5‐3
「…っ……」
首元を押さえたまま無言で俯いてしまう冬樹に、清香はそっと優しく声を掛けた。
「ごめんね。私も、まさかと思ってびっくりしたけど…。でも、何か事情があるんでしょう?良かったら、話してみてくれないかな…?」
(どうしよう…。ふゆちゃん…どうしよう…)
冬樹の頭の中では、そんな言葉だけがぐるぐると渦を巻いていた。
手が知らず、カタカタと震えている。
そんな様子の冬樹を前に、清香は優しい微笑みを浮かべたままで、ゆっくりと言った。
「別に責めている訳じゃないのよ。…怖がらせちゃてごめんね。でも、女の子のあなたが冬樹くんであることの意味が知りたいの…」
(ふゆちゃんである…ことの…意味…?)
冬樹は僅かに視線を上げた。
「このことは…誰か、知っている人はいるの…?」
そう聞かれて、冬樹はゆるく首を横に振った。
「そうなんだ…。でも、いつから冬樹くんと入れ替わっていたの…?今…冬樹くんは…」
(いつから…?ふゆちゃんは…)
清香の問い方は、本当に穏やかで優しい口調で。
彼女になら話してもいいかも…と、思わせる何かがあった。
(だけど…怖い…)
人に話してしまったら。
ふゆちゃんがいないという現実が…本当のことになってしまうようで。
(いや、今更だ。ふゆちゃんは、もういない…)
それは、紛れもない事実なのだから。
ただ…『オレ』が…。
『夏樹』が、それを認めたくないだけなのだから。
『いつか、ふゆちゃんは帰って来るんじゃないか…?』
そんな微かな希望。
その時…ふゆちゃんの居場所があるように。
帰ってくる場所がちゃんとあるように。
その時まで『夏樹』が、ふゆちゃんの代わりを頑張るから…。
そんな言い訳をしながら、『夏樹』は生きて来たんだ。
(オレはいつまで逃げてるんだ…。そんな日が…来ることは、きっと…もう、ない…)
ぽろぽろ…と、『冬樹』の頬を涙が零れた。
「…夏樹ちゃん…」
「先生…夏樹は、いないよ…。夏樹は、あの事故で…死んだことになってる。そして、オレは…今『冬樹』だけど、本当のふゆちゃんは、もういないんだ…」
次々と零れ落ちる涙を拭うことなく、そうして静かに語りだした『冬樹』の真相に、清香は言葉を失うのだった。
『冬樹』が事の経緯を全て話すと、清香は「つらかったね…」と少し泣きそうな表情で微笑んでいた。
「でも…そのままで良いの?ちゃんと説明して、あなたが夏樹ちゃんであるという証明をすれば、戸籍は戻せるんじゃないかしら…?実際、間違えたのは周りの大人達なんだもの…。今からだって遅くないと思うの…」
きっと、自分の身を心配してくれての言葉なのだろう。
実際、あの事故の直後…こうして話を聞いてくれる人が傍にいてくれたなら、その言葉に耳を傾けてオレは違う人生を歩んでいたかも知れない。
でも…。
冬樹は、ゆっくりと首を横に振った。
「ありがと…先生。でも、オレは…このままでいいんだ…」
頬の涙を拭いながら、冬樹はしっかり前を向いて言った。
「でもっ…」
「今のままじゃ…オレは『夏樹』に戻ることも出来ない…。冬樹の時間も夏樹の時間も、あの時止まったままなんだ。…諦めが悪いと思うかもしれないけど…ふゆちゃんに会えるまで…。兄が見つかるまでは…」
「…見つかる、まで…?」
清香の表情は複雑だった。
それは当然のことだろうと思う。
あれから過ぎ去った年月を思えば…。
希望を持って待ち続けるには、既にあまりに長い時間が経過してしまっている。
だけど、それでも。
ふゆちゃんが戻って来るまでは…。
たとえそれが…どんな形であろうとも。
(オレとふゆちゃんは、今…二人で一人…なんだ…)
戸籍上は存在しないけれど、此処に居る夏樹。
戸籍上は居るけれど、此処に存在しない冬樹。
「夏樹ちゃん…」
「先生…、オレは冬樹だよ…。でも、話を聞いてくれて嬉しかったです。ありがとう…」
そう言って冬樹はゆっくりと清香に頭を下げると、僅かに微笑みを浮かべた。
「こんな風に…人に話せる日が来るなんて、思っていなかったから…」
その表情は、あまりに儚げだった。
兄に対しての罪悪感が消える訳ではないけれど。
偽っている自分自身の秘め事が少しだけ、軽くなったような気がしていた。
少しだけ吹っ切れたような冬樹の様子に。
清香は考えながら、ひとつひとつ自分の思いを口にした。
「ずっとひとりで秘密を抱えて来たってことだよね。きっと…私なんかには想像できない位、沢山の辛い思いをしてきたんでしょうね…」
冬樹は、静かに清香の言葉に耳を傾けている。
「でも、本当はね…。『冬樹くん』を想う気持ちも分かるんだけど…『夏樹ちゃん』自身のことも大切にして欲しいって、私は思うんだ…」
「夏樹…の…?」
冬樹は少し驚いたように、清香を見た。
「うん…。例え話をしたらキリがないんだけど…女の子として過ごしていたら出来たこと、やりたいこと、きっと一杯あったんじゃないかなって」
「オレは…別に…」
「うん…。そんな風に自身の気持ちを押し隠してしまうのが、少し悲しいなって思ったの。でも…あの日から『冬樹くん』として生きている今のあなたの気持ちが、夏樹ちゃんの『想い』や『願い』そのものなんだっていうのが痛い程分かったから…。それを尊重してあげたい気もする、かな…」
そう言って清香は、少し困ったような笑顔を向けた。
(夏樹の…願い…)
「安心して。このことは誰にも言わないと約束するわ。でも、その代わり…条件があるの」
「条…件…?」
冬樹は、思わず不安げに清香を見詰めた。
そんな冬樹の反応に、清香はふふっ…と優しく微笑むと、
「困った時には、ちゃんと私を頼ること。知ったからには、しっかり協力させて貰うわよっ。特に学校でのことなら任せてね。少しは役に立てるハズよっ」
清香は人差し指をピッ…と立てて、言い聞かせるように言って笑った。
「それ位はさせてね。本当は、大人として…本当にこのままにしていて良いのか…正直迷ってるの。でも、あなたが決意する『その時』が来るまでは、せめて見守らせてね…」
そんな温かい言葉に。
「…せん…せい…」
涙腺が緩くなってしまったのか、再び冬樹の瞳には涙が溢れてきた。
肩を震わせながらも、声を出さずに泣き続ける冬樹に。
「ほらほら…冬樹くん。あんまり泣いてると、熱上がっちゃうぞ?」
清香は初めて『冬樹』と名を呼ぶと。
慰めるように、その熱い背をそっと撫でた。
翌日。
登校時、雅耶が昇降口で靴を履きかえていると。
「おはよう…」
突然、後ろから声を掛けられる。
相手を確認する前に反射的に「おはよう」と返事をすると、雅耶はその声の主を振り返った。
すると。
「冬樹…」
若干はにかんだ様子で、思わぬ人物がそこに立っていた。
「お前…大丈夫なのかっ?熱はっ?」
冬樹を見るや否や、真剣にそんな言葉を発する雅耶に。心底心配してくれていたのが分かって、冬樹は少し微笑むと、
「もう、大丈夫だよ。…昨日はありがとな…」
そう言って、照れているのを誤魔化すように自分もさっさと靴を脱いだ。上履きに履きかえて振り返ると、何故か先程の場所で固まっている雅耶がいて、冬樹は不思議に思って声を掛けた。
すると、
「あっ…いや、うん。何でもないっ」
何故か雅耶は、焦った様子でわたわたしていた。
二人はそのままの流れで、一緒に教室へと向かって歩き出した。
「熱…下がったんだな。良かったよ。昨日かなり高かったみたいだし…。突然倒れるから、びっくりしたよ」
雅耶は気遣うように、そんな言葉を口にした。
それに、冬樹は足を止めると、
「ごめん…。保健室まで、お前が運んでくれたんだってな。あの二年生の奴らのことと言い、本当に迷惑掛けた…」
そう言って、冬樹は雅耶に頭を下げた。
何気なく振り返っていた雅耶は、そんな冬樹の様子に慌てると、
「…っ!?馬鹿っ…何で頭下げてんだよっ。そんな大したことじゃないだろ?」
そう言って、無理やり頭を上げさせようとする。
そんな二人の様子を、周囲の通りすがりの生徒達は何事かとチラチラ見はじめていた。
だが、冬樹は言葉を続ける。
「『大したこと』…だろう?前に、オレはお前にあんな酷いことを言ったのに…。お前の気持ちも…考えないで…」
『オレに関わるなよ。オレの事なんか放っておいてくれ』
お前の好意を無下にして。
「オレは最低…なのに…本当に、ごめん…」
心からの謝罪。
大きな瞳を潤ませて、まっすぐに訴えてくる冬樹に。
「…冬樹…」
「はーい、はいはいっ!!ストーップ!!朝っぱらからこんなトコで痴話喧嘩は、皆さんに迷惑ですヨー♪」
「……っ?!」
「なっ…長瀬っ!?…ちっ…ちわげんか…って…」
突然の長瀬の乱入で、余計に周囲の注目を浴びてしまう冬樹と雅耶だった。
だが、この件で冬樹と雅耶の距離は少しだけ縮んだのだった。