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「西清尼さまのお言いつけで、そこの商人の家にお礼の文と多すぎたお布施をお返しに来たの。」
「何だい? その多すぎたお布施ってえのは。」
「そうでしょ、おかしいでしょ。西清尼さまは一回のお布施があまり高額だと、多すぎたといってお返しになるのよ」
由衣は不満そうに言った。そういえば、おばばも同じようなことを言っていた。
「でも、全部貰っておけばいいじゃねえか」
「あまり高額だと寺の活動に口出しされてはいけない、というのよ。どうしても、って時にお願いしにくいらしいの」
「いろいろあるんだな。おいらは難しいことはよくわかんねえけど、仕方ねえな。尼さんがそう言うなら……それより、この先にまだたくさんの菜の花が咲いているところがあるんだが、見に行くかい?あそこは他の奴には内緒の場所なんだ。まだ、九にも教えてねえんだ」
蓮はがらにもなく照れくさそうに言った。由衣はそんな蓮を見て「うん」とだけ頷き思いの外、素直だった。由衣は蓮の後ろをついて行く。蓮の秘密の場所まで無言で歩いた。女の子と歩いたことのない蓮は何をしゃべっていいのかさっぱりわからなかった。
由衣は由衣で誰かに見られてはいないかと、蓮から離れて歩いた。
しばらく歩き、丘を登り詰めたとき、視界が広がった。
そこには、黄色い敷物が一面に敷かれていた。由衣は思わず「すごい!」と叫んだ。今まで見たことのない風景画がそこには広がっていた。
「すごいだろ、初めて見たときはおいらも驚いたんだ」
蓮は恥ずかしそうではあるが、自慢げに言った。たしかに、蓮の言うとおりすばらしい風景だった。由衣は菜の花の香りに包まれ、しばらくは夢見心地だった。
しかし、ずっと見ていたいと欲したとき、由衣は自分の中に全く別の感情が噴出すのを感じた。そして、関を切ったように話はじめた。
「蓮、わたしね、一度でいいからいい着物を着て、良いもの食べて暮らしてみたい。どんな気持ちになるんだろう。わたし、親の顔なんてまともに知らない。西清尼さまに育てられたようなものだから。西清尼さまには生きるだけのものは与えて貰ってるし、それには感謝してる。でも、いつも何で生まれてきたんだろうって思うんだ。贅沢して暮らしている人もいれば、西清尼さまのように自分は満足な暮らしもせず、周りのわたしたちだって、お腹すかしてる。不公平だよ」
由衣行き場のない思いを抱えて生きているのだと蓮は思う。蓮自身も似たような境遇だったし、そのような子供たちは掃いて捨てるほどいた。そんな子供たちに目を向ける余裕は、誰にもなかった。
その中で翻弄されながら、彼らは生きていた。というより、それでも生きていた。
「由衣、負けんなよ。どんなに苦しくったって負けんなよ」
蓮は、由衣に言いながら自分自身にも言い聞かせていた。
由衣は大きく息を吸うと笑顔を見せた。
「蓮、気持ちいいね。久しぶりだよ。こんなに大きく息吸ったの」
「なに言ってんだ。空気吸うのは貴族もおいらたちもみんな一緒だ。吸わない奴は死んでんだよ。そいつらは、おいらが屍置き場に運んで稼ぎにするんだ」
蓮はそう言って笑った。由衣もつられて笑う。
「由衣、お前はそうやって笑ってたほうがいい。生きてる気がするだろ、笑ってたほうがさ」
蓮の言葉に由衣は落ち着きを取り戻していた。
蓮は春風が吹き抜けていくのを感じる。そして、春風は二人の思いを菜の花畑へと運んでいった。
ますます、春の暖かい日差しに暖められ、菜の花がほころんでいく。
二人はいつまでも、心行くまで菜の花を見ていた。
その日、加賀美は町の娘の格好をしていた。薄い桃色の小袖がとてもよく似合っていた。渡りが誘ってくれた、都へ出かける日だった。貴族の姫がこのような格好をして都へ出かけるなど、ありえない。世話をする女房には教えてはいるが、他の者には言わぬよう口止めしている。腹違いの兄に知れるのは困る。近頃では、なにかと宮中への出仕を求めてくる。貴族の姫の出世とは宮中に上がり帝の女御になることだ。しかし、それもそう容易いことではないのだ。
今日のようなことが兄に知れれば、見張りの厳しい都から離れた屋敷に移されるかもしれない。
加賀美の一族は宮中では第二勢力といったところだろうか。現在の帝の母、皇太后様は不二原の姫であり、まだ、后を持たない帝になにかと不二原の姫を推挙したがる。ところが、帝はなかなか首を縦に振られぬ。さすがの皇太后様も手を妬いておられるとか。先の帝が崩御されて二年、皇太后様の権力は強まる一方で、その為か、帝はよけい母君のおっしゃることを、お聞きにならない。加賀美の一族にしてみれば、助かっているというものだ。この上、后が不二原氏から出れば、その権勢はもう誰も止めることができなくなる。
このような状況であるからして、兄の光則は尚のこと加賀美を出仕させたがるのだ。たとえ、后でないにしても、帝の皇子を授かれば格段に勢力は強まる。第二勢力とて、いつ覆されるかわかったものではない。少しでも、自分の一族の姫を宮中に出仕させたいところなのだ。
兄の気持ちはわかるが、そうはしていられない。
「ご用意はできましたか?」
几帳越しに渡りの声がする。
「ええ、行きましょう。ところで、今日は何処へ案内してくれるの?」
「少々、面白い人物をご紹介したいと思いまして」
加賀美はにっこり笑った。神の前にいるときとは別人のように普通の姫だった。
「あなたが面白いというのなら、かなり変わった人物ね。楽しみだわ」
渡りは苦笑いをした。
「わたくしの婆様の知り合いで、土塀修理屋のおばばというものがおります。そのおばばはよく都の様子を知り尽くし、しかも……」
「正直」と二人の声は揃えたように響いた。
「姫さま……」
渡りは見透かされたようでたじろいだ。
「とても、元気のよさそうなおばば様ね。正直で強くて。だって、正直な人は強いのよ」
加賀美はいつになく、楽しそうだった。