁断の』…というからには、聞くにもそれなりの覚悟がいる気がした。
若干緊張気味な雅耶の顔を見て、長瀬は満足げに微笑むとそっと耳元で呟いた。
「保健医の浅木清香先生…だってさ」
「は…?清香姉っ?」
「そ♪雅耶のお姉ちゃん的存在っ。そして我が成蘭高校のマドンナ!浅木清香先生なりっ」
(自称…じゃなくてホントに『マドンナ』だったんだ…)
以前、清香が自分で言ってたのを思い出して雅耶は思わず感心した。
でも…いや、今のツッコミ所はそこじゃない。
確かに、冬樹は最近清香姉の元へよく足を運んではいるが、それは『ひとり暮らし』のことなどを相談していると言っていた。『栄養相談』なども受けている…とも。頻繁に顔を出しているから、そういう噂を立てられたんだろうか?
「あいつ…確かによく保健室行ってるけど…最近、カウンセリングとか受けたりしてるらしいんだ。それで変に勘ぐった奴に噂立てられただけじゃないのか?」
「んー…でも、冬樹チャンのあの顔見ちゃうとなー。何とも信憑性が高いというか…」
「あの顔…?」
雅耶が聞き返すと、長瀬はYシャツの胸ポケットから白い封筒を取り出した。
その中から一枚の写真を取り出すと、周囲を確認しながら雅耶の手元にそっと差し出した。
「…これ…?」
そこには、冬樹が写っていた。
背景を見る限りでは、保健室にいる時の写真の様だ。
「すっごくイイ顔してるっしょ?冬樹チャン…」
「………」
それは、再会してから今まで見せたこともないような…。
鮮やかな笑顔。
そして、その向かいにいる人物は、やはり清香姉だった。
写真ではこちらに背を向けているし、冬樹をメインに合わせて撮られた写真なので端に僅かに写っているだけだが、自分には彼女が清香姉に間違いないことだけは判った。
「冬樹チャン…、こんな風に笑うんだな。俺さー、この写真見た時、超!衝撃だったよ」
長瀬が興奮気味に話している。
雅耶自身も、実は衝撃で言葉が出なかった。
明るく無邪気な…眩しい程の笑顔に。
だが、ふと…思うことがあった。
「でも、そもそも何でこんな写真があるんだ?これってもしかしなくても隠し撮り…だろ?」
「にゃはは…。それはそれっ!裏取引されてる冬樹チャンのブロマイドに決まってるじゃない♪」
「なにーっ!そんなの出回ってるのかっ?」
マジで怖いだろっ。っていうかマズイだろっ!
だが、長瀬は当然のことのように今度は俺相手に商売っ気を出してきた。
「冬樹チャン、人気あるらしいよ。…っつーワケで。雅耶くん…コレ買わない?一枚百円なり♪」
「なっ…何で俺に売りつけるんだよっ」
「えー。だって俺、雅耶の為にコレ買って来たんだぜー。あ…こんなのもあるよん♪全部で三種類っ」
長瀬は封筒からまた別の冬樹の写真を出してきた。
一枚は、教室の自分の席で頬杖をついて外を眺めている冬樹。もう一枚は、食堂だろうか。「いただきます」だか「ごちそうさま」をしているのであろう…手を合わせている冬樹の写真だった。
「思いっきり隠し撮りじゃないか…。こんなのいったい誰が撮ってるんだ?」
「えーっ?そりゃー…写真部でしょう。ある意味、新聞部と写真部は密接な関係だからね。これでも特別価格で譲って貰ったんだよん」
長瀬は得意げに笑った。
「…で?どうする?雅耶…三枚買ってくれる?」
上目遣いでせがんでくる長瀬に「気持ち悪いからやめろよ…」と、呆れていると。
「えー…買ってくれないの?まぁ、雅耶がいらないんじゃ、他に買ってくれる人探すしかないなぁ…」
と、怖いことを言い出した。
「おっ…まえ、その写真…他の奴に売るつもりかっ?」
雅耶は焦って詰め寄るが、長瀬は「当たり前でしょ?」と笑って言った。
「こうして、写真が出回ってるってことは、それだけ需要があるってことなんだよ。トモダチだから、心苦しい部分はあるけどさ…。本人には勿論内緒でいるつもりだし…」
(当たり前だっ)
雅耶はもう一度、目の前にある冬樹の写真に視線を落とした。
「あ…でも、この冬樹チャン可愛いしなー。俺が持ってても良いかもなー?俺はノーマルだけど、眺めてる分には目の保養っつーの?」
くすくす…と笑いながら、長瀬が俺の手から写真を抜き取って言った。
(コイツ!…ワザとらしい…)
そう、思いつつも。長瀬がこっそり冬樹の写真を持っていて、時々眺めるのを想像するだけで、すごく不快な気分になった。
何でお前が…!
冬樹は、俺の…。
そこまで、考えて自分自身の考えに愕然とした。
(俺の…?…何だっていうんだ?)
自分の思考に驚きながらも、長瀬にも他の男にもこの写真を渡したくはなくて。
「…分かったよ」
俺はポケットから財布を取り出すと、
「ほら…これでいいんだろ?」
そう言って、長瀬のトレーの上に小銭を落とした。
「はーい♪毎度ありー」
長瀬は封筒に三枚の写真を入れると、俺に渡してきた。
その時。
「あっ…まだいたんだ。良かった…」
そう言って、冬樹が俺達のテーブルへとトレーを持ってやって来たので、二人して慌てて何事も無かったかのように平静を装った。
胸ポケットにしまった封筒が妙に重く感じ。
俺の中には、後ろめたさだけが重く圧し掛かっていた。
「冬樹…保健室の用事はもう済んだのか?」
皆に後れを取ってしまったので、少し急ぎながら昼食に手を付け始めると、雅耶が控えめに聞いてきた。
「ああ。別に大した用事じゃないし、すぐに済んだよ」
そう言うと、何処かよそよそしい雰囲気で「そうか…」と返された。
珍しく視線も合わせない。
(雅耶…?)
どうしたんだ…?
雅耶は何だか元気がない様子で、逆に隣にいる長瀬はこっちを見ながら妙にニコニコしている。
(二人とも、違和感アリアリなんだけど…)
「…どうした?二人とも何かあったのか…?」
二人の変な空気に疑問を持って冬樹が聞くと、二人は顔を見合わせて、
「そっ…そんなことないよなっ?」
「別に…なーっ?」
口を合わせてそう言うと、肘でお互いを小突き合いながら笑っている。
「…変な二人…」
(喧嘩でもしたのかな…?)
冬樹は首を傾げると、とりあえず食べる方に集中した。
何だかんだやってても、この二人は凄く仲が良いので問題はないだろうから。
暫くすると、長瀬が「ねーねー冬樹チャン」と、話しかけて来た。
長瀬は何故か自分のことを「ちゃん」付けで呼んでくる。前々から「『ちゃん』はやめろ」と言っているのだが、「いーじゃないのー」…と流されてしまい、今では既に諦めモードだった。ただ長瀬の場合は、他の奴に対しても割とそういうノリなので、まあ善しとする。
「最近、保健の清香先生と仲良いよねー?」
唐突な話題だな…と、思いつつも、隣で何故か慌てて長瀬を再び肘で小突いてる雅耶が目に入って、首を傾げる。
「…え?確かに色々世話にはなってるけど…。別に普通だろ…?」
語尾を雅耶に振ると、雅耶はイマイチ不自然な笑顔で「そ…そうだよな?」と、相槌を打っている。
(なんだ…?やっぱり何か変だな…)
「でも、清香先生って魅力的じゃない?冬樹チャンはあーいう女性…好み?」
長瀬の含んだような言い方に。冬樹は一旦箸を置くと、目の前の二人を見据えて言った。
「おい…。何か言いたいことがあるなら、ハッキリ言えよ。遠まわしに含んで言われるのは気持ち悪いんだよ」
真顔でそう言うと、雅耶が今度はやっと真っ直ぐに自分に視線を合わせてきた。でも、少し落ち込んでいるのか眉が下がっている。
長瀬は「冬樹チャン、男前ー」とか茶化しつつも、待ってましたと言わんばかりに生き生きとして、
「じゃあ、本題に入らせていただきまーすっ!冬樹チャンに突撃インタビュー♪」
そう言って、満面の笑みを浮かべた。
「今、巷で噂になってるんだけど、冬樹チャンの恋のお相手が清香先生ってホントっ?」
(た…単刀直入だな…)
雅耶は横で苦笑しながらも。それでも、動じずに簡単に本人に直接聞く事が出来る長瀬は、ある意味スゴイと思った。
嬉々として質問している長瀬に対して、冬樹は意外な内容だったのか、もともと大きな瞳をまん丸にさせた。
「…は…?」
「だーかーらー、噂になってるのよ。冬樹チャンと清香先生…」
「は…?噂に…?オレと…清香先生が…?」
冬樹は確認をするように、俺を見ながら復唱してきた。
「そう…らしいんだ。俺もさっき長瀬に聞いたんだけど…」
そう控えめに雅耶が付け足すと。
冬樹は驚いた表情のまま、雅耶と長瀬の顔を暫く交互に見ていたが、不意に「ぷっ」…と吹き出した。
「あはははははははっ!」
食堂に響き渡るような、その大きな笑い声に。周囲の学生達は皆、雅耶達のテーブルに注目した。突然笑い出した冬樹の様子に、雅耶も長瀬も思わず唖然としてしまう。
「はははははっ」
それでも、とうとうお腹を抱えて笑い続ける冬樹に、
「あ…あのー…?冬樹サン…?」
流石に心配になって、長瀬が控えめに声を掛けた。
「はははっ…は…あはっ…ごっ…ごめんっ。あんまりにも…面白いこと言うからっ…ははは…可笑し…っ」
笑い過ぎで苦しそうな冬樹に、雅耶も思わず声を掛ける。
「…冬樹…?」
「だって、そうだろっ?…ありえないよっそんな噂。あはは…」
笑い過ぎて涙まで浮かべている。
でも、その無邪気な笑顔はまるで…。
(あの、保健室の写真の笑顔と同じだ…)
否、涙までがキラキラと光ってそれ以上に眩しかった。
周囲の生徒達は皆、そんな冬樹の笑顔に釘付け状態だった。
「じゃあ…じゃあさっ、それは『禁断の恋』否定ってことでいいの?冬樹チャン」
他の生徒達と一緒になって固まってしまっていた長瀬が気を取り直して聞き返すと。
「当たり前だろっ。まったく…誰だよ、そんな下らないこと言ってるの…。はー…苦しかった…」
そうして、ようやく冬樹は笑いを収めたのだった。
笑い過ぎて疲れたのか溜息を一つ付くと、再び箸を取る冬樹を眺めながら、
(何だ…そうだったんだ…)
雅耶は何故か安心している自分がいることを、素直に認めざるを得なかった。
数日後。
雅耶のもとに、涙を浮かべながら笑っている冬樹の写真を持って再び長瀬が交渉に来たことは言うまでもない。