22
月がまた雲に隠れ、闇が広がる。
加賀美は落ち着きを取り戻していた。渡りは無になろうとしているが、感情の流れを止めることが出来ない。
「渡り、この門を開けて下さい。ここから入りましょう」
加賀美の声は渡りの感情の流れを止めた。渡りはハッとし、我に返る。
今成すべきことは継俊の救出と共に、加賀美を無事に屋敷へ帰すことだ。己自身の事など考慮している場合ではない。
「姫さま、傷はどうですか?」
「大丈夫です。出血は止まったようです、少々痛みますが……」
白い衣の左肩の部分は血で紅く染まっており、その左手は真直ぐに垂らしたままだった。右手にはあの光輝く槍があり、屋敷から駆けて来たままの裸足の足は土で汚れ痛々しかった。しかし豊かな黒髪は闇の中でも尚、槍の光に照らされその輝きを失ってはいなかった。
渡りは門を押した。すると難なくその門は開く。
もともと古びた小さな屋敷であるので、小さな門ではあるが、こうまで簡単に開くと渡りは予想していなかった。その為、余計な力をいれたのだろう、バランスを失う。
開いた門の正面の上がり口には継俊が立ちはだかり、二人を待っていた。
継俊は正気とは思えない笑みを浮かべ、逃げた時の短刀をそのまま手にしていた。
月に掛かった雲が流れ、月明かりが闇を遠避ける。
継俊が手にした短刀がその光を浴び、不気味に光る。
「姫、やはり来てくれたのですね、でもまた、その男を連れている、何故あなたはわたしの気持ちに気付いてくれないのですか? わたしはあなたと二人でいたい、幼き日のあの頃のように、あなたに自由に触れ、あなたと自由に語り合いたい……それをあなたは分かって下さらない!!」
そう言いながら継俊は裸足のまま、屋敷の中から門のほうへとゆっくり降りてくる。
継俊の言葉に加賀美は足が前に出ない。後ろに一歩下がる。
彼の本音かもしれないと。
いつも冗談を言いながらも、どこか本気だったような気がする。それを理解してはいるものの、一線を越えることの出来ない自分の意気地無さに苛立ちを覚えた。
渡りは加賀美の前へ出る。
継俊と向かい合い短刀を構え、相手の様子を見る。
睨み合ったまま、じりじりと二人とも前へ出る。
暫く睨み合っていたが、月が雲に隠れ辺りが暗くなる。一瞬、瞳孔がその速さに追いつかない。
継俊のほうが先に動いた。
渡り目掛け短刀を振りかざす。しかし難無くかわし、逆に継俊に短刀を突きつける。継俊も際どいところでその切っ先をかわす。継俊の頬から、血が流れる。渡りの短刀が彼の頬を掠めたのだ。
継俊は流れる血を手で拭う。
「渡り、そこを退きなさい!!」
そう叫んだ時には、加賀美は槍で継俊の肩を叩いていた。
加賀美は神の化身のように輝いている。
継俊は手にしていた短刀を落としその場に倒れ、気を失う。
渡りは驚き、尻餅をついた。
加賀美は手にしていた槍を投げ捨てると、継俊へ駆け寄り彼の身体を抱え頭を抱く。
倒れた時、烏帽子は足元に転がり、その髪は乱れていた。
「継俊さま……どんなにお苦しかったことか……」
加賀美は継俊の髪を優しく撫で、白い単の袂で顔から流れる血を拭う。
継俊にはさっきまでの不気味さは無く、その整った美しい顔は加賀美の膝の上にあった。
それを見る渡りには重々しい思いが残った。
しかし、そう長く感傷に浸っている間は無いようである。
彼らを屋敷から見下ろす者がいる。
重利である。
「おう姫、ようやくわたしのところへ来てくれたね、どんなに待っていたことか」
重利は脂ぎった顔に満面の笑みを浮かべ、両手を広げた。
「どうしました? そのような処で、さあ、わたしの元へいらっしゃい。継俊になど触れないで、さあ早く……」
加賀美は身震いした。
重利の下へ行くらいなら舌を噛み切って死んだほうがましだ。声を聞くのも姿を見るのも生理的に受け付けなかった。
「……あなたは継俊さまに何をしたのですか? ご自分の弟君にこのような酷いことを、よく、出来たものです」
「あなたは継俊には渡したくない、姫、さあ早くこちらへいらっしゃい。そうすれば、あなただけは助けてあげるよ」
「正気ですか? 重利さま、あなたなど兄上にこのような事が知れれば、どのような事になるか、お分かりにならないのですか?」
「それはどうでしょう? あなたも真亜姫のようになりたいのですか?」
「……やはり、あなたが真亜姫様を?」
「そうだよ、真亜姫はもともとわたしが通っていた女人だったのだが、出世するのに都合が良いように後ろ盾をつけて、宮中へ出仕させたのだよ。ところが、わたしの言うことを聞かない、そのうち本当に帝を愛し始めた。わたしの事を帝に取り成して欲しいと頼んだが、断る始末だ……この人に聞いたら良い呪術師が居るというので、真亜姫を呪詛させ、それを不二原がやったと噂を流したりと様々な手を使ったよ」
重利は自慢げな表情を浮かべ、いつの間にか現れた女を抱き寄せる。
その女君は少々年増で、整った顔立ちはしているものの、冷たい目をしていた。
そして重利は続けた。
「真亜姫に帝の子など身籠らせては癪に障るからね、誰のおかげで宮中に上がられるようになったと思っているのか、本気で帝を愛するなど許される事ではない。帝も帝だ、あのような身分の低い女を……あなたと同じだよ、姫。可愛い顔をして何を考えているのか分からない」
重利は一生、女にはもてないだろう。
女を道具として使うなど、許されることではない。
彼の思い上がりである。
加賀美は不細工な重利の顔から目を逸らし、女君の顔をじっと見ていたが、徐に継俊をその場に寝かせ立ち上がり、懐に刺している扇を取り出し広げる。
その扇には月と橘が描かれていた。それは継俊が持ち帰った月の姫の扇だった。
加賀美はそれを女君の顔目がけて投げつけた。
扇は鋭く飛び、女君の顔に命中する。
女君は両手で顔を押さえた。
次の瞬間、女君の腰に手を回していた重利は思わず離れた。
女君の顔は割れ、そこから鈍い光が見え始めた。
すると皮が剥げるように中から男の顔が現れた。
「ひゃっ、ひゃっ……!!」
と奇妙な声を上げて重利は腰を抜かす。
「よく判りましたね、姫」
その男は紛れもなく真部人麻呂だった。
女物の衣を剥ぐように脱ぐと、その下には狩衣姿が現れる。
その女君自体が真部人麻呂だったのだ。