1‐1
そう…
二人は あまりにも
似すぎていたんだ…
何故だか夢を見ているのだという妙な確信がある。
気が付いたら子供部屋らしき場所にひとり、立っていた。
他に人の気配はない。
暑い真夏の日差しが窓越しに照りつけている。
窓は網戸になっていたが、外から流れてくる風は生温かく、絶え間なく蝉の声が鳴り響いていて余計に暑苦しさを増していた。
ここは…
自分はこの場所をよく知っていた。
部屋には、二段式のベッドが置かれており、窓際には同じ机が二つ並んでいる。よく見るとタンス、本棚等、その他の家具類全て同じものが面白い程に二つずつ揃えられている。パッと見たところで、あえて違いを述べるならば、机の横に置かれているランドセルの色が赤と黒だというところか…。
懐かしい。そうだ。ここは…
遠い日の記憶が蘇る。
忘れたくても忘れることなど出来る筈もない…大切な思い出の場所。
昔、自分が大切な家族と暮らしていた家。
大好きな兄と自分…二人の部屋。
一方の机に歩み寄り、横に置かれている赤いランドセルを両手に取る。
これは昔、自分が使っていたものだった。それは何だか懐かしい感触で、けれど今の自分の手には妙に小さく感じられた。暑さで少し汗ばんだ掌にぴったりと吸い付いてくるようだ。
思わず懐かしさに浸っていると、不意に遠くで人の声がしたような気がして、ふと我に返る。確かに微かだが人の声がする。何を言っているのか聞き取ろうと耳を傾けながら、手に持っていたランドセルを元の位置に丁寧に戻した。
初めは微かでしかなかったその声は、だんだんはっきりと耳に届いてきた。
どうやらこちらの方へ近付いて来るようだ。
そして、その声の主が誰なのかが分かったと同時に、初めて自分の名前が呼ばれているという事に気が付いた。
それは、自分が良く知っている…忘れる筈もない優しい声…。
…お母さん。
ゆっくりと声のする方へ足を運ぶ。扉を開けてその子供部屋から出ると、すぐに左側に階段が下へと続いていた。母親の声は下の階から聞こえてくる。
静かに一歩一歩踏みしめるように階段を下りて行くと、吹き抜けの明るい玄関ホールの正面に出た。今度は、右後方から声が聞こえてくるカタチになる。綺麗に磨かれた板張りの廊下を、声のする方へと足を運ぶ。
そして、奥のリビングに母親の姿を見つけた。
彼女は、何故かソファーの陰やテーブルの下などを覗いたりしている。淡い空色の涼しげなロングのノースリーブワンピースを身にまとった、細くて華奢な後ろ姿。白のリボンで後ろに緩く一つにまとめた栗色の柔らかそうな長い髪がふわふわと揺れている。
昔、そんな…まるで少女の様な、若くてきれいな母親がちょっと自慢だった。
どうやら母は自分を探しているつもりらしい。でも彼女には、ここにいる自分の姿が見えていないらしかった。
「なつきー。なっちゃーん。何処にいるのー?」
キョロキョロと辺りを見回している。カーテンをめくり、そこにも居ないことを確認すると、困った様子で溜息をついた。
「どこに隠れちゃったのかしら。今日は歯医者さんに行くからってちゃんと言っておいたのに…」
そういえば昔…こんな事があった。
実は、歯医者に連れて行かれるのがどうしても嫌で隠れていたのだ。
母親の姿とその記憶から、彼女が探しているのは今の自分ではなく、まだ幼い頃の自分なんだということを理解する。
これは、過去の情景…。
記憶を手繰りながら、黙って母親の様子を伺う。彼女が、あちらこちらを探しながら何気なく廊下の方に目線を移したその時。そこを一瞬何かが通り過ぎた。それは小さな小学生位の子供だった。
子供は素早い動作で、物音を立てず走り過ぎて行ったのだが、母親もそれを見逃しはしなかったようだ。彼女は目を細めて優しく微笑むと、何かを思いついたのか少々悪戯っぽい表情を浮かべた。そろそろと廊下へと向かうと、薄いレースの暖簾越しにその子供の姿を探した。
まっすぐ続く廊下の先。吹き抜けになった玄関ホールの上部の大きな窓からは、真夏の太陽の光が燦々と注いでいる。その広々とした空間に子供が一人、ちょこんと背を向けて座っていた。
物音を立てぬように…だが、いそいそと靴を履いている小さな背中。
これは完全に見つかったな。
母親も当然のことながらその子供の姿をすぐに見つけると、気付かれないように背後に忍び寄ると、その子供の着ているTシャツのフード部分をしっかりと掴み、軽く引っ張り上げた。瞬間、子供の身体は強張り、動きを止めてしまう。
「こーらっ。夏樹、待ちなさい。逃がさないぞっ」
ちょっと嬉しそうに彼女は言った。
すると、その子供はフード越しに母親を振り返り見上げると、にっこりと無邪気に笑いかけた。
「ぼく、ふゆきだよ?おかあさん」
「…あら?」
母親は目をぱちくりさせている。
動揺して母親の手がTシャツから離れると、その少年冬樹は、素早く靴を履き終えて立ち上がった。そして半ば考え込んでしまっている母親に向かって、廊下の向こう側を指さして言った。
「なっちゃんなら、あとからくるよ」
そして、母親が自分の指さした方向を振り返っているうちに冬樹は、
「いってきまーすっ」
外へ駆けて行ってしまった。
小学二年生の割には少々小さめな冬樹の背中が、外の光の中へと消えて行く。
とりあえず、
「いってらっしゃい…」
と、見送るしかなかった母親は、そのままひとり考え込んでしまう。
そんな背後から、また誰かがパタパタと駆けてきた。その足音の主は何と、先程の冬樹と顔、髪型、体格までもが、殆ど見分けがつかない程そっくりな子供だった。おまけに着ている服までも一緒なのだ。
「…なっちゃん?」
今度は確認を取るように、その探していた夏樹本人であるらしい子供の顔を覗き込む。すると、
「おかあさん」
やはり、先程の冬樹とそっくりな笑顔を見せて子供は答えた。そんな子供の様子に思わずホッと胸をなで下ろした瞬間、その子供は面白そうにくすくす笑い出した。そして、言葉を続ける。
「おかあさん、なっちゃんは、あっちだよ」
「?」
子供の指さす方向に目線を移す。
玄関の扉が半分開きっぱなしになっており、真夏の日差しが眩しい位に注ぎ込んでいる。その眩しさに目を細め、その光の向こう側をよく目を凝らしてみると、その扉の向こう側では…。
「ふゆちゃーん、はやくはやくー」
両手をいっぱい広げて手を振り、冬樹を呼んでいる子供の姿が…。やはり先程の子供が本物の夏樹だったのだ。母親は絶句して、ただ茫然と…追いかけることも忘れて立ち尽くしてしまう。そんな彼女を尻目に、冬樹も素早く靴を履き終えると、
「いってきまぁーす」
元気いっぱいに外へ駆け出して行ってしまった。
キャッキャッとはしゃぐ二人の声が次第に遠ざかり、蝉の大合唱の中に吸い込まれていった。
よくやったんだ。こーいうこと。
冬樹と夏樹は二卵性の双子。
性別さえ違うものの、まるで一卵性双生児のようにかなり似すぎていた為、両親でさえもうっかりすると間違えてしまうことが少なくなかった。それが面白くて、よく二人で入れ替わって騙したり、悪戯したりしたのだ。
玄関にひとり残された母親は、ひとつ小さな溜息をつくと。その後、仕方がないなという感じで優しく微笑みを浮かべると、リビングへと消えていった。
そんな光景をただ横で見ていた自分は、すっかり夢の中だと自覚しながらも、過去の懐かしい場面に浸っていた。
昔の夢を見ているんだ。
まだ若い母親と、双子の兄…冬樹。
そして自分…夏樹。
父親は普通の会社員で、彼もまた母親同様に年若く優しい人だった。
土曜・日曜は勿論のこと、平日でも忙しい時以外は早めに帰宅し、いつでも家族を大切に見守っていた。
平凡ではあるけれど、温かく幸せな家庭だった。
この頃は楽しかった。
この世に生まれた時から…何時、どんな時でも一緒に過ごしてきた冬樹。大好きな…大切な自分の分身。大好きな優しい両親。毎日が明るく幸せな日々。
ふゆちゃん…。
気が付くと辺りは真っ暗闇に包まれていた。
思わず、やっぱり夢だな…などと思ってしまう。
ふと横を向くと、今まで暗闇だったそこに、いきなり大きな鏡が現れた。一点の曇りもない、丁寧に磨き上げられたようなその鏡には、学生服を着た中学生位の一人の少年の姿が映し出されていた。中央で分けられた漆黒の少し長め前髪が、何処からか流れてくる風に吹かれてサラサラとなびいている。
その鏡の中の少年は、冷たい視線で自分を見据えていた。
「これがオレ…。今の…」
独りの呟きが、広い空間に響き渡る。
そう。そうなんだ。この姿は紛れもない自分自身。
ふと、鏡の中の少年の瞳が揺らいだ。
「オレは、野崎冬樹…なんだ」
手に力がこもる。
その瞬間、ガシャーンという大きな破壊音と共に、目の前の大きな鏡はあっという間に砕け散った。握りしめ、叩きつけた右拳からは、鮮血が糸状に幾つも伝って流れ落ち、その所々に小さな鏡の破片が突き刺さっていた。足元には破片がパラパラと散乱していたが、次第に床に吸い込まれるかのように消えて無くなってしまった。
そして、再びその空間には静寂が戻ってくる。
「オレは…」
床にがっくりと膝を付く。
「オレはどうしたらいいっ?」
半ば叫び声に近いその声は、空間に大きくこだまして、やがて闇の中へと消えていった。