4‐2
「はぁ…」
冬樹は今日、何度目か分からない溜息を付いた。
週が明けて学校に来てみると、柔道部勧誘の件でクラスメイトに朝一から囲まれてしまった。その時の様子や翌日学校を休んだ理由。溝呂木という教師の噂。その他諸々について。興味津々のクラスメイト達には曖昧な返事をして何とかかわしつつも、教室の移動で校内を歩いていても、何処からか感じる好奇の視線。そして食堂に至っては、ゆっくり昼食をとるどころでは無く、流石の冬樹も無表情を貫くことは難しく、げんなりとしていた。
今までは、この学校に面識のある人物は皆無で特に気にしてもいなかった上級生達からも、何だかんだと声を掛けられる始末。悪意は無いものばかりだが、こちらは見知らぬ人ばかりなのに、相手は自分を知っているという違和感。
いつの間に自分の顔はそんなに知れ渡ってしまったのか…それが不思議で、何だか怖いと思った。
そして何よりも。
度々、遠くから物言いたげに見詰めてくる雅耶の視線に。
(流石に…疲れた…)
冬樹は再び小さく溜息を付くと、学校を後にした。
自宅の最寄り駅まで到着し、改札を出て家の方向へと歩き出した冬樹は、ふと足を止める。
(何だ…?)
さっきからずっと、誰かに見られている気がする。
電車の中から何となく感じてはいたのだが、沢山の乗客がいる中そう思うこともあるだろう…と、特に気にしないでいた。ある意味今日はずっとそんな調子で、自分も疲れているのだと思っていたから。
だが、この駅を降りてからも…というと、話は違う。
冬樹はゆっくりと後ろを振り返った。夕方の、帰宅途中の学生などで混み始める時刻。だが、見てみる限りでは知っている顔は勿論のこと、同じ制服を着ている者も近くにはいない。
(気のせい…か…?)
やっぱり疲れているんだろうか。
そう思いつつ、冬樹は頭をぷるぷると振ると、再び歩き出した。
さっきのは、気のせいだったのかも知れない。
もう視線も何も感じない。…というよりも、既によく判らなくなっていた。
かなり精神的に参っていたのか駅前通りの人混みに酔ってしまい、何だかクラクラする。思わず立ち止まり、傍にあった街灯の柱に手を付いた。眩暈をやり過ごそうと目を瞑っていたその時。
「おい、大丈夫か…?」
突然、横から声を掛けられた。
ゆっくりと目を開けて振り返ると、そこには。
「…直純…せんせ…い…?」
『Cafe & Bar ROCO』の店内。
たまたま出先から店に戻る途中で、具合の悪そうな冬樹を見つけた直純は、とりあえず店まで介抱して連れて来た。お店の奥のテーブル席に壁に寄り掛かれるように座らせると、その線の細い少年を心配げに見下ろす。
「…大丈夫か?冬樹…」
「すいません…もう、平気です…」
そう言ってフラフラ…と、すぐに立ち上がろうとするので、わざと真横に着いて笑顔でそれを制する。
「こら、無理するなよ。もう少し休んでろって。…お前、顔色悪いぞ」
本当はこういう時は衣服をゆるめて安静にするのが一番なのだが、直純はそれを進めることを少し躊躇した。
それは、目の前の『冬樹』が警戒すると思ったから。具合の悪そうなこの状態で、余計な精神的負担を与えたくはない。
直純は、冬樹が落ち着くのを待って声を掛けた。
「お前…家はここから近いのか?連絡して誰かに迎えに来て貰うか?」
そう言うと、冬樹はだいぶ意識がしっかりしてきたのか直純の目を見てはっきりと答えた。
「いえ…オレ…、もう大丈夫です。一人で帰れます」
「でもまた同じようになったら困るだろう?せめて家の人に…」
「連絡だけでも」そう言い掛けた時、直純の言葉を遮って冬樹が口を挟んだ。
「オレ、一人なんで…」
気まずそうに下を向く。
「ひとり…?」
「独り暮らし…なんです」
直純は驚きを隠せなかった。
高校生の身で独り暮らし…というのは、流石に稀だろう。だが…冬樹の身の上を考えると、それをとやかく他人が口出し出来ることではない…と、直純は思った。
それでも、冬樹は非難されるとでも思っているのか、気まずそうに俯いている。
(お前がそんな顔すること、無いのにな…)
直純は、ふ…と表情を緩めて微笑むと、
「苦労…してんだな…」
そう小さく言って、俯いている冬樹の頭にポンと大きな手を乗せた。そんなこちらの行動に驚いているのか、冬樹は大きな瞳を揺らしながらこちらを不安げに見上げてくる。
その、小さな子どものような冬樹の反応に。
妙に庇護欲をそそられるな…と、直純は内心で苦笑していた。
「なぁ…冬樹。お前、ちゃんと食べてるか?」
そう聞かれ、一応食べてはいるが『ちゃんと』かと言われると何とも言えず、冬樹が無言で考えていると、
「おいおい…。しっかり栄養取らないと、また今日みたいなことになっちゃうぞ?」
そう言いながらも、直純は「熱いから気を付けて」…と、ホットミルクを冬樹の前のテーブルに置いた。
「…昼は学食があるので、割としっかり…」
と、冬樹が控えめに言うと、
「まだまだ成長期なんだから、三食しっかり食べないと駄目なのっ」
と、本気ではないが怒った素振りでダメ出しされてしまった。
そして直純は冬樹の前の席にさり気なく座ると、何かを考え込んでしまった。
(別に、栄養失調とかでフラついた訳じゃないと思うんだけど…)
冬樹は、改めて店内を見回した。
店内はあまり広くはないが、木目調の落ち着いたお洒落な内装で良いカンジの雰囲気だなと思った。
(前に貰った名刺には、直純先生がマスターと書いてあったけど…流石に一人でやってる訳じゃないんだな…)
先程からカウンター内には一人店員が入っていた。
(直純先生が外出している時もお店を任されているみたいだったし、社員か何かなのかな?)
何にしても…他の客もいる中、すっかり迷惑を掛けてしまったな…と、申し訳ない気持ちになった。
そんな時。
「そうだ、冬樹…お前、バイト捜してたよな?…決まったか?」
突然の問いに。
「……?…いえ、まだ…ですけど…」
戸惑いながらも答えると、直純はにっこりと笑みを浮かべた。
「よし。冬樹…お前、この店でバイトしないか?」
「……え?」
「勿論、時間や休みは相談に乗るし。入る時間にもよるけど、賄い付きだぞ」
『賄い付き』…と聞いて、冬樹は瞬時に『気を遣わせている』のだと思った。
「直純先生…」
だが、冬樹の考えていることを察したのか、直純はすぐに言葉を続けた。
「あ。一応言っておくけど、冬樹がバイトに入るからこの条件って訳ではないからな。もともとバイトは募集中だし、賄い付きっていうのもウリの一つだから」
そう言って優しく笑った。
「………」
「悪い話でもないと思うぞ?独り暮らしは何かと出費も多いだろうし…働いて一食分浮くと思えば、かなり大きいんじゃないかな」
(確かに大きい…とは思う…)
迷っている冬樹に、直純は「それに」と付け足した。
「俺がお前を放っておけないんだ」
直純はそう言って優しく笑うと、軽くウインクした。
それから一週間後。
「冬樹くん、これ3番テーブルお願いね」
「はい」
コーヒーとケーキの乗った皿を丸いトレーに乗せ、左手の掌一つでバランスを取ってホールを颯爽と歩く冬樹がそこにはいた。初めは接客業だけあって緊張していたものの、毎日のようにバイトに入っているので既に仕事にも慣れてきたところだ。
カウンターに戻ってくる際にも、空いたお皿を下げてくるなど積極的に動く冬樹に、直純はこっそり笑みを見せた。
「冬樹…すっかり仕事に慣れてきたみたいだな。なぁ…仁志?」
隣で作業をしていた店員の柳仁志は、チラリと冬樹に視線を流すと、トレードマークの黒縁メガネを右手中指でそっと押さえると、小さく頷いた。
「うん。彼はなかなか筋が良いよ。器用だし、一度説明をすればすぐに仕事を覚えるしね。何より仕事に臨む姿勢が真面目だよね」
「ああ」
直純は自分の元教え子が褒められているのが純粋に嬉しくて、思わず顔が緩みがちだった。
そんな直純と旧知の仲である仁志は、そんな友人の反応に苦笑いを浮かべると、
「お前、週に三回夕方稽古で抜けるって言ってたけど、冬樹くんがいれば全然問題ないから、もっと空手の先生の方をやってても良いぞ?」
と、澄まして意地悪を言った。
「あ。ヒドイ…仁志。マスターに向かって何てことを…」
直純もそんなことを言いながら、二人で笑い合っていた。
その時、新しく客が店に入って来た。
「いらっしゃいませ。お客様何名様ですか?」
すぐに冬樹が対応して席へ案内する。
「三名様ご来店です」
冬樹がカウンターへ声を掛けていく。それを合図に、直純達も笑顔で。
「「いらっしゃいませー」」
と、声を上げた。
冬樹が席へと案内している姿を見送りながら、仁志が思いついたように呟いた。
「あ…でも、冬樹くんは十分優秀だけど、ひとつだけ…足りないものがあるかな」
「…足りないもの?」
直純は冬樹を目で追いながら聞き返した。
「ああ。彼はイケメンだし清潔感もあって華もある。すごく良い逸材だと思うけど…」
仁志の言う『イケメン』という言葉に。直純は内心で、
(冬樹の場合は『イケメン』っていうよりは、可愛い男の子って感じだけどな…)
などと思いつつも、仁志の言っている『足りないもの』が何なのかすぐに気が付いて、お互い顔を見合わせると口を開いた。
「「笑顔が足りない」」
「…だよな」
思わずハモってしまい、二人はまた小さく笑い合った。
その日の仕事が終わり、賄いとして用意してもらった食事も終え、帰り支度も済んだところで、冬樹は仁志に声を掛けられた。
「…え?…笑顔の練習…ですか?」
「うん。いわゆる『営業スマイル』ってやつだよ。最初は緊張するかも知れないけど意識してやってみてくれるかな」
「う…はい…」
思わず固まってしまう。
「キミはこの一週間で驚くほど仕事をこなしているよ。だからこそ、次のステップに挑戦して貰いたいんだ」
バイトの教育係である仁志に真面目に指摘され、冬樹はその言葉を重く受け止めた。
それは確かに接客業においては当然のことだと冬樹も思う。だが、自分がすぐに出来るかというと、それはまた別の話だった。
自分はずっと『愛想を良くする』ということをあえて避けてきた。
それは、人との関わりを出来るだけ持たないようにする為に。
自分のテリトリーに他人を踏み込ませないように…。
だが、働く以上はそんなことを言ってはいられない。
(ちゃんと、それも『仕事』と割り切ってやるべきだ。…だけど…)
そこには、大きな壁があるような気がしてならなかった。
そんな冬樹の内心の葛藤が伝わったのか、様子を見ていた直純がくすくす笑って声を掛けてくる。
「冬樹。そんなに構えることはないよ。自然に自然に…。ほんの少しの意識からで大丈夫だからさ」
そう優しくフォローを入れてくれる。
そうして冬樹はその日の仕事を終え、二人に挨拶をすると店を後にした。
冬樹が帰った後の店内。
直純は不意にクスッ…と笑った。その様子を、横にいた仁志が怪訝そうに見る。
「…気持ち悪いな。突然思い出し笑いなんかして…」
そんな仁志の反応にも直純は笑って言った。
「ああ…ごめんごめんっ。…いや、さっきの冬樹の顔を思い出したら笑っちゃって…」
そう言いながらも、くすくす肩を震わせて笑っている。
「あいつ…普段、表情に乏しいイメージあるだろ?でもよく見てると一見無表情の中にも色々顔に出てて面白いなぁって思ってさ。さっきも仁志に『営業スマイル』って言われた時、超葛藤が顔に出てて。それ思い出したら笑っちゃって…」
そう言いながらも、楽しそうな直純に。
「…そうだったか…?」
仁志は分からないという顔をした。
「うん。目…かな?目に出てる。『目は口ほどに物を言う』ってね」
「目か…。俺にはよくわからないけど…。確かに彼は、笑顔は見せないけど、声とか仕草で柔らかいイメージや丁寧さが出せてるよね。だから客受けは良いんだろうな。あ、コレ1番テーブルね」
仁志が料理を出しながら言った。
「OK。…っていうか、客受け良いの?何か言われたことある?」
トレーに料理を乗せながら直純が驚いた様子で聞き返す。
「…あるよ。これで『スマイル』スキルが備われば、彼がこの店の看板男子になる日も遠からず…ってとこかな」
眼鏡のレンズを光らせながら、仁志がニヤリと笑って言った。
場所は変わって。
とある場所の、とある一室。
薄暗い月明かりの差し込むその部屋に、一人佇む中年の男の姿があった。
その男の眼下には、眩いばかりの煌めく夜景が広がっている。
男の手には、真紅の液体の入ったワイングラス。
男はそれを目前に掲げてゆっくりと回すと、一口含んだところで後方のドアが控えめにノックされた。
「入れ」
「…失礼いたします」
そう言って入室してきた男は、深々と頭を下げると口を開いた。
「例の少年の件ですが、最近になって動きがあったようです」
そう言うや否や、夜景を眺めていた男が反応して振り返った。
「おお、そうか…」
「はい。親戚の家から出たことは確認済みです。ですが…家には戻っておらず、現在は近くのアパートで独り暮らしを始めた模様です。未だ例の場所への接触は確認されておりません」
「そうか。だが、大きな進展だな。そうか…」
男は、感慨深げに身体を震わせた。
「やはり、時は近付いている…。運は私に味方している…」
男は、傍にあった大きなテーブルにワイングラスを置くと、両手を着いて目前の男に低い声で命じた。
「引き続き監視を怠るな」
「…承知いたしました」
そう言って訪問者が去ると、男はクククッ…と小さく笑った。
「やっとだ…。やっと足りなかった鍵が揃う…」
薄暗い部屋に、男の長い影が低い笑い声と共に揺らめいていた。