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「もう、いいだろう? おいらたちは、帰るぜ」
蓮は早くこの寺を立ち去りたかった。第一、蓮に人助けは似合わない。そのことは蓮自身が一番よくわかっていた。
「待って、もうすぐ西清尼さまがいらっしゃるから。会っていって。物の怪などではございませんから、ご安心を」
由衣は蓮の心の内を見透かしたようにからかうと、その場を去った。
「兄貴、これは一本取られましたね」
九からも笑われ、よけい蓮は機嫌が悪くなった。
そこへ西清尼とおぼしき尼が、先ほどの中年の尼に連れられてやってきた。
西清尼は年老いた尼で、少し腰が曲がっていた。そして皺の寄ったその手には、粗末な数珠が握られていた。
「由衣がご迷惑をおかけ致しました。今日わたくしの使いを頼み、都に出したのですが、あの子ときたら、あなたがたにまでご迷惑をおかけしたようで」
「いえいえ、人の役に立ったのなら、おいら、迷惑なんてありません」
蓮より先に九が嬉しそうに答えた。
「おいらは、迷惑だがな」
蓮は面白くなさそうに、口を尖らせた。
「へんだろ? もう死んでいくんだぜ。助かりもしねえ、そんな人間に何かしてやって、あんたに何か得なことでもあるのかい?」
西清尼はその年老いた顔に、少し笑みを浮かべた。
「正直なかたですね。本当に死んでいく者は何もわからないのでしょうか?最後に見るものは何なのか、それを持って極楽浄土へ旅立つとしたら……?」
そう言うと西清尼はしわがれた手で、蓮の手を握った。思わず、蓮は手を引っ込めた。
「幼い頃は皆、母に手を握られたものです」
「おいらは捨てられたよ。親の顔なんて見たこともねえよ」
西清尼はまた少し笑みを浮かべた。
「由衣もそうでした。皆、そのような者たちばかりです。でも、懸命に生きようとしている。そして、その傍らで、死を迎えようとしている者もいるのです。どんなに偉い貴族であっても、死は与えられます」
いかにも、尼の言いそうなことだ。いつもの蓮ならば屁理屈の一つや二つ調子よく出てくるのだが、どうもこの年老いた尼は苦手だ。調子が狂う。
「ちぇっ、いつもと違うぜ」と心の中で蓮が毒づいたとき、九が尼に手を合わせながら、涙を流し始めた。
「おいら……うれしいっす……仏様だぁ」
「九、おめえ本当にいい奴だな。でもおめえは単純すぎるんだよ」
そう言いながら、九のあまりの感動に冷めた視線を送りながら、蓮は何だか釈然としないものを感じ、苛苛した。
しかし、西清尼のほうはさして気にした様子もなく、「もう、そろそろ日が暮れます。早くお帰りなさい。そしてまた、いつでもいらして下さい。」とやさしい笑顔で合唱した。
二人が、塒である土塀修理屋のおばばの家に辿り着いたのは、もう日がどっぷり暮れてからのことであった。なんとか月明かりを頼りに、家に辿り着いた。
「二人揃って何やってんだい?もう、おてんとう様は何処にもいやしなしよ。物の怪にでも喰われちまったのかと思ったよ。ま、あんた達を喰うような物の怪なんていないだろうけどね。間違って喰ったら、腹壊しちまうよ。」
そう言っておばばは豪快に笑った。
「早く、夕飯、食べておくれよ。本当に、片付きゃしないよ」
稗と粟に雑草ともつかないものが入っている雑炊を、二人の前に出した。
おばばのところの職人は九以外は通いであったので、おばばの家の離れに住んでいるのは九と蓮の二人だけだった。
もともと土塀修理屋はおばばの旦那がやっていた仕事だったが、先の流行り病で、親方である旦那が亡くなり後の仕事を九たち職人を使って、おばばがやっているのである。おばばとはいっても、全体の髪は黒く、ところどころに白髪が混じっている程度だ。この時代、五十が近いとなれば、おばばと言われても仕方が無い。だが、本人はちっとも気にしていないようだ。むしろ、おばばと言われたほうが、迫がつくと思っているらしい。たしかに、彼女には言いようの無い迫力がある。
九は出会った娘のことや、寺の尼のことなど雑炊を口にかき込みながら、必死に話した。そして、話が終わるまでに、五杯の雑炊を腹に入れた。こんなに食べながらこれだけの話ができるのは、いろいろな人間を見てきたが、九しかいないと蓮は呆れた。
蓮は黙ったまま、二杯食った。
「お前たちが会ったその尼さん、近頃じゃあ評判だよ。死んじまって経を唱えるのが普通だ。ところが、死ぬ前から極楽へ行けるんだって、最近じゃあ、その寺に寄付する者もいるくらいだ。でも、たくさん持って行っても、少ししか受け取らないらしいんだ。だから、あの尼さんは本物だって、みんな拝んでるよ」
「へえ、兄貴は物の怪だって思ったらしいけど」
九はいつものひょうひょうとした様子で言った。九は嘘がつけない。
「物の怪だって? 冗談じゃないよ。本物の仏様だって」
おばばは胸を張って言った。おばばも九と同じで、嘘が嫌いで、正直者である。
おばばは二人が食べ終わるの見ると、茶碗をすぐに片付けた。
二人は離れへ行き、自分たちの寝床に入った。九はすぐにいびきをかきはじめた。
しかし、蓮はなかなか寝つかれなかった。今日会った由衣という少女の顔、そして、自分が連れて行った爺さんの姿、西清尼のしわがれた手、声、言葉、全てが脳裏に焼きつけられ、幾度寝返りをうっても寝つくことができない。それどころか、ますます、いろいろな事が頭の中を駆け巡る。今までに無いことだ。眠りが来ない。ようやく空が白みはじめたころ、蓮はやっとの思いで眠りについた。
それから数日後、都で聞き覚えのある声に呼び止められた。
「……蓮?」
蓮は振り向く。それは先日こき使われた相手だった。
「……由衣か、また、何のようだい? おれをまたこき使おうって魂胆じゃねえだろうな」
「ごあいさつね、そんなんじゃないってば。あんた、屍運んで稼いでるんだろ?この前は悪かったよ」
由衣は素直に謝った。その姿はこの前の拗ねた印象とは、随分違っていた。
「それなら今日はこんなところで何やってるんだい?」
今日は用事をいいつけられそうもないので、蓮は由衣に安心して尋ねた。