5‐2
雅耶は冬樹を横抱きに抱え、足早に校舎へと向かっていた。
二人の鞄は先程の場所に放置してきてしまったが、今はそれどころではない。意識を失ってしまった冬樹を抱え、雅耶はとにかく必死に保健室を目指していた。
昇降口の前に差し掛かったが、靴を脱いで上がるのも煩わしく感じて、そのまま校庭側から保健室を目指す。一階にある保健室には、校庭側に面して非常口兼用のドアが設置されているのだ。普段そのドアは解放されてはいないのだが、今は緊急事態でもあるし、保険医の清香がそこに居てさえくれれば何とかなる…と、雅耶は思っていた。
(熱い…冬樹…)
冬樹はぐったりとしている。
僅かに呼吸も早い。
(こんなに熱があるのに、無理して暴れたりするから)
冬樹のこの身体のどこにそんなパワーがあるのか、不思議にさえ思う。
何よりも雅耶が驚いたのは、冬樹の『小ささ』だった。
上級生には『おチビ』と言われていた冬樹だったが、実際背は言う程小さいということもない。平均よりは小さ目だが160センチ以上は十分にあるし、もっと身長が低い同級生は沢山いる。
だが、何より線が細いのだ。
顔の小ささも相まって、余計に小さく見えるということなのだろう。だが、実際に抱え上げてみて、その細さと軽さに雅耶は驚愕した。
自分と同じ男の身体とは思えない程の華奢さに。
窓越しに保健室を覗くと、清香がいるのが見えた。
雅耶は冬樹を横抱きに抱えたまま、肘で窓をノックする。
「雅耶…?どうしたのっ?その子は?」
状況を見て、清香はすぐにドアを開けるとベッドへと誘導した。
「熱があるみたいなんだ。突然、気を失っちゃって…」
冬樹をとりあえずベッドに寝かせると、雅耶は大きく息を吐いた。重たいということはなかったが、気を遣いながら慌てて抱えて来たので流石に少し疲労を感じていた。
「…大丈夫?いったい何処から抱えて来たのよ?もうとっくに下校時間は過ぎてるでしょう?」
冬樹の額に手を当てながら清香は疑問を口にした。
「うん…ちょっと…ね。後で詳しく話すよ。あっそうだ、清香センセイ…俺、鞄を置きっぱなしで来ちゃったんだ。今取って来ても良いかな?」
バタバタと校庭側のドアから再び出て行こうとする雅耶に。
「良いけど…あっ待って。この子のクラスと名前を教えてくれる?」
ごく普通に清香は質問を口にした。
雅耶はその言葉に一瞬動きを止めて、瞬きをすると。
「それ、冬樹だよ。一年A組、野崎冬樹」
そう言って微笑むと、外へと駆けて行った。
(この子が、冬樹くん…)
清香は、ベッドに眠っている冬樹をそっと見下ろした。
随分と可愛らしい少年だなと思う。瞳は閉じられているので、ちゃんと顔が分かる訳ではないが肌が白く綺麗で、大人の男性へと成長を見せる『高校生の男子』というよりは、未だ幼さの残る『少年』の可愛らしさだと清香は思った。だが、それこそ記憶にある幼い頃の冬樹のイメージそのままのような気もした。
清香自身、過去直接冬樹に関わったことは無かったのだが、近所に住む雅耶の姉と交流があった為、雅耶とは繋がりがあってよく遊んであげたりしていた。そんな中で、何度か雅耶が仲の良いそっくりな双子の兄妹を連れてきたことがあった。
それが冬樹と夏樹だった。
雅耶に比べると、一回りも二回りも小さな身体をしていたが、元気一杯の素直な子達だったのを覚えている。三人一緒にいるのがとても自然な感じで、道端で遊んでいる姿を見掛けては、とても微笑ましい気持ちになったものだ。
(入学してすぐの頃、雅耶は冬樹くんのことで悩んでたみたいだけど…。でも、一緒にいたってことは仲良くなれたのかしら?)
清香は、しっかり制服を着こんでいる冬樹に気付き、まずは上着を脱がせることにする。制服がシワにもなるし、流石にそのままでは寝苦しいからだ。
上着を脱がせるのにそっと体勢を変えたり身体を起こしても、目覚める様子は無い。
(かなり、熱が高いみたいね…)
ブレザーの下にもニットのベストを着込んでいた冬樹だったが、とりあえずベストは着せておき、きっちりと締められているネクタイを外してYシャツのボタンを幾つか外すことにする。
そっとネクタイをほどいて。
Yシャツのボタンを上から一つ…二つ…。
そして三つまで外し掛けたその時。
「――…?」
胸に巻いている白い布が目に入った。
最初は、怪我をして包帯を巻いているのかと思った清香だったが…。
「どういう…こと…?」
早い呼吸を繰り返し、上下するその冬樹の胸をそっと調べ、清香は愕然とした。
(まさか…女の子?…冬樹くんが??)
その胸を覆っている『さらし』は、女性の胸を隠す為に巻かれたものだ。
清香は咄嗟に口元を押さえると、混乱した頭を整理しようと必死に頭をフル回転させるのだった。
(女の子であることを冬樹くんは隠している…?)
眠っているその顔は、一度女性だと気付いてしまえば、もう少女のそれとしか見えず。最初、冬樹に感じた『幼さ』や『少年としてのアンバランスさ』に、至極納得がいくように思えた。
(でも…いいえ。この子が女の子である以上…『冬樹くん』ではなく『夏樹ちゃん』ってことよね…?)
清香はとりあえず首もとまで毛布を掛け直すと、額や頭部を冷やす為に冷却シートや氷枕などの準備を始める。
てきぱきと処置を施しながらも、清香は必死に頭の中を整理していた。
(でも、昔…あの事故で野崎さん夫婦と夏樹ちゃんは行方不明になったと聞いているし…。夏樹ちゃんが発見されたっていう話は聞かないわ。でも、此処にいるのは…女の子である以上、夏樹ちゃんに間違いない。…と、いうことの意味は?)
一通り、保健医としてやってあげられる処置を全て終えたところで、扉を控えめにノックする音が聞こえてきた。
今度は昇降口を回って入って来たのか、雅耶が廊下側の扉を開けて顔を出した。
「鞄取って来た。…冬樹、どう?」
「よく眠っているわ。とりあえず様子を見るしかないかな…」
清香は、普段通り平静を装ってそう答えた。雅耶は勿論『その事実』を知らないでいるだろうと思ったから。
きっと…何か事情があるのだろう。
それならば、あまり事を大きくしない方が良い。
「心配かも知れないけど、雅耶…あなたは帰った方がいいわ」
「えっ…でも…」
「今はテスト期間中でしょ?明日のテスト勉強もあるだろうし、本当はこの時間、一般生徒は学校に残っていてはいけないことになっているハズよ」
「う…。それは、そうだけど…」
雅耶は冬樹が眠っているベッドの方を気にしながら渋って言った。心底冬樹を心配しているのが見て取れる。
清香は、ふ…と微笑みを浮かべると、雅耶を安心させるように優しく言った。
「冬樹くんのことは大丈夫。もしも歩いて帰るのが困難な場合でも、私が車で責任持って送って行くから心配しないで。だから、雅耶は帰ってしっかり自分の勉強に励むこと!」
ピッ…と、人差し指を立てて清香が言うと、雅耶は笑って頷いた。
「わかったよ。清香姉…」
清香も一緒に笑い合うと「清香『先生』…でしょ?」とのツッコミも忘れなかった。
「…ん……」
うっすらと目を開くと、冬樹は暫くぼんやりと視線を彷徨わせていた。
だが…。
見慣れぬ天井。
僅かに開かれてはいるが、ベッド周りを囲われたカーテン。
そして、微かな消毒薬の匂いに…。
(オレ…眠ってた…?ここは…?)
意識が覚醒してきて、冬樹は慌てて起き上がる。
すると。
「あ…気が付いた?」
突然若い女性の声が聞こえ、ゆっくりとカーテンの向こうから、ツカツカとこちらへ歩み寄る音が近付いて来た。
(だ…れ…?)
そっと傍のカーテンが引かれ、顔を見せたのは白衣を身に纏った見知らぬ女性だった。
一瞬、戸惑いと警戒の色を見せる冬樹に、その女性は笑って説明をした。
「ここは学校の保健室よ。私は、保健医の浅木。よろしくね」
「保健の…先生…?」
呟くような冬樹の言葉に、清香は「そうよ」と微笑んだ。
その優しい微笑みに、冬樹はやっと肩の力を抜いたのだった。
「雅耶がね、倒れたあなたをここに運んで来たのよ」
そう話しながら体温計を持ってくるその先生の言葉に、妙な違和感を感じて、冬樹はじっと彼女を見詰めた。
その視線の意味を理解したのか、彼女は悪戯っぽく笑って言った。
「ふふ…『雅耶』って呼び捨てが気になった?私と雅耶は昔からの知り合いなの。それにね…あなたのことも知ってるんだけどな。…流石に覚えてないかな…?」
「…えっ?」
「下の名前はね、清香っていうのよ。雅耶には『清香姉』って昔から呼ばれてるわ。…思い出せるかしら?」
(あっ…)
そこまで聞いて、何度か雅耶に連れられて遊びに行った近所のお姉さんのことを思い出した。
「…覚えて…ます」
「ホント?嬉しいな」
嬉しそうに優しく微笑むその笑顔は、記憶にあるものと変わらないと冬樹は思った。
「熱…測ってみて?」
そう渡された体温計を手にして、ふと冬樹は動きを止めた。
(Yシャツのボタンが…?)
外されていることに、今更気付く。
「…っ……」
体温計を持っていない方の手で、Yシャツの首元をそっと押さえる。
(どう…しよう…?もしかして…見られた…?)
心臓がバクバク…と、音を立てた。
動揺を隠せないでいる冬樹に、清香はゆっくりと口を開いた。
「寝苦しいと思って、ネクタイとボタンを外させてもらったの」
清香はベッドの横に置いてあった椅子にそっと腰かけて言った。
「あなた…夏樹ちゃん、…よね?」