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「こんなところじゃ何だから、上がってください。とはいうものの白湯しかありませんが」
おばばは二人を奥へ通した。といっても入り口から上がったすぐ上の部屋だ。日当たりが悪く、部屋の中はかび臭かった。しかし、その部屋に徳利に刺した菜の花が一輪咲いていた。菜の花の黄色がかび臭く薄暗い部屋を、少しだけ明るくしていた。
そこへ、おばばが白湯を運んでくる。
「本当に、こんな白湯しかありません。姫さまにお出しするようなものは何もありません」
恐縮するおばばを見て、渡りが笑う。
「いつものおばばらしくないな。あまり硬くならないでくれ。おばばのいつもの話が聞きたくて、加賀美さまをお連れしたのだから」
渡りの声は加賀美に落ち着きを与えてくれる。
「ところで、さっき蓮とかいう男に会いましたが、おばばの家の離れにいるとか」
渡りも初耳らしく、その真相を確かめる。
「もう、蓮に会いましたか。何か悪さでもしてませんでしたか?」
渡りはそれには答えず、加賀美と顔を見合わせ苦笑いをした。
「優しいところもあるんだけどねえ、ほら、そこの菜の花も蓮が摘んできたんだよ」
加賀美はもう一度、菜の花に目をやり、にっこり微笑んだ。確かに、菜の花が優しく微笑んでいるようだった。
「九はどうしていますか?」
渡りが心配そうに尋ねた。
「九はもうじき仕事から帰ってくるよ。相変わらず元気だよ。あんたによく懐いていたからね。最近じゃ、蓮のことを兄貴って呼んで、よく二人でいるよ」
「大丈夫ですか? 蓮という男、少し危ないような気がします」
渡りのその言葉を聞いて、おばばは笑った。
「誰にでも、あんな時期はあるものだよ。あんたにも心当たりがあるだろ?」
おばばの問いに渡りは答えなかった。
「なあに、もうじき蓮も落ち着くよ」
加賀美は、渡りもまた少年の頃は蓮のようであったと渡りの婆様から聞いたことがあった。
渡りの婆様は加賀美が預けられた屋敷の下働きに来ていた。渡りの婆様は女房たちが集まるまで、しばらく加賀美の身の回りの世話をしていた。
しばらく三人で他愛もない話をしていると、入り口のほうで九の話し声がした。
「ほら、噂をしたら九が帰って来たよ。呼んでくるから待っていておくれ」
おばばはそう言い残し、九を呼びに行った。暫くすると、おばばは九と見慣れぬ中年の尼を連れて部屋へ戻ってきた。
「何だか、この尼様のお話、聞いてやっておくれよ」
おばばは困惑顔で、渡りに言った。
「わたしは真遍寺の西清尼さまにお仕えいたしております巡徳と申します。わたくしどもの寺に由衣という娘がおりますが、もう三日も帰ってまいりません。西清尼さまがご心配されておられるのですが、いまだ帰ってまいりません。先日、行き倒れのかたをこちらのかたが由衣と運んできたのを思い出しまして、お伺いした次第です」
もともと白い顔をした尼なのだろうが、部屋が暗いせいもあって白を通り越し、青白く見える。随分、心配した様子だ。
「尼さま、おいらこの辺りの連中に聞いてみるよ」
九はにっこり笑うと詳しい話も聞かずに、部屋を飛び出していった。
「おやまあ、九ったら元気がいいねえ。仕事以外のこととなると元気が出るんだから。あのくらい仕事も熱心だといいんだけどねえ」
とおばばは少々、呆れて言った。それを聞いて、
「申し訳ありません。ご迷惑をおかけ致します」
巡徳尼は丁寧にお辞儀をした。
「悪いねえ、何だか変なことを言っちまったようだ」
おばばは調子が悪そうに笑った。
「何か言い残して行かなかったのですか?」
加賀美が尋ねる。
「特別、何も。その日はいつもと同じでした。由衣がいないことに昼頃気付きました。でも、しっかりした子ですから、夕方には戻ってくると思っていたのですが、とうとうその日は帰ってきませんでした。今まで、帰ってこないことなどありませんでしたので、西清尼さまが大変ご心配されて、方々、捜したのですが、とうとう見つかりませんでした」
「でも、よくここがわかりましたねえ」
加賀美は不思議そうに尋ねた。
「はい、お名前だけは聞いておりましたから、蓮さんとおっしゃるかたのことを尋ねますと、すぐにわかりました」
それを聞いておばばは声を上げて笑った。
「蓮はよほど有名なんだね。それも、きっと悪のほうだね」
「そりゃ、たしかに」
渡りまで一緒に笑った。
「加賀美さま、その娘は神隠しにでもあったのでしょうか?」
渡りの問いに加賀美はゆっくり首を振った。
「巡徳さま、何か由衣さんの持ち物をお持ちではありませんか?」
しかし、巡徳は「いいえ」と答えた。
すると今度は「蓮、そこにいますね」と加賀美は振り返った。皆も、加賀美の視線の先を見た。すると薄暗い部屋の柱の影から蓮が現れた。
「蓮、そこの菜の花は由衣さんが摘んだものでしょ?」
加賀美の問いに蓮は柱にもたれ掛かったまま、「ああ」と答えた。
「渡り、その花を花瓶のままここへ」
渡りは加賀美に言われるまま、彼女の目の前に置いた。
加賀美は懐から金糸の縫い取りのある小さな袋を出し、その中から朱色の組紐の付いた小さな土鈴を取り出した。それをカランカランと二度ほど菜の花の上で振ると、今度は二回柏手を打ち小さな声で「神様、少々わたくしにお力をお貸しください」と言って手を合わせた。
皆が固唾を呑んで加賀美を見つめる。
暫くすると、加賀美はまた柏手を二回打つ。
「綺麗な着物を着ている姿が見えました。ただ、あまり楽しそうではありませんでした。でも、誰かに邪魔をされて、消されました。少々、厄介なことに巻き込まれいるかもしれません。ただ、今はまだ生きておられます。すぐに殺されることは無いとは思いますが」
渡り以外のその場に居合わせた者は驚いた様子だった。ただ、蓮は柱にもたれ掛かったままだった。
「生きているんだったら、捜してみようよ」
おばばは元気よく言った。
「駄目ですよ、おばばさま。よく調べてみてからです。わたくしの邪魔をするくらいですから、侮ってはいけません」
加賀美は慎重な姿勢を示した。
やっと加賀美が動きだしそうです。