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「お前は、真部人麻呂!」
渡りは驚愕し、短刀を構える。
真部人麻呂は重利の醜態を嘲るように笑った。
「人麻呂! 真亜姫様の仇、討たせて戴きます!!」
加賀美は槍を抱え人麻呂の前へと出て構えるが、左腕が上がらず右手だけでは不安定なようだ。
「ふっ、ふっ、姫、あまりご無理なさらぬよう……帝は月の姫に御執心のご様子、しばらくは帝の動きを見させて戴く事に致します、何れお会いすることもありましょう……」
自分の足元に落ちていた月の姫の扇を手に取ると、その扇を加賀美の前へと投げる。扇はまるで蝶が舞うように優雅な動きをし、ひらひらと加賀美の足元へ落ちる。
扇の動きに気を取られ見ているうちに、人麻呂は姿を消していた。
「……しまった!!」
加賀美はその扇を拾うと、元のように閉じ自分の懐に刺す。
重利は呆気に取られ、口をぽかんと開けたまま立ち上がろうとはしない。
「重利様、大丈夫ですか?」
心配する渡りを尻目に、重利は自分の損なった利益を惜しんでいた。
「どうなっているのだ! 真亜姫を帝に近付け、わたしは出世する筈だった、これでは、何の為に手を尽くしてきたというのか!!」
まるで羞恥心が無く、その失態ばかりを後悔して罪の意識は皆無だった。
どだいこの男では出世できる筈もなく、己の器というものを理解していない、愚かな人物だった。
加賀美は継俊を抱き起こし、彼の唇に自分の唇をゆっくり重ねた。
すると継俊は静かに目を開けた。
「……どうしたのだろう? わたしは、月の姫の屋敷から戻って病に臥せって……その後から記憶が無い……」
「……継俊さま、良かった、お目醒めになられたのですね。皆、あの真部人麻呂の呪術に掛かっておいででした……重利様などは、人麻呂を女君だとお思いになられて、お通いになられておいでででしたから」
「姫、もう、それは止しておくれ……」
流石の重利もその件だけは隠蔽したいようだ。
「それにしても、良かった……」
加賀美の目からは涙が際限なく流れ落ちる。
「昔から、お気は強いが泣き虫だ、あなたは……」
溢れ出る加賀美の涙を継俊は自分の袖で拭う。
「……あっ、姫、お怪我をなさっている」
と継俊は加賀美の傷を、血の付いた衣の上から静かに撫で、彼女を引き寄せ抱く。そして愛おしそうに加賀美の髪を自分の指に絡ませた。
加賀美は継俊の胸に顔を埋め、彼の鼓動を感じる。いつもの継俊の香の香りがふわりとした。
その二人の姿を見た重利は地団太を踏んだが、もう後の祭りだ。加賀美からは当面、相手にされることはないだろう。
そしてもう一人、苦しい思いを抱えたまま月光をその身に浴び、己の気持ちを誰にも知られまいと背を向ける男がいる。
そう、渡りである。彼は月を仰ぎ、その苦しみから逃れようと静かに立っていた。
翌日、帝の行幸に重利の代理として継俊が加わると文が来た。
昨日の夜、継俊は加賀美を屋敷へと送り、帰っていった。彼の無事な姿は加賀美に安らぎを与えた。
だが、継俊が短刀を突きつけたとき、彼に殺されても良いと思う自分がいたことに加賀美は驚いていた。継俊を愛しているのかさえ、本気で考えたことは無かった。
帝の行幸には光則と重利の代理の継俊が供として行くことになっている。但し、一応はお忍びであるので、仰々しい行列ではないらしい。
そこで、加賀美は継俊に頼んで、自分と渡り、九の三人を継俊の供に加えるよう手配した。
肩の傷が痛み熱が出た加賀美だったが、その日の夕方には何とか熱も下がり、少しは手が上がるようになっていた。
継俊や渡りが心配したが、その位のことで止める訳にはいかなかった。
加賀美は女房の小袖を借り、傘を深く被る。もし光則に知られては一大事である。
渡りと九も継俊の供の者たちと揃いの小袴姿になっている。
いよいよ月の姫の屋敷へと行幸が向かう。
まだ初夏の風は心地よく、人々の間を吹き抜けていった。